顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

大中神社(常陸太田市)…山深き里の華麗な神殿

2024年06月17日 | 歴史散歩

国道394号線を里美支所方向に入ると、旧道の棚倉街道沿いに大きな一の鳥居が建っています。


突き当りの山裾に大中神社があります。
この先にある鍋足山の登山口なので何度か来たことがありますが、当時は興味がなかったのでこの神社のあったことは覚えていません。


大中神社の創建は社伝によると大同2年(807)、その後八幡太郎源義家の奥州征伐の際、舘籠地に大宮大明神を建立し戦勝を祈願したと伝わります。佐竹氏の支配時代には氏の崇敬厚く寄付した社領を舘の台の地に奉祠、応永元年(1394)には火災にあいますが、正長元年(1428)滝沢山に遷座しました。
後に、水戸藩主徳川光圀の命により元禄13年(1700)、現在地に社を移し、旧の里川村、徳田村、小妻村、小中村、大中村、折橋村、小菅村、大菅村、黒坂村、以上九ヶ村総鎮守大宮大明神としました。祭神は大己貴命(大国主命)です。




厳かな境内に建つ拝殿は入母屋唐破風造り銅瓦葺きで、本殿同様江戸中期の建造でしょうか、古色蒼然たる様子が歴史を感じさせます。




本殿は案内板によると、江戸中期の建造で総欅、入母屋唐破風造り銅瓦葺きで当初は豪華な彩色が施されていた、幾重にも積み重ねられた枡組、各所に配された彫刻、屋根の曲線など練達の宮大工の手により完成されたことを証していると書かれています。


御神木は、案内板によると樹齢約400年、樹高53m、目通り4.9mの大杉で、元禄年間廃寺になった真言宗隆真院時代より境内木として成長してきたとされてます。


奉納者名が彫られた文政6年(1823)の石碑には、金1両、小中邑佐川利衛門などの名が刻まれています。


杉林の中の「双烈の碑」という大きな石碑は、幕末水戸藩の勅諚返納阻止事件に関わり文久元年旧千代田村稲吉で戦死した大中村郷士白石平八郎、内蔵之進親子を顕彰したものでした。


境内社の厳島神社の前に湧き水が注ぎ込む弁天池があり、銭を洗うと増えて戻るという銭洗い弁天も祀られた人気のスポットになっています。


 

ここの特徴は杉林の中に境内社が数多く建っていることです。

大杉の林に囲まれた静寂な空間は、山里の人々と深くかかわってきた神聖な場所の雰囲気を充分に備えていました。

ヤマアジサイ(山紫陽花)…ガクアジサイ(額紫陽花)との違い

2024年06月12日 | 季節の花



水戸八幡宮の大杉林の中にある「八幡の杜・山あじさいの小道」は、ヤマアジサイ(山紫陽花)に特化した一画で、駐車場も広く混雑もないため、近くを通りかかるとつい立ち寄ってしまいます。


たしかに名前の通りの小道ですが、木漏れ日の中のヤマアジサイは得も言われぬ雰囲気がでていました。


このヤマアジサイの小道にも、背の高いガクアジサイ(額紫陽花)も混じっているようなことを神職の方からお聞きしました。どちらも咲き方は、花びらに見える装飾花が額縁のように囲んでいる「額アジサイ」となっていますが、その違いがよく分からないので調べてみました。

まずアジサイを次の4種に大きく分けてみました。

ガクアジサイ(いろんなアジサイの原種で日本古来のもの)、ヤマアジサイ(太平洋側に古来から自生する種)、ホンアジサイ(原種のガクアジサイを園芸用に品種改良したもの)、西洋アジサイ(外国で品種改良されて逆輸入されたもの)になります。




ということはヤマガクどちらも日本古来のもので、ヤマアジサイはおもに太平洋側の福島県から四国、九州地方にかけて分布し日陰や湿り気のある林や沢に生育することから、別名サワアジサイとも呼ばれます。一方ガクアジサイは、おもに関東地方、中部地方、伊豆諸島、小笠原諸島などに分布し日向を好むが湿地でも生育できるので、あまり違いが無いように思いました。


開花時期はヤマアジサイが早く5月下旬頃~6月頃、ガクアジサイの開花時期が6月中旬~7月頃のようです。植物本体の違いでは、ガクアジサイは、背丈が高く(2~3m)、花も葉も大きめで葉は厚くやや光沢があり、ヤマアジサイは、背丈が低く(1~2m)、花も葉も小ぶりで、葉が細長く光沢がないということです。


