住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

過去の記憶を塗り替える

2024年11月21日 19時56分40秒 | 仏教に関する様々なお話




11月21日護摩供後の法話「過去の記憶を塗り替える」

今年は3月に御開帳があり、以来いろいろとお役が当たる巡り合わせで、やっと、それらが終わりホッとしているところではあるが、そんな最後のお役の準備をしている最中に、一本の電話が入った。切羽詰まったように、お助けを願いたいとのことで、兎にも角にも来山したいとのことであった。

その日の午後急遽お越しになられることとなったが、何かお話をお伺いすれば良いのだろうと気軽に考えていたところ、スロープがある本堂へお越しになり、足も不自由なので、こちらでお願いしたいとのこと。本堂にあがられて、お話を伺うと、50年も前に誤りの末に水子ができ、それも色々と事情があって、十分な供養もできていなかったので、以来気にはなっていたけれども、そのまま今日迄来てしまったという。

だが、この4、5年、事故続きで、足は骨折するは、肩を怪我するは、この度は手首を捻挫して不自由で物も持てなくなって困っている。人に言われたわけでもないが、その50年前の水子がたたっているのかもしれないので供養にお経を上げて欲しいという。先代の時に一度来たことがあるという縁でお越しになられたとのことであった。

突然のことで、水子の供養は特別していないが、50年も前の水子が今障りをするとは考えにくいとも申し上げたが、どうしてもお救い願いたい、お経を上げて欲しいと言われるので、先代がよく水子の供養でお参りしていた境内の地蔵尊の前で、簡単な荘厳をして、着の身着のまま、お経を唱えさせていただいた。

お経を唱えている間、不自由な手を合わせ一心に何か念じておられるようにも感じ、こちらも声に力が入り、ご供養が叶うようにとお唱えした。唱え終わると、気持ちが晴れたのか、そのままお帰りになられた。悪いように考えずに、供養が済んだと思って、考えれば考えるほどつらくなりますから、考えないことですよと申し上げお見送りした。

その方がお帰りになられてから、思うに、50年も前の記憶がまるで昨日のことのように思い出され、そのことにとても不本意な思いや、つらかったこと、嫌な思いが甦られたのだということと、お経を聞くと安心され気持ちが済んだのは良いけれども、やはりもう少しその後、過去の記憶に対するケアが必要だったのではと二つのことが頭に去来した。

日本人は仏教というと、唱えること、お経や真言や念仏、題目などを唱えることと思っているかもしれないけれども、その上にやはり、心の癒やしを十全にするには、そのつらい記憶についての自分の思いや感情、判断、受け取り方を改めることで、その記憶を甦らせることで味わう二次的三次的な心の負荷、負担を解消することが必要ではないかと思えた。

昔の、子供の頃の嫌な記憶、つらい思い出をいつまでも引きずっている人も多いのではないか。何度も何度も、ことある毎に思い出され、いつも嫌な思いを甦らせてしまうという方も多いのではないか。

だが、その記憶を、大人になって様々な経験したきた今の自分なら、その過去の記憶にある出来事の当事者やこの時の情況、自分のことを、背後からや様々な方向から見て別の解釈を付けることも可能なのではないだろうか。

一人苦しんできた、その記憶の受け取り方は違っていたのかもしれない。他の人たちの立場や人間関係からの位置、それぞれの情況や思いを想像したとき、ただつらく苦しかった記憶が違って見えてくるということもあるのではないか。何事も自分一人が悪かったということはありえないのであって、その時の様々な因縁のもとに引き起こされたことにすぎないのだから。

過去の記憶の情況を立体的に双方の関係や思い、それぞれの思いや感情を想像して捉えたとき、過去の時点でその記憶に付着させてきた思いや感情とは違うものになって捉えることが可能になる。そうしてはじめて、私たちは過去何度も思い出す度に苦しんできた思いから解放されるのではないだろうか。

高野山で100日の修行中に、何度も、すっかり忘れていた過去の記憶が甦ってきたことがある。修行中ということもあったのかもしれないが、それらの記憶はそれまでだったらとても嫌な思いをもって思い出されていたことであっても、何か平然とやり過ごすことができた。過去の記憶をそうやって塗り替えていくことで、何を思いだしても、何も心に影響されずに、心晴れやかに過ごせる自分になれるのではないかと思う。


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法話「仏さまとの出会い方」

2024年10月13日 19時37分32秒 | 仏教に関する様々なお話
令和6年10月13日 ふくやま美術館 法話「仏さまとの出会い方」




國分寺の横山でございます。さて、今日は三十三年ぶりの明王院様の本尊御開帳にあわせて開催されました特別展「ふくやまの仏さま」に際しましての記念法話ということです。この特別展のために長期に亘り準備を重ねてこられた関係各位に敬意を表し御慰労申し上げたいと思います。

ところで、この三月に、私ども國分寺でも三十年ぶりに本尊様のご開帳をいたしております。福山コンベンションセンターの皆様のおかげで、新聞ラジオなど多くのメディアにて告知いただき、遠方からも沢山の皆様がお参りにお越し下さいました。遠くは名古屋、大阪、呉、広島などからもお越し下さり、改めて仏さまの人を引きつける力を再認識させられました。

そして、今日は、「仏さまとの出会い方」というお題を頂いております。結論を先に申し上げますと、特別な出会い方があるわけでもなく、皆様がそれぞれの思いで出会っていただければよいのではないかと思っております。ですが、今申したように、仏さまという存在には人々の心を引きつける力があります。それはどういうものなのかとたずねてまいりますと、出会い方ということも見えてくるのではないかと思います。

そこで、お尋ねいたしたいと思うのですが、皆様は、これまで、仏さまとどのような出会いをされてこられたでしょうか。子供の頃、お祖母さんのあとをついて仏壇の前に座り、何かよくわからなかったけれども仏さまと出会っていたという方もあるかもしれません。

実は、私の生まれた家には仏壇もなく、仏教などとは縁もゆかりもなく、勿論親戚にお寺さんがあるということもありませんでした。ですが、まったく仏教と縁の無かった私が、僧侶となり、その後沢山の仏さまと出会うことで、今こうして國分寺に住まわせていただいております。

そこで、まずは、私にとりましての仏さまとの出会いについて語らせていただき、それから仏さまについて、なぜ人々の心を引きつけるのかと考察を進めて参りたいと思います。

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私は東京の生まれでして、小さな家でしたので仏壇もなかったのです。ですが、小さな頃、浅草の浅草寺の境内を通って、父親の会社に連れられ行くときに、十八間四面の本堂前の大きな香炉の煙を身体に、行くたびに掛けられていたことを思い出します。

それから、やはり子供の頃、父方の祖母が、私の顔を見ると、おまえはお祖父さんの生まれ変わりだね、といつも言っておりました。何度も何度も言われたせいで、自然と人は生まれ変わるのだと頭に刷り込まれていたようです。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界をグルグル生まれ変わるという輪廻転生という生命観を前提とする、仏教の第一関門がこのお祖母さんのお蔭ですんなりとクリアされていました。

また母親からは、小学生の頃ですが、周りの子たちに良くしてあげなさい、そうすれば回りまわって他の子からよくしてもらえるとか、汚い言葉を使ってはいけない、人を悪く言ってはいけないなどとよく言われました。それは、今思えば、仏教の縁起、因果応報という教えに繋がるものだったのかもしれません。

そして、中学の三年間、毎年のように、お祖母さん伯父さん同級生が亡くなるということがあり、それぞれお葬式に参加し、正確には高校一年の時にも中学の先生が亡くなり、やはり葬式に参列しております。

皆様も、大体10代20代で祖父母との別れを経験しているのではないかと思います。亡き人の菩提を願うとき、故人のことではなく、仏さまとの出会いもあるわけですが、その仏さまがその後の人生に、どのように関わってくるかということが大事なことではないかと思います。

私には、その後大学に入ってから、一冊の仏教書との出会いがありました。お釈迦様の仏教を専門とする増谷文雄先生と哲学者の梅原猛さんとの共著ですが、①『仏教の思想1-知恵と慈悲・ブッダ』角川書店という本です。

この本との出会いが運命的に私の人生を変えていくことになります。この本で学んだことは、お釈迦様は神でもスーパーマンでもなく、人としての最高の人格を得られた方であり、私たちの理想であり、目標であるということでした。そして、その内容は、明治時代にヨーロッパ経由の近代仏教学が伝来し、お釈迦様の実像を、漢訳ではないインドの原典から研究することによって明らかにしたものでした。このお釈迦様の原典による教えを初めから学ぶことが出来たことは私の仏教観に大きく影響を与えるものであったと思っています。

それ以来、毎日仏教書を読む日が続き、それから今日に至るまで、仏さまの教えを学ぶということが私の人生の中心を占めることになります。それは、教えの上から仏さまと出会うということだったのだと思います。

大学を卒業する頃には出家をしたかったのです。ですが、やっと二十六歳になり縁あって高野山で出家得度を受け、翌年高野山専修学院に入りました。一年間七十人程の得度したばかりの修行僧たちと寮生活をし、お経を習い百日間の修行をして、寺院に住職する資格の得られる学校でした。

宝寿院というお寺の中の学校でしたが、その本堂の②本尊様大日如来には、毎朝のお勤めでお経を唱えていました。が特に、二学期に百日の修行の最後七日間断食することにしたとき、七十人のうち三四名ですが、加行監督に何があっても自己責任とするという誓約書を書き、その後、私は一人本堂に入り、この本尊様に修行の無事成満を一心に祈願しました。

高野山の学院を卒業後、東京のお寺に役僧として勤め、その間に資金を作り、仏教はインドに行かねば解らないというような切迫した気持ちから、初めてインドに行きました。それが二十九歳の時です。この時は、コルカタ、ブッダガヤ、リシケシ、ダラムサーラ、デリーと旅をしました。

インドでは沢山の神様の御像を見て参りました。これは③ネパールのルンビニの摩耶夫人堂というお寺に祀られているご像ですが、ルンビニは誕生所ですから、お母さんと生まれたばかりのお釈迦様です。みんなこのような雑な作りの物が多いのですが、現地インドの人たちはそんな御像にも敬虔に手を合わせ御供えをしていきます。それはお姿がどうこうではなく、まずは来世のために徳を積むために神仏に対する思いや行為こそ尊いものなのだと信じているからだと思います。

それから、最初にインドに行った次の年から二年続けて四国の歩き遍路を三十日四十日を掛けて二度1400キロを歩きました。この間沢山の仏さまに出会いましたが、それらの中で一番印象が残るのは、④十二番焼山寺に向かう山道の中で出会った弘法大師の修行行脚姿の大師像です。もやのかかった山道を登り、急な石段を上がっていくと前に大きなお大師様が居られ、思わず手を合わせていました。

その後、またインドに行くチャンスがあり、二度目にインドに参りましたとき、インドのベンガル仏教会というコルカタに本部のある仏教教団に御縁が出来まして、そこで再出家してインド僧になりました。これは⑤ウパサンパダーという南方仏教の得度式の後の記念写真です。コルカタの街中を流れるフーグリー河上の船の中に結界を作り、十五六人のインド僧が参加する受具足戒式でした。(着ている袈裟はタイ製、横275㎝縦190㎝)

ベンガル仏教会について少し解説しますと、インドの仏教は十三世紀初頭に衰滅したとされています。その遙か前に八世紀頃からイスラム勢力がインドに侵入を繰り返すようになり、それを嫌った中インドのマガダ国の末裔とする仏教徒たちが東に避難を始めたとされ、たどり着いた先が今のバングラデシュのチッタゴンでした。隣国との様々な抗争に巻き込まれながら仏教徒として生きて、ムガール帝国の時代にはインド東部にまでその勢力が迫り、お寺はモスクにされお経も唱えられない時代が続き、仏教の伝統が失われた時期もありました。

その後十八世紀にベンガル地方は英国植民地となり、その軍隊に志願することで仏教徒は地位を回復し、十九世紀半ばビルマのサーラメーダ長老により受具足戒式が行われ仏教の伝統を復興しチッタゴンやダッカに仏教会を造り、カルカッタに移住していた仏教徒のためにクリパシャラン長老によりベンガル仏教会が創立されました。丁度その時代に、セイロン仏教徒であるダルマパーラがインドの仏跡地の復興に活躍するのもこの時代のことでした。

それから、インド僧として、バラナシの北10キロほどのサールナートという、お釈迦様が最初に説法を成功された、初転法輪の聖地の近郊にあるお寺、法輪精舎に一年あまり滞在しました。そこには⑥ダメークストゥーパという大きな仏塔や僧院跡のある遺跡公園があり、塔は高さ43メートル周囲は百メートルほどはあるでしょうか。

その法輪精舎から遺跡公園までの三キロほどの道は、⑦田園風景の中に道の両脇に大きな街路樹が植えられ、牛が行き交い横になり、そこに人々が生活していて、まさにお釈迦様が歩かれているお姿を彷彿とするような道でした。お釈迦様がその先を歩いていると、その姿を思い描きながらいつも歩いていました。

サールナートの考古学博物館には⑧サールナートブッダと言われる説法の印を結ぶお釈迦様の御像が安置されていて、とても有名なものです。五世紀頃の作品で、高さが155㎝巾が87㎝です。インドのものとしては珍しくすばらしい造形の仏様です。レプリカが、明治時代にダルマパーラにより造られる新しいお寺に祀られ、その堂内の壁画は野生司香雪画伯が釈迦の一生を描いたものとして知られています。

そして、これは⑨釈迦四相図です。誕生と成道と初転法輪と涅槃の姿を表しています。これは正にお釈迦様の一生を塔に見立てたものです。

それから、インドの師匠が居られ、私も併せて一年程度暮らしていたベンガル仏教会のコルカタ本部の仏様についてご覧頂きますと、この⑩大きな真鍮のお釈迦様は一階の礼拝所の仏様です。これはミャンマーの仏像で、教団の歴史を感じさせる仏像です。毎朝のお勤めのときに拝んでいました。こちらは⑪二階の本堂の本尊様です。どちらの仏像も、右手が膝を覆い指先が地に触れ、修行の真実なることを大地に証明してもらったことを示した触地印のお釈迦様・成道仏です。そしてこちらは⑫創立者クリパシャラン大長老の石像です。

インドではこのような仏様方を礼拝し暮らしていました。この間、日本に帰りますと、スリランカの長老に御縁があり、親しく仏教の基本や今ではマインドフルネスと言われる瞑想について、トータルにしますとかなりの時間になりますが、学ばせていただきました。そうしてこの袈裟をまとって、インド僧として都合三年半ほど、インドと日本を往来していたのですが、コルカタでマラリアに二年続けて感染してしまい、健康の不安もあり、日本の僧に復帰することにして帰国しました。

それから、東京深川の七福神の札所でもあった冬木弁天堂の堂守を三年ほどしています。出世弁天とでもいうのでしょうか、戦前は日本三弁天の一つ江ノ島の弁天様と同体の弁天像が祀られていたという御堂で拝んでおりましたら、こちらの國分寺に御縁をいただき、福山に参りました。國分寺では⑬御本尊・藥師如来に毎朝仏飯御茶湯お経を御供えしています。

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ご覧頂いた仏さまについて、少し整理してみますと、まず、形のある仏さまと教えなど形のない仏さまがあり、形のある仏さまでも、ご像としてあるものと心の中でイメージする仏さまもあるということです。

ご像としてご覧いただいたのは、大日如来様、弘法大師像、インドの様々なお釈迦様のご像、藥師如来様と見ていただきましたが、他にも、たとえば観音様、お地蔵様、阿弥陀様と、沢山の仏さまがおられるわけですが、そのすべての始まりはと考えますと、お釈迦様ということになります。お釈迦様の悟りがなければ仏教もなかったわけです。そこで、なぜ仏さまは人の心を引きつけるのかと考察するにあたり、まず、すべての仏さまの大本であるお釈迦様とは、そもそもどのようなお方であったのかと、歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。

主に、ご誕生とお悟りになる晩の思索、それに説法されるいきさつの三つについて見てまいります。

お釈迦様は、二千六百年ほど前の人です。日本の歴史では縄文時代の最晩期となります。西暦では紀元前六世紀半ばに、現在のネパール領ルンビニで釈迦族の王子として、お釈迦様はご誕生になります。過去世で何回も生まれ変わる中で徳を積み、前世で十波羅蜜(布施持戒出離智慧精進忍辱真諦決意慈心捨)という修行を完璧に成し遂げられ、その功徳により、悟りを開くためにインドの地にお生まれになられたと考えられています。

生まれたとき、すぐに立ち上がり七歩歩いて天上天下唯我独尊、我は世界の最年長者であり、これは最後の生まれである、と言われたとされています。七歩というのは六道の輪廻の世界から一歩踏み出すと言うことです。生まれたばかりなのに最年長者であるというのは、未だ悟った人のいない時代に、最初に輪廻からの解脱を果たすので自分は生まれ変わることがないけれども、他の人は皆生まれ変わるのであるから、誰よりも年長なのであるという意味の言葉として伝えられています。

お釈迦様は、王子として跡取りが生まれるのを確認して、二十九歳でお城を出て出家しています。ルンビニ近くのカピラ城からガンジス河中流域のマガダ国の都ラージャガハへ出て、二人の仙人について瞑想を習い、その後、呼吸を止めたり断食したりと六年間の苦行の後、尼連禅河で沐浴し、スジャータ村の娘から乳粥を供養され体力を回復されます。そして、現在のビハール州ブッダガヤで禅定に入り、お釈迦様は最高の悟りを得られ、成道を成し遂げられたとされています。三十五歳でした。

この、お悟りになる晩どういう思索をなされたのか、これはとても大事なことであると思えますが、なぜか日本ではあまり取り上げられることがありません。まず深い禅定に入り、最初に思念されたのは、自らの過去世でした。何万回ともいわれる過去世での名前家族食べ物善かったこと苦しかったことを回想していかれたのだそうです。つぎに、他の人々がどのように死に代わり生まれ代わるのかとその様子を見て、それは業によって、つまりその人の行いによって、しかるべき生まれとなることを見ていかれました。そして最後に、苦について煩悩について思索し、煩悩がどのように生まれ、どうしたら消えていくのか、その全容を解明されると、智慧を生じ、煩悩がなくなり、解脱を果たされたということです。

この誕生と悟りに至る伝承は、私たちに何を教えてくれているのかというと、誰もが過去の行いにより、今ある自分に生まれるべくして生まれ、あるべくして今があり、未来を導くものとして今をいかに生きるべきかということが大切であるということだと思います。そして、この三世にわたる善悪の因果応報なる理を知り、善い行いを重ねて生きよと教えられていると受け取ることが出来るのではないかと思います。

ここまで、輪廻とか過去世という言葉を用いてまいりましたが、違和感をお持ちの方もおられたかもしれません。今日日本仏教ではこのことに触れないという申し合わせがあるようです。ですが、ここに持ってまいりましたオックスフォード大学出版の『Buddhism a very short introduction』第3章Karma and Rebirthの冒頭には、今申し上げた、お悟りの晩にお釈迦様が何回もの過去世を回想されて悟られた事蹟を紹介されています。また、ブライアン・H・ワイスさんというアメリカの医師は、退行催眠によって患者の過去世を回想させることで様々なストレス障害を治癒させている事例を『前世療法』という本で紹介されていますし、日本でも産婦人科医の池川明さんは、『前世を記憶する日本の子供たち』という本を出されています。是非参考にしていただければと思います。

そして、お釈迦様は悟られた後、この深遠な真理は普通の生活を送る人々には悟ることが難しいと考えられ、説法することを躊躇されています。ですが、そこに、インドの最高神梵天が現れて、法を説かなければ、この世は闇に覆われてしまいます、貴方の教えを聞けば教えを理解し悟れる人も居りますからと説法を乞われます。三度逡巡された後、天眼通で世の中を見回すと、欲深い人ばかりではなく、皆様のように仏さまの話を聞いてみようという人が沢山居られることを知り、世の中の人々の幸せのために法を説くことを決意されるわけです。

ここでは、他者の申し出を受け入れ共存するという平和な関係を保ちつつ、その法は、この世界の人々に光をもたらし、誰もが明るく幸せになれる方法を教えて下さっているものだということが解ります。そしてこのことに表れているように、仏教の教えは寛容で、差別なく、誰をも受け入れ、包容力ある教えであり、すべての生命の幸せを願う教えとなるわけです。

その後、先ほど申し上げたサールナートで、最初の説法をなされて仏教の教えが始まります。そして、四十五年間お釈迦様は弟子や出家者、一般の在家信者にも法を説かれたと言われます。そして、沙羅双樹に囲まれたクシナガラの森の中で八十年の生涯を閉じられています。最後の言葉は「すべてのことは過ぎ去っていく、疾くつとめよ」と、この世の無常なるがゆえに修行にしっかり励みなさいと言い残されています。

