備後國分寺だより 第68号(令和6年8月1日発行)
三十年ぶりのご開帳の一日
三月三十一日、一日曇り空の天気予報でしたが、雲の切れ間から青空がのぞき明るい陽のさす朝を迎えました。
五時の鐘を撞き、日課である本堂の仏飯茶湯をお供え後、客殿の雨戸をあけ、寺院方の金襴のスリッパを並べました。客殿前の門を開き、赤いカーペットを敷いて寺院方の雪駄を置いてもらうための靴入れを用意しました。寺方駐車場に寺院専用駐車場と書いた立看板を出し、本堂東スロープに参詣者用の緑のカーペットを並べ、本堂正面の入り口に寺方の入堂用の赤いカーペットを敷きました。
午前八時前には、総代世話方が集結し、一日の行程を確認。配布物の最終チェックを行いました。寺方集会(しゅえ)時間前には一人二人とお寺様方が客殿にお越しになる中、前日から来福の中央大学教授保坂俊司先生もお越しになり、控えの間にご案内しました。
神辺結衆ご寺院はじめお寺様方全員お集まりになり、挨拶の後、特別にご出仕願った岡山倉敷の宝嶋寺様、総社西明寺様をご紹介。涅槃会のために職衆(しきしゅう)みな色衣紋白(しきえもんじろ)帽子を着しました。
この日午前九時から午後五時まで予定していた本尊御開帳の開扉は、本堂に九時から予定の涅槃会(ねはんえ)に入堂後、職衆が薬師真言を唱える中、住職が本尊前に進み須弥壇(しゅみだん)に上がって開扉を行い、そのあと大壇前の礼盤(らいはん)に進み、涅槃会勧請(かんじょう)の頭(とう)を発音(ほっとん)。総礼(そうらい)の頭を唱えた後、座坪に戻ると、舎利講式を唱える式師が登壇。その後、奠供(てんぐ)、祭文(さいもん)などが順に唱えられ、略しながらではありますが、全ての次第を唱え終わり、一時間少々で涅槃会舎利講を終え退堂しました。
この頃には俄かに参詣者が増え、涅槃会が終わると、待ちきれなかったかのように多くの人が本尊厨子の前に進み、行列をなしていました。着替えをして本堂に様子を見に行くと、かつて単身赴任で福山で仕事をされていた頃坐禅会に参加され、その後大阪にお帰りになった方がこの日のために参詣に来られていてお会いしたり、先代の親族にあたる方がお見えになっていたり。檀信徒はもとより、遠方からお越しの方も多かったように見受けられました。
このあと、稚児行列のため、衲衣袍(のうえほう)服(ぶく)に着替え、檜扇(ひせん)、装束念珠(しょうぞくねんじゅ)を手に参道に出ました。心配されていた空には青空がのぞき、多くのカメラを持った人が参道沿いに陣取る中、参道中ほどに進むと、すでに稚児たちがご家族とともに整列し、御詠歌衆も準備していました。車でお越しの徳島文理大学教授の濱田宣先生も丁度参道を入ってこられました。金棒(かなぼう)持ち、傘持ちの方も控えていて、歩き方の指導を受け、準備調い進行開始。法螺(ほら)の音に続き銅鑼が鳴り、鉢がつかれ、御詠歌衆が唱える修行和讃を聞きつつ、顔見知りと挨拶をかわし乍ら歩みを進めました。
本堂に稚児は東スロープから入り稚児加持を受け、その間寺方は正面の赤いカーペットを進列して入堂し内陣に座し、住職三礼して登壇着座して、塗香護身法、洒水(しゃすい)。前讃(ぜんさん)発音して、前讃のあと、慶讃文を奉読。
慶讃文終わり、後讃、般若心経が唱えられる中、稚児は本尊前に進み蓮華をお供えし退座、外に出て記念写真撮影にむかいました。寺方は心経の後、薬師真言、光明真言、大師宝号、廻向文を唱え退堂。記念写真には、お稚児さん、寺方諸大徳、当山役員、御詠歌衆とこの日ご参詣の先生方にも入っていただき、稚児さんの視線を集めるためにアンパンマンのぬいぐるみも登場して撮影を終えました。
それから、國分寺会館にて、檀信徒と先生方も来賓として同席してもらい、ささやかながら祝賀会を催しました。この間寺方は、集会所である上段の間で軽食を摂られ、しばし休息。土砂加持法会のため、職衆は色衣紋白、導師を勤める住職は衲衣袍服(のうえほうぶく)に着替え、午後一時に入堂。
職衆が土砂加持法則(ほっそく)にしたがい声明(しょうみょう)を唱えられる中、御開帳された本尊様を拝しつつ光明真言法(こうみょうしんごんぼう)を修法しました。光明真言法において勧請(かんじょう)する本尊は法界定印を結ぶ大日如来であり、そのお姿を観想しつつ、その後ろに本尊薬師如来様を重ね見ていると次第に本尊様が厳しいまなざしから微笑まれているように感じられ誠に有り難たい法悦にひたり修法を終えました。
土砂加持法会後は、この日ご参詣いただいた二人の先生から記念講話が予定されていました。はじめに、徳島文理大学文学部文化財学科教授で学部長も兼務されている濱田宣先生から、御開帳の仏様方の解説がありました。先生は令和三年十月十一月と、福山市文化振興課の皆様とともに國分寺の仏像の実態調査にお越し下さり、ご指導いただきました。そして、遠路東京方面からお越しの中央大学国際情報学部教授保坂俊司先生からは國分寺創建時の話も交え、日本文化と仏教とのかかわりについてご講話がありました。本堂ばかりか外にも立って聞いてくださっている方々が大勢居られ、大盛況となりました。(四頁から一九頁参照)
最後に、「この本堂を再建された水野勝種侯はとても領民思いのよいお殿様であったと語り継がれており、この國分寺も一人一人の領民がよりよくあるように幸せであるようにと願い再建して下さったのではないかと思われます。ご自分が再建したお堂に、今日こうしてたくさんの皆様がお参りされたことを、勝種侯が逝きし世からご覧になられ、たいそう喜んでおられることと思います。今後とも國分寺にご参詣下さいますよう、皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします」と申し上げ、参詣の皆様への御礼の挨拶とさせていただきました。そして、先生方へ再度拍手をお願いし、三時十五分頃散会となりました。
お寺様方はこの講話の間にお帰りになられ、先生方には控えの間でお茶を差し上げ御礼申し上げお見送りいたしました。境内に戻ると呉からお越しの知人に会え、ご縁に感謝し、またの再会を約しました。その後五時まで御開帳のため、その間に総代世話方慰労会をさせて頂き、まだ片づけは残るもののとても盛会であり成功裏に終わった一日を語りつつ祝杯をあげました。
