顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

いま野に咲いている花…どんな実が生る?

2024年09月11日 | 季節の花
朝晩が涼しくなりやっと酷暑もひと段落、初秋を迎えた身の回りではいろんな野の花が目に付くようになりました。いま咲いているこの花たちは数か月後にはどんな実が?…在庫写真を探してみました。

センニンソウ(仙人草)

センニンソウ(仙人草)はキンポウゲ科センニンソウ属、学名:Clematis ternifloraとあるようにクレマチスの仲間です。


十字型に開いた4枚の白い花弁状のものは萼片で、雄しべが数多く並んで芳香を放っている姿は上品ですが、全草が有毒で葉や茎の汁に触れると皮膚炎を惹き起すこともあるそうです。そのため「ウマクワズ(馬食わず)」 「ウシノハコボレ(牛の歯毀れ)」ともよばれています。


さてセンニンソウの名前ですが、花が咲いた後の実にヒゲのような綿毛がつき、それが仙人のヒゲにみえるので付いたとされます。この綿毛で風に乗り遠くまで飛んで行って子孫を殖やします。
顎鬚仙人としては何とも親しみを感じてしまう名前の植物です。


クサギ木(臭)

クサギ木(臭)は、葉や枝を傷つけた時に独特の臭いがするので命名されましたが、花は芳香がします。日本全国に分布するシソ科クサギ属の落葉低木です。赤い萼の中から花が飛び出して咲く様子は賑やかでなかなか豪華な花です。


このクサギの臭さは茹でると消えるため若葉は山菜として食用にされるそうです。また万葉の時代からクサギを焼いた灰で色付けした「黒酒(くろき)」は宮中の祭祀に欠かせないものでした。

天地と久しきまでに万代に仕へ奉らむ黒酒白酒を   
智奴王 (万葉集 巻19-4275)


花が終わると赤い萼は星型に開き濃い青色のきれいな実を付けます。この実は古くから青色の染料に使用され、藍以外で青に染まる唯一の植物ともいわれます。


カラスウリ(烏瓜)

カラスウリ(烏瓜)の花は夜暗くなってから咲きます。ずいぶん前ですが懐中電灯持参でストロボ撮影した写真では、花弁の縁が糸状に裂けてレースのように見える白い5弁の花…、繊細、妖麗、まさに自然の神秘を見る思いです。

通常目にするのは、夜が明けて萎んだこの花です。
真夜中にこんな艶やかな花を咲かせる理由は、夜行性のスズメガを呼び寄せて受粉させるためだとされていますが、自然界の営みの奥深さにいつも驚かされます。

やがてウリ科の真っ赤な実がぶら下がり、晩秋の野山ではいちだんと目立ちます。未熟な緑色の実は、イノシシの子供の背模様に似ているのでウリボウとよばれています。

クズ(葛)

クズ(葛)は、荒れた土地や廃屋を覆い尽くして蔓延っているので、秋の七草なのに現在ではあまりイメージはよくありませんが、マメ科の花は大きくて見応えあります。若かりし頃の飲み会では、よくこの新芽を天ぷらにしたのを思い出します。

マメ科クズ属のつる性多年草なので、秋にはマメ科独特の実が生ります。この根からは食材の葛󠄀粉や漢方薬「葛根湯」が作られるのはよく知られていますが、本くず粉は生産量が少なく高価なため、現在市販されている葛粉はほとんど小麦や芋類のデンプンで作られているそうです。

ヤブラン(藪蘭)

日本各地で普通に見られるヤブラン(藪蘭)は常緑性の多年草で、一年中同じ姿を保ち、丈夫で手のかからない植物のため、古くから緑化の植栽としても広く利用されています。


実は緑色か黒色に変わり、秋が深まるごとに一つ一つ実を落としていきます。

ヤブランは万葉集でも古名の山菅(やますげ)で、13首詠まれています。

ぬばたまの黒髪山の山菅に 小雨降りしきしくしく思ほゆ
柿本人麻呂   万葉集 巻11-2456


見慣れている植物も調べてみると、我が先人たちの暮らしや歴史にも結び付くのでいろいろと空想も広がり、毎日が連休の仙人を飽きさせることはありません。

水戸市の旧町名「銭谷前」…寛永通宝発祥の地

2024年09月05日 | 水戸の観光
水戸市では昭和37年施行された「住居表示に関する法律」によって、長い間親しまれてきた町名が164も失われました。せめてその歴史を残そうと昭和61年から4年かけて107か所に設置された旧町名の標示石柱を調べていると、江戸時代前期の寛永通宝がここで初めて造られたという地名がありました。

