中区大手町の平和記念公園に建立されている“動員学徒慰霊塔”の後側に設置されている二つの階段を取り上げました。
※二箇所の階段は、山中高女の娘さんを(原爆で)喪った石田勧さんが寄付され造られた階段のようです。
2000年ころからわたしは意識して平和記念公園内の構造物にも目を向けるようにしていました。
しかし、なんの変哲もないここで取り上げた階段を(たまにですが)利用していました。
2009年になって「寄付者広島市西十日市町 山中髙女遺族石田勧」と刻まれた黒御影の名板に気が付いたのです。
当時、山中高女卒業で被爆当時32歳だったお袋は健在だったので、山中高女遺族の石田さんが寄贈された階段なのだと頁を編集したのです。
手摺がなかった2009年1月9日撮影
(2021年)今月この階段北側の公衆トイレを利用してから動員学徒慰霊塔の方に行こうとこの階段を利用したのです。
わずか6段の階段を降りる時にも手摺が欲しい歳になっているわたしは、
やれやれと手摺を持った時
以前はこの手摺はなかったなと思ったのです。
階段を寄付された石田さんがこの手摺も寄贈されたことは年齢的に考えにくく、
広島市が取り付けたのでしょうが、
この階段に注目する人はほとんどいないであろうとも、
わたしには亡きお袋を通して何かの縁だと考え、頁を更新したのです。
(裕編集の)山中髙女遺族寄付の階段
※二箇所の階段は、山中高女の娘さんを(原爆で)喪った石田勧さんが寄付され造られた階段のようです。
2000年ころからわたしは意識して平和記念公園内の構造物にも目を向けるようにしていました。
しかし、なんの変哲もないここで取り上げた階段を(たまにですが)利用していました。
2009年になって「寄付者広島市西十日市町 山中髙女遺族石田勧」と刻まれた黒御影の名板に気が付いたのです。
当時、山中高女卒業で被爆当時32歳だったお袋は健在だったので、山中高女遺族の石田さんが寄贈された階段なのだと頁を編集したのです。
手摺がなかった2009年1月9日撮影
(2021年)今月この階段北側の公衆トイレを利用してから動員学徒慰霊塔の方に行こうとこの階段を利用したのです。
わずか6段の階段を降りる時にも手摺が欲しい歳になっているわたしは、
やれやれと手摺を持った時
以前はこの手摺はなかったなと思ったのです。
階段を寄付された石田さんがこの手摺も寄贈されたことは年齢的に考えにくく、
広島市が取り付けたのでしょうが、
この階段に注目する人はほとんどいないであろうとも、
わたしには亡きお袋を通して何かの縁だと考え、頁を更新したのです。
(裕編集の)山中髙女遺族寄付の階段
12月16日(安芸区のわが家付近)天候:曇り