午後五時丁度再度参詣下さった圓照寺ご住職様とともに真言を唱え、本尊厨子を閉扉し、御開帳を終えました。
遠方からも大勢の皆様がご参詣くださいましたこと感謝申し上げます。今年一月から一日一日この日のために様々準備を重ね思案しつつ来たことがやっと無事に終わり安堵しております。
最後とはなりましたが、土砂加持法会後に参詣の皆様には申し上げましたが、この日ご開帳があることをお知りになられ沢山の方々が参詣くだされるためにご尽力くださったメディア関係の方々、特に福山コンベンションセンター、中国新聞、読売新聞、エフエム福山、プレスシードの皆様、また当日取材して下さった井原放送の皆様などたくさんのメディア関係各位に御礼申し上げます。 (全)
三月三十一日
※当日の内容を一部再構成・修正
御開帳記念講話
徳島文理大学文化財学科教授 濱田 宣 (はまだあきら)先生
『御開帳の仏像を観察する』
ただ今ご紹介いただきました濱田です。私事で恐縮ですが、私は今日を以て、めでたくと申しますか、徳島文理大学を退職いたしました。退職日が近づくと、退職後のことをよく聞かれます。私は広島県内の市町の文化財保護審議会(委員会)委員をしていまして、この福山市もそうなんですが、仏像を中心とした仏教美術の調査研究を行うため、各寺院が所蔵する仏像の悉皆(しっかい)調査を約二十年前から行っており、退職後はその仕事に専念しようと考えています。因みに、令和三年度にこちらの國分寺の仏像すべてを調査させてもらいました。
そこで皆さんにお伺いしますが、このお寺に仏像が何体おられると思われますか。実は八十体以上おられるんです。現在、福山市内の寺院が所蔵する仏像の悉皆調査を福山市文化財振興課と共に進めており、十七か寺を済ませ、今後も続けていきます(福山市内には約二〇〇か寺所在)。仏像に関する記録を残していくことの意義は何かと申しますと、今現在の重要な歴史記録を残すということで。そのことは今すぐに評価されるようなものではなくて、私がいなくなって二百年後三百年後に歴史的に役に立つものと確信をもってやっています。
仏像の観方
前置きはそのくらいにして本題に入ります。
今日こちらで御開帳されている薬師如来像をはじめとして、須弥壇に安置されている仏像を、皆さんご覧になられています。今日は何も資料を用意しておりませんので、皆さんとやりとりをしながら、仏像の観方を学んで頂きたいと思います。学ぶというのは、私の考えですが、楽しみながら学ばないと身に付かないし、興味も湧いてこないんではないかなと思っています。
私は、仏像の話を方々でやっていまして、仏像に関する話は約三十五年くらい続けていて、合計五百回くらいになるかと思います。福山では、NHK福山文化センターにおいて十年間で百二十回、引き続き福山リビングカルチャーで二年で二十四回、仏像の観方について講義しており、まだ百回くらい続けないと私が学んできた仏像の話は終わらないんですね。それくらいの分量のことを本日は三十分でお話しいたします(笑)。
仏像の何を見ればどんなことが解るのか。仏像の姿や形、持ち物などから、それらが何を意味するのか、そこから何が言えるのか、ということなのですが、私もまだ解らないことだらけです。解らないことに出会って、それが解るとうれしいですね。そういう感覚が私に長く仏像の研究を続けさせてくれているのではないかと思っています。
例えば、わたしがこういう風に立っています。これはどんな格好をしているのかということを皆さんに読み取ってもらいたいのです。例えば、両手でマイクを持っています。めがねを掛けています。頭、かなり刈り込んでいます。そういった情報をひとつ一つ集めていくと、仏像の成り立ちが徐々に解っていくんですね。人間同士がはじめて接触して、挨拶したり、話をすると、まず相手の名前を知りたいですよね。あなたの名前はなんといわれますか、どこの出身ですか、誕生日はいつですか。そういうようなことをどんどん深めていくことによって、相手を知ることが出来るわけです。
如来と菩薩
さて、この御本尊、名前はもうご存知ですね、秘仏の薬師如来が御開帳になっているわけですから、いまお目にかかれているのが薬師如来、何で薬師如来といわれるのでしょうか。また、如来ということですが、如来とは何でしょうか。如来と名前の付く仏像はそんなに多くありません。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、これが代表格です。他にも阿閦如来とか、大日如来。ただし大日如来は如来と言っても本来の如来の姿をしていません。大日如来は密教の最高最尊の仏なので、特別な姿をしています。
如来はというと、仏像のなかで一番粗末な格好をしています。観音菩薩、十一面観音菩薩、千手観音菩薩などの菩薩の像はゴージャスな格好をしているのに、なぜ如来は粗末な格好なのか。ゴージャスというのは、装飾品を身に着けているということです。私も手首に石(ブレスレット)を巻いていますが、こういう飾りを菩薩の像は身に着けています。そのほか冠を被っていたり、胸飾りを身に着けていたりします。冠を被っていると言ったら、われわれ人間の世界では、王様ですよね。
では、なぜそんな装飾品を身に着けているのでしょうか。仏像の姿というのは、モデルは釈迦なんです。釈迦如来の姿というのは、如来の姿ですが、菩薩も釈迦の姿を根本としています。釈迦が二九歳の時に出家して六年間苦行をして、三五歳の時に悟りを開くわけですね。これが如来の姿です。それから仏教を興こして、インド国中に布教して回って、四十五年経った、八〇歳の時、今日午前中涅槃会をされましたが、入滅した、つまり涅槃されたということになっています。菩薩の姿は釈迦が二九歳以前の出家する前の姿をモチーフとしています。釈迦はシャカ族の王子として産まれ、宮廷で生活する貴族であるということから、装飾品を身に着けたゴージャスな姿になっているというわけです。
観察するということ
