3月1日、気象庁の定義では春は今日からと今朝の新聞に出ていました。ここ2,3日春らしい陽気が続き、一段と寒かった今年の冬の終わりを感じる朝です。
時期がずれてしまいましたが、茨城県で初詣参拝者数の最も多い(80万人)神社のご紹介です。
日本3大〇〇とかいうものには根拠がないものが多く、全国に3万社あるという稲荷神社の場合は、その総本宮の伏見稲荷大社はともかく、残り2社になると決まっているわけではなく、所論がいろいろありますが、豊川稲荷、笠間稲荷、または祐徳稲荷というのが一般的のようです。
さて、笠間稲荷神社は、社伝によれば白雉2年(651)の創建と伝えられています。鎌倉時代には佐白山を居城にした笠間氏によって城下町がつくられ、江戸時代の笠間藩になってからは藩主として8家が頻繁に入れ替わり、9家目の牧野家になってから9代続いて明治を迎えました。これら歴代の藩主から厚い崇敬を受けてきました。
寛保3年(1743)には時の笠間城主井上正賢により社地社殿が拡張され、その後歴代藩主の祈願所となり延享4年(1747)には牧野貞通が境内地、祭器具等を寄進した記録が残っています。
大きな一の鳥居は老朽化と東日本大震災より花崗岩製の鳥居の一部が崩壊し、2016年に再建されました。高さはより大きくなり10mで、鉄製となった鳥居は拝殿と同じ「笠間朱色」で塗られています。
鳥居の大きな影を踏み進み、拝殿への参道両側には仲見世が並びます。
300人もの陶芸作家たちの集まっている笠間焼、日本一の生産地の栗などがこの地の名産品です。
重層入母屋造りの楼門は「萬世泰平門」ともよばれ、1961年に竣工されました。両脇に櫛磐間戸神(くしいわまとのみこと)と豊磐間戸神(とよいわまとのみこと)が祀られています。
1960年竣工の拝殿の真っ赤な朱色は「笠間朱色」と呼ばれるそうです。この色はまちづくりにも使われ、信号機や店舗など街中でも見られます。
本殿は江戸末期の安政、万延年間(1854~1860)に再建された銅瓦葺総欅の権現造りで、国の重要文化財に指定されています。周囲の精緻を極めた彫刻は、当時の名匠、後藤縫之助の「三頭八方睨みの龍」「牡丹唐獅子」、弥勒寺音八と諸貫万五郎の「蘭亭曲水の図」等と伝わっています。
本殿裏の狐塚には石の狐がたくさん置かれています。イナリとは稲生の意味で田の神として平安時代から信仰されていましたが、後世に商売繁盛の守り神ともされ、狐を神の使いとする俗信も加わって民間に広まっていったといわれています。
東門は文化13年(1816)に再建された入母屋造りの建物です。左右には奉納の大毛綱が収められています。
門前通りには名物の稲荷寿司や地酒の店が並びます。
明治27年(1894)建築の木造三階建て旅館、井筒屋本館を改築した「かさま歴史交流館」が街の風景に違和感なくおさまっています。
忠臣蔵の浅野家は、赤穂に移るまでは笠間藩主として25年間この地を治めていました。笠間城下屋敷近くの大石邸跡には、采配を振る内蔵助の銅像が建っています。もっとも当時ここに住んでいたのは内蔵助の祖父で笠間藩浅野家家老の大石良欽でしたが…。