顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

額田五山…陸奥への街道要衛地

2022年02月06日 | 歴史散歩

古来より陸奥国への街道の宿場として栄えた那珂市額田には、額田五山といわれる5つの古寺があります。鎌倉時代の仏教の隆盛と、この地の支配者佐竹氏とその一族の庇護のもとに一時は24寺を数えましたが、徳川光圀、斉昭による寺社改革で統廃合され、現在は鎌倉時代から江戸初期にかけて建立された、真言宗、浄土宗、曹洞宗と、浄土真宗2寺の5つの寺院が残っています。

毘盧遮那寺 (びるしゃなじ)

両部山宝光院毘盧遮那寺は、鎌倉時代初期の建久3年(1192)、文覚上人が開基と伝わる真言宗の寺院で、京都嵯峨大覚寺の末寺です。本尊大日如来は、文覚上人が持参した源為義の念持仏とされます。


正徳5年(1711)現在地に移り、文化12年(1815)の火災で諸堂・寺宝が焼失しましたが、宝物の大般若経600巻(県文化財指定)は残存しています。明応6年(1497)の檀那は額田城主小野崎下野守善通外50人と記されており、その後何度か修正補帖されました。


境内に銀杏の巨木があり、その葉が大般若経の防虫剤として使われたといわれています。
古文書に銀杏の葉が栞のように挟まれているのがよく見つかるそうですが、銀杏にはシキミ酸という防虫効果の成分が含まれることを古人の知恵が分かっていたようです。

光照寺 (こうしょうじ)

群生山光照寺は、寺伝では弘長3年(1263)本願寺2世如信を開祖とし、弟子の浄慶が創立したと伝わります。現在は無住寺で、浄土真宗大谷派の二十四輩西光寺(常陸太田市)が管理しています。


参道にJR水郡線(太田線)を通すことになり、当時の国鉄が橋を架けることで解決したといわれます。


山門代わりの標柱から線路を跨ぐ橋を渡り寺に入るのは全国でも珍しいそうです。

鱗勝院 (りんしょういん)

義峰山鱗勝院の開山は元徳年間(1329~1331)と伝わる曹洞宗の寺院で、額田城主初代義直が亡父で佐竹氏4代義重の守護寺としました。
五本骨扇に月丸の佐竹紋が付く本堂です。
佐竹氏が秋田へ移封となると、秋田佐竹氏初代義宣が秋田にも鱗勝院を建立し、額田鱗勝院の末寺として現在も存続しています。


額田城南方の天然の堀である有が池に面した参道は現在使われていないため、山門付近は幽玄な趣が漂います。


本堂前にある開基額田義直の供養塔です。

阿弥陀寺 (あみだじ)

額田城は10代義亮の時に佐竹宗家と対立し、応永30年(1423)佐竹13代義人に攻められて落城し滅びます。その後額田城主になった、佐竹義人の重臣小野崎氏は、親鸞聖人が建保四年(1214)那珂西郡大山(城里町)に開いた念仏の道場、浄土真宗二十四輩本蹟十四番の大山禅房阿弥陀寺を額田城内に移し守護寺としました。


上の階に梵鐘のある素朴な楼門に、水戸藩2代藩主徳川光圀公御手植えと伝わる樹齢320年の枝垂れ桜、春には桜まつりで賑わいます。


本堂と親鸞上人像、親鸞は大山の地に約10年滞在し、その間に二十四輩以下450余人の弟子が育ったと伝わっています。
佐竹氏の秋田移封には一時従いますが、その後旧地に戻り再興し法灯を伝承しています。

引接寺 (いんじょうじ)

光圀山攝取院引接寺(こうこくざんせっしゅいんいんじょうじ)は、元禄9年(1696)水戸藩2代藩主徳川光圀公が、この地にあった広栄山心岸寺という寺を金砂郷に移し、元禄2年に水戸徳川家菩提寺として建立した浄土宗の向山浄鑑院常福寺の末寺として建立しました。


この引接寺は、光圀公をはじめ水戸徳川家歴代藩主の御神葬式に際し、瑞竜山徳川家墓所に埋葬する御霊柩の宿寺として明治初年までその役目を果たしてきました。
水戸城から瑞竜山墓所まで約25キロの街道沿いのちょうど中間あたりに引接寺があるので、ここで葬送の行列が一泊したのでしょうか。


本尊の阿弥陀如来は、安良川村(高萩市)の八幡宮に奉安してあったものを 光圀公が引接寺に寄進したものと伝わり、背面に元禄9年(1696)に徳川光圀寄進の自筆刻銘があるそうです。


中世にここを領した額田城主は、この地方を支配した佐竹氏の庶流や重臣でありながら独立心が強かったため、一帯は何度か宗家などとの戦いの場になった時もありました。その後の水戸藩の寺社改革や明治維新の波もすべて乗り越えてきた歴史を、今後も守り続けて欲しいと思います。

なお額田城については、拙ブログ「額田城…二度も宗家に叛いた中世の城址 2022年1月16日」
で紹介させていただきました。