ところで、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三体がまとめて本尊になっているお寺があるんです。普通は、薬師か釈迦か阿弥陀は別々に各寺院の本尊となります。しかし、その寺ではこの三つの像が一つのお堂の中に同等に安置されてほぼ本尊になっています。何というお寺かご存じでしょうか。それは奈良の法隆寺金堂です。ところが、法隆寺金堂を拝観された方に聞いてみると、真ん中にある釈迦三尊しか、皆さんの記憶には残っていないことが多いのです。記憶をたどると十体前後は何かいたな、とはなりますが…………。ほぼ同じような大きさの仏像として、釈迦三尊の向かって右に薬師如来、左に阿弥陀如来がおられます。
我々が仏像を見ると言っても、漠然とみているだけで、何を持っているのか、どんな格好をしているのか、ほとんど意識せずに、ただ漠然と眺めているだけなんです。つまり、これは「見る」ということですが、「観る」つまり観察するというのが、何かを意識して「観る」ということになります。研究者は様々なことを意識して観ないと研究にならない。それが先ほど「どのような格好をしていますか」という問いかけに相当します。
薬壺のこと
そこで、薬師如来というのは、薬を入れた壺を持っています。薬というのは何を意味するのでしょうか。病気を治す、苦しみを解く、しかも薬というのは即効性のある、例の先生の「今でしょ」と、今の私たちをすぐに救ってくれる仏ですね。釈迦というのは、今から約二千五百年前に、仏教を興して亡くなっているので、過去の人、ですから、先祖菩提とかが中心になるんですね。阿弥陀はというと、阿弥陀の極楽浄土と言われるように、いわゆる未来。つまり薬師は現代、釈迦は過去、阿弥陀は未来を担当するわけです。これを三つの世と書いて三世(さんぜ)と言いますけれども、現在過去未来。私と同じ年代、誰かがうたった歌にありますよね。「現在過去未来」という言葉がサビに使われた歌がありましたよね。そういう意味合いがあるんです。
薬師は左手に薬壺を持っているのですが、でも調査の時に、現状ではその薬壺が失われていることもあります。両手の格好はこうです。右手を胸の高さに挙げて前に向けて開き、左手は膝上に置いて仰いでいます。そうするとこの格好というのは、釈迦如来の格好なんです。釈迦如来の格好で左手に薬の壺を持っていると薬師如来に名前が変わってしまいます。だからこの手の格好をしていたら、釈迦如来と名前を付けたくなるのですが、掌を見ないと解らない、そこに接着のあと、薬壺を差し込んだあとがあったりということがよくあります。
ところが、難しいのは奈良時代以前においては、薬壺を持っていない薬師如来が存在しています。一番著名なものが、奈良の薬師寺金堂の薬師如来です。あれは薬壺がなくなっているのではなくて、持たないタイプの薬師如来です。従って、両手の格好からだけでもって仏像の名前を決めつけてはならないということです。研究は慎重でなくてはなりません。
藥師如来の印相
このように、この薬師如来と釈迦如来の手の格好は同じです。右手がこのように前に向けているのは、何を意味しているかというと、これは「施無畏印」と言うんです。せは施す、むは無い、いは畏れ。畏れないでいいよ、大丈夫だよと、と言うことを示しているのです。では左手は膝の上に置いて掌を仰いで前方に差し出している、これは何でしょうか。「与願印」と言い、願いを与えてくれることを意味しています。
私は子供たち向けにも仏像教室をしているのですが、「みんな仏像の格好してごらん」というと、かなり多くの子がですね、親指と人差し指をつけて丸くして右手を上にして、左手は下にして掌を開くんです。こうするのは、実はよく見ている仏像が阿弥陀如来ということだと思います。阿弥陀如来は左手も親指と人差し指をつけますが、掌を開くのは、奈良の大仏のイメージがあるのだと思います。
そこで、子供たちに「施無畏・与願印」の話をした後、「君たち、さきほどの右手と左手はどういう意味なの」と聞くと、「先生わかるよ、お金頂戴でしょ」と、名答だと思いました。これもちゃんと意味を表していますよね。こういったところで子供たちに興味を持ってもらい話をしています。
仏教伝来時の仏像について
実は、先ほど話した法隆寺金堂にある三つの如来像のうち、阿弥陀如来は鎌倉時代に造り替えられているので、後世の格好になりますが、真ん中の釈迦如来と右の藥師如来は、同じ格好をしているんです。右手はこうして前に向けているんですが、左手は親指・人差し指・中指を伸ばし、残りの指は握っているという特殊な格好なんです。これは、飛鳥時代に中国や朝鮮半島から日本に伝わってきて、最初に日本人がでくわした仏像が、実はその格好をしていたんです。
法隆寺金堂の釈迦如来は、六二三年に造られたもので、わが国最古級のものです。現存する古いものでは六世紀の終わり頃の仏像が確認されています。仏像が日本に来たのはいつかというと、記録では日本書紀や元興寺縁起によれば、五三八年とか、五五二年と歴史の授業で学んだ記憶があると思います。五〇〇年代の半ばには日本人は仏像と出遭っていることになります。わが国最古級の仏像、如来の像は、当時は釈迦如来も阿弥陀如来も薬師如来も如来はすべてその格好であったことがわかっています。
因みに、法隆寺金堂内の釈迦如来像と同じような手の格好をしている仏像を、たぶん皆さんはふくやま美術館において、この秋に観られることになると思うんですが、鞆の安国寺にある阿弥陀三尊のうちの阿弥陀如来像が同じ手の格好をしています。よくご存知の方は、あれは鎌倉時代の仏像なのにと思われるかもしれませんね。(種明かしは別の機会に……。)
阿弥陀如来の話
皆さんが普段よく見ている阿弥陀如来像は、両手共に親指と人差し指の先を丸めてつけており、右手は胸の高さに挙げ、左手は下ろしています。たまにお腹の前に合わせたりしていますが、一番多いのは、右手を上にして左手を下にしている姿です。こういった両手の位置や合わせる指の違いは、極楽浄土には九つの段階があることを示しています。そこで一番上位の極楽浄土に往きたい方は、両手の親指と人差し指を合わせて、お腹の辺りに構えている阿弥陀如来を選んでください。これが「上の上」の極楽浄土です。先に申し上げた右手を胸の高さに挙げ、左手を下ろしているものは「上の下」、つまり三番目の極楽浄土になり、皆さんがよく見かける阿弥陀如来のタイプです。