銭谷前という旧町名標示石柱には、「寛永の頃銭谷稲荷の地で鋳銭が行われ銭屋という地名ができた。その前が銭谷前という浜田村の小字名となり明治二十二年市制施行に当り水戸市に編入された」と書かれています。


この地の銭谷稲生神社のある場所で、寛永2年(1625)水戸の富商佐藤新助が寛永通宝銭を鋳造しました。後には本六町目裏や上町でも鋳造しますが、最初のこの地が銭屋という地名になり、後に銭谷と記されました。その後銭谷稲荷の前のこの地は、浜田村の銭谷前という小字名でした。


というのは、初期の徳川幕府では、金や銀の貨幣は金座、銀座で作っていましたが、銅銭は幕府の公鋳銭がなく、中世の日本に流通していた中国の永楽銭やそれを模した「鐚銭(びたせん)」という私鋳銭が使われていました。当時は流通銭貨の絶対量の不足が問題となっており、この状況に危機感を持った3代将軍家光は、寛永13年(1636)に水戸の佐藤新助が幕府と水戸藩に許可をもらって鋳造していた私鋳銭「寛永通宝」を幕府の公鋳銭としました。なんと江戸時代の公定銅銭「寛永通宝」はここから生まれました。

銭谷稲生神社内にある鋳銭場跡の碑です。

文政10年(1827)に書かれた石川慎斎の「水戸紀年」には、寛永14年(1637)に水戸で鋳造された銭を「水戸銭」といい、同17年の鋳銭額は毎月二、三百貫にもおよんだと記されています。1貫文は銭貨1000枚(1000文)のことなので、毎月2,30万枚の銅銭が世に出ていたことになります。

その後、公鋳銭としての「寛永通宝」は江戸と近江坂本に銭座が設けられますが、水戸藩など7つの藩でも幕府の許可を得て銭座を設けて鋳造を続けています。寛永17年(1640)頃になって寛永通宝が国内に普及し銭相場が安定すると、銭相場の下落を防ぐために他所での鋳造が停止されました。この時期に鋳造された寛永通宝は「古寛永」と呼ばれ、水戸で鋳造されたものが数多く残っているそうです。

この頃慶安4年(1651)には由井正雪の慶安の変が起こり、関与が疑われた紀州藩主と銭を鋳造していた水戸藩を皮肉った落首が江戸市中に張り出されたそうです。
家康の 跡を取らぬか 紀伊の殿 
銭がほしくば 水戸をくわへよ


古銭販売サイトには水戸銭としての寛永通宝がいろいろ出ています。その写真をお借りしました。真贋は不明ですが、大量に鋳造されて流通したので価格は数百円程度でした。



さて銭谷前碑の斜向かいにある鋳銭所跡に建つ銭谷稲生(いねなり)神社です。


いまは「いなり神社」がほとんど「稲荷」と表記されていますが、古くは「稲生(いね・なり)」という名前があり、そこから転じて「稲荷(いなり)」の名になったといわれていますので、「稲生」も「稲荷」も同じ名です。


赤い鳥居と幟が立ち並んだ神社は、人通りの少ない裏通りですが、目を惹く一画になっています。




祭神は保食命(うけもちのみこと)で食を司る女神、鋳銭場跡を宅地とした玉屋権兵衛が氏神を宝暦13年(1763)(または明和3年(1766))に遷社したと伝わっています。


覆い堂の中にある本殿の千木は外削ぎ、鰹木は偶数(3本)で男神のものですが例外も多いというので気にしないことにしています。
境内には天満宮、道祖神社、足尾神社、子安神社、疱瘡守護神社などの末社が並んでいました。


水戸藩が幕末に鋳造したといわれる藩内貨幣「水戸大黒銭」のモニュメント、表面には縁起のいい大黒像、裏面には寿比南山の文字が刻まれています。25文相当で通用したともいわれますが、詳細は不明の幻の貨幣です。


同じく幕末水戸藩の貨幣「水戸虎銭」を載せた銭塚です。当初、銭座職人への賃金の支払い用に使用していましたが、次第に市中や藩外にも通用するようになり、市中では50文の価値として使用されたと伝わっています。


銭谷盆唄発祥之地の碑です。
水戸では昭和初期まで「水戸の盆踊り」と「銭谷の盆踊り」という二つの系統の盆踊りが盛大に開催されてきました。近くに住んでいる知り合いに聞いたら、ものすごい賑わいだったと話していました。
「銭谷盆唄」  ハーア イヨウ  銭谷ェ田圃からェ蛇が出たとても 
 銭谷ェ通いはェやめられぬ (ハア アリヤ アリヤ アリヤサ)