ところで、お釈迦様の生きている時代は勿論ですが、歿後三百年ほどは仏像はありませんでした。釈迦の一生を仏塔の欄干などに掘る様なときには、菩提樹や法輪を描き、お釈迦様を表現していました。有り難すぎてお姿はとても作ることが出来なかったのです。

その後、西暦紀元前二世紀頃より、西域からペルシャ人、ギリシャ人、クシャーン族、フン族など異民族がインド北西部に侵入し、ガンダーラ地方などに新しい国を作ります。その影響で、多民族を統治するイデオロギーとして、「空」というスローガンのもと、自らを絶対視せず、互いに他者を尊重する、差別のない普遍的な思想として大乗仏教が展開し、大量の経典を作り、沢山の仏さまを誕生させていきます。

実際に実在する仏さまはお釈迦様だけですから、お釈迦様の悟りの智慧を分け与えられて、様々な物語が創作され、沢山の仏さまが作られていきます。そして、西域の文化の影響により仏像も制作されるということになります。

その膨大なお経と仏像が、中央アジアを経由してシルクロードを通って中国、朝鮮、そして日本にやってきます。西暦538年、欽明天皇の時代に、百済の聖明王が仏教を伝えたとされ、仏教公伝と言われます。初めは朝鮮、中国の仏師の指導により造られた仏像も、次第に日本独自の技が究められて、今日に至っています。

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では、その形ある仏さま、つまり仏像とは何かということについて考えてみたいと思います。

実はインド僧の時に、私のインドの師で、教団の総長をされていたダルマパル大長老に、どうして仏像があるのかと尋ねたことがあります。一言、仏像があったからこそ仏教が世界に広まったのだよと言われました。仏像のお蔭で信仰の対象があるという事は多くの人が信仰に入りやすいということだと思います。

ですが、仏像は、単なる信仰の対象ではないと私は思っています。たとえば、多くの人々の信仰をあつめる観音様は、衆生の悩み苦しみの心の声を聞き、その人の居る場所に現れてお救い下さるという慈悲の仏さまですから、そのご像は、とてもやさしげで清らかな存在として多くの人があこがれを持つわけです。

ですが、正式なお名前を観世音菩薩というように、大乗の菩薩として、自ら悟りに至る前に、人々に慈悲をもって仏の道に導き、彼岸に渡ってもらうという役割があります。これを「自れ未だ度ることを得ざるに先づ他を度す」と言います。

彼岸とは悟りの世界の比喩的な表現であり、私たちの居る此岸から彼岸にある悟りの世界に誘い、最終的にはお釈迦様同様のお悟りを開いてもらいたいというのが、菩薩の願いです。ですが、それは、菩薩だけの話ではなく、如来も同様で、そのために法を説かれています。

このように、大乗仏教の教えにより、沢山おられる仏菩薩明王などの仏さま方は、それぞれに役割や持ち味に違いはありますが、根本の部分では、お釈迦様がお悟りになられた事蹟を踏襲され、信仰する人々に、どんなに時間がかかったとしても、お釈迦様のように最高に安らいだ心、悟りの心にいたってもらうのだという願いをもって派遣されている存在であると言えます。

そのため、仏教は信仰だけでは亡く実践を大切にするわけです。ですから、皆様の中には、仏さまを信仰されて、誰に言われるまでもなく、お寺などに行かれて、礼拝し、お経を習い、唱え、意味まで知ろうとする方が居られます。写経や坐禅といったものを熱心にされている方もあります。

が、それはどういうことかと言えば、ただ手を合わせ懺悔し願うというのではなく、実践ということを誰に言われずともなされているということです。それは、少しでも功徳を積み、自らもよくありますように、願いが叶いますようにというお気持ちもあるかもしれませんが、それは確実に仏さまの所に近づいていく功徳ある実践であり、仏さま方の願いに叶うものであると言えます。そうあってこそ、また、願いもお聞き届け下さるのではないかと思います。そして、その時、仏さまは、皆様にとっての導き手としてあり、生きる手本として存在しているのではないかと思うのです。

ですから、仏さまの座り方や身体の安定、表情や安らいだ顔を見たとき、心が改まり、手を合わせると同事に、ご自分もそのようにありたい、そういう心境になりたいという思いも生じているのではないでしょうか。そしてさらには、そのお姿や表情のように、自分も身を整えてみる、心静かに何も考えない時間を楽しんでみる、そうした修養のために手本となるのが形ある仏さま、仏像ではないかと思います。

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それでは、最後に、もう少し本質的な話になりますが、そもそも仏さまとは本来何かということについて考えてみたいと思います。

皆さん、「山川草木悉皆成仏」、または「草木国土悉皆成仏」とも言うようですが、このような言葉を聞いたことがありますか。山も川も草木も、つまり森羅万象みな悉く成仏している、みんな仏なんだという意味の言葉です。これは中国の仏教で言われるようになり、日本でもこの言葉を受け入れるようになったとされ、環境問題の会議で突然登場することもあるのだとか。

どうしてこんな事が言えるのか、私には長いこと理解できなかったのですが、あるとき閃きまして、仏とは法を説く者だとしたらどうかと思ったのです。自然界のものたち、たとえば、川のせせらぎや風の音、木の葉が落ちたり、海の波も、それらはすべて自然の摂理のそのままにあり、そうありながら、何事かを私たちに語りかけてくれています。自然界の法則、真理というものを見せてくれています。

それを見たり聞いたりした人はそこに自然の摂理や真理を見て何事かを悟ることができるのではないか。それは無常であったり、無我など、そのものの移り変わっていく姿を悟らせてくれるものだと言えます。そう考えますと、自然界のすべてのもの、森羅万象は真理を見せ語りかけ悟らしめてくれる存在であり、つまり仏であると言いうるのではないかと思ったのでした。

そして、真理のままにある自然が仏なのですから、本来、仏さまとは、真理である法を説くと同事に真理そのものを顕しているということになろうかと思います。

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以上、ここまで、なぜ仏さまは人々の心を引きつけるのかと考察を進めてまいりました。

すべての仏さまの大本であるお釈迦様の足跡をたどり、仏像とは何か、また仏さまとは本来何かとたずねてまいりました。仏さまとは、私たちがいかに生きるべきかを示して下さり、他者と共存する平和な教えを説く者であり、信仰し実践する人の手本でもあり、真理を顕していると見てまいりました。ですが、本当は、そういう有り難い存在であると、漠然とかもしれませんが、皆様、わかっているからこそ、そのお姿、表情に強く引きつけられるのではないでしょうか。

冒頭に申し上げたとおり、仏さまとこう出会わなければいけないなどということはありません。皆様がそれぞれに望まれるように出会われたらよいのだと思います。ですが、その出会い方によって、仏さまに何を求めておられるのか、皆様にとってどんな意味があるのか、価値があるのか、皆様の人生にとって仏さまはどういう意味あるものなのか、がわかるのだと思います。

繰り返しになりますが、仏さまは、この世の真理とともにあり、私たちを幸せな、平和な、安らかな世界に導いて下さる有り難い存在であるからこそ、そのお姿に底知れぬ魅力を感じさせてくれるのではないでしょうか。

仏さまを見上げるとき、またその横顔に、心安らぎ、幸せな気持ちになれる。その安らぎをどんなときにも感じていられるようにするにはどうしたらよいのか。いつも仏さまのような安らいだ顔で、落ち着いた心でいられたらどんなに良いことかと。

もしもそんな風に思い感じられるなら、既にすばらしい仏さまとの出会いを果たされているのではないかと思います。

仏さまはとても楽なお姿で安らいだお顔をされています。怖い顔をされている仏さまも居られますが心の中は慈しみに満ちておいでです。私たちもそうなれますように皆様を導いて下さる有り難い仏さまと、是非出会っていただきますことをお願い申し上げまして、本日の記念法話とさせていただきます。

ご静聴、誠にありがとう御座いました。


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いま、あらためて 仏教徒に求められること

2024年08月26日 14時21分19秒 | 時事問題
俄かに、終わったはずのコロナが日本においてのみ流行っているようだ。
なぜだろう。この10月から自己増幅型mRNAワクチンの定期接種が開始されるというタイミングで。
その危険性について、相互フォロワーのさくらもち様から提供いただいた
一般社団法人日本看護倫理学会による緊急声明を是非ご覧いただきたい。謎が解けよう。
https://www.jnea.net/news/cat-statement/post-655/

下記は3年前に執筆したものではありますが、真言宗情報誌新年号に掲載されたものです。


六大新報
令和四年新年特別号掲載(令和三年十一月執筆)



いま、あらためて
仏教徒に求められること


 
江戸から明治となって、今年で百五十四年。先の戦争からは七十七年目となり、大きな時代の転換点を迎えているように感じる。

一時代のあり方に対し、私たちはどのような態度でいるべきか。時代に翻弄されるしかないとはわかっていながらもすべきことは何か。損得や立場でしか判断できないが故に、主体性を失い、誰もが言いなりになってはいまいか。

二〇二一年八月二八日、二〇一六年まで五年間バチカンの米国教皇大使を務めたカルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、世界に向けたビデオメッセージで次のように語った。

「世界中のほぼすべての国の政府が行ってきた感染対策で、約束された成果をあげたものは存在しない。緊急事態、有事の名の下に、コロナとコロナワクチンは宗教となった。

二〇二〇年二月、世界的に妥当性を認められていた医学の原則は、即興医学に取って代わられた。医師倫理綱領の宣誓に対して忠実な医療関係者たちが異端とされる一方で、犯罪的な利益相反や製薬会社との癒着があるウイルス学者や科学者たちが不問に付されている。

マスメディア、ジャーナリストたちも同罪である。現在起きている出来事はごく一握りの人々が自分たちの目的と利益のために行っていることを理解する必要がある。…(抄録)」と。

二〇二一年七月から十一月にかけて、イタリヤやフランス、オーストリアなどヨーロッパでワクチンの義務化やワクチンパスポート導入に反対する市民による大規模な抗議活動が起きている。オーストラリアでは、平和的な抗議活動を警察が弾圧し、基本的人権や自由を侵害しているとして複数の国から非難されている。

アメリカでは、フロリダやテキサス、サウスダコタなど二十州が、ワクチンパスポート導入は個人の自由を奪うものとして、ワクチンパスポート導入禁止法案や行政命令により、企業、政府機関、学校などが個人にワクチン接種証明の提示を求めることを禁じた。…

世界中が二年にもわたるこうした混迷を深める時代に、私たち仏教徒はいかにあるべきなのか。ここでは原点に立ち返って、私たちにとっての仏陀であるお釈迦様の事績に則り考えてみたい。

①世間の通説にとらわれず自ら考える

お釈迦様は、御存じの通り、生後間もなくに母を亡くし継母に養育されたこともあってか、幼少の頃からよく沈思瞑想にふける方であったという。

世間の仕来りにとらわれず、人として最高に価値ある生き方とはいかなるものかと思索されたのではないか。そして、子息が生まれ跡取りができたことを確認すると城を出て出家なされた。

私たちも、様々な怖れ悩み苦しみ違和感を感じつつ生きている。そうした日々感じられる生きづらさ、悩み苦しみのもとを自ら問う、世間の通説にとらわれず考えることが大切であろう。

この二年、コロナコロナに明け暮れ、様々な疑問に出会う。そもそも症状のない気道感染症とはいかなるものか。検査に、なぜ発明者であるキャリー・マリス博士が「感染症の診断に使ってはならない」としたPCR法が使われるのか。PCR陽性者は感染者とされるのはどうしてか。

無症状感染者から感染する可能性があるとするのは本当か。ウイルス感染予防に効果がないとされるマスクが推奨されるのはなぜか。季節性のインフルエンザ程度の死者数にもかかわらずパンデミックといい、毎日都道府県別市町村別の感染者数、死者数を報道し続けるのはどうしてか。などいくつもの疑問に出会う。

そうした疑問を、新聞テレビの報道を鵜呑みにすることなく、それらひとつ一つについて自ら考える、情報を収集し、思索するということが何よりも大切なのではないか。

②祈りではなく真実を知る

そして、お釈迦様は、人々が神々の世界を信じ、ヴェーダ聖典に規定された祭祀儀礼を厳粛に勤めねばならないとしていた時代に、祈りではなく、この世の真実、真理を発見し開悟された。

私たちも、悩みの元となることの真実に気づくと、それまでモヤモヤしていた気持ちが嘘のように解消したりするが、真実を見極めることにより心は静まり平穏になる。

いま私たちは、世界中の人々を恐怖に陥れていることの根本原因について探求しなくてはならない。このパンデミックはなぜ発生したのか、自然発生のものであろうか。二〇一九年十月十八日、ニューヨークで各界の識者を集めて「イベント201」という、世界的な感染症によるパンデミックのシミュレーション会議が開催されているが、その経緯はいかなるものか。

二〇二〇年四月十日安倍総理が「この感染拡大こそ第三次大戦だと認識している」と語ったのはどういう意味だったのか。世界経済フォーラムが二〇二一年のアジェンダとするグレートリセットは、人々をどのような未来に導こうとしているのか。

税金で負担してまで治験途中のワクチンを全国民に打たせようとする背景には何があるのか。二〇二一年五月二四日、国内の医師ら四五〇人が、既に三百五十人もの死者(当時、現在千三百人超)を出している危険なワクチン接種の中止を求めて嘆願書を厚労省に提出した。そのとき記者会見までしているのに、報道すらされないのはどうしてか。などと探求を進めていかねばならない。

異常な世間の状況に怯え恐怖し不安になるのも、この事態に至る真実、真相を知ろうとしていないからではないか。祈りも大切ではあるが、何よりも私たち仏教徒は真実を知ることを優先するべきである。

③お釈迦様を人生の理想とする 

お釈迦様は、成道後この真理は世間の生きることに耽溺している人々には理解できないと考えられた。がその時、インドの最高神である梵天が現れて、説法することを懇請する。そこで、世の人々を改めて見渡してみると、確かに煩悩薄き者たちが存在し、彼らは説法により解脱することが可能であるとわかり法を説くことを決意したとされる。

お釈迦様は、説法した相手に最高の悟りを得て欲しいが故に法をお説きになったのである。その法を頼りに生きる仏教徒は、お釈迦様の願いである悟りを実現すべく生きる人ということになる。

人生の生きがいや目標の先にはいつも悟りという最終目標があるのだと思って生きることが必要であろう。そう捉えられるならば、たとえどんな時代になったとしても、目標を失わずに生きることができる。

体温を計られ、マスクを強要され、人との距離を測られる。さらに自宅軟禁を強いられるような不自由な時期をすでに経験した。

さらに二〇二〇年五月に参議院で、個人のプライバシーと権利を侵害すると懸念される「スーパーシティ法」が可決成立し、今後施行されていく。顔認証によるキャッシュレス決済が義務化され、個人情報が断りなくデータ連携基盤事業者に開示されるような管理監視社会に向けて歩みを進めることになるという。

しかし、そうしてたとえ将来自由が制限されて、検査やワクチン接種により選別されるような時代になっても、最終的な目標を失うことなく生きることが私たちには必要であろう。

④自他の考えの違いを認める寛容な社会を目指す

お釈迦様は、その後生涯にわたり縁あった人々に法を説かれるが、その説き方は対機説法といわれるように、法を説く相手に相応しい説き方をされた。

それぞれの性質や機根に応じ、個々の立場考え方を尊重しながら法を説かれた。

仏教徒は、自らの考え、生き方を持つ人々であり、権威ある人の発言にとらわれず、むやみに多数意見に同調することなく、他者の個性や意向を尊重する人であらねばならない。

すでに、特措法の改正により時短命令に服さない飲食店などに罰則を科すところまで社会がいびつになった。多くの人が何の疑問を抱くことなくマスク着用が社会に浸透し、ノーマスク者を異端とみなす風潮も生まれている。

医療機関だけでなく企業などの職場でも、厚労省が「あくまで本人の意思に基づくもので、強制や差別的扱いがあってはならない」としているのに、ワクチン接種を拒否すると職場から締め出されるような雰囲気があるという。

ワクチン接種が必要か否かも議論されないまま、全国民の七割を超える人たちが二度の接種を済ませたとされる。そして、ワクチン接種証明提示による、不平等な利益を提供する措置が進んでいる。

病院や介護施設などでは、入院入居している人を家族を含む外部者に面会させない規則を当然のごとくに続けている。海外にも自由に渡航できない状態が続く。

他者の考え思いを拒絶する、人と人の分断を生む社会になりつつある。お互いに監視し合うような恐ろしい時代になりつつあることを知らねばならない。

故に仏教徒ならば、そうならぬよう他者の考えを認め合う寛容な社会を目指すべきであると考える。

⑤妄想の中に生きるのではなく、今の現実を生きる

最後に、お釈迦様は入滅に際し、「もろもろの現象は移ろいゆく、怠ることなく修行を完成させよ」と遺言された。怠ることなくというのは、特に出家の弟子たちに説いた不放逸という教えのことであるという。

普段何かしているときにも、そのことに心がなく、様々な刺激に心が移り変わり、過去を回想し未来を勝手に思い描く。

心の中で思考が転々と続いていく習慣はよくないこととされる。自分が今の瞬間にしていることに意識して気づき、放逸に妄想する心の癖を止めることが肝要であろう。仏教徒は、そうして常に、ここにある今に生きることが求められている。

もちろん、それは簡単なことではない。だが、そうあってこそ、かつてのような大衆扇動の道具と化したメディア報道を静観し、周囲に惑わされることなく、真実なるものを探求しつつ、本来あるべき自分を生きることができるであろう。

以上、混迷する世界で、私たち仏教徒はいかにあるべきか、何が求められているのかと愚考してみた。

海外の報道が真実なら、民衆が自由に往来できる社会から全体主義的な社会へと歴史の揺り戻しともいえる時代に差し掛かっているように感じる。

もとより鎖国などあり得ない時代なれば、私たちの身にも切実なる未来が待ち受けているであろう。これまでの生活には戻れないといわれる意味を問わなければならない。



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今年の暑さとの付き合い方

2024年08月13日 14時27分58秒 | 仏教に関する様々なお話
今年の暑さとの付き合い方




話題に事欠かないオリンピックも終わり、国民的大行事お盆の時期を迎えているわけですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。今年も、記録的な猛暑の夏となりました。

加えて地震や台風が列島を襲い、お盆休みも気楽に旅をするという気分から身を引き締めて外に出ねばならなくなりました。国外では、未だに戦禍にある国々があり、さらに大きな戦争に発展するかの危険もはらんで落ちつかない日々を過ごしていることと思います。

あるサイトを見ていたら今年は太陽の黒点の活動がかなり活発で、こうした時期には大きな戦争や内乱、暴動や革命が起こっているのだとか。すでにイギリスで暴動が起きバングラディシュでは民衆の蜂起から政変がありました。今年から来年にかけてさらに不安な時代を生きねばならないのかもしれません。

ところで、こうした毎日の暑さの中、体に感じる感覚についてどのような見方をしたらよいのか、お釈迦様が教えられていることについて少しお話ししてみたいと思います。

私たちはこのからだが自分と思っていますが、仏教では、心と身体は別のもので、身体はこの世に生まれた時に借り受けた衣であって、心は何度も生まれ変わり、前世から来て来世に受け継いでいくべきものと考えています。

身体に感じる感覚は体に起こる変化であって、その感覚と一つになることなく、客観的に他人の身体に起こっていることのように、冷静に、例えば、そこに暑さがあるというような捉え方をします。暑い暑いとつい言ってしまったり思ってしまいますが、それでは感覚が自分そのものとなり暑さは増すばかりです。暑さ暑さがそこにあると観ていくことでその暑さの様子が変化していくことを観察するのです。

今年は三十五度を超えるような日が多いため、蚊も少なくて済んではいますが、蚊に刺されたようなときには、かゆいかゆいではなく、かゆみがそこにあると思って、かゆみかゆみと心の中で言いながらそのかゆみを観察しているとかゆみも薄らいでいくのがわかります。

昔小さな子供にそんなことを話していたら、その子が蚊に刺され、その時かゆみかゆみと言ってみたら、私が言ったので、その子はかゆみがなくならないと言っていました。が、自分で言葉で心の中ででも言ってみると実際にかゆみが変化していくことがわかります。

身体の痛みなども同様で、坐禅などを長くしていると足が痛くなるわけですが、そうした時にも痛み痛みと心の中で言いつつ観察していると痛みが変化していくことがわかります。是非試してみて欲しいと思います。