我が家に咲いていた数株で確かめたところ、花や葉の大小や光沢、細長さなどの違いがなんとなくわかりました。名前は忘れましたが、白い花は多分「墨田の花火」だったと思います。


しかし園芸用のアジサイは挿し木や株分けなどで増やしていきますが、自然の中では種子で子孫を増やしていくので、交雑もあったりして区別は難しいものもあると思います。あまり違いに拘らずにガクアジサイの小さなものがヤマアジサイということにして、清楚な姿を楽しむことにしました。



さて、水戸八幡宮は常陸国北部に400年以上勢力をもった佐竹氏19代義宣公の創建、天正18年(1590)に水戸城主の江戸氏を滅ぼし、常陸太田より水戸に居城を移した際、文禄元年(1592)に氏神として崇敬していた常陸太田鎮座の馬場八幡宮より、水戸城内に奉斎し、のちに八幡小路に慶長3年(1598)に御本殿を建立し、水府総鎮守の社と定めました。


しかし、関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602)に佐竹氏が秋田へ移封されると、水戸は徳川家の所領となり、元禄7年(1694)には2代藩主光圀(義公)の寺社政策の命により、那珂西村へ移遷されましたが、宝永六年(1709)3代藩主綱條(粛公)の時代になり、再び水戸に遷座され、現在の白幡山神域に鎮斎されました。

国指定重要文化財である本殿は創建当初のもの、佐竹公お抱えの「御大工」吉原作太郎(当時15才)を棟梁に、10〜20代の60名程の工匠の名が本殿内墨書に記されているそうです。平成7年から初めての全解体修理が行われ、3年かけて建立当時のまばゆいばかりの姿に復原されました。


紫陽花の咲く、那珂川の河岸段丘にある八幡宮の標高差約20mの崖上は樹齢300年の大欅に覆われ、水戸藩9代藩主斉昭(烈公)が吹きあがる川風で御涼みになった場所と伝わっています。

水戸の梅…ナショナルコレクションに認定

2024年06月07日 | 水戸の観光
日本植物園協会(総裁/秋篠宮さま)が未来に残すべき植物の文化遺産として2017年から始めた「ナショナルコレクション」に、偕楽園と水戸市植物公園の梅130種が認定されました。

江戸時代の文献にもある古典的な品種や水戸で作出された品種を中心に選ばれ、該当品種の梅は偕楽園内で892本、市植物公園内の148本が登録されました。
※写真は、水戸で発見された種に斉昭公の諡号を名付けた「烈公梅」です。ナショナルコレクション(偕楽園)


そもそも水戸は、2代藩主光圀公(号/梅里)以来歴代藩主が梅を愛したといわれ、9代藩主斉昭公が182年前に開設した偕楽園を主体に、今でも毎年「水戸の梅まつり」を開催して梅の都として知られています。
※写真は明治16年の「梅花集」掲載の「残雪」です。ナショナルコレクション(水戸市植物公園)



昭和62年(1987)開園の水戸市植物公園でも、市内の「天神山木楽園」の故寺門忠之氏や、茂垣勝男氏など国内でも知られた梅栽培家の育てたものを主体に、150種400本を植えた梅林が造られました。コレクションには寺門氏作出の「天守閣」や茂垣氏作出の「寿」なども含まれています。
水戸市立植物公園の梅林です。



なお、認定を記念して水戸市植物公園ではパネル展を8月25日まで開催しています。



偕楽園、水戸市植物公園で認定された梅の写真が掲示されていました。(写真はその一部です)



さて、この時期は春の花いっぱいの植物公園です。


入るとすぐのオーバーブリッジではバラの花が迎えてくれます。


滝と水路を配したテラスガーデンは、季節の花で飾られています。


ジニア、ベゴニア、サルビア…長持ちする花々の寄せ植えです。


切り花やドライフラワーで人気のスターチス、花の中から出ている白い小さな花が本当の花冠で、周りの青やピンクの花は萼片だそうで、初めて知りました。


カンパニュラ・メディウムはキキョウの仲間、いろんな色があり釣鐘形の花が人気です。


桂並木沿いの小池にはスイレンが満開です。


桂の新緑は、爽やかな色のハート型の葉がきれいです…、根元を見ると樹に水分と栄養を供給する根がたくましく地表を這っていました。


大温室の花の滝は、トピアリー(植物を人工的、立体的に形づくる造形物)というそうですが、季節の花で仕上げられていました。

梅のナショナルコレクションについて水戸市植物公園の西川綾子園長の話では、画一された花壇が愛される欧州と違い、色や形から咲き方や模様まで多様性を愛でて名前を付けるのが日本の歴史的な園芸文化なので、こうした楽しみ方を伝えてきた水戸の梅林をこの機会に知ってもらいたいということでした。