だんだん行動範囲が狭くブログ更新間隔も長くなってきましたが、この年になっても身の回りには知らないことばかりです。いつもこの近くを通っていて200m先のスーパーも行きつけの店なのに初めての訪問でした。


酷暑を耐えた花…やっと秋の気配が

2024年08月29日 | 季節の花
あまりにも暑い日が続いて花に目を向ける余裕もない日々でした。やっと秋の気配を探して山の中の道をドライブしてみましたが、目に付いたのはタマアジサイ(玉紫陽花)だけでした。


退避所が続く狭い道路わきに群生がありました。


蕾は大きな丸い玉状で、パラリとはじけるように開くと両性花と装飾花からなる花が現れます。


つぼみから花への大きな変化が楽しめる紫陽花です。

エアコンの車内を出て山中に入る気にもなれず仕方がないので、我が狭庭で暑さに耐えて健気に咲いている花を探しました。


ユーパトリウムはキク科ヒヨドリバナ属で秋の七草フジバカマの仲間、青色フジバカマという和名もあります。南米原産でも耐寒性があり我が家では増えすぎて困っています。


まだ数本残って咲いていたミソハギ(禊萩)、最近まで味噌萩だと思っていました。萩に似ていて禊に使ったのが名の由来ですが、萩ではなくサルスベリの仲間です。


垂れ下がった枝を近くで撮れました。サルスベリ(百日紅)は、ミソハギ科サルスベリ属の落葉小高木です。百日紅といわれるだけあって、花期が長く次々と花を咲かせるので実と花が同居しています。


紫色の葉を愛でる観葉植物、ムラサキゴテン(紫御殿)はムラサキツユクサの仲間でセトクレアセアの名でも知られています。


フウセントウワタ(風船唐綿)は、やがて大きく奇怪な実がなり、それが弾けると綿のような実が飛び立っていきます。甘い香りに誘われて蟻やアブラムシがいつも付いています。
この植物の一生は、拙ブログ「フウセントウワタ(風船唐綿)…風船の中に綿毛」で紹介したことがあります。


ベゴニアにはいろんな種類があります。間もなく咲き始めるシュウカイドウの仲間というのが良く分かります。これは木立ベゴニア・リッチモンデンシスでしょうか、googleレンズで調べました。


ペチュニア類も種類が多く覚えきれませんが、それをサントリーが品種改良したのがサフィニアで、この花はgoogleレンズで検索すると「暑さに強いサフィニアサマー」と出てきました。


こちらはペチュニアの仲間カリブラコラ属のスーパーベル・ハニーヨーグルトとgoogleレンズが教えてくれました。最近このアプリが大体正解率80%くらいで教えてくれるのでとても重宝しています。


ショウジョウソウ(猩々草)は最上部の葉が赤いのを伝説の動物にたとえました。猩々はマントヒヒに似て赤い顔をした動物で酒が大好き、よく仲間同士で「あいつは猩々だ」とか言いましたが、最近では通じなくなりました。
偕楽園公園では、光圀公が園内の丸山に陶淵明を偲んだ堂を建て壁に猩々の絵を掲げたことから、近くに猩々梅林、猩々橋などの名前が付いています。


花期過ぎてヨレヨレのタマスダレ(玉簾)、玉のような白い花と簾のような細い葉が名前の由来ですが、なんともしっくりきません。


セイヨウニンジンボク(西洋人参木)の実がびっしり付いていました。葉の形が朝鮮人参に似ているのが命名由来とか、そのせいか実はローマ時代から薬用として、また料理の香料などに利用されているそうです。

年々夏の暑さの新記録が出ています。7月から8月20日までの累積猛暑日地点数は、今年度は7572地点に達し最も暑かった去年の5378地点を大きく上回る結果となりました。
我が子孫たちはやがて気温40度や45度に対応できるように進化するのでしょうか、南極や氷河の氷が解けて縄文海進がまた現れるのでしょうか。
我ら生産性のない年金老人は、個人で出来る地球温暖化対策のほんの小さな取り組みを守ることしかできませんが…。

東国三社…二等辺三角形の位置に

2024年08月22日 | 歴史散歩
「東国三社」と呼ばれる三つの神社は、茨城県南部と千葉県にまたがる地域にあり、江戸時代には関東以北の人が伊勢神宮の参拝を終え帰る途中に「お伊勢まいりの禊の三社参り」として参拝するという風習があったそうです。