まだまだ暑い落ち着かない日が続くことと思いますが、どうかそんな仏教の感覚との付き合い方を参考にやり過ごしていただけたらと思います。いろいろなことがありすぎて不安な毎日とは思いますが、皆様のご健勝をお祈り申し上げます。



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備後國分寺だより 第68号(令和6年8月1日発行)

2024年07月22日 06時58分04秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第68号(令和6年8月1日発行)





三十年ぶりのご開帳の一日

三月三十一日、一日曇り空の天気予報でしたが、雲の切れ間から青空がのぞき明るい陽のさす朝を迎えました。

五時の鐘を撞き、日課である本堂の仏飯茶湯をお供え後、客殿の雨戸をあけ、寺院方の金襴のスリッパを並べました。客殿前の門を開き、赤いカーペットを敷いて寺院方の雪駄を置いてもらうための靴入れを用意しました。寺方駐車場に寺院専用駐車場と書いた立看板を出し、本堂東スロープに参詣者用の緑のカーペットを並べ、本堂正面の入り口に寺方の入堂用の赤いカーペットを敷きました。

午前八時前には、総代世話方が集結し、一日の行程を確認。配布物の最終チェックを行いました。寺方集会(しゅえ)時間前には一人二人とお寺様方が客殿にお越しになる中、前日から来福の中央大学教授保坂俊司先生もお越しになり、控えの間にご案内しました。

神辺結衆ご寺院はじめお寺様方全員お集まりになり、挨拶の後、特別にご出仕願った岡山倉敷の宝嶋寺様、総社西明寺様をご紹介。涅槃会のために職衆(しきしゅう)みな色衣紋白(しきえもんじろ)帽子を着しました。

この日午前九時から午後五時まで予定していた本尊御開帳の開扉は、本堂に九時から予定の涅槃会(ねはんえ)に入堂後、職衆が薬師真言を唱える中、住職が本尊前に進み須弥壇(しゅみだん)に上がって開扉を行い、そのあと大壇前の礼盤(らいはん)に進み、涅槃会勧請(かんじょう)の頭(とう)を発音(ほっとん)。総礼(そうらい)の頭を唱えた後、座坪に戻ると、舎利講式を唱える式師が登壇。その後、奠供(てんぐ)、祭文(さいもん)などが順に唱えられ、略しながらではありますが、全ての次第を唱え終わり、一時間少々で涅槃会舎利講を終え退堂しました。

この頃には俄かに参詣者が増え、涅槃会が終わると、待ちきれなかったかのように多くの人が本尊厨子の前に進み、行列をなしていました。着替えをして本堂に様子を見に行くと、かつて単身赴任で福山で仕事をされていた頃坐禅会に参加され、その後大阪にお帰りになった方がこの日のために参詣に来られていてお会いしたり、先代の親族にあたる方がお見えになっていたり。檀信徒はもとより、遠方からお越しの方も多かったように見受けられました。

このあと、稚児行列のため、衲衣袍(のうえほう)服(ぶく)に着替え、檜扇(ひせん)、装束念珠(しょうぞくねんじゅ)を手に参道に出ました。心配されていた空には青空がのぞき、多くのカメラを持った人が参道沿いに陣取る中、参道中ほどに進むと、すでに稚児たちがご家族とともに整列し、御詠歌衆も準備していました。車でお越しの徳島文理大学教授の濱田宣先生も丁度参道を入ってこられました。金棒(かなぼう)持ち、傘持ちの方も控えていて、歩き方の指導を受け、準備調い進行開始。法螺(ほら)の音に続き銅鑼が鳴り、鉢がつかれ、御詠歌衆が唱える修行和讃を聞きつつ、顔見知りと挨拶をかわし乍ら歩みを進めました。

本堂に稚児は東スロープから入り稚児加持を受け、その間寺方は正面の赤いカーペットを進列して入堂し内陣に座し、住職三礼して登壇着座して、塗香護身法、洒水(しゃすい)。前讃(ぜんさん)発音して、前讃のあと、慶讃文を奉読。

慶讃文終わり、後讃、般若心経が唱えられる中、稚児は本尊前に進み蓮華をお供えし退座、外に出て記念写真撮影にむかいました。寺方は心経の後、薬師真言、光明真言、大師宝号、廻向文を唱え退堂。記念写真には、お稚児さん、寺方諸大徳、当山役員、御詠歌衆とこの日ご参詣の先生方にも入っていただき、稚児さんの視線を集めるためにアンパンマンのぬいぐるみも登場して撮影を終えました。

それから、國分寺会館にて、檀信徒と先生方も来賓として同席してもらい、ささやかながら祝賀会を催しました。この間寺方は、集会所である上段の間で軽食を摂られ、しばし休息。土砂加持法会のため、職衆は色衣紋白、導師を勤める住職は衲衣袍服(のうえほうぶく)に着替え、午後一時に入堂。

職衆が土砂加持法則(ほっそく)にしたがい声明(しょうみょう)を唱えられる中、御開帳された本尊様を拝しつつ光明真言法(こうみょうしんごんぼう)を修法しました。光明真言法において勧請(かんじょう)する本尊は法界定印を結ぶ大日如来であり、そのお姿を観想しつつ、その後ろに本尊薬師如来様を重ね見ていると次第に本尊様が厳しいまなざしから微笑まれているように感じられ誠に有り難たい法悦にひたり修法を終えました。

土砂加持法会後は、この日ご参詣いただいた二人の先生から記念講話が予定されていました。はじめに、徳島文理大学文学部文化財学科教授で学部長も兼務されている濱田宣先生から、御開帳の仏様方の解説がありました。先生は令和三年十月十一月と、福山市文化振興課の皆様とともに國分寺の仏像の実態調査にお越し下さり、ご指導いただきました。そして、遠路東京方面からお越しの中央大学国際情報学部教授保坂俊司先生からは國分寺創建時の話も交え、日本文化と仏教とのかかわりについてご講話がありました。本堂ばかりか外にも立って聞いてくださっている方々が大勢居られ、大盛況となりました。(四頁から一九頁参照)

最後に、「この本堂を再建された水野勝種侯はとても領民思いのよいお殿様であったと語り継がれており、この國分寺も一人一人の領民がよりよくあるように幸せであるようにと願い再建して下さったのではないかと思われます。ご自分が再建したお堂に、今日こうしてたくさんの皆様がお参りされたことを、勝種侯が逝きし世からご覧になられ、たいそう喜んでおられることと思います。今後とも國分寺にご参詣下さいますよう、皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします」と申し上げ、参詣の皆様への御礼の挨拶とさせていただきました。そして、先生方へ再度拍手をお願いし、三時十五分頃散会となりました。

お寺様方はこの講話の間にお帰りになられ、先生方には控えの間でお茶を差し上げ御礼申し上げお見送りいたしました。境内に戻ると呉からお越しの知人に会え、ご縁に感謝し、またの再会を約しました。その後五時まで御開帳のため、その間に総代世話方慰労会をさせて頂き、まだ片づけは残るもののとても盛会であり成功裏に終わった一日を語りつつ祝杯をあげました。

午後五時丁度再度参詣下さった圓照寺ご住職様とともに真言を唱え、本尊厨子を閉扉し、御開帳を終えました。

遠方からも大勢の皆様がご参詣くださいましたこと感謝申し上げます。今年一月から一日一日この日のために様々準備を重ね思案しつつ来たことがやっと無事に終わり安堵しております。

最後とはなりましたが、土砂加持法会後に参詣の皆様には申し上げましたが、この日ご開帳があることをお知りになられ沢山の方々が参詣くだされるためにご尽力くださったメディア関係の方々、特に福山コンベンションセンター、中国新聞、読売新聞、エフエム福山、プレスシードの皆様、また当日取材して下さった井原放送の皆様などたくさんのメディア関係各位に御礼申し上げます。       (全)



三月三十一日
※当日の内容を一部再構成・修正
御開帳記念講話
 徳島文理大学文化財学科教授 濱田 宣 (はまだあきら)先生 

『御開帳の仏像を観察する』


ただ今ご紹介いただきました濱田です。私事で恐縮ですが、私は今日を以て、めでたくと申しますか、徳島文理大学を退職いたしました。退職日が近づくと、退職後のことをよく聞かれます。私は広島県内の市町の文化財保護審議会(委員会)委員をしていまして、この福山市もそうなんですが、仏像を中心とした仏教美術の調査研究を行うため、各寺院が所蔵する仏像の悉皆(しっかい)調査を約二十年前から行っており、退職後はその仕事に専念しようと考えています。因みに、令和三年度にこちらの國分寺の仏像すべてを調査させてもらいました。

そこで皆さんにお伺いしますが、このお寺に仏像が何体おられると思われますか。実は八十体以上おられるんです。現在、福山市内の寺院が所蔵する仏像の悉皆調査を福山市文化財振興課と共に進めており、十七か寺を済ませ、今後も続けていきます(福山市内には約二〇〇か寺所在)。仏像に関する記録を残していくことの意義は何かと申しますと、今現在の重要な歴史記録を残すということで。そのことは今すぐに評価されるようなものではなくて、私がいなくなって二百年後三百年後に歴史的に役に立つものと確信をもってやっています。

仏像の観方

前置きはそのくらいにして本題に入ります。

今日こちらで御開帳されている薬師如来像をはじめとして、須弥壇に安置されている仏像を、皆さんご覧になられています。今日は何も資料を用意しておりませんので、皆さんとやりとりをしながら、仏像の観方を学んで頂きたいと思います。学ぶというのは、私の考えですが、楽しみながら学ばないと身に付かないし、興味も湧いてこないんではないかなと思っています。

私は、仏像の話を方々でやっていまして、仏像に関する話は約三十五年くらい続けていて、合計五百回くらいになるかと思います。福山では、NHK福山文化センターにおいて十年間で百二十回、引き続き福山リビングカルチャーで二年で二十四回、仏像の観方について講義しており、まだ百回くらい続けないと私が学んできた仏像の話は終わらないんですね。それくらいの分量のことを本日は三十分でお話しいたします(笑)。

仏像の何を見ればどんなことが解るのか。仏像の姿や形、持ち物などから、それらが何を意味するのか、そこから何が言えるのか、ということなのですが、私もまだ解らないことだらけです。解らないことに出会って、それが解るとうれしいですね。そういう感覚が私に長く仏像の研究を続けさせてくれているのではないかと思っています。

例えば、わたしがこういう風に立っています。これはどんな格好をしているのかということを皆さんに読み取ってもらいたいのです。例えば、両手でマイクを持っています。めがねを掛けています。頭、かなり刈り込んでいます。そういった情報をひとつ一つ集めていくと、仏像の成り立ちが徐々に解っていくんですね。人間同士がはじめて接触して、挨拶したり、話をすると、まず相手の名前を知りたいですよね。あなたの名前はなんといわれますか、どこの出身ですか、誕生日はいつですか。そういうようなことをどんどん深めていくことによって、相手を知ることが出来るわけです。

如来と菩薩

さて、この御本尊、名前はもうご存知ですね、秘仏の薬師如来が御開帳になっているわけですから、いまお目にかかれているのが薬師如来、何で薬師如来といわれるのでしょうか。また、如来ということですが、如来とは何でしょうか。如来と名前の付く仏像はそんなに多くありません。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、これが代表格です。他にも阿閦如来とか、大日如来。ただし大日如来は如来と言っても本来の如来の姿をしていません。大日如来は密教の最高最尊の仏なので、特別な姿をしています。

如来はというと、仏像のなかで一番粗末な格好をしています。観音菩薩、十一面観音菩薩、千手観音菩薩などの菩薩の像はゴージャスな格好をしているのに、なぜ如来は粗末な格好なのか。ゴージャスというのは、装飾品を身に着けているということです。私も手首に石(ブレスレット)を巻いていますが、こういう飾りを菩薩の像は身に着けています。そのほか冠を被っていたり、胸飾りを身に着けていたりします。冠を被っていると言ったら、われわれ人間の世界では、王様ですよね。

では、なぜそんな装飾品を身に着けているのでしょうか。仏像の姿というのは、モデルは釈迦なんです。釈迦如来の姿というのは、如来の姿ですが、菩薩も釈迦の姿を根本としています。釈迦が二九歳の時に出家して六年間苦行をして、三五歳の時に悟りを開くわけですね。これが如来の姿です。それから仏教を興こして、インド国中に布教して回って、四十五年経った、八〇歳の時、今日午前中涅槃会をされましたが、入滅した、つまり涅槃されたということになっています。菩薩の姿は釈迦が二九歳以前の出家する前の姿をモチーフとしています。釈迦はシャカ族の王子として産まれ、宮廷で生活する貴族であるということから、装飾品を身に着けたゴージャスな姿になっているというわけです。

観察するということ

ところで、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三体がまとめて本尊になっているお寺があるんです。普通は、薬師か釈迦か阿弥陀は別々に各寺院の本尊となります。しかし、その寺ではこの三つの像が一つのお堂の中に同等に安置されてほぼ本尊になっています。何というお寺かご存じでしょうか。それは奈良の法隆寺金堂です。ところが、法隆寺金堂を拝観された方に聞いてみると、真ん中にある釈迦三尊しか、皆さんの記憶には残っていないことが多いのです。記憶をたどると十体前後は何かいたな、とはなりますが…………。ほぼ同じような大きさの仏像として、釈迦三尊の向かって右に薬師如来、左に阿弥陀如来がおられます。

我々が仏像を見ると言っても、漠然とみているだけで、何を持っているのか、どんな格好をしているのか、ほとんど意識せずに、ただ漠然と眺めているだけなんです。つまり、これは「見る」ということですが、「観る」つまり観察するというのが、何かを意識して「観る」ということになります。研究者は様々なことを意識して観ないと研究にならない。それが先ほど「どのような格好をしていますか」という問いかけに相当します。

薬壺のこと

そこで、薬師如来というのは、薬を入れた壺を持っています。薬というのは何を意味するのでしょうか。病気を治す、苦しみを解く、しかも薬というのは即効性のある、例の先生の「今でしょ」と、今の私たちをすぐに救ってくれる仏ですね。釈迦というのは、今から約二千五百年前に、仏教を興して亡くなっているので、過去の人、ですから、先祖菩提とかが中心になるんですね。阿弥陀はというと、阿弥陀の極楽浄土と言われるように、いわゆる未来。つまり薬師は現代、釈迦は過去、阿弥陀は未来を担当するわけです。これを三つの世と書いて三世(さんぜ)と言いますけれども、現在過去未来。私と同じ年代、誰かがうたった歌にありますよね。「現在過去未来」という言葉がサビに使われた歌がありましたよね。そういう意味合いがあるんです。

薬師は左手に薬壺を持っているのですが、でも調査の時に、現状ではその薬壺が失われていることもあります。両手の格好はこうです。右手を胸の高さに挙げて前に向けて開き、左手は膝上に置いて仰いでいます。そうするとこの格好というのは、釈迦如来の格好なんです。釈迦如来の格好で左手に薬の壺を持っていると薬師如来に名前が変わってしまいます。だからこの手の格好をしていたら、釈迦如来と名前を付けたくなるのですが、掌を見ないと解らない、そこに接着のあと、薬壺を差し込んだあとがあったりということがよくあります。

ところが、難しいのは奈良時代以前においては、薬壺を持っていない薬師如来が存在しています。一番著名なものが、奈良の薬師寺金堂の薬師如来です。あれは薬壺がなくなっているのではなくて、持たないタイプの薬師如来です。従って、両手の格好からだけでもって仏像の名前を決めつけてはならないということです。研究は慎重でなくてはなりません。

藥師如来の印相

このように、この薬師如来と釈迦如来の手の格好は同じです。右手がこのように前に向けているのは、何を意味しているかというと、これは「施無畏印」と言うんです。せは施す、むは無い、いは畏れ。畏れないでいいよ、大丈夫だよと、と言うことを示しているのです。では左手は膝の上に置いて掌を仰いで前方に差し出している、これは何でしょうか。「与願印」と言い、願いを与えてくれることを意味しています。

私は子供たち向けにも仏像教室をしているのですが、「みんな仏像の格好してごらん」というと、かなり多くの子がですね、親指と人差し指をつけて丸くして右手を上にして、左手は下にして掌を開くんです。こうするのは、実はよく見ている仏像が阿弥陀如来ということだと思います。阿弥陀如来は左手も親指と人差し指をつけますが、掌を開くのは、奈良の大仏のイメージがあるのだと思います。

そこで、子供たちに「施無畏・与願印」の話をした後、「君たち、さきほどの右手と左手はどういう意味なの」と聞くと、「先生わかるよ、お金頂戴でしょ」と、名答だと思いました。これもちゃんと意味を表していますよね。こういったところで子供たちに興味を持ってもらい話をしています。

仏教伝来時の仏像について

実は、先ほど話した法隆寺金堂にある三つの如来像のうち、阿弥陀如来は鎌倉時代に造り替えられているので、後世の格好になりますが、真ん中の釈迦如来と右の藥師如来は、同じ格好をしているんです。右手はこうして前に向けているんですが、左手は親指・人差し指・中指を伸ばし、残りの指は握っているという特殊な格好なんです。これは、飛鳥時代に中国や朝鮮半島から日本に伝わってきて、最初に日本人がでくわした仏像が、実はその格好をしていたんです。

法隆寺金堂の釈迦如来は、六二三年に造られたもので、わが国最古級のものです。現存する古いものでは六世紀の終わり頃の仏像が確認されています。仏像が日本に来たのはいつかというと、記録では日本書紀や元興寺縁起によれば、五三八年とか、五五二年と歴史の授業で学んだ記憶があると思います。五〇〇年代の半ばには日本人は仏像と出遭っていることになります。わが国最古級の仏像、如来の像は、当時は釈迦如来も阿弥陀如来も薬師如来も如来はすべてその格好であったことがわかっています。

因みに、法隆寺金堂内の釈迦如来像と同じような手の格好をしている仏像を、たぶん皆さんはふくやま美術館において、この秋に観られることになると思うんですが、鞆の安国寺にある阿弥陀三尊のうちの阿弥陀如来像が同じ手の格好をしています。よくご存知の方は、あれは鎌倉時代の仏像なのにと思われるかもしれませんね。(種明かしは別の機会に……。)

阿弥陀如来の話

皆さんが普段よく見ている阿弥陀如来像は、両手共に親指と人差し指の先を丸めてつけており、右手は胸の高さに挙げ、左手は下ろしています。たまにお腹の前に合わせたりしていますが、一番多いのは、右手を上にして左手を下にしている姿です。こういった両手の位置や合わせる指の違いは、極楽浄土には九つの段階があることを示しています。そこで一番上位の極楽浄土に往きたい方は、両手の親指と人差し指を合わせて、お腹の辺りに構えている阿弥陀如来を選んでください。これが「上の上」の極楽浄土です。先に申し上げた右手を胸の高さに挙げ、左手を下ろしているものは「上の下」、つまり三番目の極楽浄土になり、皆さんがよく見かける阿弥陀如来のタイプです。

なぜ、一番目の極楽浄土ではなく、三番目を求めるのか、何と日本人の謙虚なことか。一番一番と言っていたら欲が出る、三番目で良いと。ですが、そういった意味ではないのかなと、私は最近考えるようになりました。両手を上下に構える格好の阿弥陀如来は来迎像といって、極楽浄土に居る阿弥陀如来が亡くなった人の所へ自ら迎えに来てくれて、極楽浄土へ連れて帰ってくれるんです。自分で一生懸命浄土に上がっていかなくてもよく、阿弥陀如来のお迎えを待っていればいい。だから日本人は謙虚なんじゃなくて、実は横着なんですね。(笑)

本尊藥師如来について

さて、ここの厨子の中の真ん中に薬師如来がおられ、その左右に現状向かい合わせに立っているのが日光菩薩・月光菩薩です。日光は日(太陽)の光、月光は月の光のことです。向かって右側の日光菩薩は、円輪の中に赤く太陽を表すものを手に持ち、左側の月光菩薩は、円輪の中に白い月を表すものを手に持っています。これは何を意味しているかというと、薬師如来は現世(今)の衆生を救ってくれるわけですが、日光月光菩薩、つまりお日様とお月様がいるということは、二十四時間営業ということです。四六時中助けてくれるということを表しています。

さらにそれらの左右には六体ずつ、十二神将という仏様方が居られます。十二という数字は、いろいろなことに繋がりますよね。一年が二ヶ月、十二の時、東西南北などの方角、干支である十二支など。時とか方角とか全部を含めて、周りの十二神将がサポートしている。すべて薬師如来が一番活躍できるように、三六五日、一年中サポートしています。

