顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

新一万円札の顔…渋沢栄一と水戸弘道館

2024年07月14日 | 水戸の観光
我が手元にはなかなか届かない新一万円札ですが、40年親しんだ福沢諭吉から、明治大正期の実業家で「日本資本主義の父」とよばれる渋沢栄一に変わりました。(写真出典:財務省ウェブサイト)

渋沢栄一は天保11年(1840)年に武蔵国榛沢郡血洗島村(現:埼玉県深谷市血洗島)の藍栽培の富農の家に生まれました。
幼少の頃から学問を好み家業である農業や藍葉の生産にも携わりながら、学問や剣術を教わった従妹の尾高惇忠が早くから「水戸学」に傾倒していたため、栄一もその思想を受け継いだといわれます。

元治元年(1864)討幕派の志士として活動していく栄一は諸々の状況から水戸藩9代藩主徳川斉昭の7男の一橋慶喜の家臣として仕え、やがて最後の将軍となった慶喜と厚い信頼関係を築いていきます。

慶喜は慶応3年(1867)に開催されたパリ万国博覧会の政府派遣団の代表に弟の徳川昭武(後に水戸藩11代)を指名し、その随行員として選ばれた栄一は派遣団の会計係としてヨーロッパの経済と資本主義を体感し、その後の栄一の人生に大きな影響を与えます。(写真出典:戸定歴史館)

大政奉還後、謹慎生活の慶喜が弘道館から静岡に移ると、栄一も同地に留まりますがやがて明治政府の呼び出しを受け、民部省に奉職するも明治6年官を辞し、第一国立銀行をはじめとする多くの企業の設立に関わりました。その後も静岡の慶喜公のもとを何回も訪れて君臣の交流は続き、主君慶喜の名誉回復のために幕末における慶喜の果たした役割を再評価した「徳川慶喜公伝」の編さんを行いました。


渋沢栄一は大正5年(1916)、77歳のときに水戸を訪れ弘道館の孔子廟を見学し、館内で講演を行っています。

講演で栄一は、「元来私は水戸派の学問を多く修めた人から多少漢籍を学び」「一ツ橋家にて慶喜公に数年御奉公を致し」「水戸という土地には甚だ深い感情を持って居ります」と水戸への思いを披露しています。


天保8年(1837)生まれの慶喜と天保11年(1840)生まれの栄一は3つ違い、この3年前に慶喜は亡くなっておりますが、その慶喜が幼少期の学問と維新後に謹慎をしたこの場所をどんな思いで眺めたことでしょうか。


謹慎した「至善堂御座の間」には、謹慎時代の慶喜公を描いた羽石光志筆の肖像画が展示されていました。慶喜がここで謹慎した期間(4月15日から7月19日)だけの展示だそうです。


ところで、栄一の水戸訪問の直前に、地元有力者に贈った栄一直筆の書と関連書簡が水戸市の個人宅で見つかり、いま至善堂溜り間で一般公開されています。


「志士や仁者は、自分の生存のために、博愛の徳に背くようなことはしない。自分の生命を捨てても人道を全うするものである」  論語(衛霊公第十五09)より




慶喜公のもとに通った栄一が完成させた「徳川慶喜公伝」全8巻の復刻版や書に関する書簡なども展示されています。

弘道館は、水戸藩9代藩主徳川斉昭が、天保12年(1841)に開設した日本最大規模の藩校です。

最後の将軍徳川慶喜は、幼少期に弘道館で学び、大政奉還後ここで謹慎生活をおくりその後駿府(静岡)に移りました。藩内抗争や水戸大空襲などの戦火を免れた正門、正庁、至善堂は国の重要文化財に指定されています。


正庁は学校御殿とも呼ばれる弘道館の中心的な建物で、藩主臨席のもとで行われた文武の大試験や、諸儀式に用いられました。


藩主臨席の正席の間には、弘道館の建学精神が示された弘道館記碑の拓本が掲げられています。


明治元年(1868)10月2日、天狗派と諸生派の藩内抗争最後の戦いの生々しい銃痕が正門の柱や正庁の長押と柱などに残っています。


正庁の奥にある至善堂は藩主の休息所と諸公子の勉学所で、二つの建物を結ぶ10間畳廊下の手前右手には、警護の侍が詰める大番組控室がありました。


謹慎の部屋を周る畳廊下…どこを向いても青々と葉を茂らせた梅の樹に囲まれていました。

山中薬師…廃寺に残った朱塗りの堂宇

2024年07月09日 | 歴史散歩

小美玉市西郷地の廃寺跡にある山中薬師本堂です。


ここには山中山東光院広諦(こうたい)寺という天台宗の寺院があり、旧水戸街道約1キロ北にある天台宗法円寺(茨城町)の末寺として隆盛を極めていました。開基の詳細は不明ですが享禄時代(1530年頃)とも伝わります。明治の廃仏毀釈により明治2年(1869)に無住のため廃寺となりました。


