♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

中区:旧広島市民球場・仮折鶴展示場

2012年03月23日 17時58分34秒 | 原爆慰霊碑等
広島市中区基町の旧・広島市民球場が解体されてしまうと懐かしさだけしかありません。
2009年撮影の画像で旧広島市民球場の頁を編集していましたが、
編集した2010年にも見学していましたので、今になりましたが、ここで取り上げた「折り鶴の仮展示場」を追加しました。
平和記念公園の原爆の子の像に捧げられた折り鶴は現在保存されています。
その活用法というか、処理にきゅうきゅうとしているのが、現状で、
再生紙にするとの案が有力になってきているようですが・・・

旧広島市民球場・仮折鶴展示場

広島ぶらり散歩「平和祈念碑等建立地一覧」編
コメント

西区:(草津村)大門の蝶番

2012年03月23日 09時53分48秒 | 雑関連
2007年交流ウォークの時、
広島市西区草津南町でこの辺りに(西の護りの)大門があったと云われていると教えていただき、その大門に使われていたと思われる蝶番が小泉酒造に遺されていますが、公開されていませんと教えていただきました。
2010年草津公民館館内にこの大門蝶番を原寸大で模したものが展示されていましたので、
撮影していました。いまになりましたがこの頁を編集しました。

(草津公民館展示)大門の蝶番<模型>

広島ぶらり散歩「(西区)草津附近」編

3月23日(安芸区のわが家付近)天候 :雨

コメント

中区:旧・広島市民球場建設時パネル

2012年03月22日 21時16分31秒 | 建物等
旧広島市民球場解体工事がはじまる前まで、
「原爆の子の像に捧げられた・折り鶴展示場」や「旧広島市民球場関連のパネル」が展示してありました。
その中に旧広島市民球場建設時の写真パネルが展示してありました。また、市民球場1/300模型が展示してありましたので、2010年8月、2009年1月撮影していました。

2012年2月市民球場の解体工事が完了し、その頁を編集しているときに、
1957年建設中の写真、パネルではありますが、
この頁を編集してチト旧市民球場を思うのもいいのではと編集しました。

旧・広島市民球場建設時パネル

広島ぶらり散歩「広島カープ関連」編
コメント (2)

中区: 旧・広島市民球場解体工事完了して・・・

2012年03月22日 08時22分34秒 | 建物等
広島市中区基町にあった旧・広島市民球場が2月いっぱいで解体され(現在)更地になっている処を、2012年3月15日撮影となりました。
菓子博(2013年4月開催)までの暫定の公園工事が施されるまでは雑草が生える更地となっていることでしょうね。
旧・広島市民球場解体工事の経過を2010年12月からほぼ一ヶ月に一回ほど掲載してきましたが、さびしくなった旧・広島市民球場跡地の今回の撮影で最後とします。
長い間お付き合いいただきありがとうございました。

画像の中に写っている先月まであった原爆ドームの保存調査用足場も解体されましたが、別頁で編集しようとは思っているのですが。

(解体工事経過の)旧広島市民球場

広島ぶらり散歩「広島カープ関連」編>>

3月22日(安芸区のわが家付近)天候 :曇り、晴れ


コメント (2)

西区:(草津浜町)胡子神社

2012年03月21日 18時08分28秒 | 被爆建造物等
広島市西区草津浜町で被爆したこの胡子神社は、爆心地から≒5040mで被爆した建物です。
2005年交流ウォークの時(わたしははじめて)、撮影し、頁を編集していました。
2010年交流ウォーク下見で訪ねた時、広島市設置の被爆建物のプレートが取り付けてありましたので撮影しました。
プレートには爆心地から5,000mと刻まれていましたが、わたしは資料にある爆心地より≒5,040mを採用しています。
広島市は爆心地からおおむね5km以内で被爆した建物を「被爆建物」と呼んでいますので、概ねというものの5kmを越えている事を気にしているのではと(わたしは)思っています。
境内に残されている「金刀比羅宮常夜燈」と刻んだ石柱から昔は「金刀比羅宮」と呼ばれていたのだとわかりました。
金刀比羅宮(ことひらぐう、の本宮)は、わたしごときが云うまでもなくご存知と思いますが、香川県仲多度郡琴平町・象頭山中腹に鎮座する金刀比羅宮で、ここ草津の胡子神社もその宮から勧請された神社であるのでしょう。