薬師如来は日光・月光菩薩と合わせて三尊一具、先ほどの阿弥陀如来は観音菩薩と勢至菩薩がいて三尊一具となります。釈迦如来も文殊菩薩と普賢菩薩がいて三尊一具、というように、どれも真ん中に如来、両脇が菩薩というサポート役がつきます。

この組み合わせって、天下の副将軍水戸光圀が介さん角さんを従えているのと同じですね。これはたぶん仏像の三尊一具からきているんだと思います。三尊一具で大きな力を発揮します。さすがに黄門さんだけでは頼りないですから、締めの所は周りのサポートで大きな力を発揮するということになります。

十二神将のこと

それでは最後に、仏像を「よく観る(観察する)」ということで私の話を締めくくりたいと思います。先ほど、十二神将は十二支と関わりがあると申しました。この十二神将像の頭上には干支が表してありますのでご覧ください。子丑寅卯……その象徴するものが頭上にのっています。今まで私が観てきた十二神将像としては一例しか知らないくらい大変珍しいことなのですが、こちらの十二神将は干支の全身を表しています。通常は干支の頭部だけしか表さないのです。是非、後ほどよくご覧になってみてください。

このように細かい所までしっかりと仏像を観ていくと、少しずつ楽しくなるかなと思います。かわいいなとか格好いいなとか、すごく穏やかで救われる気持ちになるとか……。それでも良いのですが、そこから一歩掘り下げて、どうしてそうなるのかを追究していくと観方が変わってきます。そういうことがあるので私も仏像の話を何度やっても、百四十回やっても終わりません。毎月第四月曜日、福山リビングカルチャークラブにおいて仏像講座を行っていますが、まだ百回分くらい話す内容がありますので、興味がある方はお越しください。退職後もこの取り組みも一つの生きがいとして、諸寺院が所蔵する仏像の悉皆調査研究とあわせて頑張ってまいりたいと考えているところです。
それでは私の話は以上となります。ご静聴ありがとうございました。



三月三十一日
※当日の内容を修正・一部加筆
御開帳記念講話
 中央大学国際情報学部教授  保坂俊司(ほさかしゅんじ)先生 

『「國分寺建立の詔(みことのり)」から仏教と日本文化を考える』
    
  
ご紹介いただきました保坂です。今日は、備後國分寺でのお話ですので、國分寺に関係の深い、そして日本仏教の発展に聖徳太子同様に尽くされた聖武天皇についてまずはお話します。こちらには聖武天皇のお位牌が安置されているそうですが、奈良時代に國分寺建立を発願された大檀那である聖武天皇とはどんなお方だったのかということについてです。

また、國分寺とはどういう意義を持つお寺なのかという話を基本として、仏教と日本文化を引き継ぐ意義についてもお話したいと思います。つまり、日本人にとって、あるいは日本文化にとって、仏教とはどんな宗教なんだろう、私たちにとって仏教はどういう存在なんだろうということについて考えてみたいと思います。

仏教という言葉

ところで、皆さん仏教という言葉はよく聞かれると思いますが、仏教という言葉は、実は古い言葉ではありません。明治二十年代頃、仏教をキリスト教、イスラム教など色々な宗教と並べて、はじめて仏教という言葉が現代のように使われるようになりました。当たり前の事ですが、これがなかなか理解するのが難しいのです。細かいことは、省きますが、仏教という漢字熟語は、仏と教に分解できます。そして仏は、お釈迦様ですね。さらに、教はその教えということですから「仏の教え」を仏教と表現するのは、当たり前のように理解出来ます。

ですが、これはキリスト教をモデルにして、教え、教祖、儀礼、教団を合わせて宗教と呼び、仏教もこの様な考えで捉えるようになりました。しかし、明治以前に日本の文化、特に今の仏教を語るときには、仏の法(ミノリ)や仏道(ブツドウ)と言われたのであり、仏法(教えを中心に)、仏道(各種の実践を含む)というのが主流でした。

というのも、仏教と言ってしまうと、その時点で、キリスト教をモデルとした宗教体系になってしまいます。そもそも仏教の教えとは、キリスト教におけるキリストのように、唯一の絶対の神の言葉(契約とも云える)を伝えるものではなく、どうすれば悟れるか、救われるかの体験記なのです。

ですから、仏の教えとは、釈尊をはじめ仏(現在のように、死者の隠語ではありません。理想を完成させた人のことです)になった人々の教え、つまり悟りへの体験記というわけです。ですから、実際に体験記通りに自らも行動を起こさないと仏道にはならないのです。しかし、キリスト教的な宗教を把握する意味としての仏教という言葉ですと、教えを信じるという点に重点が置かれてしまいます。

そのため、近代以降の仏教は、明治以前に仏法や仏道として捉えられていた感覚とづれてしまうのです。いずれにしても、仏法は仏の法、つまりその教えを仏道として実践することを教えるものです。そして仏道ですから、仏の教を実践するということが基本となります。特に、在家の人々は教えを生活の中で実践することこそが、仏教の基本であるということです。つまり、仏教の教えが社会に生かされていた世界への理解が、仏教と表現すると行の部分が抜けてしまうので不十分になります。

今普通に使われているその他の言葉でも、近代明治以降になって作ったものとか、意味を改めて使われるようになったものがたくさんあります。これを一般に翻訳語といいますが、言葉を換えると、内容の理解が変わってしまうのです。私たちの仏教に対する理解、意味するものは、ですから、その以前とは違ってしまっています。その典型が神と仏の関係です。

神と仏は一体

ところで、明治初年から十年くらいにかけて激しい廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という野蛮行為が行われました。実は、その後も仏教への一種の攻撃は続き、その結果廃仏から嫌仏(けんぶつ)という伝統が形成され、現代に至ると私は考えております。これは私見ですが。

いずれにしても、明治初頭に、神道国教化政策の一環として神仏分離令が発令されまして、仏教などというよそ者の宗教と、古来の神道と分けなさいとされたのです。そして、暴徒化した民衆がお寺を壊し仏像や経巻を焼き払いました。その結果、日本中で神仏分離が行われ、結果的に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。こちらの隣にも八幡神社がありますが、もともと一つだったものが、明治以降お寺と神社とは別々のものとされてしまったのです。

このお寺と神社が一揃いで存在するという形式は、奈良の東大寺に原型があります。少なくともそのモデルです。東大寺に行かれて、南大門を入り右に折れて進んでいくと手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)があります。そもそも八幡さんと東大寺は一セットだったのです。この形式が明治までの東大寺で、かつ日本の寺院と神社の標準的な関係でした。

何故、そうなったかというとそれは東大寺の大仏建立と深い関係があります。聖武天皇は、東大寺は國分寺の総本山であり、日本国の総国分寺、総鎮守東大寺に、大きな仏像を作りたかったのです。ですが、なかなか思うように進展しませんでした。鋳造金銅仏ですから高度の技術知識も必要です。当時の日本には、その技術がまだ無かった。

でも聖武天皇はどうしても作りたい。しかし技術的に行き詰まってしまった。そこに九州にある宇佐八幡の託宣を携えて巫女さんが、わざわざ輿に乗り奈良の東大寺にやってこられた。(*これが全国の神輿行列の先例といわれています。因みにインドでも古くから同じような祭りがあります)そして、全面協力を申し出てくださった。当時の宇佐は、大陸と交流があり、恐らく高度な鋳造技術を持った集団が一緒に来たのではないか、と推測されます。

いずれにしても、八幡神の協力があり、東大寺の大仏は完成します。以来、仏と神と一体となって、日本国を支えてくださることになります。この東大寺の造営形式が基準となり、全国の國分寺も、またその後他の寺院にも、神と仏が一緒になって、それぞれの地域を守るという、そういう伝統が形成されます。

「國分寺建立の詔」の精神とは

聖武天皇が発せられた「國分寺建立の詔」は、天皇という現人神(アキツカミ)が国を守るためにどうしても仏の力を借りたい、その事情、理由を述べたものです。読んでもらうとわかりますが、天皇は仏の教えに深く帰依されています。当時の考えは、現在主流の近代西洋的な支配者像と違い、天皇陛下は、この世は天皇のものであり、天皇=この世ともいえるものでした。

その様な世界観の中で、聖武天皇が即位すると、運悪く天変地異が襲います。日本の国土の地殻変動期ですね。現在もこの地殻変動期に入ったと言われてます。つまり、阪神大震災から東日本、熊本、今年は能登半島と、十年二十年のスパンで考えると離れているように感じられますが、千年二千年という歴史的な時間から考えると、最近の日本には一瞬にいくつも続けて大地震が起こっています。それだけでなく、その間に疫病も流行し、国民は非常な困難に直面しました。聖武天皇の御代もこの様な混乱期だったのです。

この時、聖武天皇は、大災害が頻発し、国民の苦しみを我が事とお感じになって大変苦しまれたのです。これが、日本の天皇の世界観であり、政治思想です。ですから、私のものというのは所有物ということではなくて、私の体と一体だということです。古い文献には、国家という文字は「みかど」と、国家=天皇陛下を表わすように仮名が振ってあります。

今、国家=天皇というと、ヨーロッパの偉い王様や独裁的な君主のように、国をわたくし視しているように思うかもしれませんが、そうではありません。天皇は、日本という国、あるいはこの天下(アマツシタ)を、自分の身体と一緒、あるいはその一部のように捉えられていたのです。ですから国が乱れ、民が苦しめば自らのからだが病んでいるように感じたわけです。そして、それは自分の行いが悪いからそうなったとお考えになられたのです。

私たちも、病気になれば心を病みます。何でこんな病気になってしまったのか、何が悪いのか、原因を考え反省します。それと同じように、何でこんなに疫病がはやるのか、なぜこんなに地震があるのだろう、何で私が天皇を継いでから民衆を安らかにしてあげられないのだろうと、聖武天皇はものすごく苦しまれたのです。その時、仏の力を借りて自分が強くなれば、元気になれば、国も元気になるとお考えになります。

そこで、仏の力で日本を護ってもらおうと、各国に東大寺のミニ版とも言える國分寺をおつくりになられたのです。そして、その総仕上げとも云うべき総國分寺として、国家鎮護の寺として、東大寺に巨大な毘盧遮那仏の建立が計画されました。

特に、國分寺の総仕上げであり、国家の守り神的存在として、大仏をお造りし、皆が一丸となりこの大きな大仏さんに帰依したならば、日本が一緒に救われるのではないかと、そう聖武天皇はお考えになられて大仏造立は発願されたのだと思います。このように申し上げると、迷信だと感じるかもしれませんが、コロナ禍の最中に、医療だけでは救われなかった私たちの心の安心、社会の安全を神仏に祈る形で維持できたことは、我々も体験済みですね。人間は千年二千年前も今もそんなに変わらないのです。その様な安心、安全をそれぞれの國分寺は、歴史的に託されてきたわけです。

形は心を映す

この国家鎮護という考え、つまり仏の力で国を護るという教えは、『金光(こんこう)明最勝王経(みょうさいしょうおうきょう)』という護国経典にあります。國分寺には、そのお経を祀る塔が造られました。國分寺の塔は七層、七重塔です。普通は五重塔ですね。三重塔もありますが、東大寺の七重の塔は創建当時、高さが六十八メートルあったそうです。鎌倉時代には九十七メートルの再建された塔があったとか?何れも落雷や戦禍で消失しましたが。(最近の研究は、『日経新聞』令和六年四月二十六日に詳しく紹介されてます)

今の人は、それは形にすぎないとか、それで心が救われるわけではないなどと批判するのですが、そうではなく、形は心を映す、というより心を具現化したものです。つまり現存する形(仏像などは)は、心の有り様を造形として表現したものです。ですから形としてあるものには、きちんとした意味があります。

そして、それを維持していくことが伝統となるのです。放置して、廃らせては、意味がないわけです。作ったら、みんなでそれを支えていく、護っていこうとする、これは一種の仏道の実践です。そうすると、そこに一つの共同体ができて、お互いの理解ができていきます。そして共通観念が生まれ、安心感が生まれ、相互に守られているという意識になります。そうして、お寺を中心とした一つの安定した社会ができることになります。

恐らくそういうことを聖武天皇はお考えになられたのだと思います。いずれにしても、徐々に全国各地域に六十八の國分寺がつくられていきます。

この國分寺の立地に関しては、余り町に近いと喧騒がありますから正しい信仰にならない。また、山の中にあると、人々が何かあった時に、お願いしたり、お詣りできないので、町に遠からず近からず、程よい地域で、なおかつ豊かで、環境の良いところが適しているとされました。

何度かこちらに寄せてもらっていますが、すごく良いところですね。こういうところに國分寺を建てて、封戸という五十戸の家の収穫が徴税としてお寺の維持費のために充てられました。そうして、このお寺をずっと守っていけば、この地域の人々は、豊かで幸福に暮らせるはずであると願われたのです。聖武天皇は自分のために、利己的に、東大寺や國分寺を作ったわけではないということです。

個と全体は一体である

明治以降の仏教研究者の多くが、國分寺などは国家仏教だと、支配者のための宗教だと言うのですが、それは近代ヨーロッパ的な、つまり近代キリスト教文明の考え方です。そうではなくて、仏教では、全ての存在が相互に結びついていると考えます。

ですから、仏教思想を基本とした聖武天皇は、民衆一人一人を救うために、天皇が身を粉にして懸命に働きました(事実、聖武天皇は大仏建立時に手ずから土を運んだとされます。これは象徴的な表現ですが、その精神は明確です)。そして民衆もそれに応じて相互に助けあい、社会や国を作り支え合うという相互連関の社会の実現を目指されたのです。

つまりすべての人間が、それぞれの役割を得て全体を支えるという考えです。勿論、それは個々人を顧みないということではありません。なぜなら全体も部分があってこその全体ですし、部分も全体の一部として生かされるわけです。どちらか一方ではない、ということです。

これは、お釈迦様以来の仏教の根本の教えです。お釈迦様も最初は自分のための修行を行ったのですが、悟りと言われる境地を得た後は、その様な独善的な考えを捨てます。勿論、一人一人の幸福を考えることは大事なのですが、それだけでは真の幸福は得られません。というのも個人は全体と連なって個人であり、決して個々別々にあるのではないからです。そこで、他者の存在も自分と同じように考えよと教えます。これが仏教の基本となる考え方で、いわば悟りの根本といえます。一見簡単に聞こえますが、これが実践となると難しいのです。

為政者とは全体に奉仕する存在である

この教えを、とかく独善的となり、人の命を何とも思わないような専制君主、暴君になりがちな支配者の多い中で、自ら実践されたのがアショーカ王です。インドで紀元前三世紀、紀元前二百七十年頃から二百三十年頃活躍された王様ですが、このアショーカ王が聖武天皇のモデルだったのではないかと思います。

アショーカ王は、仏教の非殺生の教えにより軍隊を廃止して、失業した兵士たちに、道を作らせています。東海道五十三次のように、四キロを一里として、街道にマンゴーの木を植えて、マンゴーが実るとそれを売って、街道の維持のために使わせたのです。武器などはそれを鍬にして、農民のために使わせています。また病院を作ったりもしました。この様に民を富ませ、安楽にして、最後に自分が喜ぶという政策をとられたのです。

彼は大きな宮殿でふんぞり返っていたわけではなく、今のインド、パキスタン、バングラディシュにわたる、広大なインド亜大陸をほぼ統一し、各地を視察し、また役人を派遣して仏教的な統治、つまり平和の実現を通じて民衆の幸福を実現するという理想的政治の実践に努めました。その理想で、広大なインドを一つにし、争いのない国作りを実現しました。

この偉業は、それから千八百年後に、イスラム教のムガール帝国が成し遂げるまで、誰も成し遂げることの出来なかったことです。ただしムガール王朝は武力による征服と統治でした。ともあれ、アショーカ王という王様は、インドという国を最初に統一した大王ですが、武力に頼らず、大王でありながら最後に喜ぶというような政策を実行した王です。その証しともいえますが、彼は帝王とか皇帝という称号は用いず、「民衆に奉仕するもの」・「慈愛溢れるもの」という称号を用いました。

これがどれほど凄いことかということは、ほぼ同じ時代に、中国の秦の始皇帝と比較するとわかります。始皇帝は、自分の権勢のために墓作りに四百五十万人もの自国の民衆を殺害したり、宮殿を建てるために三十万人の人を動員使役しています。工事の人員が足りないと、厳しいルールを作り違反させて、その罰として宮殿作りに徴用する。そこに誰が住むのかというと始皇帝と愛妾三千人と言われています。インドと中国は同じ大国ですが、正反対なのです。

仏教による国造り

聖武天皇の前に聖徳太子があり、仏教に深く帰依されています。ところが、聖徳太子は、今の教科書に書かれなくなってしまいました。日本史の関係者は不思議なことをされます。とにかく聖徳太子にあたる人が仏教による国造りをしていかれたのです。中国では、仏教が伝来された時にすでに、儒教による文明がありました。そのため、あまり影響を受けていません。ですが、日本はそんなに高い文明はなかったので、仏教が伝えられた時、日本独自の文化、さらには文明を作るために仏教を採用したわけです。仏教は、やはり当時の日本人に合った教えだったのでしょう。

というのも、日本は古来中国の影響をすごく受けましたが、日本の天皇で秦の始皇帝のような専制的な暴君はおられません。あえて言えば申し上げ難いですが後醍醐天皇があげられます。後醍醐天皇は自分のために日本があるというような天皇でした。後醍醐天皇は一応仏教徒と言われていますが、発想は中国的、特に朱子学でした。

朱子学では、分かりやすくいうと、国とは為政者の所有物のようなもので、民は為政者に一方的に服従し、奉仕する存在にすぎません。つまり、道具なわけです。そこには権力の中心に向かう下からのべクトル、支配と服従という方向しかありません。ですから権力者は、自分の欲望のためにその道具を存分に利用できると考えるのです。しかもどんなに苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)(税金その他を厳しく取り立てること)しても余り痛痒を感じない。仏教的な政治論に従う聖武天皇のように、民を自分の体の一部と考えないからです。勿論、道具としては大切にすることはありますが。

いずれにしても、後醍醐天皇には、聖武天皇のように、平和志向、民衆へ回帰、つまり慈悲心というベクトルは余り感じません。両天皇は、同じように、日本は私のものだと考えても、後醍醐天皇は、民の傷み苦しみも私のものだという考えは余りなかった様です。

聖武天皇は、仏教への帰依と実践、つまり仏道を政治の世界で実践されたわけです。この伝統が、日本の天皇の伝統として主流でした。勿論、朱子学でも、素晴らしい為政者として立派な統治者は居りましたが、やはり民衆の痛みを我が事として感じ、それを政治の基本、特に平和主義に徹した方はまれでしょう。

いずれにしても、日本の天皇で自分の欲のために国を動かして、自分のものにするという方は、ほとんどいません。民の苦しみを自分の苦しみとする、という考えが徹底してきたからです。これは縁起の思想とも言えますが、みんなつながっているという考え方です。

民の苦しみは私の苦しみであり、天皇が病むと民も苦しんで、国土が苦しむとでも言うのでしょうか、天変地異になったりしたら、みんなが苦しむ。そして、みんなでこれを乗り越えようということになって、その時に、その先頭になるのが聖武天皇その人でした。その遺志を東大寺はじめ全国の國分寺は継いでいるわけです。残念ながら、現存する國分寺は少数ですが、その中でこの備後國分寺は、聖武天皇以来の伝統を継いで来られたという意味で大変貴いお寺です。

聖武天皇の心を繋ぐ國分寺
それを守る意義

既に検討したように、聖武天皇は、民の苦しみは私の苦しみであり、私の不徳により民が苦しんでいるとお考えのうえに、國分寺を建立されました。つまり日本の安定には、そして民の幸福を作り出すためには、私がしっかりしなくてはいけない、それには仏の力が必要であり、そこでお寺を作ろうということになります。迷惑だという人もあるかもしれませんが、そうしてみんなが集い、心を一つにする場があり、それを中心に毎日、毎月、毎年続けていると安心できる社会が出来てまいります。

例えば、今日稚児行列もありました。今回は参加が半分と聞きましたが、それでも小さなお子さんが、きれいな格好をして、今は何をしているかわからないかもしれませんが、十年後二十年後に、私が稚児行列をしたお寺だから、自分の子供も参加させようということになります。それこそ文化の継承といえます。そして、そこに國分寺があるというのは、この地域の人にとって非常にすばらしい伝統といえます。

