文亀元年(1501)当時、小田城主であった13代小田成治(文安6年(1449)- 永正11年(1514))は、小田家菩提寺の山之荘村小野の「新善光寺」を深く信仰していた母堂が出家の身となった時、その願いでこの地に「月光山無量寿院善光寺」を建立しました。
戦乱に明け暮れ、何度も城を追われた歴史でも知られている小田氏ですので、ここでも当時を偲ぶものはこの楼門だけになってしまいました。
桁行(正面の長辺)3間,梁間(側面の長辺)2間で四脚門の茅葺寄棟造り、古風な楼門(仁王門)は、室町時代の建築様式の特色を示す貴重な建造物として,昭和58年に国の重要文化財に指定されています。
楼門とは2階づくりの門のことですが、この門は何らかの理由により2階部分の建築を断念した跡がわかる「三間一戸」形態(間口が3間で中央に戸口のある門)の楼門として重要文化財の指定を受けました。ちょうどこの頃、成治は関東管領上杉家の内紛で扇谷方として戦っている最中だったので、楼門どころではなかったのかもしれません。
古い墓石や石碑があちこちに建っています。刻まれた年代も古いものが多く見られますが、由来などはまったくわかりません。
本堂は凄まじい状態になっていました。ネットで見ると、ずいぶん前に住職の居ない無住寺になり、この状態になってからはロケの名所になって仮面ライダーなどいろんな撮影が行われているようでした。町おこしに役立っている?…なんとも複雑な心境になりました。
現役の墓地もありますが、地域の過疎化や高齢化などのため、檀家レベルでの再建は相当困難だと思います。
本堂裏手の中腹に小田一族の墓といわれる11基の五輪塔がひっそりと佇んでいます。
鎌倉時代より小田城を本拠に常陸南部に大きな勢力をもった小田一族も、第16代氏治で滅亡するまで約400年、幾多の戦いを経てきた家柄だけに空想がふくらみますが、語ってはくれません。
境内には一面のワラビが雑草と共に押し寄せていたので、葉が開いていないものを少し摘んでみました。ワラビは5月初旬くらいまでの採取と決めていますが、試しにアク抜きしたところまさしくワラビの味、美味しく食べられるのがわかりました。
旅びとに古塔かたぶく夏わらび 稲垣きくの
欠け欠けて遊女の墓や夏蕨 柏 禎
寺朽ちて賑やかなりし夏蕨 顎髭仙人
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