明治10年(1877)に広諦寺本堂(間口12間半22.5m・奥行6間10.8m)を校舎として西郷地小学校が開校、当時の児童数は32名で約10年間使用されています。明治末期には火災により本堂、仁王門が消失し、残ったのは薬師堂だけになってしまいました。


かっての広諦寺本堂は、水戸の天台宗薬王院と同じ形だったという話が残っていますので、規模は少し違いますが室町時代建築とされる水戸の天台宗薬王院本堂の写真です。


仁王門にあった江戸末期の作と伝わる仁王像は、持ち出して焼失を免れたので薬師堂に安置されています。格子と網の間から拝ませていただきました。阿形像183㎝、吽形像190㎝で、頭部、胸部の平面的な形が特徴の桧寄木造りです。


菊のご紋の付いた厨子の中にある薬師如来ご本尊は盗難にあったとされ、光背と連華台のみが残されているそうです。


当初、屋根は茅葦の寄棟造でしたが、昭和23年に瓦葺、平成3年には銅板葺に改修しています。覗いた内部は格天丼となっていました。


建築年代不詳ですが、桁行3間、梁間3間、円柱12本の方形造りで、内陣も円柱、組み物を乗せた造りになっています。


左手にある池は、心という字に掘られたと伝えられ、古来より目の病にご利益があるとされ平癒を祈願して「め」と書かれた布などが奉納されていたそうです。


薬師本堂の南側にある高さ約2.5mの塚は皇諦寺開山初代の高僧の墓と伝わります。石仏類が残っていました。




この山中薬師本堂があった広諦寺の本山は、水戸街道千住宿から17番目の小幡宿の中心にある天台宗の古刹、神明山等覚院法円寺です。


寺伝では天安元年(857)慈覚大師圓仁の開基にして大師の法孫惠海この地に一宇を建立したとされます。

この小幡宿は水戸藩領で陣、脇本陣は置かれず、問屋場(といやば)1軒だけの小規模宿場でした。ただこの法円寺が水戸藩の定宿として使われ、山門や本堂には水戸葵紋が付いています。
※問屋場とは宿場の人馬の継ぎ立てや宿泊に関する業務をしました。


山門や本堂大棟には水戸葵紋の他に菊の紋が見えましたのでアップしてみたのがこの写真です。

調べてみると天台宗は天帝のいる紫微星を支える三つの星の真下にある天台山で開かれたといい、日本国を表す16菊の中央に三ツ星(三諦章・さんたいしょう)を配したのが天台宗の宗紋で、16菊の使用は許されているそうです。


この山中薬師堂は150年前の廃寺ですが、最近でも無住寺や廃寺跡を見かけることがあります。いま全国には77,000くらいの寺院がある中で、そのうち住職のいない無住寺は約17,000になるという数字があります。

若い人のお寺離れによる檀家の減少や葬儀や法事の簡素化による収入減、そして寺院後継者の不足など時代の変化に伴う諸要因が押し寄せているようです。
地域の歴史と密接に結びついている寺社の消滅は寂しいことです。地域との結びつきを強め、いろんなアイディアで親しめる環境つくりに努力している若い住職さんたちにエールを送りたいと思います。

梅雨どきの花…ネムの花など

2024年07月03日 | 季節の花
公園の林の中にギボウシ(擬宝珠)の蕾を見つけました。

芽やつぼみを覆って花を保護する苞が大きく、花のイメージからかけ離れているので、一瞬名前が出ませんでした。

やがてこの苞と苞の間が長く伸びて見慣れた花になります。花になると蕾を抱えていた苞はほとんど目立たなくなります。

ギボウシの名は、蕾状態の花序の先端が、寺院や橋などの欄干の飾りの装飾「擬宝珠(ぎぼし)」に似ていることから付きました。(異説あり)

ギボウシの仲間は20種以上ありますが、この辺の山野に自生するオオバギボウシの新芽は特に山菜として珍重され、季節には里の物産店でも並んでいます。


庭のハンゲショウ(半夏生)はすでに花期を過ぎています。

季節の移り変わりの言葉として使われてきた「半夏生」は、二十四節気の夏至をさらに細かく分けた雑節の一つですが、今ではカラスビシャク(烏柄杓))という薬草が生える頃の季節や、半夏生(別名カタシログサ (片白草))という薬草の葉が半分白くなる頃の季節といわれています。


