顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

小瀬城址と江畔寺…花の寺第4番札所

2023年09月20日 | 歴史散歩

茨城県の北西部の寺院八ヶ寺が宗旨を超えて設けた、十二支の守り本尊と花めぐりの「花の寺」の第4番寺は、常陸大宮市小瀬にある南内山江畔寺…臨済宗円覚寺派の寺院です。

境内は四季の花で彩られますが、春には客殿前のモクレンも見事でした。

建武3年(1336)北朝方で戦った佐竹氏が南朝方楠木勢を撃破し、9代貞義の3男義春が与えられた緒川流域一帯の領地の中心である小瀬に居城を築き、小瀬氏を称したのが始まりとされます。

康永3年(1344)剃髪入道した義春は、城域の大手門に小庵を営み、これが小瀬一族の菩提寺の基礎となり、義春の3男孝繁(悟真妙頓)が夢窓疎石に学び、疎石を勧請開山として孝槃寺を創建したと伝わります。

以後佐竹氏一族小瀬氏の菩提寺として隆盛しますが、慶長7年(1602)関ヶ原の戦いの後、秋田へ移封となった宗家佐竹氏に従い小瀬一族も秋田に移住し、ここは水戸藩の領地となって検地の際に孝槃寺を江畔寺と改称しました。

江戸時代の慶安元年(1648)には3代将軍家光公より、ご朱印15石5斗1合、寺内6石7斗3升4合を賜り、上小瀬、氷之沢、野沢村民3百戸の檀家寺となり、水戸藩2代藩主光圀公も元禄5年(1693)に2泊3日で参詣した記録が残っています。

しかし、9代藩主斉昭公の廃仏希釈により無住職状態になり、伽藍は荒廃し、本尊釈迦牟尼仏をはじめ多くの寺宝は消滅し、続いて明治新政府による神仏分離令により、寺領を接収される苦難の時代もありました。

初代小瀬義春の死後、西側の山の上に勝軍地蔵菩薩を祭祀し、義春の化身仏として尊崇されてきたと伝わっています。

現在の寺の位置にあった館が、城域拡張に伴い後部の山を取り込み連郭式の城郭になっていったとされています。山の尾根を利用した単純な構造ですが、堀切や切岸、土塁、竪堀などを随所に配置した高い防御性を備えています。
※茨城城郭研究会編「茨城の城郭」記載の縄張り図をGoogle航空写真に落とし込んでみました。

江畔寺も城郭の一部で、緒川と小舟川に挟まれた南側の大手に位置する出城的な役割をしたのではないでしょうか。

そば畑の向こうが小瀬城址、標柱の建っている辺りは緒川に面した高台にあるため、根小屋(山城の麓の居住地区)だったとのではともいわれます。

城跡を目指して7郭付近に建つ電波塔の取り付け道路を車で登ったのは一昨年、雨上がりの急坂のため、タイヤが空滑りして登れずバックで戻ってきたという苦い経験をしました。

その時に撮りました、寺院の裏手にオミナエシ(女郎花)の見事な群生がありました。