住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

四国遍路行記-30

2013年01月29日 18時24分49秒 | 四国歩き遍路行記
道安寺を後にして、ひたすら第60番横峰寺目指して歩く。途中小松の町だったろうか、町の中を歩く。商店街を抜けて、迷いながらも小さな神社の鳥居やお地蔵さんの前を通りつつ山道に入る。石鎚山の中腹に位置する横峰寺は大変な山奥だった。昇りがきつい。行けども行けども標識の距離は減らず。山道を1時間半、標高七百メートル。やっと杉の老樹に覆われた仁王門が見えてきた。境内はそんなに広くない。すぐ右手に権現造りの奥深い本堂があり、その向かえに大師堂が佇む。

お寺から五百メートル上にある星ヶ森で修験道の開祖・役の小角が修行していたときに蔵王権現が顕れ、その姿を石楠花の木に刻んでお堂を建てたのが始まりという。その後行基が来て大日如来像を刻んで安置した。さらに桓武帝の時代に石仙上人が帝の病を癒す修法をして菩薩号を賜っている。そして大同年間に弘法大師が星ヶ森で厄除けを21日間祈願するとやはり蔵王権現が示現したと言われる。

大きな唐破風の庇を入り本堂内で理趣経一巻。石鎚神社の別当寺として歴史に名をとどめ、明治の神仏分離令で石鎚山遥拝所横峰社でもあったので、正面には鏡、右大臣、左大臣、護摩壇、奥に本殿。本尊は伝弘法大師作の大日如来。蔵王権現は寺宝である。続けて大師堂を拝み終わると早くも薄暗い。四時を過ぎていた。本坊を訪ね、一夜の宿を乞うと本堂内の土間でならと言われるが、かなり冷え込むので特別に装備がなければ降りた方が無難とのアドバイスをいただく。

しばらく思案の末、大師堂の奥から続く遍路道を駆け下りることにした。次の香園寺まではほぼ十キロ。下りとはいえ山道だ。推定時間は三時間。どうなることか危ぶまれたが、ただひたすらホットの缶コーヒーを買って頭陀袋に入れ温もりながら、獣道のような小道を懸けた。同行は錫杖のみ。錫杖を突き石から石に飛ぶ。気がつくと「南無大師遍照金剛」とずっと唱えていた。暗くなる。真っ暗になったら山道は走れない。とにかく薄暗いうちに山を降りねばとの一心で先を急いだ。

香園寺奥の院にたどり着いた頃、日が暮れた。降り始めてから2時間半が過ぎていた。家並みの間をペンライトをたよりに歩く。香園寺寺務所で「歩いてきました」と言うと、どうぞ宿坊をお接待します、お泊まり下さいと、案内してくれた。人の居なくなった食堂に行くと、台所のおばちゃんがお膳にのせて燗酒を持ってきてくれた。ありがたい。ゆったりと大きな風呂に一人入り、ここに来るべくして来られたのだと納得した。

それにしても大きなお寺だ。新興宗教の聖堂のような横長の大きなホールのような建物が本堂だった。その脇に4階建ての宿坊が聳える。第61番栴檀山香園寺、初めて仏教に帰依された用明天皇の病気平癒を聖徳太子が祈願して創建したお寺だ。大同年間に弘法大師が訪れ、身重の女性を加持して安産をもたらしたので、ここの大師堂は子安大師ということでも有名だ。因みに山号はその時唐から持ち帰った栴檀の香を焚いて護摩を修したことに由来すると言う。

翌朝、早くに起きだして一人2階に上がり、本堂に参る。大きな金色の大日如来像が微笑んでおられた。昨日からのいろいろな思いも重なって、椅子に腰掛けて、讃を唱え理趣経をゆっくり唱えさせていただく。大きな荘厳具が小さく見えるほどに大きな大日如来の柔らかなお姿に魅入られながらのひとときはとても幸せな時間に思えた。しばらく唱え終わっても余韻を一人目を閉じて味わう。

朝食をいただき、出ようとすると昨日のおばちゃんが「これ持っていきんさい」とお弁当を下さった。なんともありがたい。香園寺を出るとき、後ろを振り返り深々と頭を垂れた。