偕楽園でも来歴の正しい梅の品種を増やしており、苗畑では200種に及んでいると聞きました。今後も植物公園と連携して種の保全や新種の拡充などに尽力していただきたいと思います。
※写真は紅白咲き分けの「輪違い」、「思いのまま」ともいいます。ナショナルコレクション(偕楽園)

偕楽園NOW…今年は梅が大不作

2024年06月01日 | 水戸の観光

5月末の偕楽園は、むせかえるような緑に囲まれていました。


周りの緑地帯を含めての偕楽園公園は300へクタールの広さで、都市公園では世界第二位とされます。その中心にある千波湖は、偕楽園の借景としての池、そして水戸城の大きな水堀の役目を果たしました。


春に梅の花を愛でた梅林はこの時期、青梅が鈴なり……ところがびっくり!!梅林を歩いてみると梅の実がほとんど見当たりません。鈴なりどころか探してみても、やっと数個が目に付く有様です。


たまたま作業中の方にお聞きしたところ、今までにないほどの絶不作と言っておられました。これは全国的な状況のようで、和歌山の南高梅も平年の3割以下の収穫で価格が高騰、埼玉県の越生では梅直売のイベントを中止などがニュースでも報じられていました。


この不作の原因は、暖冬で梅の開花が早かったため、花がまだ不完全の状態で雌しべなどが機能しなかったり、また受粉を媒介する昆虫類がまだ活動してなかったからといわれています。それと去年が豊作だったために、いわゆる「隔年結実」の影響もあるかもしれません。


何とか数個の実を付けている梅の樹は、ほとんどが「実生野梅」という原種の梅で、しかも老木が多いような気がしました。


意気軒高な老木に敬意を表して、梅の実と生っている老体の写真を並べてみました。頑張れ御同輩!です。

毎年、収穫した偕楽園の梅は6月上旬に市民の方に販売されます。今年も6月8日(土)に販売され、1キロ袋入りが200円、お一人1袋限り先着1000名様という告知が出ましたが、その数が揃うのかなと心配してしまいます。

そもそも偕楽園には約3000本、弘道館は約800本という梅の樹がありますが、そのうち約4割は花ウメという観賞用の梅で、ほとんど実が生りません。それでも両園合わせて20トン収穫の年もありましたが、近年はだんだん減少し豊作の昨年も約10トンでした。※梅の実落としの写真は以前撮影のものです。

また水戸市では梅の花ばかりでなく実の生産地としても名を高めようと、いまジョイント仕立てという梅の栽培法を奨励しており、この成果が「ふくゆい」というブランド名で市場に登場しています。

これは主枝を隣の木と接いで何本もの木を直線状の集合木として栽培する方法で、5年で成木並みの収穫と施肥、管理、作業の効率化が図れるとされます。※ジョイント支柱の写真は以前撮影のものです。


さて園内を歩いてみると、梅林や散策道には季節の花が顔を見せていました。

足元にはムラサキカタバミ(紫片喰)、南米原産の帰化植物が野性化し環境省の要注意外来生物に指定されていますが、攘夷を主張した偕楽園創設者の斉昭公もこの可愛さでは許してくれるでしょうか。


南崖の斜面には咲き始めたホタルブクロの釣鐘状の薄い赤紫色が鮮やかです。


向学立志の像は、辞書を手にした旧制水戸高校生の高下駄とマント姿です。20年くらい前までは高齢の卒業生がマント姿で梅まつり期間中に参集していましたが、さすがに見かけなくなりました。


足元の花はシモツケ(下野)です。隣県のシモツケ(栃木県)で発見されたのが命名由来の落葉低木です。


緑が濃くなるこれからの時期、しばらくの間は静かな園内になりますが、182年前に斉昭公が開園した当時を偲んだり、梅の老木を鑑賞したり…、また違った偕楽園の顔を見つけることができることでしょう。

天徳寺(水戸市)…佐竹氏に従い幾度も移転

2024年05月27日 | 歴史散歩

岱宗(たいしゅう)山天徳寺は、常陸国北部を約400年間領した佐竹氏とともに、常陸太田から水戸、移封先の秋田へと、その都度遷座を繰り返してきた曹洞宗の禅寺です。
秋田移封の際に衣鉢を継ぎ水戸に残ったのが水戸の天徳寺です。
※「衣」は袈裟、「鉢」は托鉢のことで、禅宗では衣鉢を与えた弟子を正当な後継者にしました。