この三社、鹿島神宮と香取神宮は約2600年、息栖神社は約1600年の歴史があり、鎮座するこの一帯は、当時霞ケ浦、印旛沼、手賀沼を含んだ香取海(かとりのうみ)と呼ばれる内海が広がっており、水上交通の盛んな古代の要衝でした。


古代遺跡のレイライン(ley line)という説もあるようですので、水路に面したと思われるこの三社の位置をgoogle map上で結ぶと確かにほぼ二等辺三角形になりました。この三角形の中では不思議な現象が起こるという伝承もあるようですが検証はなされていないようです。


香取海の大雑把な想定図を入れてみました。古代には水上交通の要所に大和朝廷が蝦夷に対する武神を置き、また氏神として崇敬した藤原氏や、さらには中世の武家の世に移ってもその神威は続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬されてきました。
なお、この香取海は江戸時代に入ると利根川の東遷や海退、川の運ぶ土砂の堆積などにより淡水化して現在の霞ケ浦、印旛沼、手賀沼などの姿になりました。



鹿島神宮
常陸国一ノ宮の鹿島神宮…主祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)で古くから武神として東国の武士に信仰されてきました。全国に約600社ある鹿島神社の総本社でもあります。

まずは神宮の周辺にある東西南北4つの一之鳥居のひとつ、「西の一之鳥居」は海上鳥居としては日本最大級の高さ18.5m、幅22.5mで、神宮から南へ約2kmの北浦の出口、鰐川に建っています。


大鳥居は東日本大震災で従来の笠間の御影石製のものが倒壊、その跡に神宮の森から切り出した杉の巨木4本で再建されました。高さ10.2m、幅14.6mの圧倒的な大きさです。


境内の広さは約70ha、そのうち約60%は鹿島神宮樹叢として茨城県の天然記念物に指定されてます。鬱蒼とした大木に囲まれた約300mの奥参道は、5月の御田植祭の後に行われる流鏑馬の舞台になるため、砂が敷かれています。


楼門は、寛永11年(1634)水戸藩初代藩主徳川頼房公が奉納し「日本三大楼門」の一つといわれます(国指定重要文化財)。「鹿島神宮」の扁額は東郷平八郎元師の直筆です。


社殿(本殿・拝殿・幣殿・石の間)は元和5年(1619)、徳川秀忠公の奉納で、すべて国の重要文化財に指定されています。白木のままで彩色無しの拝殿は、かえって清く厳かな感じが漂います。
江戸時代初期の建物のため、常に大修理が各所で行われていますので、今回の写真は以前撮影のものです。拝殿幕には神紋の左三つ巴と五三の桐が付いています。


本殿は、漆塗りで柱頭や組物などには華麗な極彩色が施されています。社殿の背後にある杉の巨木は根廻り12m、樹齢1,200年と推定されるご神木です。
社殿は征討する蝦夷地の方向、北を向いていますが、本殿内の神坐の位置は東向きで参拝者は祭神と正対できない造りになっているそうです。


奥宮は、慶長10年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを、その14年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきました。(国指定重要文化財)



香取神宮

香取神宮は下総国の一宮、日本全国に約400社ある香取神社の総本社です。御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)で、「国譲り神話」において、鹿島神宮に祀られる武甕槌大神とともに日本に遣わされた神様です。


長い表参道は大きな石灯篭の並ぶ坂道で、暑い日の参拝だったのでこたえました。


やっとの思いで着いたと思ったら、石段の先はまだ総門でした。


権現造りの拝殿は、重要文化財の本殿に釣り合った意匠で昭和11年(1636)内務省神社局の直轄による大修築の際造営されました。檜皮葺きの拝殿正面には、千鳥破風と軒唐破風を付け、足元から頭貫下端までの軸部は黒漆塗り、組物と蟇股は極彩色が施されています。


本殿は元禄13年(1700)徳川幕府によって桃山様式を受け継いで造営されたものです。正面柱間三間の流造に後庇を加えた両流造り、現在屋根は檜皮葺きですが、もとは柿葺でした。国指定重要文化財です。


国指定重要文化財の楼門は、本殿同様元禄13年の幕府造営のものです。三間一戸で、様式的には純和様で構築され丹塗り(朱塗り)が施されています。屋根は入母屋造銅板葺ですが、当初はとち葺でした。8月初めに訪れた時には工事中でシートに覆われていましたので、写真は神社ホームページから借用いたしました。扁額は鹿島神宮と同様に東郷平八郎元師の直筆です



息栖神社

一の鳥居は常陸利根川に面して建っていて、鳥居の右側に「男瓶」左側に「女瓶」あり、忍潮井(おしおい)という泉が湧き出しています。


忍潮井は1000年以上もの間、汽水の中の両瓶から清水を湧き出し続け、伊勢の明星井、伏見の直井とともに日本三霊水に数えられています。「女瓶」の鳥居は「男瓶」より小さくなっていました。


