顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

自然の造形 2題

2017年01月18日 | 季節の花

このバラの花の形はなんだと思いますか。
これはヒマラヤスギの実です。松ぼっくりでなく、杉ぼっくり?その長い大きな実は鱗茎が種子と一緒に分かれて少しずつ落ちますが、先端部分だけが残って落ちているのは、まるでバラの花のようです。

その形から、シダーローズ(Cedar ヒマラヤ杉Roseバラの花)と呼ばれ、リースなどにも使われるようです。茨城県花のバラをかたどった自然のアクセサリー、自然もなかなか乙なことをするものです。


地面からニョキッと出てきた不思議な突起物、まるで夫婦地蔵か芸術作品…、これはアメリカ大陸の東南部からメキシコに分布する落葉のヒノキ科の高木、最近公園などで目にするラクウショウ(落羽松)の根で、気根、呼吸根、膝根とか呼ばれています。

湿地の生育に適した樹木で、長期間の水没に耐えることができます。普通の場所に植栽すると気根を出すことはありませんが、湿地に生育すると、根が水中で酸素不足になるため、根の上側が成長して地上に出てきて呼吸します。
環境に応じた変幻自在のたくましさ、ぜひ見習いたいものです。
1月の水戸市植物公園でのひとコマでした。

夤賓閣跡 (ひたちなか市那珂湊)

2017年01月17日 | 歴史散歩

那珂川河口の北東、標高21mの礫岩台地は日和山と呼ばれ、佐竹氏の時代から御殿と呼ばれた別荘があったようですが、水戸藩2代藩主徳川光圀が元禄11年(1698)に夤賓閣という湊御殿をここに建てました。夤賓とは「つつしんでお迎えする」という意味だそうです。

しかし、ここ夤賓閣も元治元年(1864)の乱(天狗党の乱)で、武田耕雲斎・藤田小四郎の天狗派と市川三左衛門の諸生派の那珂川を挟んだ戦いの激戦地になり消失してしまいました。
現在は湊公園として整備され、光圀時代に植えられた樹齢300年以上の松も12本残っており、「湊御殿の松」として市の天然記念物に指定されています。

案内板にある図面で、20畳の御座の間など大小30以上の部屋で構成された御殿の様子が偲ばれます。台地の東側先端には、庭園と仕切られた囲いの中に異国船番所があり、別荘でありながら海防見張所の役目も持っていたようです。
見晴らしのいい高台なので、身を刺すような酷寒の風が吹き付けていました。

蘭 パフィオペディルム (水戸徳川家の蘭)

2017年01月13日 | 季節の花
水戸徳川家の14代、徳川圀斉(光圀公と斉昭公から偏諱)氏(1912-1986)は、蘭、とりわけパフィオペディルム(通称パフィオ)の栽培で有名です。

このメドウスイート“ピュリティ”というパフィオを初めてみた時、白花の美しさに魅了されて栽培を始めた氏は、交配を行い,歳月をかけて新しい品種を次々と作り出し,ラン栽培をライフワークとされました。

「マユミ」    常陸太田市の真弓山では、寒水石という白い大理石が採れ、当時は藩の御用石で、偕楽園内の吐玉泉の井筒や、弘道館記や水戸八景の石碑などに使われています。

「サクラガワ」  偕楽園下を流れる桜川は、光圀公が磯部(桜川市)の桜を移植したので命名されたと言われています。いま桜川沿いに光圀公由来のヤマザクラ中心の当時の景観を復元しようと、「水戸桜川千本桜プロジェクト」が活動しています。

「ヒタチ」と右奥は「カシマナダ」  このように白花に魅せられた氏ですが、いろんな色のパフィオを作り出し、茨城県にちなんだ名前も多く付けられました。
この水戸徳川家の蘭展は水戸市植物園で1月22日まで開かれています。

なお、季語としては以前から「秋」とされてきましたが、現実では、どちらかと言えば「冬」から「早春」、カトレヤ(冬)春蘭(春)のように固有名では問題なくても、名前を略するのを好まない俳句では、パフィオペディルムの俳句が出る可能性は低く、また蘭としての例句もあまり見つかりませんでした。

公愛すパフィオペディルム甘き罠   顎髭仙人


祝町向洲(むこうず)台場跡 (大洗町)

2017年01月11日 | 歴史散歩

幕末になると茨城県沖にも外国船が姿を見せるようになり、水戸藩では大津(北茨城市)からこの大洗までの海岸線に陣屋、番所、台場など18か所を安政から文久年間頃にかけて設けましたが、そのうち台場とは近寄ってくる異国船に砲撃を加える施設です。

アクアワールド大洗とホテル鷗松亭の間の細長い松林、確かにそれとわかる小高い丘の真ん中付近に説明板があります。そこに描かれた図によると、コの字形に幅204m、東西92mの土塁を築き、その内側に海に向けて大砲を据えた常陸国では最大規模の台場だったようです。

ただこのような海防施設は実際に使用されず、ここも元治元年(1864年)の元治甲子の乱(天狗党の乱)で藩内の砲撃戦に使われたのが、最初で最後という不幸な幕末の1ページになりました。
ここより約3キロ南にある磯浜海防陣屋には数十名の藩士が常駐していましたが、悲劇の宍戸藩主松平頼徳率いる勢力が占拠し、大砲弾薬を手に入れ願入寺を落とし那珂川を挟んで那珂湊の和田台場や日和山(夤賓閣)に陣取った市川三左衛門側のいわゆる諸生派軍との砲撃戦になりましたが、一説によると砲弾は届かなかったとか。水戸藩では反射炉を造って大砲の鋳造をした数少ない藩ですが、技術では欧米諸国との差は歴然、実際外国船と砲撃戦になったら打ちのめされていたのは長州、薩摩の例を見ても明らかでした。

那珂川挟んで和田台場までは、直線で約1800m、写真では遠方の高台で木々の見える辺りです。河口に押し寄せるいつもは穏やかな春の波が、激しく岩に打ちつけていました。


立ちあがる浪の後の冬の海  平野 吉美
冬波に松は巌を砦とす  松野 自得

酉年は、酒の年

2017年01月06日 | 日記
年賀状だけには綿綿と残る十二支の今年は酉年、「酉」という字は酒壺を表す象形文字で「西」との差は酒の入っているという横棒があることだと聞いたことがあります。
酒、酌、酪、酢、酵と使われる「酉」が、十二支に使われたのは、干支は暦年の他に方位や時間を表し、季節では酒を作る時期の秋をいうので、十二支の10番目に「酉」を充て、後に覚えやすい動物として「鶏」をあてはめたとか…、衰えつつある頭ではよく理解できませんが。

2005年の酉年の時に作った石ころ絵です。那珂川御前山河原で拾った石(多分、花崗岩)に、石粉粘土で鶏冠、嘴を取り付けアクリル絵の具で仕上げました。気が向いた暇な時間の手慰みで、フクロウ、猫などの小動物を作っています。
さて酉の刻は、夕刻6時を中心にした前後2時間、時代小説によく出てくる暮れ六つで、これはもう完全に晩酌の時間、酩酊せずにほろ酔いがいちばん、今宵は熱燗で「酉」に乾杯といきましょう。

初鶏となりそこなひし鶏あるく  加藤楸邨
僧赤く神主白し国の春  正岡子規
一人正月の餅も酒もありそして  種田山頭火