なぜ、一番目の極楽浄土ではなく、三番目を求めるのか、何と日本人の謙虚なことか。一番一番と言っていたら欲が出る、三番目で良いと。ですが、そういった意味ではないのかなと、私は最近考えるようになりました。両手を上下に構える格好の阿弥陀如来は来迎像といって、極楽浄土に居る阿弥陀如来が亡くなった人の所へ自ら迎えに来てくれて、極楽浄土へ連れて帰ってくれるんです。自分で一生懸命浄土に上がっていかなくてもよく、阿弥陀如来のお迎えを待っていればいい。だから日本人は謙虚なんじゃなくて、実は横着なんですね。(笑)
本尊藥師如来について
さて、ここの厨子の中の真ん中に薬師如来がおられ、その左右に現状向かい合わせに立っているのが日光菩薩・月光菩薩です。日光は日(太陽)の光、月光は月の光のことです。向かって右側の日光菩薩は、円輪の中に赤く太陽を表すものを手に持ち、左側の月光菩薩は、円輪の中に白い月を表すものを手に持っています。これは何を意味しているかというと、薬師如来は現世(今)の衆生を救ってくれるわけですが、日光月光菩薩、つまりお日様とお月様がいるということは、二十四時間営業ということです。四六時中助けてくれるということを表しています。
さらにそれらの左右には六体ずつ、十二神将という仏様方が居られます。十二という数字は、いろいろなことに繋がりますよね。一年が二ヶ月、十二の時、東西南北などの方角、干支である十二支など。時とか方角とか全部を含めて、周りの十二神将がサポートしている。すべて薬師如来が一番活躍できるように、三六五日、一年中サポートしています。
薬師如来は日光・月光菩薩と合わせて三尊一具、先ほどの阿弥陀如来は観音菩薩と勢至菩薩がいて三尊一具となります。釈迦如来も文殊菩薩と普賢菩薩がいて三尊一具、というように、どれも真ん中に如来、両脇が菩薩というサポート役がつきます。
この組み合わせって、天下の副将軍水戸光圀が介さん角さんを従えているのと同じですね。これはたぶん仏像の三尊一具からきているんだと思います。三尊一具で大きな力を発揮します。さすがに黄門さんだけでは頼りないですから、締めの所は周りのサポートで大きな力を発揮するということになります。
十二神将のこと
それでは最後に、仏像を「よく観る(観察する)」ということで私の話を締めくくりたいと思います。先ほど、十二神将は十二支と関わりがあると申しました。この十二神将像の頭上には干支が表してありますのでご覧ください。子丑寅卯……その象徴するものが頭上にのっています。今まで私が観てきた十二神将像としては一例しか知らないくらい大変珍しいことなのですが、こちらの十二神将は干支の全身を表しています。通常は干支の頭部だけしか表さないのです。是非、後ほどよくご覧になってみてください。
このように細かい所までしっかりと仏像を観ていくと、少しずつ楽しくなるかなと思います。かわいいなとか格好いいなとか、すごく穏やかで救われる気持ちになるとか……。それでも良いのですが、そこから一歩掘り下げて、どうしてそうなるのかを追究していくと観方が変わってきます。そういうことがあるので私も仏像の話を何度やっても、百四十回やっても終わりません。毎月第四月曜日、福山リビングカルチャークラブにおいて仏像講座を行っていますが、まだ百回分くらい話す内容がありますので、興味がある方はお越しください。退職後もこの取り組みも一つの生きがいとして、諸寺院が所蔵する仏像の悉皆調査研究とあわせて頑張ってまいりたいと考えているところです。
それでは私の話は以上となります。ご静聴ありがとうございました。
三月三十一日
※当日の内容を修正・一部加筆
御開帳記念講話
中央大学国際情報学部教授 保坂俊司(ほさかしゅんじ)先生
『「國分寺建立の詔(みことのり)」から仏教と日本文化を考える』
ご紹介いただきました保坂です。今日は、備後國分寺でのお話ですので、國分寺に関係の深い、そして日本仏教の発展に聖徳太子同様に尽くされた聖武天皇についてまずはお話します。こちらには聖武天皇のお位牌が安置されているそうですが、奈良時代に國分寺建立を発願された大檀那である聖武天皇とはどんなお方だったのかということについてです。
また、國分寺とはどういう意義を持つお寺なのかという話を基本として、仏教と日本文化を引き継ぐ意義についてもお話したいと思います。つまり、日本人にとって、あるいは日本文化にとって、仏教とはどんな宗教なんだろう、私たちにとって仏教はどういう存在なんだろうということについて考えてみたいと思います。
仏教という言葉
ところで、皆さん仏教という言葉はよく聞かれると思いますが、仏教という言葉は、実は古い言葉ではありません。明治二十年代頃、仏教をキリスト教、イスラム教など色々な宗教と並べて、はじめて仏教という言葉が現代のように使われるようになりました。当たり前の事ですが、これがなかなか理解するのが難しいのです。細かいことは、省きますが、仏教という漢字熟語は、仏と教に分解できます。そして仏は、お釈迦様ですね。さらに、教はその教えということですから「仏の教え」を仏教と表現するのは、当たり前のように理解出来ます。
ですが、これはキリスト教をモデルにして、教え、教祖、儀礼、教団を合わせて宗教と呼び、仏教もこの様な考えで捉えるようになりました。しかし、明治以前に日本の文化、特に今の仏教を語るときには、仏の法(ミノリ)や仏道(ブツドウ)と言われたのであり、仏法(教えを中心に)、仏道(各種の実践を含む)というのが主流でした。
というのも、仏教と言ってしまうと、その時点で、キリスト教をモデルとした宗教体系になってしまいます。そもそも仏教の教えとは、キリスト教におけるキリストのように、唯一の絶対の神の言葉(契約とも云える)を伝えるものではなく、どうすれば悟れるか、救われるかの体験記なのです。
ですから、仏の教えとは、釈尊をはじめ仏(現在のように、死者の隠語ではありません。理想を完成させた人のことです)になった人々の教え、つまり悟りへの体験記というわけです。ですから、実際に体験記通りに自らも行動を起こさないと仏道にはならないのです。しかし、キリスト教的な宗教を把握する意味としての仏教という言葉ですと、教えを信じるという点に重点が置かれてしまいます。