享保7年(1722年)に造営された社殿は昭和35年(1960)に焼失し、3年後に再建されています。鉄筋コンクリート造りで本殿、幣殿、拝殿からなります。


神門は弘化4年(1847)に造営時のもので、焼失を免れています。


息栖神社の主祭神の久那戸神(くなどのかみ)は水上交通の神とされ、国譲り神話「葦原中国の平定」で鹿島神宮と香取神宮の神の東国への先導にあたったとされています。


かつて香取海に面していた鹿島地方の丘陵地南端のこの地は、沖洲が陸続きとなり幾つかの集落ができ、このような中州に鎮座された祠を、大同2年(807)に平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂により現在地の息栖に遷座したと伝承されています。


いま東国三社巡りで検索すると、いろんな旅行サイトのツアー情報が出ています。都内から日帰りで話題のパワースポット三社を巡り、一万円未満の料金とあって結構人気があるようです。

湧き出る泉がご神体?…泉神社(日立市)

2024年08月15日 | 歴史散歩
暑い夏は、日陰と水辺を探して…ということでパワースポットとして最近テレビでも取り上げられたという日立市水木町の泉神社に出かけました、近くに居ながら初めての訪問です。


紀元前42年に祀られたとされ祭神は「天速玉姫命(あまのはやたまひめのみこと)」、あまり知られていない神様で天棚機姫命という機織りの神様の娘と伝わります。社記に「上古霊玉此地に天降り霊水湧騰して泉をなす号けて泉川云ひ霊玉を以て神体とする」とあり、祭神名の「速玉」とは清く澄んだ泉を意味することから、「密筑(ミズキ)の大井」が神格化されたものであるとされています。

1300年前の奈良時代に編纂された常陸国風土記にも「密筑の大井」として夏は冷たく冬は暖かい泉に人々が集まり、特に暑い日には近隣の村々から男女が酒や肴を持ち寄ってこの泉に集うという、ここより約68キロ南西にある筑波山の嬥歌(かがい)のような男女出会いの場の記述があるそうです。そのためか特に「縁結びのパワースポット」として人気が高く、平日なのに他県ナンバーの車が多く見かけました。


幟が並んだ参道は結界の雰囲気が充分に感じられます。神社というと大きな杉の林をイメージしますが、海まで700mというこの社は、海浜の樹叢類が多いような気がします。


参道奥の拝殿、神幕には水戸徳川家の葵紋が付いています。
この地を領した佐竹義篤が享禄3年(1530)社殿を修造したという棟札があり、また水戸徳川家からも厚い庇護を受けました。


水に因んだ龍の彫刻は、祭神が女神のためか親子の龍でした。そういえば辰年の今年の元朝参りはすごい混雑だったという話を聞きました。


本殿は、千木が女神の内削ぎ、鰹木は男神の奇数(三本)でした。


さてご神体の泉は本堂北側を下った池の中に湧き出していました。

池の真ん中には、境内社の厳島神社弁天堂があります。一時は参拝者が行列したようですが、それでも途切れることなく若い人が手を合わせていました。



右手の深さ1.5mくらいの池の中からエメラルドグリーンの清水が湧いています。

写真ではわかりにくいかもしれませんが、水底から青白い砂を舞い上げながら噴き出しているこの画面を携帯の待ち受けにすると素敵な出会いがあるといわれています。


湧水の水温は年間通して約15℃、湧水量は1分間に1500リットルで2008年に環境省が選定した「平成の名水百選」にも選ばれています。


硬貨を投げ入れないでくださいという大きな看板が掲示されていました。トレビの泉の硬貨投入額は年間1億6000万!…信仰風習も歴史も違うのでぜひ守っていただきたいと思います。


本堂横に眼洗いの泉があります。この泉で目を洗うと眼病が直ったと伝わっていますが…? 


まるで龍の頭そっくり…境内を見回っていた神職の方がこの倒木を発見、泉龍木(せんりゅうぼく)と名付け境内の名所の一つになっています。


ところでこの泉の周辺と神域の深遠な森の織り成す一帯は、泉が森とよばれて古くから親しまれてきました。

隣接するイトヨの里では、きれいな湧き水でしか生息できない「イトヨ(糸魚)」が生息し観察できると案内版には書かれています。


目を凝らしても見つけられませんでした。確かに「密筑の大井」から流れ出る小川は、手で掬って飲めそうな透きとおった水でしたが…