つまり、「國分寺建立の詔」があった七四一年を創建とすれば、今年で千二百八十三年となります。この間いろいろなことがあって、國分寺も盛衰があり、消滅の危機もあったわけです。ですが、この地域の人たちが、支えたのです。お殿様がお堂は造ってくれたかもしれませんが、日常の草むしりとか、建物が壊れたから直そうとまではしてくれません。皆さんのご先祖が、お寺を護ってこられたのです。

それらの行為は、表面的には、お寺のためにすることですが、それはお寺だけのためではなく自分たちのためです。さらには日本国全体のためであり、そういう仏教的な縁起の世界観の中での奉仕であり、仏法の実践といえます。つまり、このお寺を先祖が守ってきたように自分たちも守る。そして、自分も先祖と同じように、子孫に伝えてゆくという魂のリレーです。実はこれが仏道の実践、つまり修行にあたるのです。そういう伝統が、今日まで千二百八十三年続いたということは、すごいことです。

今國分寺として残っているのは四十ヶ寺ほどと聞いています。國分寺跡として遺跡だけになっているところが沢山あります。行ってもなにもありません。礎石が痕跡としてあるだけです。私の故郷にも國分寺があったんですが、今は、碑が立っているだけです。ですから、伝統を守りたくても、受け継ぎたくてもその中心がないわけです。

そうした中、こちらはこうして、立派なお堂があって、仏像が安置されていて、しかも皆さんがこのように参集されて、協力されている。お稚児さんもそうですし、まさに世代を超えて、そんな格好いいものではないよと言うかもしれないですが、こういうことが延々と運営されている。これは貴い文化の力です。

古き伝統の意味を自覚する

こうしたことをもっともっと今の日本がやるようにすれば、今日の日本の衰退といいますか、「失われた三十年」と言われるような事態はなかったのではないでしょうか。千二百八十余年の歴史は、失われた三十年どころではありません。その間にいろいろなことがあったはずです。そういうところから私たち日本人は学ぶ必要があります。短いスパンでものごとを考えずに、もっと先祖から自分も含めて子孫のことも考える。

みなさんは、その点で、千二百年以上という長い歴史から今を捉えていくことが具体的に出来る、大変恵まれた環境の下に居られます。その文化的な財産を子孫に継承していくということはとても大切なことです。そして、それは皆さんにとっての仏道修行であり、心に安心の徳を積むということになります。

何れにしても、この國分寺の維持ということをもっと自覚して行うことが大切であろうと思います。皆さんは、これまでやってこられたことの意味に、あまり気がついていないのです。AI時代といわれ新しいものがどんどん取り入れられていますが、日本に足りないものは、古くて、続いていてきたものの価値や意義を自覚することだと思います。新しいことは、直ぐに廃れますから。しかし、千二百年以上もこうやって國分寺というお寺が続いてきている、その伝統を守り継いできたということに、すごく意味あることをしているのだと自覚することが必要です。そこには、ただ奉仕するだけじゃなくて、喜びや楽しみ、やりがいがあります。 

今日のこうした御開帳のための準備やら、時間もお金も気遣いも何も大変だったと思いますが、終わった後の達成感と言いますか、それが次の世代に、受け継がれていきます。こういう行事、これは文化の維持のためにとても大切であり、私たち日本人は営々とこれを繰り返してきたのです。だからこの地域では國分寺が残っています。そういう意味で、このコミュニティを含めて、正にパワースポットであると言えます。

もっと盛大に発信していって欲しいと思います。今日本人に一番足りないのは、発信力ではないでしょうか。今日はいろいろメディアの方が居られるようです。メディアの人たちも、よく勉強されて、どういう風に伝えたらいいか、お考えください。そして、今日は國分寺さんで三十年ぶりの御開帳がありましたではなくて、これはいったいどういう意味なんだ。千二百八十三年続いた意味は何なんだ、そしてこの文化をどう未来につなげていくか。この地域だけのものではなく、これは日本全体の問題です。これは私たちが未来の子供たちのために考えなくてはらない課題とも言えます。

お祭りは面白いだけではなく、時間がかかり大変ですが、そこに喜びがあります。これを守り継いできた先祖と、これから守っていってくれるであろうお子さんやお孫さんと心が繋がるのです。それが何よりの仏道修行です。だから次につながるのです。これからも皆さんで備後國分寺を盛り上げてください。それはこの地域の伝統であり、使命でもありますから、次の世代へのつなぎ役だと思って、続けていって欲しいと思います。そして何よりそれが仏道の修行、仏の悟りへの道に繋がるものであり、幸福の道でもあります。 ですから三十年と言わず、五年とか十年とか、この様な法要をやっていくと地域の活性化にもなります。そのうちそこに、お寺の前にお店ができるかもしれません。是非、この國分寺を次の世代につなげていく、その役割を皆さんが自信をもって今後も担っていただきたいと思います。
ご静聴ありがとうございました。



【國分寺通信】 暑中お見舞い申し上げます

〇五月七・八日、高野山と京都三か寺の参拝旅行に神辺霊場会七カ寺の檀信徒の皆様とともにお参りしました。まずは高野山に向かい、奥の院参拝と納骨塔の納骨供養会を行いました。そして、すぐに下山して、その日は大阪の心斎橋のホテルに宿泊。翌八日は、四天王寺に参詣してから一路京都大覚寺へ。到着してすぐに寺方は鞆・地蔵院住職から門跡となられた山川龍舟門跡猊下に宮御殿までご挨拶に参上し、その後、檀信徒とともに心経前殿にて写経奉納式に臨みました。それから自由参拝し、大覚寺を後にして、昼食を済ませ東寺に参詣。五重塔の特別内拝期間にあたり、はじめて第一層に祀られている五智如来を参拝させていただきました。高野山に京都のお参りも堪能し、皆さん大満足で家路につきました。

〇五月十四日は結衆御寺院様方を國分寺に迎え、今年の涅槃会当番の寺院として、仏生会(ぶっしょうえ)を午後三時から厳修しました。仏生会は、お釈迦様のご誕生を祝う法会で、須弥壇上に特設した花御堂(はなみどう)に祀る誕生仏に甘茶をかけて祝う行事です。

〇同様に六月十二日、弘法大師誕生会を厳修。やはり花御堂に稚児大師像を祀り、甘茶をかけお祝いしました。

〇今年涅槃会にて、御詠歌衆の皆様が人数少ないながらも修行和讃を唱え、懸命に稚児行列を先導して下さいました。近年特に御詠歌に参加される方が減少しています。六年先にはすぐに涅槃会が回ってきます。御詠歌にご参加いただける方を募集いたしております。大きな声を出し、鈴鉦(れいしょう)を打ち鳴らし手指も使うので健康にもよく元気になります。皆さんお忙しいとは存じますが、是非ご参加ください。

  ◎ 薬師護摩供   毎月二十一日午前八時~九時
  ◎ 坐禅会    毎月第一土曜日午後三時~五時
  ◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時(8月はお休み)
  ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時~四時(8月はお休み)
  ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時(8月はお休み)

●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

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備後國分寺だより 第67号(令和6年3月31日発行)

2024年07月18日 07時07分34秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第67号(令和6年3月31日発行



 祝・本尊御開帳

平成六年、本堂再建三百年祭を先代和尚が挙行され、その際に本尊御開帳してからはや三十年が過ぎました。

いつの頃からか、前回の法縁に見えることの出来なかった方々から、次の御開帳はいつですかと幾度となく問われてまいりました。
そこで、令和六年のお涅槃が前回御開帳から三十年の節目となることから、昨年の総代会にて協議の上、御開帳することと致しました。

平成六年四月三日、先代和尚は、御詠歌衆と稚児に先導されて本堂に入られ、神辺結衆御寺院様方と土砂加持法会を営まれた際に、『本堂再建三百年記念光明真言加持土砂噠嚫(たっしん)文』として、以下のように述べられています。

「・・・伏(ふし)て惟(おもん)みるに当山は天平の昔、聖武天皇の勅願に依って建立され、備後一円の平和と発展を祈願す。下りて天文年間の戦火、延宝元年の水害と二度に亘る災害に遭い堂宇荒廃すと雖(いえど)も、其(そ)の都度(つど)領主、諸人の発願に依って再建せらる。

今の本堂は元禄七年快範上人の発願に依り領主水野勝種公の援助と備後一円の善男善女の寄進に依り再建され今日に至る。其の間幕末、明治維新及び太平洋戦争敗戦という大変動に遇うも法灯絶やす事無く人々の信仰を集め来(きた)る。

今日三百年を迎え檀信徒各位の協力により、位牌堂を建て替え、本堂内の仏具の修理、畳替えを終え堂内の荘厳倍増せり。

茲(ここ)に有縁の聖衆を屈摂(くつしよう)じて加持土砂の法筵(ほうえん)を開き、歴代尊霊並びに檀信徒各家先祖各霊の追福菩提を祈る。本尊藥師如来、三世の諸仏諸菩薩、大慈を垂れ亡者を摂受(しょうじゅ)して安楽浄土に引摂(いんじよう)し玉わんことを。・・・」

このように先代和尚がお読みになられたように、前回は本堂再建三百年祭ということもあり、堂内中央の大壇の漆の塗り替え、仏具、霊具膳など様々なものが修繕ないし新調され、真新しい設えのもと法会が執り行われました。お陰様で三十年経ちましても十分きれいなものばかりではありますが、この度は客殿の畳、仏像が置かれた壇の水引、本堂前の鰐口の紐などのみ新調いたしました。

皆様ご存知の通り、六年前の平成三十年のお涅槃では、上田修三仏師のもと仁王像の文化財保存修理が行われたわけですが、その頃より文化財としての國分寺の堂宇尊像に関心が向けられてまいりました。

そうした中、御開帳に併せるかのように、はからずも、令和三年、福山市文化観光振興部文化振興課(榊拓敏次長)の皆様による美術工芸品実態調査として十月二十九日、十一月二十二日の二日に亘り、本堂客殿大師堂の、主に仏像の調査が行われました。

日本美術史の立場から調査指導のためお越しになられた徳島文理大学濱田(はまだ)宣(あきら)教授の御指導の下、本堂内に仮設のスタジオが設けられ、全ての仏像が撮影されました。

いくつもの角度から撮影されたことから当初一日の予定でしたが二日に亘ることとなり、日本文化史の分野からの調査指導として福山大学柳川真由美准教授、また福山城博物館の皿海弘樹学芸員、文化振興課職員の皆様、七、八名の方々により、ひとつ一つの仏像を下におろし、丁寧にホコリを拭い、縦横像高を計り写真に撮っていかれました。

勿論この調査は市内に所在する全ての寺院神社が対象であり、令和三年から六年間を目途に実施されるものではあるのですが、現國分寺の文化財としての価値来歴をあきらかにする意味で誠に有り難いことでありました。

この度調査撮影された仏像の中からそのごく一部ではありますが、主な仏像を抽出し、特別に濱田教授が仏像それぞれに解説を附して下さり、『備後國分寺仏像図鑑』として、お涅槃の記念品として編集いたしましたのでご覧頂きたいと思います。

なお、今回のお涅槃における本尊御開帳法会での『慶讃文(けいさんもん)』は以下の通りです。

「謹み敬って真言教主大日如来両部界会諸尊聖衆。殊には、本尊藥師如来、日光月光、十二神将。総じては仏眼所照一切三宝の境界に申して言さく。

夫れ、藥師如来と者(いつぱ)、東方浄瑠璃世界に住して、いかなる有情(うじょう)にも一経其耳(いっきょうごに)の少縁、衆病悉除(しゅびょうしつじょ)の功(こう)ありと説き給えり。されど遡(さかのぼ)るに医王善逝(いおうぜんぜい)と別称せられ、良医に喩えられし釈尊と同体にして、迷悟の因果を明らかにして有情の悩苦を化益(けやく)する大悲心を薬師如来と言えり。

延宝元年、水害により廃滅したる堂宇を、中興一世快範上人晋山して、福山城主水野勝種侯大檀那となりて復興なし給えり。ここに開帳せし如来は、再建せられたる本堂の本尊として、日光月光十二神将と共に、元禄五年京仏師林右近(はやしうこん)氏により彫成されたる尊像なり。

先代和尚、平成六年本堂再建三百年祭を挙行して御開帳以来、三十年の年月、瞬刻に過ぎ、本日吉辰(きっしん)を卜(ぼく)し、神辺結衆諸大徳並びに有縁の名刹諸大徳に光臨賜り、稚児の先導を受け、当山檀信徒の総意を以て、本尊御開帳の法筵(ほうえん)を布(し)き奉(たてまつ)る。

本尊薬師如来、実に三百三十年の長きに亘り信徒の安寧と仏行の成満のために数多の参詣人を守護し来たる。当山檀信徒並びに今日参詣善男善女人、その恩恵に報いて厚く信仰の誠をここに捧げん。

仰ぎ願わくは、本尊薬師如来、法会所設の六種の妙供を哀愍納受(あいみんのうじゅ)して威光倍増し、広大慈悲の願望(がんもう)改むることなく、檀信徒各各の惑悩を平癒し、永く快楽(けらく)を与え給え。加えて、天童子(てんどうじ)に擬したる稚児らの健やかな成長と無病息災を祈るものなり。

重ねて乞う、
備之後州 國分精舎 伽藍安穏 
護持檀信 万邦協和 利益衆生 
今日参詣 随喜諸人 家門繁栄 
子孫長久 除災招福 如意円満
乃至法界 平等利益
干時令和六年三月三一日
 唐尾山國分寺中興十四世全雄敬白」

この度は三十年ぶりの御開帳ということもあり、平成十四年の現住晋山式にお招きした倉敷宝嶋寺(ほうとうじ)の釈子哲定僧正、総社西明寺(さいみょうじ)大畑哲俊僧正、東京西早稲田放生寺(ほうしょうじ)五島隆章僧正にも遠路遙々ご来駕(らいが)賜り、神辺結衆の御寺院様方とともに親しく法会にご参加いただきました。厚く御礼申し上げます。

お涅槃にあたり、この度も檀家各家には出費ご多端の折にもかかわらず涅槃会寄付を賜り、お陰様で本堂東側に昇降スロープ建設、大師堂再建、さらにはこうして本尊御開帳しての大法会を挙行することができました。ここに心よりお慶びと御礼を申し上げます。ありがとうございました。合掌       住持全雄
 

六大新報令和五年一月二十五日号掲載
薬師真言小呪の解釈について 


これは長年の難問でありました。薬師如来の真言(小呪)は意味不明であり、なぜ仏様の前でこの真言を唱え拝むのか、理解できなかったからです。お薬師様の真言とされるこの「オン・コロコロ・センダリマトウギ・ソワカ」は、いろいろな訳し方をされます。「仏様よ、早く人々の願いを成就したまえ」「帰依し奉る、病魔を除きたまえ払いたまえ、センダリやマトーギの福の神を動かしたまえ、薬師仏よ」「速疾に速疾に暴悪の相を有せるものよ、降伏の相に住せる象王よ、わが心病を除きたまえ、成就あらしめよ」などさまざまです。

御存じの通り、薬師真言として、以下の三種があります。
 小呪「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」
 中呪「オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」
 大呪「ノウボウ バギャバテイ バイセイジャ クロバイチョリヤ ハラバアランジャヤ タタ ギャタヤ アラカテイ サンミャク          サンボダヤ タニャタ オンバイセイゼイバイセイゼイ バイセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」

早速これら真言の意味について、手元の『真言事典』(八田幸雄著・平河出版刊)を参考に紐解いてみますと。小呪については、訳として「帰命、普き諸仏に。オーム、フルフル(欣快なるかな)、チャンダリ・マータンギ鬼女よ、スヴァーハー」とあり、これは解説に、不空訳『仏頂尊勝陀羅尼念誦儀軌(ぎき)法』の無能勝(むのうしよう)真言では、nama samanta-buddhānāmuを冠す、とあることから、冒頭に「帰命普き諸仏に」と挿入されています。

では、チャンダリとは何かといえば、candāliは『梵和大辞典(山喜房仏書林)』に、旃陀羅(せんだら)家女とあり、candālaは、社会の最下層の人(シュードラの男とブラフマナの女との間に生まれた混血種姓にして一般に蔑視し嫌悪せられる)とあります。漢訳では、屠種(としゆ)、下賤種、執暴悪人など。また、現代ヒンディー語でチャンダーラと言えば、不可触の一種姓を意味します。

また、マータンギは、mātangaを『梵和大辞典』で引けば、象、または象たる主な最上の者とはありますが、最下級の種姓の人[candāla]ともあり、漢訳ではやはり下賤種、旃陀羅摩登伽種となります。いずれにせよ、チャンダリとマータンギは、インド社会の中で最も虐げられた下層の人々を指すと考えられます。

なお、スヴァーハーは、svāhāを『梵和大辞典』で引けば、「幸あれ、祝福あれ」とあり、現代ヒンディー語では、供儀の際に発する言葉として「(神に)捧げ奉る」と訳すようです。

また、中呪は大呪をつづめたものに他ならないので、大呪の意味を確認してみますと、『真言事典』の大呪の訳には、「帰命し奉る、世尊薬師瑠璃光如来、阿羅漢、等正覚に。オーム、医薬尊よ、医薬尊よ、医薬来生尊よ。スヴァーハー」とあります。

もとより調べをしてみればこのような意味合いとなることを存じておりましたので、冒頭にあげた小呪の訳し方を、どのように受け入れたらよいか解らなかったのでした。

しかし二年前のことにはなりますが、本尊薬師如来の供養法を修法していて、入我我入観から正念誦にうつる時、お薬師様の願いはと心を向けた瞬間に、これまでの疑念が一瞬にして溶解しました。

その時、頭にひらめいたのは、これは薬師如来の心の底から起こってくる願い、誓願であって、社会の最下層の人々、虐げられて痛ましいチャンダリマータンギの人々こそ救われて欲しい、その人たちが救われるならば、すべての者たちもより良くあるはずである、そしてすべてのものたちの悩み苦しみがなくなり、生きとし生けるものたちが幸せであって欲しいというお薬師様の願いを最も短い言葉で表現したものに違いないと思えたのです。

その後、そのようなことをある方と話しておりましたら、「いやいやセンダリマトウギは、そういう意味ではあるけれども、転じて仏教を外護する役割をもつようになったんだよ」とご指導いただきました。勿論、だからこそ冒頭にも述べたこの真言の訳し方の事例にあるように「センダリやマトウギの福の神」にもなるし、「降伏の相に住せる象王」という表現にもなるのでしょう。がしかし、はたしてそのような解釈でよいのであろうかということなのです。

そこで、さらに調べを進めておりましたところ、『梵字悉曇(ぼんじしつたん)(田久保周誉著・平河出版社)』三・梵字真言集二一五頁に、薬師如来真言を「唵 喜ばしきことよ。旃蛇利・摩登祗女神は(守護したまえり)」と訳された上で、?マークが付加されていました。解説には、「この真言は『薬師如来観行儀軌法』等に見える薬師如来の小呪である。呼鑪呼鑪(ころころ)は歓喜の間投詞である。戦駄利(旃蛇梨正しくはcandali)は古代インド社会階級のうち、最下層に属する卑族旃陀羅の女性名詞、摩蹬祗(まとうぎ)はその別名であり、悪徳者と見做されていたが、仏の教化によって衆生の守護者に転じたと伝えられる女神である。・・・この真言に薬師如来の尊名がなく、鬼女神の名のみを挙げてあるのは、薬師如来の生死の煩悩を除く本願力を、鬼女神擁護の伝説に喩説したものであろう」とあります。

このように、仏の教化によってチャンダリ・マータンギ鬼女が衆生の守護者に転じたとあるのですが、ですが、だからといって、なぜ教化せしめた側がその者の名前をわざわざ真言の中に、それも、その者の名前だけを入れ込まねばならないのかが問われねばならないでしょう。

この真言(小呪)の出典とある『薬師如来観行儀軌法(かんぎょうぎきほう)』は八世紀初めに金剛智により漢訳されています。密教的要素が多分に含まれるとされる『薬師如来本願功徳経』など薬師経は、五世紀頃中国で漢訳されていますが、薬師経には大呪は説かれますが、小呪は説かれていません。それよりも一世紀ほど早い三世紀末成立とされる雑密経典に『摩登伽経』があり、これが『梵字悉曇』に説かれている卑族旃陀羅教化の出典であろうと思われます。