寛正3年(1462)関東管領上杉憲定の次男で養子に入った佐竹氏12代義人が夫人(11代義盛の娘)を弔うため太田に創建した天徳寺(異説あり)は、天正18年(1590)佐竹氏の水戸進出に伴い、水戸霊松山(現在の水戸東照宮の地)に移転、慶長7年(1602)佐竹氏秋田移封に際し出羽国秋田に移りました。
衣鉢を継いだ水戸の天徳寺は、市内八幡町の地に移り慶長7年(1602)には家康より50石の朱印地を附されています。一時寺運が衰退しますが、2代藩主光圀公は天和3年(1683)に明の高僧東皐心越を招きました。元禄8年(1695)に没するまで天徳寺の住持を務めた東皐心越は、曹洞宗の教えの他に篆刻、詩文、書画、古琴といった芸術文化を伝えたことでも知られています。元禄5年(1692)には、光圀公を開基、東皐心越を開山として、天徳寺の開堂式が執行され全国諸宗の高僧1700人が参集したと伝わっています。
正徳2年(1712)、この岱宗山天徳寺の寺籍は河和田村に移され、水戸藩3代藩主綱條公によって山号寺号が寿昌山祇園寺に改められ、心越禅師を開山とする曹洞宗寿昌派の本山となり、知行100石が与えられました。

さて現在の天徳寺は、移転した中世の河和田城址の地で300年以上法灯が継承されています。

東西500m、南北600mと規模の大きい河和田城は中世水戸城を約160年治めた江戸氏の支城で、天正18年(1590)に佐竹氏により滅ぼされました。

岩間街道沿いの北側の駐車場から入ると、屋根付きの冠木門があり、その両側には河和田城時代の土塁と堀の一部が残っています。


重厚な仁王門前には、禅宗寺院に多い「不許葷酒入山門」の石柱、葷酒大好きな仙人には敷居が高く感じられました。


丸桁沿いの蛇腹支輪、禅宗様といわれる渦巻模様の木鼻、細い材を一定の間隔で並べた連子格子や蟇股 など細かい細工が施されています。


金網越しのせいか仁王像がより迫力ある顔に撮れました。


仁王門の本堂側には一転して穏やかな表情の仏像が3体ずつ並んでいました。6体あるので六地蔵さんでしょうか。


仁王門の大きな扉には佐竹紋がドーンと…奥に本堂が見えます。


蓮の花の鉢が並ぶ本堂への道、左手に鐘楼があり広くはなくても厳かな空気が漂う境内です。


銅板葺き唐破風向拝のどっしりした本堂は、いかにも禅寺の雰囲気がしっかり出ていました。


それにしても金色の佐竹紋がいたるところで輝いていて圧倒されました。
水戸徳川家の時世に前の領主の紋をこんなに堂々と掲げられたのでしょうか。


南北を基本軸とした伽藍配置の禅宗寺院、地形の都合上現在は使われていませんが、南側に天徳寺正門入り口の石柱が建っています。手前の蓮池や田んぼは、河和田城時代の堀の跡です。


本来の正門入り口から入るとここからが参道になるようです。ここにある「不許葷酒入山門」の石柱は風化していますが、わずかに「文化(1804~1818)」の年号が読み取れました。


さて、現在秋田市にある天徳寺は、秋田佐竹氏歴代の墓所になっています。

伽藍の主要建物が現存しており常陸地方の中世社寺建築の特徴が受け継がれているそうです。重要文化財指定のこの山門も蟇股、木鼻など細部に常陸地方の特徴が見受けられます。※写真は文化遺産オンラインよりお借りしました。
国替えでは武士だけでなく、寺社や豪商、武家に必要な大工、鋳物師、刀鍛冶なども秋田に移住したといわれます。さらには「佐竹氏が秋田に美人を連れて行ってしまったため茨城には美人がいない」という失礼な話や、「茨城で取れていたハタハタも佐竹氏を慕って秋田に行ってしまった」という話も残っています。


こちらは現在の水戸祇園寺です。

薬医門形式の重厚な山門の扉には、水戸徳川家の葵紋が大きく彫られていました。

水戸天徳寺が衣鉢を継いだ経緯の詳細は分かりませんが、「河和田にあった伝舜院を天徳寺とし如空軸雲を中興九世として祇園寺との関係を絶った」という記述(今井雅晴著「茨城の禅宗」)もありました。同書によると、江戸時代末期に二度の火災からの復興は二十九世仏海一音の功績で名僧として伝わり、親しくしていた初代茨城県令の山岡鉄舟筆の山号「岱宗山」の墨書が残っているそうです。