中区宝町のフジグラン広島に再設置された「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会の8号碑」です。
※元々、富士見町の広島県歯科医師会館に建立されましたが、会館が移転した為に移設されました。
※移設先は、隣のエソール広島に設置されてましたが、一帯が再開発でこの碑も撤去されました。
※2020(令和2)年4月3日(少し離れた)中区宝町のフジグラン広島に再設置されました。
*跡再開発地は米・ヒルトンホテルになることからこの碑の再設置の意向を会の要望を受け広島県が確認したが(私見です:原爆を投下した国のホテルの後ろめたさからでしょう)明確な回答がなかったことから近くのフジ(本社・松山市)に打診し、設置することができることになったそうです。
(画像左端)クレーンの先が少し見えますが、再開発地での工事です
いままで、碑をみていたつもりだったわたしでしたが、
碑下のプレートをみていた兄に“ちばコープ”の資金協力でこの8号碑ができたこと、被爆者・岩佐幹三さんの名があると指摘されたのです。
確か新聞で、ことし岩佐さんの訃報記事をみたなと思って帰宅後NET検索し、やはりそうだったのだと確認しました。
恥ずかしながらプレートを読み直し、いまになりましたが、今まで編集した頁にも追記しました。
(裕編集の)「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」の碑・フジグラン広島
※元々、富士見町の広島県歯科医師会館に建立されましたが、会館が移転した為に移設されました。
※移設先は、隣のエソール広島に設置されてましたが、一帯が再開発でこの碑も撤去されました。
※2020(令和2)年4月3日(少し離れた)中区宝町のフジグラン広島に再設置されました。
*跡再開発地は米・ヒルトンホテルになることからこの碑の再設置の意向を会の要望を受け広島県が確認したが(私見です:原爆を投下した国のホテルの後ろめたさからでしょう)明確な回答がなかったことから近くのフジ(本社・松山市)に打診し、設置することができることになったそうです。
(画像左端)クレーンの先が少し見えますが、再開発地での工事です
いままで、碑をみていたつもりだったわたしでしたが、
碑下のプレートをみていた兄に“ちばコープ”の資金協力でこの8号碑ができたこと、被爆者・岩佐幹三さんの名があると指摘されたのです。
確か新聞で、ことし岩佐さんの訃報記事をみたなと思って帰宅後NET検索し、やはりそうだったのだと確認しました。
恥ずかしながらプレートを読み直し、いまになりましたが、今まで編集した頁にも追記しました。
(裕編集の)「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」の碑・フジグラン広島
12月7日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
を拝見させて頂きました。
何時もながらの素晴らしい記録に敬意を表します。
有り難うございました。
わたしは、今回移設されたこの碑を、兄(幼児の時に被爆した)と一緒にみにいっった時に云われたのです。
(わたしは以前建立されていた処からみていましたが)この碑が、ちばコープの協力で建立されたことを見逃していました。
そして、
ちばコープは、ここ富士見町で被爆された岩佐幹三(1929-2020;千葉県在住だった)さんの被爆体験を1982年から「ヒロシマ平和の旅」で聞くことで被爆の悲惨な出来事を風化させないとの活動をちばコープがしていたことを見逃していました。
このブログの題と同じで、知ろうとしていなかった恥ずかしい記事でした(ので)。