そのため、近代以降の仏教は、明治以前に仏法や仏道として捉えられていた感覚とづれてしまうのです。いずれにしても、仏法は仏の法、つまりその教えを仏道として実践することを教えるものです。そして仏道ですから、仏の教を実践するということが基本となります。特に、在家の人々は教えを生活の中で実践することこそが、仏教の基本であるということです。つまり、仏教の教えが社会に生かされていた世界への理解が、仏教と表現すると行の部分が抜けてしまうので不十分になります。
今普通に使われているその他の言葉でも、近代明治以降になって作ったものとか、意味を改めて使われるようになったものがたくさんあります。これを一般に翻訳語といいますが、言葉を換えると、内容の理解が変わってしまうのです。私たちの仏教に対する理解、意味するものは、ですから、その以前とは違ってしまっています。その典型が神と仏の関係です。
神と仏は一体
ところで、明治初年から十年くらいにかけて激しい廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という野蛮行為が行われました。実は、その後も仏教への一種の攻撃は続き、その結果廃仏から嫌仏(けんぶつ)という伝統が形成され、現代に至ると私は考えております。これは私見ですが。
いずれにしても、明治初頭に、神道国教化政策の一環として神仏分離令が発令されまして、仏教などというよそ者の宗教と、古来の神道と分けなさいとされたのです。そして、暴徒化した民衆がお寺を壊し仏像や経巻を焼き払いました。その結果、日本中で神仏分離が行われ、結果的に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。こちらの隣にも八幡神社がありますが、もともと一つだったものが、明治以降お寺と神社とは別々のものとされてしまったのです。
このお寺と神社が一揃いで存在するという形式は、奈良の東大寺に原型があります。少なくともそのモデルです。東大寺に行かれて、南大門を入り右に折れて進んでいくと手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)があります。そもそも八幡さんと東大寺は一セットだったのです。この形式が明治までの東大寺で、かつ日本の寺院と神社の標準的な関係でした。
何故、そうなったかというとそれは東大寺の大仏建立と深い関係があります。聖武天皇は、東大寺は國分寺の総本山であり、日本国の総国分寺、総鎮守東大寺に、大きな仏像を作りたかったのです。ですが、なかなか思うように進展しませんでした。鋳造金銅仏ですから高度の技術知識も必要です。当時の日本には、その技術がまだ無かった。
でも聖武天皇はどうしても作りたい。しかし技術的に行き詰まってしまった。そこに九州にある宇佐八幡の託宣を携えて巫女さんが、わざわざ輿に乗り奈良の東大寺にやってこられた。(*これが全国の神輿行列の先例といわれています。因みにインドでも古くから同じような祭りがあります)そして、全面協力を申し出てくださった。当時の宇佐は、大陸と交流があり、恐らく高度な鋳造技術を持った集団が一緒に来たのではないか、と推測されます。
いずれにしても、八幡神の協力があり、東大寺の大仏は完成します。以来、仏と神と一体となって、日本国を支えてくださることになります。この東大寺の造営形式が基準となり、全国の國分寺も、またその後他の寺院にも、神と仏が一緒になって、それぞれの地域を守るという、そういう伝統が形成されます。
「國分寺建立の詔」の精神とは
聖武天皇が発せられた「國分寺建立の詔」は、天皇という現人神(アキツカミ)が国を守るためにどうしても仏の力を借りたい、その事情、理由を述べたものです。読んでもらうとわかりますが、天皇は仏の教えに深く帰依されています。当時の考えは、現在主流の近代西洋的な支配者像と違い、天皇陛下は、この世は天皇のものであり、天皇=この世ともいえるものでした。
その様な世界観の中で、聖武天皇が即位すると、運悪く天変地異が襲います。日本の国土の地殻変動期ですね。現在もこの地殻変動期に入ったと言われてます。つまり、阪神大震災から東日本、熊本、今年は能登半島と、十年二十年のスパンで考えると離れているように感じられますが、千年二千年という歴史的な時間から考えると、最近の日本には一瞬にいくつも続けて大地震が起こっています。それだけでなく、その間に疫病も流行し、国民は非常な困難に直面しました。聖武天皇の御代もこの様な混乱期だったのです。
この時、聖武天皇は、大災害が頻発し、国民の苦しみを我が事とお感じになって大変苦しまれたのです。これが、日本の天皇の世界観であり、政治思想です。ですから、私のものというのは所有物ということではなくて、私の体と一体だということです。古い文献には、国家という文字は「みかど」と、国家=天皇陛下を表わすように仮名が振ってあります。
今、国家=天皇というと、ヨーロッパの偉い王様や独裁的な君主のように、国をわたくし視しているように思うかもしれませんが、そうではありません。天皇は、日本という国、あるいはこの天下(アマツシタ)を、自分の身体と一緒、あるいはその一部のように捉えられていたのです。ですから国が乱れ、民が苦しめば自らのからだが病んでいるように感じたわけです。そして、それは自分の行いが悪いからそうなったとお考えになられたのです。
私たちも、病気になれば心を病みます。何でこんな病気になってしまったのか、何が悪いのか、原因を考え反省します。それと同じように、何でこんなに疫病がはやるのか、なぜこんなに地震があるのだろう、何で私が天皇を継いでから民衆を安らかにしてあげられないのだろうと、聖武天皇はものすごく苦しまれたのです。その時、仏の力を借りて自分が強くなれば、元気になれば、国も元気になるとお考えになります。
そこで、仏の力で日本を護ってもらおうと、各国に東大寺のミニ版とも言える國分寺をおつくりになられたのです。そして、その総仕上げとも云うべき総國分寺として、国家鎮護の寺として、東大寺に巨大な毘盧遮那仏の建立が計画されました。
