顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

生島足島神社…朱塗りの明神大社

2024年01月07日 | 歴史散歩
今年ももう7日、今日までは松の内なので正月にふさわしい朱塗りの神社のご紹介です。昨年10月に信濃の旅で立ち寄りました。

長野県上田市にある生島足島(いくしまたるしま)神社は、万物に生命力を与える「生島大神」と、万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られています。
社伝では、建御名方神(たけみなかたのかみ・諏訪大社の祭神)が諏訪の地に下降する際、この地に留まり二柱の大神に米粥を献じられたと伝わり、今でもその儀式が御籠祭として執り行われています。

名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。ウィキペディア(Wikipedia)


古くは大同元年(806)に平城天皇の寄進、建治年間(1275~1278)には北条国時が社殿を営繕し、真田昌幸、信之の武将、代々の上田城主も神領を寄進し社殿の修築も行っています。


本殿は神池に囲まれた神島の中の大樹の下に建っています。


神池の中の本殿に神橋を渡ってお参りする…この形式を「出雲式池心宮園」といわれ日本でも最古の形式の一つだそうです。


本殿の扉の奥に内殿の建物があり、本殿が覆屋となっています。この内殿には床がなく、大地そのものがご神体として祀られています。


北面して鎮座する本殿と向かい合わせに建っている摂社の諏訪社は、諏訪神を祭神とし、その本殿は棟札に慶長15年(1610)上田藩主真田信之が建てたと記されています。


両社の間には、諏訪神が本殿に遷座する時のみ開かれる御神橋がかかっています。


東手水舎です、東西に鳥居があるので両方に手水舎があります。


創建に諏訪神社の神様と縁があり、諏訪大社との由緒により、諏訪と同じく、申年と寅年に御柱大祭が行われています。使われた御柱が本社と諏訪神社全体を取り囲むように四方に建てられています。


また、武田家臣団が信玄への忠誠を誓った起請文や信玄が川中島での戦の前に戦勝を祈念した願文、真田昌幸の朱印状など94通の貴重な「生島足島神社文書」が保存されおり国の重要文化財に指定されています。

朱漆塗の社殿の塗装は、近年の塗り替えによるものですが、建設当時もこのように塗装されていたと考えられるそうです。極彩色であまりにもきれいなので古さを感じられませんが、1200年以上もの歴史をもつ古社でした。

新春2024…穏やかな世を祈念

2024年01月01日 | 日記
明けましておめでとうございます。

近辺で初日の出の名所である「大洗海岸の神磯」はわが家より約8キロ、正月用の写真を撮ろうと年末に訪れました。穏やかな日が続いていたので、狙った豪快な波しぶきにさらされる岩と鳥居の写真どころか波ひとつない写真になってしまいました。

神が降り立ったと言われるこの神磯に立つ鳥居は、この上の高台にある大洗磯前神社の鳥居の一つです。紛争の絶えない地球に、穏やかな日々が戻りますように手を合わせてきました。

いつも偕楽園の早咲きの梅の花を載せていましたが、暖冬といわれる年なのに、年末に探しましたが咲いた花が見当たりません。やっと見つけた一輪の「八重寒紅」と偕楽園好文亭が何とか収まりました。
好文亭は南側の大きな木が枯れて伐採されたのでしょうか、下の梅林からその全体が見えるようになりました。

梅の花は11月末くらいからの氷点下の最低気温で開花スイッチが入るといわれます。それに適度な湿度も開花の必要条件ですので、この二つが足りなかったのでしょうか。



いつもは咲いている水仙もまだ固いつボミ、庭の隅にやっと見つけたフクジュソウ(福寿草)の芽もまだまだ固いものでした。


蕗の薹もまだ固い萼片に包まれています。これらも梅の花と同じような開花スイッチの条件が足りなかったのかもしれません。

予定していた春の兆しの写真が撮れず、偕楽園公園で撮ったツバキの色違い3種です。



紅白が正月らしい雰囲気を出していました。

白い花には侘助の名札が付いていました。

公園のコブシの蕾も目立つようになってきました。
枯れて黒い実は拳(こぶし)の形で、これがコブシの命名由来といわれますが、蕾の形や開花する様子が拳を開いたようだという説もあります。

暖かそうな毛に包まれたツボミは、いたって希望的ですが明るい未来の予感がするような気がしました。

老人に空みえ辛夷春を待つ  和知喜八
子の進路いまだ辛夷の萼鎧ひ   田所節子
綿衣の脱ぐ日辛夷の大志かな  顎鬚仙人

西光院(大洗町)…天然記念物「お葉付き銀杏」

2023年12月27日 | 歴史散歩

寺伝によると、応永5年(1398)宥祖上人の開山で寺号を古内山宝性寺西光院と称し京都醍醐寺無量寿院末、文政2年(1819)本堂を建立、除地(藩から年貢を免除された土地)六石余、寺中に蓮華院、功徳院、常福寺の三寺あり、門末併せて五十六ヶ寺を数えたと伝わります。明治の廃仏の難に遭い寺門荒廃、明治9年には大貫小学校の仮校舎にもなりました。