『大正新修大蔵経』からの引用と思われる『佛弟子傳(山邊修学著・無我山房刊)』五一二頁よりその和訳された内容を要約してみますと。

「お釈迦様の侍者であったアーナンダが旃陀羅種のマータンギの娘から水を飲ませてもらったことに起因して、その娘がアーナンダに恋慕の情を募らせます。そこで、その呪師である母親は、娘の願いをかなえるために、牛糞を塗って壇を築き護摩を焚いて呪を唱えながら蓮華を百八枚投じる呪術をおこなうと、アーナンダはこころ迷乱してその家に誘導されて行きます。天眼をもってそのことを知ったお釈迦様は「戒の池、清らにして衆生の煩悩を洗ふ。智者この池に入らば無明(むみょう)の闇消えむ。まこと此の流れに入りし我ならば禍を弟子は逃れむ」と偈文を唱えてアーナンダを救います。

しかしその後も、娘のアーナンダに対する恋慕は止むことなく、町に出たアーナンダの歩く後ろに付き従い祇園精舎にまで足を踏み入れてしまいます。それを知ったアーナンダはその恥ずかしさ浅ましさから、そのことをお釈迦様に申し上げます。すると、お釈迦様は娘を呼び、アーナンダの妻になるには出家せねばならぬと語り、父母に了解をとらせてから髪を剃り出家せしめます。そして、「娘よ、色欲は火のように自分を焼き、人を焼く。愚痴の凡夫は、灯に寄る蛾のように炎の中に身を投げんとする。智者はこれと違い色欲を遠ざけて静かな楽しみを味わう。・・・」などと様々に教化されました。すると、白衣が色に染まるように娘の心の垢が去って清涼の池に蘇り、遂に悟りを開いて比丘尼となったということです。」

こうした話が仏典にあり、またこれより後には、呪術をつかさどる力あるものとして伝承されたためか、ヒンドゥー教ではいつの時代からかチャンダリマータンギは女神としての尊格を与えられてまいります。そして、最下層の人々が礼拝していたとされるマータンギー女神となり、穢れを嫌わぬ禁忌のない音楽芸術をつかさどる神としてダス・マハーヴィディヤー(十人の偉大な知識の女神)の一尊としても尊崇されているようです。

しかしだからといって、薬師如来の真言に、その女神の名が用いられたとするのはいかがなものであろうかと思うのです。ましてや、その神としての力を念じて、その力によって人々の病魔を除き給え、心病を除き給えと念じるというのは、仏教徒として肯定し得ない解釈とは言えないでしょうか。教化した仏が教え諭した者の名前を唱えて、そのヒンドゥーの女神の呪力によって人々の願いを叶えるなどという解釈はあり得ないことであろうと思います。

私がこのように解するのは薬師如来はお釈迦様と本来同体と考えるからです。『密教辞典(佐和隆研編・法蔵館)』六八〇頁[薬師如来]の項に、「医王善逝などの名は本来は釈迦牟尼の別称で、世間の良医に喩えて釈迦が迷悟の因果を明確にして有情の悩苦を化益する意であるが、釈迦の救済活動面を具体的に表現した如来である。世間・出世間に通じる妙薬を与える。」とあります。また、「釈迦如来と同体説:薬師の真言が無能勝明王の真言に同じである。同明王は釈迦の化身であ」る、などと記されています。

そこで、小呪が薬師の真言とされるのはずっと後のこととはいえ、薬師如来というよりも医王、釈迦仏一尊から諸仏が発生する原初の仏として、お薬師様を捉えて考えてみてはいかがであろうかと思うのです。

そこで、この「オン・コロコロ・センダリマトウギ・ソワカ」をあらためていかに解すべきかと考えるならば、「オーン、フルフルと速疾に、社会の中で最下層のセンダリ・マトウギたちに、幸あらんことを、(そしてすべての生き物たちが苦悩なく幸福であらんことを)」との意味から、お薬師様の誓願として、次のように意訳してみたいと思います。「すみやかに最下層にある者たちが救われ、すべての生きとし生けるものたちがもろともに痛みなく、悩みなく、苦しみなく、しあわせであらんことを」と。

お釈迦様は、何の躊躇もなく、まさに世間では卑しいとされ蔑まれていた旃陀羅種のマータンギの娘を教化されました。その教化せんとされた思いは、四姓の別なくすべてのものたちがよくあってほしい、救われてほしいと願われる慈悲の心から生じたものでありましょう。心身の病による苦は癒やされ、安楽なることを願う、一切の衆生に利益を与えんとされる医王であるお釈迦様の心、それこそがお薬師様であります。その心に随喜してともに念じさせていただくのだと思って、この真言をお唱えしたいと思うのです。

もちろんこれが正解というようなものではございません。このような解釈のもとに唱えることが私にとり一番素直な気持ちでお唱えできるというに過ぎません。皆様からの忌憚のないご教示を賜りたいと存じます。

(尚本稿は本誌令和二年四月号に掲載した「藥師如来の真言はなぜオンコロコロなのか」を修正補足したものです)


十善会蔵版 明治二十八年四月十五日
雲照和上の御講演(東京三浦家にて) 現代語訳横山全雄

 『十善の法話』 上

 
さて、十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)とは、人の人たる道であり、一切万善の根本道徳の標準であります。仮にも人の道徳の標準であるならば、世界のどこにあっても修めなくてはならないものです。富める人はますます修すべきであり、貧しい人もますます行わなければならない生き方であります。ですが、この十善は自然に表れる徳であり、この世の真理が顕われるものであるので、ことさら仏教の十善ということではありません。仮にも人として生まれ人としてあるからには、この十善に依らねばならないのです。

君主に仕えて忠誠を尽そうとする者、父母に仕えて孝をなそうとする者、官僚となりて人々を指導する者、教師となって生徒を教育する者、上は天皇陛下をはじめ、下は一般市民に至るまで、等しく行わねばならないものはただこの十善のみなのです。ですからこの十善を他にして忠も孝も願っても決して得られるものではないのです。

私が以前京都から東京に来るときに、船中で津田何某という人があり、私に、自分は幼少の頃西洋に行き数年過ごしたことがあり、外国の言葉などに不自由はないが、自分の国のことを知らないのです。あちらにある時友人が私に、日本の宗教の教えはどのようなものかと問われましたが、答えられず赤面したようなことなのです。今仏教を学ぼうとするなら何宗によるなら仏教の大意を知ることができるでしょうかと。

私は答えるに、いま諸宗の中の何宗を学んでも仏教の大意、そのおおよそのことを知ることはできないでしょう。どうしてかと言えば、例えばここに樹木あって、東にある枝は枝葉が東を向いて西には向かわず、西にある枝は枝葉がみな西に向かって東には向いていません。南北の枝葉もまた皆同様です。もしも人がその枝葉に、その樹木の方向を問うならば、東の枝はこの木は東の方向に向かっていて西には向かわないと言うでしょう。西の枝はこの木は西の方向に向かっていて東には向かわないと言うでしょう。南北の枝もまた同じように言うことでしょう。

一日中このことを尋ねていても結局樹木の方向を知ることはできません。ですが、もしもその枝葉を捨てて、その根幹について見てみるならば木の中心は上に立ち上がり空に向かっている様が見えてきます。すると東に出る枝もあり、西に向いている枝もあることがわかります。あるいは、南北に出ている枝もあります。しかも東西南北の各々向かう方向は異なりますが、その幹は一つであって、背いて離れることもないことが知られるのです。もしもその根本を捨てて、むだに枝葉について見るならば東西南北それぞれ誤り、ついにその樹木の全体を知ることはできないでしょう。

このことと同様に、もしも仏教の根本を知らないのに、たとえ八宗九宗を研究しても、ついに仏教のおおよそのことを知ることはできません。どうしてかと言えば、甲という宗派は念仏によらなければ成仏することはできないとして、題目など唱えてはいけない、唱えれば妨げとなる行となって往生できなくなると。乙なる宗派はいや題目でなければ成仏しない、念仏すれば題目を唱える功徳が消えてしまうと。

丙なる宗派は念仏を唱えたり題目を唱えたりというのはこれはみな顕教の説くところであって、今生で成仏する教えではないのです。ひたすら真言を唱えなさいと。あるいは、念仏も題目も真言もみなだめであると、本当の自分の、心の中の仏心を見つめそれになりきることこそ、この道の真実であるといい、ただ黙して坐りなさいと。つまり甲のよしとすることは乙が否定し、乙の正しいとすることを丙は正しくないとする。一日中八宗を探し九宗の門を叩くとも、ついに仏教の何たるかを知ることができないばかりか、疑念を抱いて、かえって学ばない方がよかったということになるでしょう。

では、いかにしたらよいのでしょうか。それは、ただその根本を求めればよいのであります。もしもその根本のところがわかるならば、枝葉はおのずから明らかになり、天台を学ぶもよし、そうすれば天台の教えから仏教の本来のあり方がわかることでしょう。あるいは禅や浄土の教えを学ぶのもよいでしょう。禅浄土の教えから仏教の本来がわかるというものです。さらに、甲の言うことも乙の言うことも、それぞれの主旨がわかり互いに妨げるものでもなく、甲をまっとうすることも仏教、乙をまっとうすることも仏教であるとわかります。あたかも東の枝もあって、西の枝もあることで同じ一樹木であるようなものです。つまりそれは他でもなく、仏教の根本のおおよそを了解することです。

その根本とは何かといえば、十善十悪因果応報の真理のことであります。お釈迦様が三大阿僧祇(あそうぎ)と言われる果てしない時間の間修行してこられたのもこの真理を研究し体得するためだったのです。五十年余りの説法である八万四千の法門もこの真理をおし広げて説明し、展開したものであって、この天地世界に起こる様々な出来事、苦も楽も、窮することも達成されることも、各々その違いが起こる所以(ゆえん)、広く十方世界にわたり様々に異なる理由を探求するとき、この真理に依らなければ到底知りえないのであります。

まさにこの原因結果という言葉は今日世間において、いたるところで語られないことはないでしょう。ですが、世の人々が言うところはただ目の前の原因結果だけを言うのであって、過去や未来に及ぶものではなく、ただ自分一人に現れ見る、この一生のことに過ぎません。ですが、この目の前の一生のことですら、原因と結果と符合しないこともあります。言い換えると、豆の実を蒔いて麦を収穫したり、麦の種を蒔いて米を収穫するというような不思議なことです。

どのようなことかといえば現実に、生涯務めて汗を流し困苦しても、十分に飲み食いもできず着るものも満足でない者があります。また日夜学業に励み人の倍もの努力をしてもその結果は平均程度にしかならない者があります。あるいは、怠慢であるにもかかわらず博識の者があり、遊び惚けているのに生涯余りある衣食にあずかり困る事のない者があります。

こうした事柄は世の中には現実に少ないことではありません。これすなわち、原因と結果と相反するものがあるということです。もし世間で実に勉強する者がことごとく学者となり、仕事もせずにブラブラしているものがみな困窮するのであれば、すなわち世の中の人が言うような一生の間に眼に見ることのできる程度の原因結果で事足りることでしょう。ですが、この世の中のことは決してそのようにはならないことはみな人の知るところです。

またたとえ勉強して博学者となったとしても、その勉強して博学となることの原因は何から来たのかと問うならば人は答えることができないでしょう。どうしてかといえば、もしも父母が元手を出し身体も健康で、またもとから利発であり、精神的にもしっかりして勉強することができるとしても、その精神や幸福がどういう原因から来たのかと、そのよってきたるところを尋ねる時は、必ず何の原因をもってこの精神を受けることができたのかと問わねばならず、ついに五里霧中に茫然とならざるを得ないでしょう。これは人が浅き知恵でもって目に見ているこの一生のことの他に過去も未来もあることを知らないが故の狭い考えから出た根拠のない思い込みであって、人は死後我は断絶して無に帰するとする断見(だんけん)、あるいは、世界は永遠で自我も死後まで不滅であると執着する常見(じようけん)に惑わされているからであります。

ですから、ここに仏世尊があり、この迷える者を憐れみ大覚の悟りを開いて、私たちのために迷い転じて開悟して妙なる教えを説きあらわされたのです。この生死の冥暗の中において燎然たる火を観るがごとくあるものは、ただこの三世因果善悪応報の真理のみなのです。もし今この三世因果の真理によって世間を照見するならば、その勉強してもそれでも貧困をもたらすかのように見える者は、これは勉強が原因で貧困の結果をもたらしたのではなく、過去世における人を困らせ苦しめた原因が今日に結果を顕して貧困を受けているのです。いわゆる貧困の原因とは財を貪り、施さず、かえって他人の財をかすめ取り他を苦しめる所業(しよぎよう)が今日に結果して自分の困苦となっているのです。

またこれに反して、生まれながら聡明で利発で活発な人は前世において学を修め知恵を磨き徳を積んで慈善に努めた結果が今日に現れ、慈悲深い父母に愛され教育を受けて生来の智力をもってますます増進発達する結果となるのです。こうして見てみると、たとえ勉強して今世についにその好結果が顕われなくとも、その勉強の功徳は無駄になることはなく、現世にその結果を得られなくても未来において必ずその結果を得ることができるのです。

またこれに反して、仕事もせずブラブラしている者が生涯困苦を感じることなく生きられるというのも、遊び惚けていることが原因で安楽を得ているのではなく、その安楽を得ている原因は過去世において他人に慈善を施し人に安楽を与えた原因が今日に結果して困苦を感じない一生を過ごせているにすぎないのです。ですが、いま遊び惚けていて善行に励むことがなければ必ず未来に困苦することは疑うべくもない真理の当然の結果であります。今仕事も満足にせず遊び惚(ほう)けて困苦を感じないからと自ら奢り努力しない時は未来に必ず激しい苦しみを感じ安楽な日がなくなることでしょう。

このように広く三世にわたる原因結果を見ていくと一事一物として疑うべき事柄もなくなり善因善果悪因悪報の法則明らかとなり判断に苦しむようなこともないのです。これすなわち大聖世尊が三大阿僧祇劫(あそうぎこう)の修行によって、あらゆる現象が具えている真実不変の本性である深い真理をご覧になり、その至らぬところがなき智慧によって達観なされたものであるが故なのであります。

ですから、心から道徳というものを志そうとする者は深くこの意をくんで、篤く因果を信じて勉めて十善を行じ、また人にも善悪因果の真理を信じて十善を行うように勧めるべきなのです。もしこのようになる時は、天下に正しく道徳がゆきわたり行われないところがなくなるでしょう。これは真に正しき道徳であり、人の人たる道というべきものです。もしもこれに反する人は、果てしないこの世とはいえ身を置く場を失うことでしょう。だから疾く勉めるべきなのです。

私はかつて新潟県に行ったとき、壁に大きな字で書かれた書軸が掛けられていたことがあります。これは五歳の子供が書いたもので、その運筆が見事で筆勢は力があり、実に大人の書家にも及ばないほどで驚いたことがあります。五歳といっても満三年の子供で、その運筆を習うと言ってもまだ一年足らずとのことでした。しかしその書は大人の書家の数年もの刻苦も及ばないほどで、私の見るところ、世の人のいわゆる原因結果をもって論じるならば、この訳が判ろうはずもないのです。

ですが、今私の因果応報の真理をもって見るならば、決して怪しむべきことではなく、その生まれながらに書をよくする人は、いわゆる前生において、かつて書芸に勉めた原因が報いて今日の身に顕れたということでしょう。この理によってこれを見るに、今わが国の四千万の人々が、その苦を味わえるものと楽を味わえるもの、困窮せるものと栄達せるもの、賢こきものとそうでないもの、才能あるものとなきものと、各々四千万種に分かれる様相は、その原因にそれぞれ違いがあるからなのであります。

一切のこの世のことは、一事一物として同じものがないのは、この原因がみな様々だからなのです。だからその結果であるものごとはみなそれぞれに異なるのです。ですから、かの他宗教が一切の万物をもって一神の所造とするようなことは大いにこの真理に反するものであって、奇観を呈するものといえましょう。

今喩えをもってこれを示してみると、ここに金平糖を製造する器械があるとして、一つの銅の鍋の中に一度につくるとその数は百千万粒とはいえ、みな同質同形でその甘味もまた同じになります。決して大小長短はありません。このように百千万粒がこのように皆同じようになるのは他でもなく、その原因である製造する人も、器械も砂糖などの材料もみな同一のものをもってつくるからです。この百千万粒の原因がみな同じだからその結果においてもまた同質同形同一となり大小長短がないのです。もとより原因結果の天則であり、疑うべきことではありません。

ですから、かの天主は何をもって同一の神が同一の人種同一の天地空気世界をもって製造しながら、同一の人間をつくることができず、千万無量に差別されるのでしょうか。今一歩譲って、同一の日本人にあっては、同一の人種であるのでまさかその身の丈一丈六尺などということなく、ただ五六尺と大差なくよしとするとしても、そのこころ性質はみな少しも似通っているということはありません。その心のはなはだ甘いものがあれば辛いものもあり、はなはだにがいものも、渋いものも固いものもあります。薬となるものがあり、毒を含むものもあり、はなはだしいものは日本人にして日本人ではないようなものもあります。

どうしてこのような違いが生じるのでしょうか。一つの器械の中で一度につくる金平糖が辛かったり、苦かったり、あるいは毒気を含むものがあればそれはまた奇妙なものといえましょう。物理に適さないこととはこうしたことでしょう。ですから、いまこの因果応報の真理、原因結果の天則をもってこれらを見ていくならば晴天に太陽を望むがごとく、まことに明瞭なことなのです。

このように深く因果応報の真理をあきらかなものと認識したならば、たとえ人が十善は行わないと言っても行わざるを得ず、十悪をなそうと努力したとしてもできないものなのです。ですからつまり善なることにはたとえ少しでも喜び励んで務め、悪いことにはわずかなことでも恐れて避けるべきなのです。このように了解したならば、この応報の真理ほど愉快に喜ばしいものはないのです。さすればこのことを父母親族はもちろんのこと、一郡一国に及ぼして、この世のすべての人たちにこの真理に安住してもらうように勉めるべきであり、それは教主釈尊の説かれた自利利他の善行による最も大事な因縁の教えなのであります。つづく



団体参拝の皆様に
「仏さまの声なき説法を聞く」


ようこそお参り下さいました。はじめに、國分寺の本尊様は秘仏となっておりまして、常に扉が閉まっております。多くのお寺でこのように扉を閉めたままの秘仏というところがあるわけですが、なぜ秘仏にしているのでしょうか。

一つには神秘性の強調といわれます。また、秘仏ですと御開帳したとき、仏様が目の前に姿を表す疑似体験ができるからとする人もあります。また、保存のためだと言われますが、河内長野の観心寺の国宝如意輪観音様も、美しい原色の仏さまですが、国宝に指定されてからやはり毎年のご開帳で傷んできたと言われています。

それで、私の考えはというと、仏様は形ではないよということではないかと思っています。どうしても私たちは形にこだわってしまう。形からはいると鑑賞してしまうんですね。

東京の国立博物館で、国内のものとしては最高の入館者があったと言われます、あの阿修羅像にしてもそうです。はたして八十万人のうち合掌して礼拝して、ご覧になった方が何人おられたでしょうか。

姿形から何かを得ることもあるかもしれませんが、その仏様が自分にとってどれだけ意味のあるものか、価値のあるものかという観点から接していないのです。

ところで、「山川草木悉有仏性(さんせんそうぼくしつうぶっしょう)」という言葉があります。やまかわくさきで、さんせんそうぼく。しつうは、ことごとくある。ぶっしょうは、ほとけのせいしつと書きます。山も川も草木もみんな仏様なんだという意味です。「山川草木悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」とも、また「草木成仏」とも言うようですが。

環境問題の会合でも、時折この言葉が使われ、みんな仏様なんだから大切にしなくてはいけない、仏教はいいことを言うなぁと、まあそんな言い方もされているようです。

ですが、山も川も仏様というのは本当でしょうか。私はどうもへそ曲がりでして、本当かなと。で、どうして山も川も仏様なのか、この言葉の意味するところが私は分かりませんで、長年分からなかったのです。ですが、ある時、閃きまして、そうかと。

それは、仏様というのは何かと言えば、法を説く者、真理を説く人のことです。そして、山や川や草木はというと、それらをよくよく観察してみると、みんな自然の中でそのまま森羅万象の摂理、この世の真理を私たちに表現して説法してくれていると見ていくことが出来ます。だから仏様なのだと。そう思えたのです。いかがでしょうか、山も川も常に移り変わり、草木も一つとして同じものがない、周りの影響を受け常に変化している、無常や無我という真理をそのまま示してくれています。

そう捉えると山も川も草木もちゃんと仏様なんだということになります。ただ受け取る側がきちんとその説法を聞く受け取る努力をしなくてはいけないということになります。

そこで、そのように自然を見るのと同じように、仏像を前にしたときも、姿形を見るだけではなくて、その仏様がお説きになっている教え、その説法の声なき声、メッセージを聞く味わうという努力を私たちはしなくてはいけないのではないかと思うのです。