特に、國分寺の総仕上げであり、国家の守り神的存在として、大仏をお造りし、皆が一丸となりこの大きな大仏さんに帰依したならば、日本が一緒に救われるのではないかと、そう聖武天皇はお考えになられて大仏造立は発願されたのだと思います。このように申し上げると、迷信だと感じるかもしれませんが、コロナ禍の最中に、医療だけでは救われなかった私たちの心の安心、社会の安全を神仏に祈る形で維持できたことは、我々も体験済みですね。人間は千年二千年前も今もそんなに変わらないのです。その様な安心、安全をそれぞれの國分寺は、歴史的に託されてきたわけです。
形は心を映す
この国家鎮護という考え、つまり仏の力で国を護るという教えは、『金光(こんこう)明最勝王経(みょうさいしょうおうきょう)』という護国経典にあります。國分寺には、そのお経を祀る塔が造られました。國分寺の塔は七層、七重塔です。普通は五重塔ですね。三重塔もありますが、東大寺の七重の塔は創建当時、高さが六十八メートルあったそうです。鎌倉時代には九十七メートルの再建された塔があったとか?何れも落雷や戦禍で消失しましたが。(最近の研究は、『日経新聞』令和六年四月二十六日に詳しく紹介されてます)
今の人は、それは形にすぎないとか、それで心が救われるわけではないなどと批判するのですが、そうではなく、形は心を映す、というより心を具現化したものです。つまり現存する形(仏像などは)は、心の有り様を造形として表現したものです。ですから形としてあるものには、きちんとした意味があります。
そして、それを維持していくことが伝統となるのです。放置して、廃らせては、意味がないわけです。作ったら、みんなでそれを支えていく、護っていこうとする、これは一種の仏道の実践です。そうすると、そこに一つの共同体ができて、お互いの理解ができていきます。そして共通観念が生まれ、安心感が生まれ、相互に守られているという意識になります。そうして、お寺を中心とした一つの安定した社会ができることになります。
恐らくそういうことを聖武天皇はお考えになられたのだと思います。いずれにしても、徐々に全国各地域に六十八の國分寺がつくられていきます。
この國分寺の立地に関しては、余り町に近いと喧騒がありますから正しい信仰にならない。また、山の中にあると、人々が何かあった時に、お願いしたり、お詣りできないので、町に遠からず近からず、程よい地域で、なおかつ豊かで、環境の良いところが適しているとされました。
何度かこちらに寄せてもらっていますが、すごく良いところですね。こういうところに國分寺を建てて、封戸という五十戸の家の収穫が徴税としてお寺の維持費のために充てられました。そうして、このお寺をずっと守っていけば、この地域の人々は、豊かで幸福に暮らせるはずであると願われたのです。聖武天皇は自分のために、利己的に、東大寺や國分寺を作ったわけではないということです。
個と全体は一体である
明治以降の仏教研究者の多くが、國分寺などは国家仏教だと、支配者のための宗教だと言うのですが、それは近代ヨーロッパ的な、つまり近代キリスト教文明の考え方です。そうではなくて、仏教では、全ての存在が相互に結びついていると考えます。
ですから、仏教思想を基本とした聖武天皇は、民衆一人一人を救うために、天皇が身を粉にして懸命に働きました(事実、聖武天皇は大仏建立時に手ずから土を運んだとされます。これは象徴的な表現ですが、その精神は明確です)。そして民衆もそれに応じて相互に助けあい、社会や国を作り支え合うという相互連関の社会の実現を目指されたのです。
つまりすべての人間が、それぞれの役割を得て全体を支えるという考えです。勿論、それは個々人を顧みないということではありません。なぜなら全体も部分があってこその全体ですし、部分も全体の一部として生かされるわけです。どちらか一方ではない、ということです。
これは、お釈迦様以来の仏教の根本の教えです。お釈迦様も最初は自分のための修行を行ったのですが、悟りと言われる境地を得た後は、その様な独善的な考えを捨てます。勿論、一人一人の幸福を考えることは大事なのですが、それだけでは真の幸福は得られません。というのも個人は全体と連なって個人であり、決して個々別々にあるのではないからです。そこで、他者の存在も自分と同じように考えよと教えます。これが仏教の基本となる考え方で、いわば悟りの根本といえます。一見簡単に聞こえますが、これが実践となると難しいのです。
為政者とは全体に奉仕する存在である
この教えを、とかく独善的となり、人の命を何とも思わないような専制君主、暴君になりがちな支配者の多い中で、自ら実践されたのがアショーカ王です。インドで紀元前三世紀、紀元前二百七十年頃から二百三十年頃活躍された王様ですが、このアショーカ王が聖武天皇のモデルだったのではないかと思います。
アショーカ王は、仏教の非殺生の教えにより軍隊を廃止して、失業した兵士たちに、道を作らせています。東海道五十三次のように、四キロを一里として、街道にマンゴーの木を植えて、マンゴーが実るとそれを売って、街道の維持のために使わせたのです。武器などはそれを鍬にして、農民のために使わせています。また病院を作ったりもしました。この様に民を富ませ、安楽にして、最後に自分が喜ぶという政策をとられたのです。
彼は大きな宮殿でふんぞり返っていたわけではなく、今のインド、パキスタン、バングラディシュにわたる、広大なインド亜大陸をほぼ統一し、各地を視察し、また役人を派遣して仏教的な統治、つまり平和の実現を通じて民衆の幸福を実現するという理想的政治の実践に努めました。その理想で、広大なインドを一つにし、争いのない国作りを実現しました。
この偉業は、それから千八百年後に、イスラム教のムガール帝国が成し遂げるまで、誰も成し遂げることの出来なかったことです。ただしムガール王朝は武力による征服と統治でした。ともあれ、アショーカ王という王様は、インドという国を最初に統一した大王ですが、武力に頼らず、大王でありながら最後に喜ぶというような政策を実行した王です。その証しともいえますが、彼は帝王とか皇帝という称号は用いず、「民衆に奉仕するもの」・「慈愛溢れるもの」という称号を用いました。