また一説では町内の大貫に城を構えた下総国の豪族千葉氏を壇越として下総国(旭市)の延寿寺を開設した宥祖が開創したという資料もありますが、詳細は不明です。


航空写真で見ても海岸から約800mくらい離れた標高約25mの高台にある城址のような立地です。


山門には葵の門が…水戸徳川家との関係があったようです。


山門から仁王門に向かう坂の参道には石灯篭が並んでいます。


モミジの中に仁王門が浮かび上がります。

仁王門にある迫力十分の仁王像は木彫で、金剛杵を持って口を開いた阿形像、口を閉じ宝棒を持った吽形像が睨みを利かしています。


昭和44年に建立の本堂は、鉄筋コンクリート造りの現代的な建物です。木造の阿弥陀如来立像(本尊)が安置されています。


京都醍醐寺無量寿院末として開山された西光院、無量寿の扁額が架かっています。無量寿とは、寿命が無量である阿弥陀仏のことだそうです。


約100坪の旧本堂は、茅葺だったのを瓦葺にして聖徳太子を祀る太子堂に修築されました。


薬師堂には、水戸藩2代藩主徳川光圀公が眼病の際に祈願して平癒され、後に帰依したと伝わる薬師如来が奉祀されています。


立派な鐘楼が建っていました。除夜の鐘の時期なのでお聞きしたところ、大晦日には撞いていないということでした。



さて境内のイチョウの大木は、稀に葉の上に種子(ギンナン)が付くので「お葉付き銀杏」とよばれ、天然記念物(茨城県指定)になっています。

幹囲(地上1.5m)4.4m、樹高24m、樹齢約400年で古来より海難者の霊をこの樹に招き慰霊、その冥福を祈ったと伝えられています。

県内ではこの「お葉付き銀杏」が天然記念物なっている寺社は、国指定の八幡宮(水戸市)の他、県指定ではこの西光院(大洗町)、照明院(鉾田市)、稲田禅房西念寺(笠間市)が知られています。
(※天然記念物は国指定のほかに、都道府県や市区町村が指定することができるそうです)


しかしこの現象は滅多にみられるものではなく、仙人も数年前に水戸の八幡宮でやっと小さい実を撮影できただけです。種子がふたつ出たため実が大きく育たず、葉は丸まって黄葉しています。


ところで参道の向かい側にある高い石垣…、現代の施工でしょうがまるで城壁のような壮大な石垣にしばし見とれてしまいましが、これは個人の邸宅のものだそうです。


海に面したこの一画は暖かいので、東側の急崖の土手のツワブキ(石蕗)もいちだんと鮮やかな色でした。


この一年間拙いブログをご覧いただき誠にありがとうございました。
どうぞよいお年をお迎えになりますように…


師走の花…まさに暖冬の2023年

2023年12月19日 | 季節の花

何かと気忙しい年の瀬ですが、世間に申し訳ないほど暇な仙人は師走の花を探して彷徨しました。


我が家の皇帝ダリアは長生きの新記録を更新中です。(12月14日撮影)今年はまだ元気な花を咲かせ枝には実が付いていますが、メキシコ、中南米原産のため霜が降ると地上部は枯れてしまいますので、関東地方では結実することはありません。


咲き始めは1か月前の11月13日撮影、冬空に威風堂々としてまるで皇帝のようですが、19世紀初頭の皇帝ナポレオンのロシア遠征が冬将軍に敗北したように、いつも12月初めの降霜で枯死します。
なんと200年後の21世紀に、そのロシアがウクライナへの侵攻作戦を続けているとは!冬将軍がウクライナに味方して早めの終戦を願ってしまいます。


庭の木陰にキチジョウソウ(吉祥草)が増えています。縁起が良いとされますが、今年もいいこと何もなく…、しかし無事に過ごせたのが吉祥なのかもしれません。


公園を歩いても眼に付くのはサザンカ(山茶花)ばかりです。蟻が最後の蜜を求めに来ているようでした。


紅葉した葉に「帰り花」が…雄しべが5本なのでサツキ(皐月)です。常緑ですが初冬に3分の2くらいの葉が落葉するそうです。「狂い咲き」ともいいますが「帰り花」の方がいいですね、仙人のもうひと花は完全に無理ですが…。