それで、これからそのように、この本堂の仏様がたの説法、メッセージとはどのようなものかという観点からいくつか見ていこうと思います。

まず、本尊様お薬師様は、薬の師、薬の先生と書きますように、私たちの体や心の病を癒してくださる仏様です。が、本堂の入り口の外の扁額に「醫王閣」と書いてありまして、別名を医王、医者の王様な訳です。ですが、その昔インドで医王と言うとお釈迦様ご本人を指していました。

お釈迦様のところに行くと誰でも癒されてしまう。その説法も当時の医者の診断処方の仕方にそうようなものだったと言われています。とても科学的論理的なお話をなさった。だから医王と言われたわけです。

それでどんなことをお話しになったかというと、生きるとは総じて苦である、ではなぜ苦しむのか、本来目指すべき幸せとは何か、そこに至るためにいかに生きるべきかということを諄々とお話しになったのです。

これを四つの聖なる真理と言いますが、短くお薬師様のと言いますか、このお釈迦様のメッセージを申し上げますと、「悩み苦しみ多い人生ですが、自分、自分というとらわれを捨てて、きれいさっぱりした安らいだ心で、苦しんでいる人たち、生きとし生けるものたちにも同じように安らぎが訪れ幸せでありますようにと願い行動しよう」ということになろうかと思います。

そして、お薬師様の脇侍として日光月光両菩薩が厨子の中に一緒に祀られています。それから、インドの古い神である十二神将が厨子の両脇に祀られ、そして右奥には真言宗祖弘法大師空海上人、そして地蔵菩薩が祀られています。

お地蔵様のメッセージというと皆さんお分かりでしょうか。涎掛け(よだれかけ)をつけていたりしますから、早くに亡くなったお子さんの霊を救ってくださると言われます。が、それもあるのですが、本来は、六道(ろくどう)に輪廻(りんね)する衆生の信心に応えてお救い下さる仏様です。ですから、六地蔵として祀られていますね。そのメッセージというのはいかがなものでしょうか。
「私たちは、みんな死んで終わりではなく、生まれ変わり生きていかねばなりません。地獄餓鬼畜生などに転生しないように、善きことに励みしっかり生きよ。でも万が一苦界に行ったときに困らぬよう信心ごころだけは忘れずに」と、それがお地蔵様のメッセージであろうかと思います。

そして、胎蔵界、金剛界の曼荼羅があり、左奥には奈良時代の高僧・行基(ぎょうき)菩薩、観音菩薩が祀られています。

観音様をご信仰なされている人はありますか。慈みの心をもって苦しんでいる人困っている人と同じ立場お姿になってお救い下さるという観音様ですが。ただ合掌してお救い下さい、助けて下さいというのではやはりいけないわけで、「皆さんも一緒に観音となって周りの人たちを助けてあげよう。共に寄り添うという思いをもって、誰彼となく差別したり分け隔てをしないように」というのが観音様のメッセージではないかと思います。

それから左奥には、隣の八幡神社のご神体であった本地仏(ほんじぶつ)を明治以降お預かりしてお祀りしています。

ところで、沢山の仏様がこのようにそれぞれのメッセージを表現されておられるわけですが、この本堂の中心はどこだと、思われますか。本尊様でしょうか。

実はこの大壇(だいだん)と言っておりますが、この正方形の壇こそが本堂の中心なのです。真言宗寺院の他にない特徴と言えます。拝む仏様にこちらにお越し願ってこの塔の中の小さな仏様の御像にお招きします。この前にある礼盤(らいはん)に座った導師がその仏様と一体になって供養をして、正にここに仏様が顕現しているとして、様々な御祈願を致します。ですから、まあ、一番ありがたい場所ということになるのです。

いろいろと器がありますが、香を焚く火舎(かしゃ)、それに六器(ろっき)、飯器(ぼんき)、華甁(けびょう)などがあり、それらに盛られた御供えをお招きした仏様に供養するという設(しつら)えになっています。

以上、お祀りしている主な仏様がたのそれぞれの声なき説法と言いますか、発しておられるだろうメッセージを聞くという観点から少しお話しをさせていただきました。

いかがでしたでしょうか。仏様がたの願いは、「私たちを慈悲深く見守ってくださっているというよりも、やはり、しっかりと仏様のメッセージを体して信仰の生活に励んで下さい」というエールを私たちに送って下さっているのではないかと思います。

皆様も団体参拝の旅の後は、是非いろいろと疑問を持って仏教を探求し、仏様方の声なき声に耳を澄ませていただけたらと思います。
本日はご参詣いただき誠に有り難う御座いました。



【國分寺通信】
◯この度は、備後國分寺の涅槃会(ねはんえ)並びに稚児行列、御開帳法会、そして土砂加持法会にご参詣いただき、誠に有り難うございました。土砂加持法会は毎年四月の第一日曜日に執り行いますが、六年に一度、こうして朝からお釈迦様の御入滅を追慕して涅槃会を修し、天童子に擬した稚児の行列に先導してもらって、法会を営む大行事を行っております。今年は三十年ぶりの本尊御開帳も併せ行いました。また三十年後にも御開帳が出来ますかどうか。次の住職にご期待いただきたいと思います。

◯涅槃会は、常楽会ともいい、本来お釈迦様の亡くなられた二月十五日に行われます。鎌倉時代の高僧明惠(みょうえ)上人作の四座講式(しざこうしき)が唱えあげられる法会で、(涅槃講(ねはんこう))御入滅の功徳を讃えて供養を捧げ、(羅漢講(らかんこう))十六羅漢ら弟子たちの法灯護持の徳を称え、(遺跡講(ゆいせっこう))各地にあるお釈迦様の遺跡について功徳を嘆じ、(舎利講(しゃりこう))ご遺骨である舎利の功徳を讃嘆する、つごう四座を十四日の夜から翌十五日午前中まで一晩かけてお勤めされるものです。神辺の真言宗寺院では、それらを毎年一座ずつお唱えする涅槃会を、三月末頃に執行しています。来年は平野の法楽寺様にて行われる予定です。

◯左記の毎月行っている月例行事には、どうぞお気軽にご参加下さい。坐禅会は、歩行禅の後、三十分の坐禅を二回いたします。仏教懇話会では、五月ころから今回の御開帳にあわせ発行した記念誌を読みながらお話する予定です。


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菩薩の十善について

2024年07月14日 20時00分27秒 | 仏教に関する様々なお話
菩薩の十善について  昨日の法話に加筆して


今日は、〇年前にお亡くなりになられたお母さんのために、こうして遠方からもお集まりになられご苦労様です。〇年の間にご家族も増えそれぞれに年齢を重ねました。故人もそうした年数を経てなお思い出して法要を営んでくれたことに感謝されていることと思います。

今長い長いお経を聞いて下さり、また一緒に勤行次第をお唱えしました。はじめに礼拝があり三宝に帰依されたわけですが、礼拝する仏さまは最高の悟りを得られて、人として最高の人格を得られた方であり、その方を礼拝する帰依するというのは、あまり意識されていないとは思いますが、仏さまを自分の理想として人生の目標として生きるということです。そういう意味において法事を営むというのは皆様一人一人にとり誠に意味深いものだということをまずは申し上げておきたいと思います。

ところで、今年六月天皇皇后両陛下はイギリス皇室の招待でイギリスを訪問され、歓迎祝賀、晩餐会など大歓迎を受けられました。特に、共に留学されたオックスフォード大学時代を懐かしがられたとか。そんなこともあってか、留学時代の映像が何度も報道されていました。陛下にとってのイギリス留学の二年間はご自身の宝物とさえ言われて著作も残されています。

陛下は昭和三十五年二月二十三日のお生まれです。実は私も同年の三月初めに生まれており、十日ほどの違いに過ぎません。私にとっても、高野山での一年、インドでの三年ほどの期間は宝物に思えますが、陛下は留学時代は何でも自分の考えですることが出来たのがとてもうれしく思えたと心情を吐露されています。つまりはそれ以外の時間はすべて思い通りにならないことばかりとも言えるわけで、皇室の生活とはさぞ窮屈なことなのであろうと想像されるのです。

それでも私は毎日五時に鐘を撞き御供えをしてお勤めして、境内の草を取ってと毎日同じ事の繰り返しの生活をしていて、やはり陛下のお姿をテレビなどで拝見するとこの違いは何なのだろうなどと馬鹿なことを考える訳です。

明治の傑僧と言われ、伊藤博文、大隈重信、山県有朋など明治の元勲の師とも称され、東京目白に僧園を造り、そこに皇室や政界官界軍人など名士が大勢足を運ばれ、教えを乞われた釋雲照律師という、まさに生き仏のようだったと言われるほどの名僧がおられました。この方の著作の中に、天子となられるお方は、前世で菩薩の十善を完璧に行じられて、一切の悪をなさず、一切の善行を行い、慈悲に基づく一切の利他を行じ、すべての衆生をわが子のようにご覧になり、慈悲をもって憐れんだ功徳により、この世にお生まれになるときにそれに相応しきお方のお腹に入られるのだとあります。だからこそ陛下に相応しきお方となられるのであり、だからこそ天皇という位のお勤めをなされることが出来るのだというわけです。

アショーカ王という、二千三百年ほど前のインドで初めて統一するマウリア王朝の大王ですが、この方は前世で貧しかったのですが、道ばたのゴミのような物でもきれいに洗いそれを神様に御供えをした、その功徳によって大王になられたとインドでは言われています。

話変わりますが、私は神辺に来て二十五年になります。生まれた家には仏壇もなく、お寺との縁も何もありませんでした。ですが、訳あって仏教を学び、高野山の学院を終えてから十年ほど、インドや四国を歩いて、そのお蔭で、やっとのこと四十になって國分寺に入寺しました。

神辺や福山の他のお寺さん方は生まれたときから、それに相応しい徳を持って生まれ、立派な御父様から仕込まれて、みな真面目で筋の良い方ばかりです。皆さん相応しい前世を過ごされて功徳を積まれてお生まれになったということだと思います。私には前世でゴミを洗い仏さまに御供えする功徳が少しでもあったのかどうか。

前世があって今生があり、今があります。インドでは輪廻するんだと、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天に生まれ変わるんだと信じられていますが、とにかく前世で培った業がよかったので私たちは人間界に生まれることができました。ですが、人間界も様々ですから、前世までの業によって生まれるべきところに生まれ、いま縁あって存在しているところにあるべくしてあるということにもなります。

ですからどこでもない今いるところで生きていく、インドの仏教徒は来世はもう少し経済的にも恵まれたところに生まれるようにたくさん功徳を積むのだと言います。私たちも同様に何度も生まれ変わりながら少しずつでも心を清らかにするように仏様のところに近づいていく生き方をしなくてはいけないのです。では、どうすべきか。天皇陛下が前世でなされたといわれるように、菩薩の十善に精進することが最善のことだとは思えるのですが、勤行次第にある十善戒は、止善についての内容です。悪いことをしないという善行です。その上に行善という、善いことを行う善行があるのだといいます。

不殺生の行善は、生き物を殺さないというだけに終わらずに、生き物を育て放つことです。不偸盗は、与えられていないものを盗らなければよいというのでなしに、自分のもてる物を必要とする者たちに与えることです。不邪淫は、相手を敬い清潔な関係を保つことです。

不妄語は、誠実な心を保ち、常に真実を語ること。不悪口は、常に心穏やかに相手に寄り添い、誰に対してもきれいな言葉で語ること。不綺語は、自分が良くありたい良く思われたいという気持ちをなくし賢者聖人の言葉について語ることです。不両舌とは、他者との関係において仲良く和合すること。

不慳貪とは、小欲知足を保ち、他者に施したり施す人の行為に賛同し随喜することです。不瞋恚とは、相手を敬い慈しみの心を保つこと。 不邪見とは、この世の因果道理をもってものごとを考え、心安らかに落ち着いた心を養うことです。

このように行善を止善とともに行じて功徳を養い、菩薩の十善を完成させて、私たちもより善い所に来世生まれ変われるようにしたいものです。



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雲照律師ゆかりの島根の寺院参拝の記

2024年07月05日 17時26分42秒 | 仏教に関する様々なお話
雲照律師ゆかりの島根の寺院参拝の記

七月二日三日と、雲照律師ゆかりの寺院を参拝した。その日は大雨の予報があり、決行が危ぶまれたが、一時間毎の天気予報では二日午後からは島根県は小降りになるとのことだったので、強く雨の降る中、神辺町御領から車で出雲方面に向かう。尾道自動車道から松江道に入る頃にはまだ強く雨が降っていたが、島根県に入る頃から雨脚が弱まり、出雲自動車道に入り出雲インターで下道に下りる。

まず向かったのは、律師が出家得度に臨んだお寺といわれ、師の慈雲上人がその頃住職されていた多聞院に向かった。出雲市知井宮町の細い路地をいくつも曲がり開けた所に出たと思ったら、前方に茅葺き屋根が突き出た建物の前に出た。山門の前は入口にお地蔵さんが両脇に立つ二十メートルほどの参道があり両脇はまだ田植えのされていない田圃が広がっていた。山門には「養龍山多聞院」と書かれた細長い板が右の柱に掛けられている。中に入ると綺麗に整備され草一本ない境内で、正面に茅葺の本堂、茅葺屋根が高勾配でせり上がり突端は銅板が覆っておりその下には板で覆いがある。草繋全冝師の『雲照大和上伝』には、本尊が胎蔵界大日如来、脇仏に千手観音とある。右手に客殿庫裏、手前左側には大きな仏像が納められたお堂がある。



山門左側に掲示されている案内板によれば、多聞院は、もとは南隣に鎮座していた智伊神社の神宮寺で、何度か天火のためというから雷のことであろうか、そのため焼失を繰り返し、現在の本堂は、宝暦二年(一七五二)再建という。 庫裏は弘化年間(一八四四~四八)改築とあるので、律師生存中の出来事である。享保九年智伊神社が移転したため多聞院と改められた。大阿弥陀堂は貞享二年に郡代官鵜飼七右衛門によって再建されたとある。左側の小さな御堂に御堂一杯の大きな仏さまは阿弥陀如来であった。

ひっそりとして誰も居られない様子であったが、玄関口で御挨拶すると奥様がお出でになり、雲照律師の得度のお寺と知られていると教えて下さった。建物の中は大きな幅広の梁の立派な建物であることが解る。その再建の際には律師もお越しになっていたとも伺った。お昼時のお忙しい時間帯でもあり、早々にお暇した。

それから、東園町に向かった。律師の生家のあった場所である。曹洞宗にはなっているが高野寺という名のお寺が東園町にあってお訪ねした。こちらは広い車道に面して立派な鐘楼が山門横にあって塀も新しい。本堂前に進むと、奥様が落ち葉を掃いておられたので、律師をご存知が尋ねてみたが一向にご存じない。宗派も違い、二百年も前にこの地に生まれた一人の真言僧についてご存知がなくても当然であろう。お参りを済ませ早々に失礼した。駐車場から見る出雲大社方面の緑鮮やかな山並みは、昔のままだろう。車道もなく大きな建物もなかった当時は、水路が張り巡らされた田圃が広がるだけで山並みもさぞ大きく見えていたに違いない。

それから、律師自ら長く住職なされた、雲南市大東町須賀の普賢院に向かった。宍道湖沿いの道に出て水波を見ながら車を走らせた。国道五十四号線を右に曲がり山に入る。須我神社の標識に沿って左に道をとり、神社手前の広場に駐車場があった。須我神社は県社で立派な風格ある神社である。鳥居に太い注連縄が目に入る。

神社の左側に高い階段があり手前に「高野山真言宗鏡智山普賢院」と彫られた石碑が建っている。階段を上がり山門をくぐると、平らな整備された境内がひらけ、正面の建物が本堂と庫裏であろうか、左に玄関、中程にガラス戸の中に障子が開けられ正面に本尊大日如来が祀られている様だ。ガラス戸の中から廊下手前に書額が見える。「大覚寺管長 大僧正密雄書」とあり、「八正道・・十悪人不行」とある。ひっそりと誰もいない様子だったので、隣の須我神社に伺う。



授与所に居られた方から、しばらく無住になっていることと直に後住さんが来られる予定らしいと伺った。もう一度普賢院境内に戻り、境内の石仏を参る。一番建物寄りのところに、大きな縦長の石に、梵字で五点阿字の下に「雲照大和上位」と彫られていた。後ろに回ると、「東京目白僧園開基 明治四十二年四月十三日示寂 現住北脇智寬代」とあった。右側に板に書かれた案内板があり、「雲照和上墓碑 雲照和上は弘化四年(一八四七年)から二十四年間、、当山住職としても務められ、江戸幕末明治維新の動乱時には政府へ、仏教革新の意見を上申し、八十歳の時には国内はもとより朝鮮満州にまで供養行脚なされるなど、更には皇族の方々からの帰依信望も得られ、八十三歳の生涯を通して戒律主義堅持に盡せられた、島根が生んだ名僧である。鏡智山普賢院」と書かれていた。



翌三日は、松江市内のゆかりの寺院を訪ねた。まず向かった先は松江市米子町の自性院。ここは律師が講伝のため何度か訪ねているお寺である。本堂はじめ諸堂をお詣りする。周りに墓地が間近に造られた町中の菩提寺という装いであったがとてもきれいに整備されている。本尊不動明王に手を合わせ、玄関に住職様をお訪ねする。講伝は今ではもう行われていないとのことであったが、雲照和上と書いた袈裟が一領あるとのことだった。探して下さったが見当たらず、また出てきた際に写真を送って下さるようお願いをし失礼する。



次に伺ったのは、律師が四度加行を行った尊照山千手院という松江藩の祈願寺である。松江市石橋町にあり、自性院からは車なら七分ほどの距離である。松江市街が展望できるお寺としても有名で、さすがに高台にあるため、駐車場からしばし坂道を上る。山側には地蔵や不動の石像が迎えてくれている。大きな枝垂れ桜が葉桜になった枝をのばし、それをくぐるように境内に出た。この桜は、樹齢二百五十年といわれ松江市の天然記念物に指定されている。



手前に納経所があり、その右隣に本堂があって、本尊千手観音像を祀る。その右隣に県内最大の平安仏・不動明王を祀る不動堂がある。玄関にお訪ねすると、名誉住職様がお出ましくださり、応接に通されお話を伺う。かつてはその不動堂の後ろに三人が加行できる加行道場があり、本堂と不動堂の間の廊下から後ろに回って道場に行けるようになっていて、本尊と供物壇のみの簡単な設えであったという。不動堂の右側に小倉寺という松江市西持田町小倉にあったお寺が廃寺となりこちらに建物が移築されていた。その前に「雲照大和上」と彫られた大きな石碑が祀られていたことについてお尋ねすると、以前は市内が見渡せる展望の良いところに置かれていたが崖崩れの後こちらに移設されたと教えてくださった。律師が逝去された後まもなくに祀られたということだった。また昭和天皇御幼少の頃川村伯爵邸にて律師が間近に息災のご祈祷をなされておられたとも伺った。立派なお寺のたたずまいはさすがに松江城築城にあたり、その鬼門に造られたお寺としての風格があった。お忙しい中律師の生涯についてご教示下さいました名誉住職様に感謝申し上げます。



そのあと自性院住職様にご紹介いただいた西浜佐陀町の満願寺に向かう。こちらは宍道湖を足下に見下ろす風光明媚なお寺で、椿の鉢植えが所狭しと置かれていて、誠に綺麗に寺内整備が行き届いている。住職様のご案内で、ロウケツ染めによりお寺の縁起を描いた見事な襖絵や本堂の向拝の椿の花を木彫りにした格天井、また本堂では、不動の頭も彫られた両頭愛染明王など珍しいものを沢山拝見させてくださった。境内の四国霊場のお砂踏み道場も参考になった。お忙しい中熱心に解説くださった住職様に御礼申し上げます。

そして、そのあと律師の袈裟が見つかったとご連絡をいただいたので、再度松江城下の自性院に伺う。住職様が応接間に通してくださり袈裟の写真を撮らせてくださった。袈裟を拝見すると、「雲照大和上 発願袈裟千衣之内」とあり、この一条隣に「裁縫人 横浦田鶴子 八百五十八号」とも記されていた。この袈裟は、『大和上伝』に千枚袈裟の発願という章に書かれているものであろう。



律師は明治二十八年九月に千枚袈裟の供養を発願されている。この袈裟はその一領に違いない。一枚の袈裟は、生地を供養する人、袈裟を縫って供養する人、袈裟を着て供養する人の三人の尊い仏縁が結ばれ、これが種子になり後世に芽が出て仏法の興隆になると、律師はお考えになられた。律師生前には六百枚ほどが成就したという。その後遺弟たちが継続して律師の志を完成したとあり、この袈裟は律師入滅後も継続されていた証として、とても貴重な袈裟であると言えよう。お忙しい合間に快く撮影を許可して下さった住職様に御礼申し上げます。