これがどれほど凄いことかということは、ほぼ同じ時代に、中国の秦の始皇帝と比較するとわかります。始皇帝は、自分の権勢のために墓作りに四百五十万人もの自国の民衆を殺害したり、宮殿を建てるために三十万人の人を動員使役しています。工事の人員が足りないと、厳しいルールを作り違反させて、その罰として宮殿作りに徴用する。そこに誰が住むのかというと始皇帝と愛妾三千人と言われています。インドと中国は同じ大国ですが、正反対なのです。
仏教による国造り
聖武天皇の前に聖徳太子があり、仏教に深く帰依されています。ところが、聖徳太子は、今の教科書に書かれなくなってしまいました。日本史の関係者は不思議なことをされます。とにかく聖徳太子にあたる人が仏教による国造りをしていかれたのです。中国では、仏教が伝来された時にすでに、儒教による文明がありました。そのため、あまり影響を受けていません。ですが、日本はそんなに高い文明はなかったので、仏教が伝えられた時、日本独自の文化、さらには文明を作るために仏教を採用したわけです。仏教は、やはり当時の日本人に合った教えだったのでしょう。
というのも、日本は古来中国の影響をすごく受けましたが、日本の天皇で秦の始皇帝のような専制的な暴君はおられません。あえて言えば申し上げ難いですが後醍醐天皇があげられます。後醍醐天皇は自分のために日本があるというような天皇でした。後醍醐天皇は一応仏教徒と言われていますが、発想は中国的、特に朱子学でした。
朱子学では、分かりやすくいうと、国とは為政者の所有物のようなもので、民は為政者に一方的に服従し、奉仕する存在にすぎません。つまり、道具なわけです。そこには権力の中心に向かう下からのべクトル、支配と服従という方向しかありません。ですから権力者は、自分の欲望のためにその道具を存分に利用できると考えるのです。しかもどんなに苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)(税金その他を厳しく取り立てること)しても余り痛痒を感じない。仏教的な政治論に従う聖武天皇のように、民を自分の体の一部と考えないからです。勿論、道具としては大切にすることはありますが。
いずれにしても、後醍醐天皇には、聖武天皇のように、平和志向、民衆へ回帰、つまり慈悲心というベクトルは余り感じません。両天皇は、同じように、日本は私のものだと考えても、後醍醐天皇は、民の傷み苦しみも私のものだという考えは余りなかった様です。
聖武天皇は、仏教への帰依と実践、つまり仏道を政治の世界で実践されたわけです。この伝統が、日本の天皇の伝統として主流でした。勿論、朱子学でも、素晴らしい為政者として立派な統治者は居りましたが、やはり民衆の痛みを我が事として感じ、それを政治の基本、特に平和主義に徹した方はまれでしょう。
いずれにしても、日本の天皇で自分の欲のために国を動かして、自分のものにするという方は、ほとんどいません。民の苦しみを自分の苦しみとする、という考えが徹底してきたからです。これは縁起の思想とも言えますが、みんなつながっているという考え方です。
民の苦しみは私の苦しみであり、天皇が病むと民も苦しんで、国土が苦しむとでも言うのでしょうか、天変地異になったりしたら、みんなが苦しむ。そして、みんなでこれを乗り越えようということになって、その時に、その先頭になるのが聖武天皇その人でした。その遺志を東大寺はじめ全国の國分寺は継いでいるわけです。残念ながら、現存する國分寺は少数ですが、その中でこの備後國分寺は、聖武天皇以来の伝統を継いで来られたという意味で大変貴いお寺です。
聖武天皇の心を繋ぐ國分寺
それを守る意義
既に検討したように、聖武天皇は、民の苦しみは私の苦しみであり、私の不徳により民が苦しんでいるとお考えのうえに、國分寺を建立されました。つまり日本の安定には、そして民の幸福を作り出すためには、私がしっかりしなくてはいけない、それには仏の力が必要であり、そこでお寺を作ろうということになります。迷惑だという人もあるかもしれませんが、そうしてみんなが集い、心を一つにする場があり、それを中心に毎日、毎月、毎年続けていると安心できる社会が出来てまいります。
例えば、今日稚児行列もありました。今回は参加が半分と聞きましたが、それでも小さなお子さんが、きれいな格好をして、今は何をしているかわからないかもしれませんが、十年後二十年後に、私が稚児行列をしたお寺だから、自分の子供も参加させようということになります。それこそ文化の継承といえます。そして、そこに國分寺があるというのは、この地域の人にとって非常にすばらしい伝統といえます。
つまり、「國分寺建立の詔」があった七四一年を創建とすれば、今年で千二百八十三年となります。この間いろいろなことがあって、國分寺も盛衰があり、消滅の危機もあったわけです。ですが、この地域の人たちが、支えたのです。お殿様がお堂は造ってくれたかもしれませんが、日常の草むしりとか、建物が壊れたから直そうとまではしてくれません。皆さんのご先祖が、お寺を護ってこられたのです。
それらの行為は、表面的には、お寺のためにすることですが、それはお寺だけのためではなく自分たちのためです。さらには日本国全体のためであり、そういう仏教的な縁起の世界観の中での奉仕であり、仏法の実践といえます。つまり、このお寺を先祖が守ってきたように自分たちも守る。そして、自分も先祖と同じように、子孫に伝えてゆくという魂のリレーです。実はこれが仏道の実践、つまり修行にあたるのです。そういう伝統が、今日まで千二百八十三年続いたということは、すごいことです。
今國分寺として残っているのは四十ヶ寺ほどと聞いています。國分寺跡として遺跡だけになっているところが沢山あります。行ってもなにもありません。礎石が痕跡としてあるだけです。私の故郷にも國分寺があったんですが、今は、碑が立っているだけです。ですから、伝統を守りたくても、受け継ぎたくてもその中心がないわけです。
