114年前の煉瓦造りの建物と銀杏の黄葉が人気スポット…常陸太田市の旧町屋変電所は、明治2年(1909)久原鉱業所日立鉱山(現在のJX金属)が建設した町屋水力発電所の変電施設です。
その後,明治44年(1911)年、「茨城の電気王」と呼ばれた前島平が設立した茨城電気(後の東京電力)が町屋発電所を買い取り、同年11月にはこの辺の旧太田町一帯に電灯が灯りました。
当時は「電気見たけりゃ町屋へ行け」といわれ、町屋の人々は誇りに思っていたそうです。
煉瓦造りで切妻屋根の建物と寄棟屋根の建物がつながった外観が特徴のこの変電施設は,町屋水力発電所から送られてきた300Kwの電力を各地に送電していました。使用されている三相の碍子はフランス製とされています。
昭和31年(1956)まで変電所として機能した後は,地域の集会所として利用され,現在は地区の「河内の文化遺産を守る会」によって周辺整備が進められています。この会は整備の記録やイベントの案内などをホームページで発信しています。
河内の文化遺産を守る会 http://aka-renga.hitachi-ohta.net/hendensyo.html
数年前にNHK朝ドラ「ひよっこ」では、ここが架空の「奥茨城村」の村役場になり、模擬聖火ランナーの舞台にもなりました。
文化庁の登録有形文化財と土木学会選奨土木遺産に登録認定されています。
さて、この近辺で採れる「町屋石」が敷地内の地面に展示されていました。
町屋石は斑石ともよばれる蛇紋岩で、橄欖(かんらん)石が地下深部で水の作用を受けて変質反応し、表面にササ(笹)やモミジ(紅葉)などの紋様が見られる特徴は、他には熊本県の竹葉石だけとされています。
江戸時代、水戸藩2代藩主徳川光圀公は、近隣に造成した水戸藩主歴代墓所「瑞竜山」でこの町屋石を使用し、特に良質な石が産出される藤山(ふじやま)を御留山として領民が許可なく採掘することを禁じました。
紋様には、ササ、モミジ、ボタン、鼈甲、霜降りなどがあり、特に上記写真の笹目石とよばれるものが高級で一般には使用が許されず、良く採れる藤山が解禁になったのは明治になってからでした。
御留山以外の鉱脈での採掘は江戸時代にも少しは行われていたようですが、明治以降の解禁により地元住民の根本健介が常陸斑石会社を設立、他にも砕石を行う事業者も地区に増えましたが、昭和40年代には産出地の規模が小さく営業的に採算が取れないなどの理由で採掘は行われなくなりました。
彫刻し易くしかも緻密で風化にも強いという特徴を持つために、墓石ばかりでなく町屋石で彫られた仏像が、確認できるのだけでも1,239体あり、推定では広範囲に1万体以上分布するとされているそうです。(常陽芸文 2015・1月号)
今まで石の種類までは気にしていませんでしたが、今回あらためて町屋石の作品が近辺に多くあるのに驚きました。
町屋石で彫られた村松虚空蔵尊(東海村)本堂前の牛の石像です。紋様は「霜降り」でしょうか。
回天神社(水戸市)にずらりと並んだ水戸殉難志士の墓所の371基も町屋石です。大正3年(1914)元治甲子の乱50年祭を期に建てられました。
桂岸寺(水戸市)境内の宝暦の延命地蔵尊(左側)は宝暦年間(1751~1764)に作られた大きな丸彫り立像で、「ぴんころ地蔵」とも呼ばれて親しまれています。
まだ少し鉱脈は残っているようなので、手掘りで小さな作品を作って、「町屋石」として世に出していただくと面白いとは思いますが、営業的には難しいのでしょうか、素人の勝手な思いでした。
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