草津浜胡子神社

広島ぶらり散歩「被爆した建物・構築物」編
コメント (2)

西区:(ひろしま草津かまぼこ)坂井屋

2012年03月21日 08時35分18秒 | 雑関連
広島市西区草津本町の坂井屋は、
創業が明治後期だそうで、百有余年の伝統の技を受継いだ職人たちによる手造りにこだわった本物の旨い蒲鉾造りにこだわっているそうです。

ここで取り上げた細工蒲鉾は、
島根の大社地方を中心に古くから作り伝えられ、婚礼の引出物として有名で、
他に富山県や京都府舞鶴市のものが知られるそうですが、
ここ草津でも現在はつくっている店は少なくなってきているそうですが、
坂井屋でもつくって、真空パックにされていましたので撮影したのです。

不漁のときに鯛の代替品として考案されたとか、長持ちできるなどの説が一般的のようですが、鯛そのものよりも安価であるなどもあるのではないのでしょうか、
また、鯛の他に、鶴、亀、宝船、松竹梅と目出度いものが加工出来ることにあるのではないのでしょうか。

草津かまぼこ・坂井屋

広島ぶらり散歩「(西区)草津附近」編

3月21日(安芸区のわが家付近)天候 :曇り

コメント

西区:(ひろしま草津かまぼこ)亀康

2012年03月20日 20時21分14秒 | 雑関連
蒲鉾の生産量が、日本で最も多いのは宮城県だそうで、全国シェアの≒10%を占めるそうですね。
2005年交流ウォーク時に、ここで取り上げた広島県西区草津地区の「亀康」の根際を通ったとき、天ぷらをつくっているなと思ってみていただけでした。
2010年になって、店(工場)の出入口戸をみると
「広島蒲鉾組合青年部」が草津かまぼこを売り出して行こうとしている事を知りましたので、頁を編集することにしました。
草津も古くからの漁港で発展した町ですので、‘かまぼこ’をつくりだした歴史は古いそうで、その売り出しに、ここ亀康も一役を担っているのだろうとわたしは思っていますが。

草津かまぼこ・亀康

広島ぶらり散歩「(西区)草津附近」編
コメント (2)

安芸郡府中町:今出川涌水

2012年03月20日 08時41分46秒 | 雑関連
この湧水は、広島県安芸郡府中町の名勝水分(みくまり)峡を源として、
この地に湧き出てきたもので、
近くには総社跡や田所屋敷跡があり、神聖な水として神饌に供えられ、
また住民の生活用水としても昔から大切に使われたものだったそうです。

府中町教育委員会設置の説明板に「Fauntain」とありました、
帰宅後辞書を引くと無いのです、
「湧水」は『Fountain』が正解だったのです、これも訂正が必要だなと思いました。

(府中町の)今出川涌水

広島ぶらり散歩「(安芸郡)府中町」編

3月20日(安芸区のわが家付近)天候 :曇り

コメント

中区:被爆したアオギリ2012年3月15日

2012年03月19日 20時27分27秒 | 被爆樹木たち
広島市中区中島町の平和記念公園3月15日11時過ぎで、晴れていましたが、春霞か?黄砂??霞んでいました。
今月は少し春めいてきたのか、
この被爆したアオギリの西側に遠足なのでしょう園児の集団が、その中の2人がアオギリの前に走ってきた処を撮影しました。

(被爆した)アオギリ2012年

広島ぶらり散歩「平和記念公園の草木達」編

コメント

安芸郡:(府中町)ムクノキ跡

2012年03月19日 09時19分14秒 | 建物等
交流ウォーク下見で、広島県安芸郡府中町の「今出川涌水」を見学し、次の「出合の清水」に行く途中でみたのが
この(府中町の重要文化財であった)ムクノキの跡でした。
説明板が設置されていなかったら通り過ぎていたように思いました。

府中町教育委員会設置の説明板に、
ムクノキ「Aphnanthe aspera」とありましたが、ムクノキは「Aphananthe aspera」なので、間違っていると思いますので、訂正が必要と思いました。
広島市中区の縮景園に被爆したムクノキがあるので、頁を編集する時に、辞書を引いてムクノキは「Aphananthe aspera」ということを(わたしは)知ったのです。