そうした中、こちらはこうして、立派なお堂があって、仏像が安置されていて、しかも皆さんがこのように参集されて、協力されている。お稚児さんもそうですし、まさに世代を超えて、そんな格好いいものではないよと言うかもしれないですが、こういうことが延々と運営されている。これは貴い文化の力です。
古き伝統の意味を自覚する
こうしたことをもっともっと今の日本がやるようにすれば、今日の日本の衰退といいますか、「失われた三十年」と言われるような事態はなかったのではないでしょうか。千二百八十余年の歴史は、失われた三十年どころではありません。その間にいろいろなことがあったはずです。そういうところから私たち日本人は学ぶ必要があります。短いスパンでものごとを考えずに、もっと先祖から自分も含めて子孫のことも考える。
みなさんは、その点で、千二百年以上という長い歴史から今を捉えていくことが具体的に出来る、大変恵まれた環境の下に居られます。その文化的な財産を子孫に継承していくということはとても大切なことです。そして、それは皆さんにとっての仏道修行であり、心に安心の徳を積むということになります。
何れにしても、この國分寺の維持ということをもっと自覚して行うことが大切であろうと思います。皆さんは、これまでやってこられたことの意味に、あまり気がついていないのです。AI時代といわれ新しいものがどんどん取り入れられていますが、日本に足りないものは、古くて、続いていてきたものの価値や意義を自覚することだと思います。新しいことは、直ぐに廃れますから。しかし、千二百年以上もこうやって國分寺というお寺が続いてきている、その伝統を守り継いできたということに、すごく意味あることをしているのだと自覚することが必要です。そこには、ただ奉仕するだけじゃなくて、喜びや楽しみ、やりがいがあります。
今日のこうした御開帳のための準備やら、時間もお金も気遣いも何も大変だったと思いますが、終わった後の達成感と言いますか、それが次の世代に、受け継がれていきます。こういう行事、これは文化の維持のためにとても大切であり、私たち日本人は営々とこれを繰り返してきたのです。だからこの地域では國分寺が残っています。そういう意味で、このコミュニティを含めて、正にパワースポットであると言えます。
もっと盛大に発信していって欲しいと思います。今日本人に一番足りないのは、発信力ではないでしょうか。今日はいろいろメディアの方が居られるようです。メディアの人たちも、よく勉強されて、どういう風に伝えたらいいか、お考えください。そして、今日は國分寺さんで三十年ぶりの御開帳がありましたではなくて、これはいったいどういう意味なんだ。千二百八十三年続いた意味は何なんだ、そしてこの文化をどう未来につなげていくか。この地域だけのものではなく、これは日本全体の問題です。これは私たちが未来の子供たちのために考えなくてはらない課題とも言えます。
お祭りは面白いだけではなく、時間がかかり大変ですが、そこに喜びがあります。これを守り継いできた先祖と、これから守っていってくれるであろうお子さんやお孫さんと心が繋がるのです。それが何よりの仏道修行です。だから次につながるのです。これからも皆さんで備後國分寺を盛り上げてください。それはこの地域の伝統であり、使命でもありますから、次の世代へのつなぎ役だと思って、続けていって欲しいと思います。そして何よりそれが仏道の修行、仏の悟りへの道に繋がるものであり、幸福の道でもあります。 ですから三十年と言わず、五年とか十年とか、この様な法要をやっていくと地域の活性化にもなります。そのうちそこに、お寺の前にお店ができるかもしれません。是非、この國分寺を次の世代につなげていく、その役割を皆さんが自信をもって今後も担っていただきたいと思います。
ご静聴ありがとうございました。
【國分寺通信】 暑中お見舞い申し上げます
〇五月七・八日、高野山と京都三か寺の参拝旅行に神辺霊場会七カ寺の檀信徒の皆様とともにお参りしました。まずは高野山に向かい、奥の院参拝と納骨塔の納骨供養会を行いました。そして、すぐに下山して、その日は大阪の心斎橋のホテルに宿泊。翌八日は、四天王寺に参詣してから一路京都大覚寺へ。到着してすぐに寺方は鞆・地蔵院住職から門跡となられた山川龍舟門跡猊下に宮御殿までご挨拶に参上し、その後、檀信徒とともに心経前殿にて写経奉納式に臨みました。それから自由参拝し、大覚寺を後にして、昼食を済ませ東寺に参詣。五重塔の特別内拝期間にあたり、はじめて第一層に祀られている五智如来を参拝させていただきました。高野山に京都のお参りも堪能し、皆さん大満足で家路につきました。
〇五月十四日は結衆御寺院様方を國分寺に迎え、今年の涅槃会当番の寺院として、仏生会(ぶっしょうえ)を午後三時から厳修しました。仏生会は、お釈迦様のご誕生を祝う法会で、須弥壇上に特設した花御堂(はなみどう)に祀る誕生仏に甘茶をかけて祝う行事です。
〇同様に六月十二日、弘法大師誕生会を厳修。やはり花御堂に稚児大師像を祀り、甘茶をかけお祝いしました。
〇今年涅槃会にて、御詠歌衆の皆様が人数少ないながらも修行和讃を唱え、懸命に稚児行列を先導して下さいました。近年特に御詠歌に参加される方が減少しています。六年先にはすぐに涅槃会が回ってきます。御詠歌にご参加いただける方を募集いたしております。大きな声を出し、鈴鉦(れいしょう)を打ち鳴らし手指も使うので健康にもよく元気になります。皆さんお忙しいとは存じますが、是非ご参加ください。
◎ 薬師護摩供 毎月二十一日午前八時~九時
◎ 坐禅会 毎月第一土曜日午後三時~五時
◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時(8月はお休み)
◎ 仏教懇話会 毎月第二金曜日午後三時~四時(8月はお休み)
◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時(8月はお休み)
●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)
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