写真はこの後者の説の「半夏生」、ドクダミ科ハンゲショウ属の多年草です。これは葉の半分くらいが化粧したように白くなることから「半化粧」とも書かれ、こちらの方が親しみやすいかもしれません。白くなるのは葉の付け根の方からですが、同じように葉が白くなるマタタビ(木天蓼)は葉の先端からです。


花期が終わると、葉が目立つように白くなって昆虫を呼び寄せる役目が終わるので、再び緑色になりますが、これはマタタビと同じです。写真は以前に撮ったマタタビの白くなった葉です。


象潟や雨に西施がねぶの花  芭蕉 (奥の細道)

※西施とは中国の春秋時代に、戦いに敗れたため敵の王に献上されたという絶世の美女です。


ネム(合歓)の木はマメ科ネムノキ属の落葉高木で全国の山地や河岸に生え、ふわっとした淡い紅色の繊細な花は初夏を告げる代表的な花です。

花びらは見えず紅い刷毛のようなオシベと少し長めの白いメシベだけで花をかたどり、根元の緑色の筒状のものが花弁と萼です。

一つの花は30数本のオシベ、1~数本のメシベで構成され、これが10数個集まって1個の花のように見えます。真ん中に背の高い花(頂生花)があり、そこだけに蜜が含まれていて甘い香りを放ちます。

まず、つぼみの先から寝起きのようなじゃもじゃ髪のオシベが出てきて、やがて美容院に行ったようにストレート髪の花の形になってきます。

秋になると実が生りますが、マメ科独特の形の実が頂生花だけに付きます。

茨城県立歴史館の蓮池では、今年はハスの花がいつもより数少なく葉も疎らな生え方です。

この蓮池には、もともと千葉県の遺跡から発掘された2000年前の古代ハスの種を発芽させた大賀ハスが植えられましたが、その後在来種との交配が進んで純粋の大賀ハスとはいえなくなってしまったそうです。

ハスの花の寿命は短く約4日、いちばんの見頃は2日目しかも半開き位の状態の早朝がいいそうなので、なかなか根性がないと撮れません。

疎らな蓮が良かったのか白鳥の親子がくつろげる場所ができていました。親のいうことを素直に聞いている子供たち、いいですねぇ。そっぽを向いている子もいますが…

地球のすべてが私のスタジオ…石岡瑛子Iデザイン展

2024年06月28日 | 日記

1966年、前田美波里を横須賀功光が撮った資生堂ポスター「太陽に愛されよう」で受けた強烈な印象は、地方の広告会社に勤めていた20代の時でした。そのデザイナーが当時まだ20代だったというのは今回知りました。石岡瑛子I(あい)デザイン展が7月7日まで茨城県立近代美術館で開かれています。


ほとんどが撮影可の作品でしたが、作品表面に周りが写りこんでしまうため、約500点の中のほんの一部を雰囲気だけのご紹介となってしまいました。

 

1970年にフリーランスとなった瑛子は、1973年に渋谷パルコが開業するとメインのキャンペーンを総括し、「新しい時代」の象徴としてのパルコのブランドイメージを築く中心的な役割を担っていきます。右のポスターのコピーは「鶯は誰にも媚びずホーホケキョ」です。1976年


沢田研二の裸の写真も話題を呼びました。写真のコピーは、「時代の心臓を鳴らすのは誰だ」。1979年


パルコのロゴだけで商品広告などは一切無しのポスター、その挑戦的なメッセージとヴィジュアルは一世を風靡し、「石岡瑛子といえばパルコ」「パルコといえば石岡瑛子」と語られるほどでした。
真ん中上の写真のコピーは「女たちよ大志を抱け」です。1975年


靴のダイアナ、三陽商会のポスター 1974年


「百、花、曼、荼、羅」というコピーの東急百貨店のポスター 1989年


「女性よ、テレビを消しなさい 女性よ、週刊誌を閉じなさい」角川書店ポスター 1975年


「NEW MUSIC MEDIA」音楽祭ポスター 1974年


EXPO‘70日本万国博ポスターとシンポジウム・現代の発見 1965年


国際キャンバス家具コンペ(太陽工業) 1973年 布の袋の中にダンサーが入って踊るのを写真にしたそうですが、そんな発想はどうしたら出てくるのでしょうか。


マイルス・デイヴィス 「TUTU」レコードジャケット 1986年 写真は巨匠アーヴィング・ペンでグラミー賞最優秀レコーディング・パッケージ賞受賞


マイルスのレコードジャケット製作に参加したクリエイターやスタッフと対話を重ねる細かい下書きや絵コンテなども展示されており、細部に至るまで完璧な仕上がりを求めた瑛子の姿勢がうかがえます。