(府中町の)ムクノキ跡

広島ぶらり散歩「(安芸郡)府中町」編

3月19日(安芸区のわが家付近)天候 :曇り時々晴れ

コメント

安佐南区:(柏渓山)浄楽寺

2012年03月18日 22時19分15秒 | 神社寺院等
広島市安佐南区八木4の浄楽寺は、浄土真宗本願寺派のお寺です。
1619年僧・順超の開基だそうです。
現在の本堂は、1878年から四年かけて可部の福王寺から移築したものでその経費は(当時としては大金の)3,043円46銭5厘という記録があるそうです。

柏渓山・浄楽寺

広島ぶらり散歩「広島の神社寺院」編
コメント (2)

安佐南区:桐原葆見先生生誕百年記念碑

2012年03月18日 10時51分43秒 | 各種記念碑等
広島市安佐南区役区政振興課あさみなみ散策マップ 八木山の端ルートを参考に(わたしは)はじめてぶらり散歩し、ここ浄楽寺を訪ねました。
境内にここで取り上げた「桐原葆見先生生誕百年記念碑」をみたので撮影しました。
碑裏に碑文がありましたので、
桐原葆見先生とはここ浄楽寺第十四代住職・文学博士であることがわかりました。
また、岡山県倉敷市にあった大原社会問題研究所員の労働衛生部門を独立させ「倉敷労働科学研究所」として設立した時に中核の一人として貢献したそうです。

桐原葆見先生生誕百年記念碑

広島ぶらり散歩「広島ゆかりの人たち」編

3月18日(安芸区のわが家付近)天候 :雨→曇り

コメント

中区:平和記念公園広場2012年3月

2012年03月17日 20時24分29秒 | 平和記念公園
3月15日11時過ぎ、広島市中区中島町の平和記念公園付近は晴れていましたが、春霞か?黄砂??霞んでいました。
丹下健三実施設計の通称・原爆資料館下のピロティーから見る平和記念公園・広場には(たくさんではありませんが)先月に比べて人出は増えたように思いました。
撮影先に遠くに見える原爆ドームにかけられていた、(原爆ドーム保存)調査用の足場は解体されていました。

平和記念公園広場の四季(2012年)

広島ぶらり散歩「平和記念公園」編</A
コメント (2)

中区:(住吉橋架橋対策委員会)碑

2012年03月17日 08時26分51秒 | 橋梁
広島市中区住吉町と中区舟入本町をつなぐ住吉橋を、いままで何度も渡っているわたしでしたが、
2011年交流ウォーク下見の時、西詰北側で、小さな碑に目が行ったのです。
いままで気が付いていなかったなと近づいてみました。
ただ「碑」と刻まれた、住吉橋架橋対策委員長だった折重さんの橋にかけた思いを顕彰した碑なのだろうと思いました。

むかしは、築城・架橋・堤防工事などの完成を祈って、神へ供える生贄とするために、人を土中や水底に埋める人柱がああったと聞きます。
近くでは、山口県の錦帯橋でもそのような話を聞いたことがあります。
これとは考えを変えたという話も聞きます、
毛利元就が、高田に居城・郡山城を築く時、人柱の代わりに「百万一心」碑を埋めたと云う話。
また、太田川の氾濫に苦慮していた福島正則は、人柱を入れて堰き止めようという時、秘蔵の名剣・八本を箱に納め地中深く埋めて(土手の被害を)堰き止めたと伝わり、その八本の剣の霊を祀って小祠が建てられたのが八剣神社という話を身近に聞いていました。
この(住吉橋架橋対策委員会)碑の経緯を知った時、原爆症で亡くなった折重さんだったそうですが、その遺品を埋めたという話に人柱とは違う方法で工事の無事を祈った先人のことがかさなっていたわたしでした。

(住吉橋架橋対策委員会)碑

広島ぶらり散歩「広島の橋」編

3月17日(安芸区のわが家付近)天候 :朝のうち雨→曇り

コメント

中区:住吉橋記念燈

2012年03月16日 18時32分34秒 | 橋梁
2005年交流ウォークの時
広島市中区住吉町5の住吉橋東詰北側に建立の「住吉橋記念燈」を教えていただき、説明板を読むと、
初代の住吉橋が明治43年に木造橋として架橋されたことがわかりました。
2005年頁を編集しましたが、この住吉橋記念燈だけの画像でしたので、
記念碑の周りがわかる画像などを追加し、2012年のいまになりましたが、再編集しました。

住吉橋記念燈

広島ぶらり散歩「広島の橋」編
コメント