こちらは紅葉したツツジ(躑躅)の生け垣の中からキク(菊)が顔を出していました。炬燵に入っているような住環境なのでしょうか。

あまり被写体がないので水戸市植物公園に出かけてみました。

驚いたことにまだ紅葉がしっかり残っている一画がありました。


林の中にスノードロップが咲いていました。中世のヨーロッパで人気の涙滴型の真珠のイヤリング(snow drop)に因んで名付けられたといわれています。


冬のバラは、俳句では冬薔薇(ふゆそうび)という季語になり、侘しい感じでよく詠まれますが、暖冬のせい葉も花も紅葉の中で乙女のような瑞々しさでした。

冬の公園から一転してメガネの曇る温室に入ってみました。

おなじみのブーゲンビリア、1768年にブラジルでこの花を発見したフランス人の探検家の名前が付けられました。


熱帯アフリカ原産のホワイトキャンドルというこの花は、赤い色が多いクリスマスシーズンのアクセントになりそうですね。


アブチロン・ホワイトキングは中南米原産でアオイの仲間というのは、花を見れば頷けます。


ペトレアの花は、真ん中の濃い紫色が花で周りの細長い薄い紫色は萼です。花はすぐ落ちてしまっても萼だけが残るため、長期間鑑賞できます。中南米原産の常緑性ツル性植物で、細く伸びる枝の先に花をつける様子から「女王の首飾り」とよばれます。


英国庭園に多い「トピアリー」は、花が壷から流れ出すように仕上げられています。真っ赤なポインセチアムラサキオモトの寄せ植えがこの時期にぴったりです。

さて皇帝ダリアですが、12月18日にこの地方を襲った寒波で降霜の朝、あえなく枯死しました。

我が庭の長寿記録も塗り替え、今年は天寿をほぼ全う出来たのではないでしょうか。

小さな城館ふたつ…高久館と平治館(城里町)

2023年12月13日 | 歴史散歩
近辺のあまり知られていない城の遺構を訪ねてみました。

中世の「城」と「館」と「城館」…どれも敵を防ぎ味方を守るという軍事的防御を目的に築造された遺構は、住まいの比重が高いのが「」、軍事的な防御を強めたのが「」、両方を兼ねたのが「城館」というように使われていますが、明確には定義があるわけではなく、現地に建つ城里町教育委員会の案内版ではどちらも「館」でした。


さて高久館は案内版では永仁元年(1293)に大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の後裔高範が築いたと書かれていますが、関谷亀寿著「茨城の古城」では、佐竹氏8代行義の6男で野口城主になった景義の子、義有が嘉元年間(1303∼05)に高久の地頭になり高久氏を名乗り築城したと載っています。

正長元年(1428)3代義本と長子義景は、山入の乱で挙兵するも佐竹宗家側の大山城主大山義道に攻められて落城、やっと5代時義(義行)の代になって旧領に戻ることができました。天文4年(1535)には10代義貞が部垂の乱でまた宗家に叛くも佐竹義篤に攻められ降伏、二度も宗家に逆らいます。その後佐竹氏の支配下に入って天文12年(1543)、佐竹氏が伊達氏に味方し相馬氏と戦った陸奥の関山(白河市)合戦に従軍した際に、義貞と父義時、子宮寿丸の3代が揃って討ち死にし城は廃城になりました。

那珂川の河岸段丘上の標高50m比高30mの台地にあり、三方を切り立った崖に守られた天然の要害です。


1郭跡は、館部落共同墓地になっています。まさしく城址である舘という地名が残っています。


1郭とは堀で遮られた2郭は農地になっています。


2郭北側にある堀跡、この先も大手までは城の一部ですが、農地や宅地で遺構は消滅しています。


ほとんど消滅していますが、大手とされる場所の堀跡です。


3郭南側に天王神社があります。
天王神社は、牛頭天王(ごずてんのう)と素盞嗚命(すさのおのみこと)を祀っているそうですが、仙人の田舎にも神輿が仕舞われている天王さんという神社があったのを思い出しました。

歩いてみると南北約200m、東西約100mの広大な高久館は、「館」というより「城」という規模で、高久一族の滅亡後も佐竹氏の軍事拠点として拡張整備されていたのかもしれません。



もう一つの館は、高久館から約1.5km北にある平治館です。

案内板では元弘2年(1332)当地方を治めていた常陸大掾高幹の世、佐貫氏が初めて築きのち穂高平治が居住した。天正年間徳ヶ原合戦の時は大山氏の出丸城であったと書かれています。

この城に関する詳しい資料が見つかりませんが、鎌倉初期に進出してきた大掾一族の築城というのは高久館と同じで、その後佐竹一族の支配下になり、天正年間(1573~1592)に一族の大山、石塚、小場氏が争った頓化原合戦では大山城主の出城的役割を果たしたということのようです。  

約100m足らずの方形単郭の館は、確かに3方を天然の堀に囲まれてはいますが、防御施設としては物足りず、やはり「館」の分類に入るのでしょうか。


主郭はもと農地だったようですが、現状は一面の草に覆われ、特に奥の色違いの草は、悪名高き引っ付き虫「コセンダングサ」の群生、ズボンにびっしりと付き、入るのを拒んでいます。


北側の低地に下りる道も台地を横切る空堀になっていて、主郭側にはL字型に土塁が築かれています。


南面は高さ20mくらいの崖になっていて下には天然の池があります。 


主郭入り口の西側の道路も、かっては堀として機能していたかもしれません。いまは低地に下りる道路になっています。

あまり知られていないため詳細な歴史は分かりませんが、その分を空想でカバーして、当時の多くても守備数十人規模の館に思いを馳せたひとときでした。