西武劇場「三宅一生ショウ」のポスター 1975年


名匠フランシス・フォード・コッポラとは映画「地獄の黙示録」(1979)のポスター・デザインを経て、「ドラキュラ」(1992)では担当した衣装デザインでアカデミー賞を受賞しました。 


アメリカ映画「イノセント」日本語版 1978年、「コヤニスカッテイ」のポスター 1983年


東京セントラル美術館ポスター 1974年


装丁した本や雑誌も数多く残っていますが、表紙やカバーだけでなく、紙質やサイズ、文字組みなどの細部までにも関わっています。 1974年~1976年


ECO'S LIFE STORY  1957年


商品のパッケージデザインも多数手がけましたが、1981年の山本海苔店の作品はグラフィックデザイナーだった父、石岡とみ緒が商品名の書を、妹で同業の石岡怜子がデザインを担当し、家族による唯一の合作となっています。


「Timeless  普遍的であるか?」「Originality  独自性はあるか?」「Revolutionary    革新的であるか?」 という三つの言葉を常に自らに問い続けたという石岡瑛子の、その通りの作品群に圧倒されました。

 
石岡瑛子 1938年生まれ、2012年1月21日膵臓癌のために死去(73歳)  類まれな才能がまたひとつ、地球上から失われました。合掌。

梅雨入り…いま季節の花は

2024年06月23日 | 季節の花
我が地方にもやっと遅い梅雨入りが発表されました。これから約1か月以上の鬱陶しい雨の季節ですが、日本の四季や米作などには欠かせない自然の営みなので、せめてその季節の花を探してみました。

大河ドラマ放映中の、千年の時を超えるベストセラー作者の名が付いたムラサキシキブの花です。元は重なる実という「ムラサキシキミ」が、江戸時代にその実の美しさから「紫式部」の名になったという説が有力です。


ネジバナ(捩花)の右巻き左巻きの割合は半分くらいという調査結果がありますが、この写真でも6本のうち左右半分ずつになっています。


面白い花が咲いているこの植物はカエルッパといわれたオオバコの仲間で外来種のへラオオバコ(箆大葉子)です。ヘラのような葉を持ち、強力な繁殖力で在来種を駆逐し、要注意外来生物に指定されています。


同じ外来種でもニワセキショウ(庭石菖)は小型で可愛いためそれほど嫌われてはいないようです。別名ナンキンアヤメというようにアヤメの仲間です。


ホタルフクロ(蛍袋)は初夏の花、色は赤紫、薄紅、白などがありますが、関東では赤紫が、関西では白が多いという話もあります。


エゴノキに生ったバナナのようなものは、エゴノネコアシ(エゴの猫足)という虫こぶでアブラムシ類が繁殖の過程で作り上げました。


空き地に増えて厄介なドクダミ(蕺草、毒痛)ですが、よく見ると穂状の花と白い十字の総苞が清楚な花で、古くから薬草としての歴史を持っています。


梅雨時期といえばやはりアジサイ(紫陽花)、明るい陽の光より日陰や雨天がよく似合うと思うのはいたって個人的感想ですが…。


アジサイ類なのにあまり似ていない房咲きのカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)は人気が高く、我が市では70歳の長寿記念にこの苗木を配ったので、我が家を含め玄関先などによく見かけます。(令和2年度で交付事業は廃止になったそうです)


始めて知ったコガクウツギ(小額空木)「花笠」は、額のような装飾花に囲まれた小さいウツギのような花という名前ですが、アジサイの仲間にはみえない花でした。


公園の植え込みでよく見かけるキンシバイ(金糸梅)は、雨の多い季節に咲く太陽のようです。


京染の鹿の子絞りの名が付いたキョウガノコ(京鹿ノ子)は、古くから茶花や日本庭園に用いられてきました。


似ているシモツケ(下野)は、栃木県に多く自生していたので名が付いた落葉低木です。


もう花を付けているヤマハギ(山萩)、夏から秋にかけて咲きますが、夏に咲くのを特に夏萩ということもあります。 
            夏萩の青きに隠れ雨二日  大野林火


オカトラノオ(丘虎の尾)は虎の尾のような咲き方で名付けられました。トラノオという名前の梅もありますが、こちらの命名由来は諸説あるようです。


自然の山を取り込んだ公園に見慣れない花の群生があり、googleレンズで調べたらママコナ(飯子菜)でした。花冠の下唇にある白い斑紋を飯粒に見立てたともいわれます(異説あり)。


北海道~九州の山野の林などに見られるゴマノハグサ科の一年草で、光合成での養分供給の他に宿主の植物からも養分を吸収する半寄生なので、栽培は不可能です。希少種となっている自治体もあるそうですが、ここの見事な群生にしばし見とれてしまいました。それにしても初めて出会った花…、この年になっても知らないことばかりです。