このほか律師ゆかりの寺としては、十八歳で住職された安木市大塚村下吉田の観音寺があり、また実兄宣明師の住職した寺で、何度も求聞持法を修法された仁多郡奥出雲町中村の岩屋寺もあるが、すでに廃寺となってかなりの年月が経っているためお訪ねしなかった。なお、岩屋寺については、登山アウトドア向け Web サービス・スマートフォンアプリを手がける会社の「YAMAP」というサイトに詳しく現在の様子を伝えてくれている。

https://yamap.com/activities/10612793/article

帰りは出雲道から松江道に入り、そのまま尾道道を通って世羅で下道におり、御調、府中、神辺へと無事帰還した。この度は、突然に押しかけたにもかかわらず、いろいろと便宜をはかってくださいましたお寺様方に改めて感謝申し上げます。また千手院様にはトラブルを迅速に解決下さいましたこと深く感謝し御礼申し上げます。合掌


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雲照律師再考 『釈雲照と戒律の近代』(法蔵館)を読む

2024年07月01日 20時38分06秒 | 仏教に関する様々なお話
 六大新報令和六年一月一日 新春増大号掲載
 雲照律師再考 『釈雲照と戒律の近代』(法蔵館)を読む




『釈雲照と戒律の近代』という本が法蔵館・日本仏教史研究叢書の一冊として刊行されている。二〇二二年八月二十五日初版で、恐らくその頃私は購入し書棚に置いたままになっていた。

だが、この度改めて取り出して精読することになったのは、昨年十月十日に九段のインド大使館で行われた中村元東方研究所の東方学術賞の授賞式に出席したことにある。

長年著書を拝読してきた中央大学国際情報学部保坂俊司教授が東方学術賞を受賞されるとのことで参上したのであったが、若手研究者を対象にした学術奨励賞にこの本の著者が選考されていたのである。

公益財団法人・中村元東方研究所は御存じの通り創始者中村元博士が原始仏教の研究で名高いこともあり、インド学や原始仏教に関する研究者が多く在籍されている研究所である。授賞式では、奨励賞受賞の審査報告が選考委員長からなされた。著作の意義が述べられ、内容について細かく紹介された。

つまりそれは真言宗の僧であった雲照律師(以下律師と表記)の活動と思想にかなり踏み込んで触れるものであって、この著作の価値もさることながら、それ以上に現代が律師を改めて必要とする時代であると再認識させられたのであった。

この本の著者亀山光明(みつひろ)氏は、実は真宗寺院の寺族である。大阪大学在学中に、東北大学准教授で日本宗教史、特に近代仏教を専門とするオリオン・クラウタウ博士から近代仏教に関する概説的テーマの講義を受け、当時抱えていた出自に関する煩悶から救われたという。

そして、クラウタウ氏より近代仏教の魅力と戒律研究の可能性を教えられ、真宗の寺族が近代真言僧の戒律を研究する矛盾を感じつつも、自己を捉え直す契機へつながるものとして研究を続けてきたと「あとがき」にある。

御存じの通り、近代仏教史をめぐる研究は「真宗中心史観」ともいわれるように、これまで時代の変化に率先して対応した真宗関係者中心の近代仏教史像がまかり通ってきた。

しかしその描き直しを提言する研究者も現れ始めており、著者もその一人として律師の特に戒律主義に関する再評価により、その時代の偏った研究の空白を埋めることで近代仏教の再編成を模索しているという。

二〇一八年より『近代仏教』『文芸研究』誌などに本書のもとになる論文を発表してこられた。なお現在は米国プリンストン大学宗教学部博士課程に在籍して研究を続けている。


それでは本書の内容を紹介しながら、律師の業績を再考したい。

まず序において、一八五〇年代からというので明治に時代が変わる十年ほどの間に、外国との交渉の必要に迫られ、「レリジョン」の対訳として様々な言葉が考案されたという。現在は「宗教」という言葉が普通に用いられるが、それに準じてそれまで仏道、仏法とされていた仏の教えも「仏教」と明治期以降集約されていく。

その過程で、本来儀礼的実践などの非言語的慣習行為である〈プラクティス〉に重点が置かれていたものが、教義などの言語化した信念体系〈ビリーフ〉中心へと展開していくのだという。

そうした時代背景の中にあって、律師は、プラクティス的な行為である戒律の実践を重視しつつ、独自の語りの戦略をもって時代に対処していかれたという。

その生活姿勢から滲み出る気迫、崇高なるその人格は既に当時各界から評価され、明治三十二年(一八九九)『太陽・別冊増刊』(博文館)に「明治十二傑」として、伊藤博文、渋沢栄一、福沢諭吉らとともに、宗教家としては唯一選出されるなどその名声は頂点に達する。

しかし、その一方で、下流を見捨て権門に取り入る仏教者であり、加持祈祷は迷信の詐術。戒律復興は社会の進歩から取り残された禁欲主義であり旧仏教の象徴と目された。さらには世間知らずの頑固で滑稽な人物と批判されることもあった。

さらには、戦後の仏教史学においては、皇室と仏教の連携を重視した律師の皇国仏教観は天皇制国家への従属的態度であり、戦争協力に繋がるものであったとして非難されたと記している。

第一章「戒律主義と国民道徳論」では、明治初期の肉食妻帯令など一連の僧侶身分解体期の護法活動について述べる。

当初律師は、建白書を政府に提出して僧尼令や官符の復活を画策するが果たせず、その後宗門内での僧風刷新へ邁進する。
後七日御修法再興を上奏した明治十五年に著述した『大日本国教論』において排耶論を説き、歴代皇室が長く崇信してこられた仏教を国民道徳の根拠として国教化すべきであると論じている。

排耶論では、「外教の宗は曰く天地万物は皆天主の所造に係り人智の能く知るべき所に非ずとし只管天主に一任して黙従する」と述べて、仏教こそ文明の宗教であり、因果論を説く仏教はその原因を論じないキリスト教に優るとしている。

第二章「戒律の近代」では、律師の初期の十善戒論について考察する。

江戸後期の慈雲尊者が「人となる道」として宣揚した十善について、律師は当初あまり言及することなく明治十年代に国粋主義的仏教者たちが十善に注目した頃から、十善を前面に出して論じるようになったとある。

『大日本国教論』の巻末に、「十善は一切衆生本性自然の戒修身治国の要」と述べて、明治十六年に「十善会」を発足。同年刊『密宗安心義章』において、仏教は心の本源を探る営みと解した上で、十善を自己の存在の根源と位置づけて、仏教の枠にとどまらない普遍性あるものであると強調したと書いている。

第三章「在家と十善戒」では、明治中期における律師の十善戒思想について考察している。

宗門の改革に見切りをつけ、律師は明治十九年東京に活動の場を移し、翌年戒律学校(後の目白僧園)を開設する一方、明治二十二年には在家者に向けて『十善戒法易行辨』を書き、道徳的生活の基礎とすべく十善戒を在家の勤行の中に定着させようとされた。

そして、品行を重んじる文明社会においては十悪を制する十善戒こそが、易行とされる念仏にも優る易行であるとせられ、また百歩歩く短時間の持戒の功徳を説くなど戒律実践論を展開したと述べている。

第四章「善悪を超えて」では、明治後期に展開された、近代を代表する知識人加藤弘之氏と仏教者との「仏教因果説」論争に触れる。

『哲学雑誌』第百号(明治二十八年)に、加藤氏が科学的世界観から「仏教にいわゆる善悪の因果応報は真理にあらず」と述べたことについて、他の仏教者たちは善悪因果は宗教の次元による真理であるなどと反応した。

しかし律師は、明治二十九年六月の『哲学雑誌』第百十二号に掲載された「仏教因果説」において、「世間学は未だ推理の源を尽さず、仏教の因果説は三世三際に亘りて能く推理の本末を説き尽せる」などと回答されたという。が、残念ながら加藤氏を十全に承服させるには至らなかったと著者は分析している。

第五章「正法と末法」では、正法という概念から律師の戒律論を展開している。

すでに末法の世にあり末法無戒といわれる中で、律師は正法興隆のための基点として戒律学校を設立。また甥興然師をスリランカに留学させ、後に他国の仏教徒たちとともにブッダガヤの聖地買収を計画した。

そうして、同じ末法の時を共有していながら正法を守る南方上座部の仏教国と交流する中で、南方仏教者の姿を理想と捉えていく。

そして、明治三十年刊の『末法開蒙記』にて、末世を生きる僧であっても、正法渇仰の心を生じ深く懴悔し上品の戒体を発得するとき、正法は時空を超えて姿を現すとせられたという。

しかし関連して、その前年に刊行された『軍事に関する観念』では、理想の正法王とは正法を護るためには戦争による流血も厭わない存在であると書き、日清戦争期において律師は他の仏教者同様に戦争肯定の立場であったとも指摘している。

第六章「旧仏教の逆襲」では、明治後期における新仏教徒を名乗る、主に真宗出身の青年仏教徒たちとの論争を取り上げる。

戒律復興に生涯をかける律師の運動は迷信の害毒を社会に流し、思想進歩の障害であるとして「旧仏教」とレッテルを貼られ、新仏教徒たちから排撃される。

それに対し律師は、明治三十五年『十善寶窟』「世の仏教曲解者に諭す」において、「時代の精神に合わせ道徳や教義を改めることは天魔破旬の行為であり、仏教の教体は時流の推移においても不変である」と述べた。そして、仏教の精髄である三毒の払除と三学双修の復活を仏教復興の要であると反論されたなどとその顛末を解説している。

第七章「越境する持戒僧たち」では、そうした国内での論争を経て、日露戦争後日本の保護下に置かれた韓国に、明治三十九年に巡錫する晩年の律師について考察する。

『六大新報』第百六十号「朝鮮に於ける雲照律師」にあるように、釜山近郊の通度寺での朝鮮僧たちとの交流により、朝鮮僧の中には持戒道心堅固な僧も存在すると認識を新たにする。

しかし、『韓国皇帝陛下に奉りし書』では、韓国仏教は大戒二百五十戒や受戒の法規、七衆別戒などを弁えておらず、これを「大乗の弊風」として日本仏教と共通する問題と捉え、国家による僧分の統制と国民信教が国家利益になるとして仏教国教化を上申したという。

第八章「近代日本における戒律と国民教育」では、最晩年における律師の「国民教育論」について述べている。

明治中期以降宗教の上位概念とされた皇道という言葉が教育勅語や学校教育に用いられていた。明治三十二年に「宗教教育禁止令」が出されると、律師は仏教を皇道の中に再配置することを構想して、神儒仏三道の道徳的倫理は本質的に同一であるとせられた。

そして、「中でもとりわけ十善は人々本具の真性であり皇道の心肝である」などと主張したという。国民教育論を展開した晩年の主著『国民教育之方針』(明治三十三年刊)は天覧に供され、貴衆両院全議員に配布された。

終章では、近代仏教研究における戒律復興の意義を振り返る。

真宗知識人たちによる新仏教運動などにおいても、近代に乗り遅れた仏教者という律師批判が行われた。悪行をなしても念仏によって往生間違いなしとする中世の迷信勢力が、善悪因果ひいては戒律実践という仏教の根本原理を破壊しているとする律師を、彼らが目の敵としたのは至極当然ともいえる。

しかし、英国に留学してマックス・ミューラーに学んだ南条文雄師は阿弥陀如来や浄土教が釈迦直説か否かを巡る難問を突き付けられ、「精神主義」を唱えた清沢満之(まんし)師の弟子暁烏敏(あけがらすはや)師も大正期に南アジアを訪れて現地の仏教に触れると自宗の伝統との関係に再考を迫られたと指摘している。

そうした中にあって、律師は本然の仏教である戒定慧の三学に則った僧侶の修学実践の場として目白僧園、那須僧園(那須野雲照寺)、連島(つらじま)僧園(倉敷寶島寺)を開設。在家者には「十善会」を再興し、「夫人正法会」を発足して、機関紙『十善寳窟(A5版約50頁月二回)』『法の母(月一回)』を発行して、十善を柱とする国民教化により社会秩序をもたらすことを念願した。

それは皇道と名を換えつつも戒律主義の精神が活かされる方策まで考慮が重ねられたものでもあった。戒律復興という旗を最後まで下ろさず、多年にわたり驚くほどの精力を傾け常に真剣に取り組まれた。

その目指すところは、あくまでも釈迦の正法の時代への原点回帰であり、それは理論を超えた経験的な新しい仏教の潮流を体現するものであった。

その意味において、律師の運動は近代において挫折したとみる向きもあるが、その試みは一つの日本仏教の近代を見事にあらわしており、無自覚に受け入れてきた仏教や宗教をめぐる理解の再考を迫るものといえると結んでいる。

以上、律師の八十三年の生涯の後半生について、著作の他に雑誌や評論、関係者の資料まで丁寧に調べ上げて律師の思想を体系的に分析した亀山氏の論考を紹介した。

律師が真摯に時代の変化に向き合い様々な相手と真剣に討論を繰り返す中で、苦心惨憺して論を練り上げていく姿を彷彿とさせる内容であった。いかに時代が変わっても本然のあるべき仏教をその時代に実現せんとなされた軌跡を丹念に記録した労作といえよう。

真宗の寺族である著者がここまで律師の思索を追跡して顕彰して下さったことに感謝もうし上げる。皆様も是非ご一読願いたい。律師の労苦の程が知られよう。

著者は最後に「戒律復興に身を捧げた令名高い近代の律僧は、自分を認めてくれないのではないかという不安の念はどうしても拭いきれない」と述懐している。

しかし、今となっては誰もがそうした思いの中にあるのではないか。それでも律師のような誤魔化しの一切ない正真の求道僧が近代という、つい百年ほど前にこの日本に存在したことに救われる思いがする。

国家社会に貢献せんと、世の中が西洋化して欲望が肯定されていく時代に、それでも仏教がいかに世間に不可欠なものかを論じ、仏教の社会的な地位、威厳のために長年にわたり精魂を傾けられた。

それは偏に自誓された生活姿勢を頑なに護り実践する営みにおいて得られた確信があり、それが律師の一生を支えるものとして不動の確固たるものであったということであろう。

律師遷化後、律師ほどに社会に無視できない存在感を示し得た僧があろうか。私どもも、本当はそうした頑固に脇目も振らずに主張できるだけの確信を得られる仏との対面を果たさねばならない。

ところで、ヴィパッサナーという初期仏教の瞑想法を心理療法や精神医学に利用せんとして、米国のマサチューセッツ大学メディカルセンターでは一九八〇年代から研究がなされてきた。近年やっと日本にもマインドフルネスという名でそれらが逆輸入された。

律師が甥興然師を留学させたスリランカから長老比丘が来日して、四十年ほど前から上座部の仏教を日本語で布教している。今日では日本テーラワーダ仏教協会として全国に布教所が開設され、法話会、瞑想会が定期的に開かれている。

二十年ほど前からはミャンマーやタイで比丘となり瞑想修行を積んだ日本人僧たちが帰国して法話し瞑想指導にあたっている。初期仏教に関する著作が書店で平積みされ、その多くが売れ筋ランキング上位に位置する。

当然のことながら、それらの仏教は律師が唱えた三学に基づく実践的体系を重んじている。それを多くの人々が理解し実践しようとしている。時代が律師を再評価し始めていると言えようか。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約④

2024年06月09日 12時51分30秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約④





第四章 証果
 求めるべき真理を明らかにし、そのために発心して戒定慧の修行により、ついに煩悩を断じて菩提を証得し涅槃に到る、これを証果という。三学に小乗大乗があるように、証果にも小乗の証果、大乗の証果の別がある。

 第一節 小乗の証果
 小乗の証果に、声聞と縁覚と仏果との別がある。

第一、声聞の果位 四向四果の別があり、この八位とは、預流向、預流果、一来向、一来果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果であり、初めの二位は見惑(我見をもととする身見、辺見、見取見、戒禁取見、邪見)を断ずる十六心のうち十五心までを断ずるのが預流向で、預流果は第十六心を断じ、見惑を断じ尽くし四諦の真理を証得して得られる。のちの六位は思惑を断じて得られる。
 欲界の思惑に九品があり、その六品までを断じて一来向があり、六品を既に断じたる位を一来果という。さらに欲界の九品までを断じて不還向があり、九品を断じて欲界に生ずべき因尽きた位を不還果という。色界の四禅定と無色界の四空定の八地にある微細の煩悩を断じつつ阿羅漢向があり、断じ尽して阿羅漢果となる。阿羅漢とは無生との意味であり、三界の生死輪廻を解脱して寿命を終えた後には再生することはない。阿羅漢となりてまだ寿命ある間はこれを有餘依涅槃といい、身あることによる苦果を受けるものとみる。一期の寿命尽きると無餘依涅槃といい、生死を絶して一切の苦楽から離れ煩悩により苦悩することがない。

 阿羅漢果を得たのちは、苦楽から離れ煩悩に纏われることがないがために自由自在となり五神通を発得するという。
五神通とは、一に天眼通は、自他一切の衆生の生死輪廻の様子を見るほか、世の中の明暗遠近を問わずすべてのものを見る能力。
二に天耳通は、一切六道世界の音、声を明瞭に覚知する能力。
三に他心通は、心寂静にして他者の思念するところを、姿を見る如くに知る能力。
四に宿命通は、自他の百千万回もの再生を繰り返す、それらの生存について知る能力。
五に身如意通は、心身自在に、遠近過去未来の欲するところに行く能力。
 以上四向四果を経て、有餘無餘の二涅槃を証することを声聞の極果という。

第二、縁覚果 声聞の果と大同小異であり、縁覚は、必ず宿命明(通)、天眼明(通)、漏尽明(通)の三明を具え、再び三界の煩悩を起こすことなく、勝れてこれらを悟ることを縁覚果とする。

第三、仏果 声聞縁覚にいう有餘無餘の二涅槃を証して寿命きたりて最極究竟とすることは同じではあるけれども、釈迦菩薩は、三祇百劫という果てしない修行を繰り返し、最後の生を得て悉く煩悩を断じ、一切衆生の性根に応じて説法済度し、八相成道したので大覚世尊という。

 第二節 大乗の証果

 第一、二転妙果 菩提の妙果と涅槃の妙果がある。菩提の妙果については既に述べた一切智、道種智、一切種智のことをいう。涅槃の妙果は、四種あり、一に自性清浄涅槃とは、本来具わる仏性のことで、一切の生きとし生けるもの、またこの世に存在するものすべてに有するもので、不増不減なるものなので自性清浄涅槃という。二に有餘依涅槃、三に無餘依涅槃であり、既に述べた。四に無住処涅槃とは、悟りの大いなる智慧あるので世間の煩悩にまみれず、大いなる慈悲の心から涅槃せず、一切衆生を利益救済するために衆生世界に縁に随い応じて現れて未来際を尽くして仏教の妙理を説くことをいう。

 第二、三徳 大いなる涅槃の証果の徳を述べるに三つあり、法身、般若、解脱の三つである。これら三徳をもって、生死に流転する衆生を見て、厭うことなく、同体との大悲心から種々の方便をもって世間に出でて教化救済する。

 第三、三身 涅槃の証果を仏身について言うに、法身仏、報身仏、応身仏の三身如来の妙果とする。我らが目にするのは応身仏の釈迦牟尼仏ではあるが、これら三身はもともと一体のものであり、本来色も像もない無辺無際の法界身であって、無明煩悩に隠されて知ることが出来ないでいる。それを解脱すれば、本来具わっている仏性が厳然と現れて、仏性即法身となり、法身を顕現すれば報身応身の二身が現れ、無碍自在にして一切衆生を救済するに到るとする。

 第四、四徳涅槃 三徳三身の各々に常・楽・我・浄の四徳が具わるとする。常とは、もともと具わる三身は端然常住なるもので三世を経て変わらないものという。楽とは、生死の苦を離れて涅槃寂滅の楽を証することをいう。我とは、仏は無自性の真理に達して応用自在なことを真我の徳という。浄とは、諸々の煩悩穢れを離れて端然清浄なること一辺の塵も無い鏡の如く浄らかなことをいう。

結言

数千巻の経律論に記す膨大なる仏教をここに数章の小冊子にまとめ、その大綱要領を示した。今般行われている諸宗の法門に小異があることと思われるが、本書に述べたことは仏教の大同であり、読者に仏教の大本の教えを知らしめんがためのものである。



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