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四国遍路行記-29

2012年10月29日 13時25分44秒 | 四国歩き遍路行記
栄福寺から次の五十八番仙遊寺までは2.4キロ。すぐだと思うとなかなか目的地が見えてこないものだ。この時にも、すぐ前に見えそうな気がするのだが、お寺らしきものは視界になかった。南に向いて遍路道を歩いていくと、間もなく、犬塚池があって小さな社が祀られていた。池の右側を通って進むとその先に小高い土手があり、その先に山が見えてくる。遍路道の矢印はその山を上がれとある。

平坦な道がしばらく続いていたので久しぶりの山道だった。そんなに上に登ってきたわけでもないのに遮るものがないからか、坂道の途中できれいに今治の市街が見渡せた。頂上付近に来るとお堂が姿を現す。手前に本堂、その先に小さなお堂があってその奥に大師堂。作礼山という300メートルの山の頂にある仙遊寺は、天智天皇の勅願寺だという。

本尊は千手観音。天智天皇の守護仏と伝えられている。やや暗い本堂に足を踏み入れ理趣経一巻。唱えていたら、本堂の奥にこちらを向いて阿字観本尊が置かれていた。阿字観とは、真言密教の瞑想法で、阿という石塔の頭に書かれる梵字のアを見て心に映像化しそれを宇宙大に拡大させたり縮めて胸の中に納めたりする。高野山で阿字観瞑想の課外授業を受けていたこともあり、また、住まいにも阿字観本尊を置いていたこともあって、唱えている間中、阿字本尊を何度も眺めた。

寺号については、阿坊仙人という行者が40年間も参籠し、ある時仙人の遊ぶ姿が雲とともに消えてしまったと言われ、それ故に仙遊寺と名付けられたという。平安初期に荒廃していた伽藍を弘法大師が再興して栄えたと言うが、昭和22年に山火事で本堂焼失。同28年に二層の破風の付いた本堂が昔のままに再建された。なかなか札所でなければ参れそうもないところにあり、仁王門から上に揚がろうとすると、鎖の付いた急斜面を這い上がるような道があり、仙人の修行場としての面影をとどめている。

広いとは言えない境内を一巡して、来た坂道を下る。五十九番国分寺まで約六キロ。平地にかえって東に一路進むと国道に出た。その国道を今度は右に曲がって三十分ほども歩くと、道沿いにお地蔵さん方が増えくる。左側に国分寺の参道があり、礎石がゴロゴロした国分寺旧跡が見えてきた。一段上の境内には四国の札所らくし正面に立派な本堂と右に火煙如意宝珠を宝形造りの屋根にのせた大師堂があった。

本堂も大師堂も夕刻せまっていたからか閉まっていた。ありがたいことに本堂と大師堂の間に欄干に作り付けた椅子があった。一目散に歩いてきたので椅子に腰掛け、お経を唱えた。本尊薬師如来。行基作の本尊がかつて安置されていたと言われ、百メートルほど東側に位置していたという奈良時代の七堂伽藍には巨大な円形の礎石などが残り国指定の史跡となっていた。源平の合戦でも焼失したとされ、何度か衰退と復興を繰り返してきた。現在の伽藍は寛政年間に再興されたという。

大師堂のお詣りも済ませると、暗くなってきた。玄関にお訪ねして一夜の宿をと頼んでみたものの、お堂の縁でやってくれとすげなく断られた。とぼとぼと国道に引き返し、先に歩を進めてみたものの足に元気がない。それでも20分ほど進むと法華寺が見えてきた。同じ口上を述べてみると、若いご住職が「よくお詣り下さいました」と中に案内して下さった。夕飯は、お風呂はと、さらに布団に乾燥機まで差し込んで下さって、申し訳ないほどのお接待を受けてしまった。夕食は途中買い込んでいたので、それを食べてお風呂をいただき、早々に日記を書いて寝込んだ。

翌朝、住職が弘法大師の修法をなされているので、お経を上げさせていただいた。行法途中に外へ出て、庫裏におられた方へお礼を述べた。外は冷たい雨だった。国道沿いの歩道を歩く。次の六十番横峰寺までは二十七キロもある。先が見えないまま、草鞋に冷たい水がしみる。お腹が鳴る。九時過ぎにやっと道沿いに小さなマーケットがあり、何かご飯ものはと問うと手巻き寿司をお接待下さった。お店の電気ストーブに身体を温めながらお寿司を食べた。

お昼近くになると雨は止み、歩くのに丁度良い薄曇りの中一路横峰へ。途中遍路道沿いの西条市楠というところに道安寺というお寺の看板が目に入った。急に真言密教学の碩学三井英光師の自坊に違いないと閃いた。三井先生は新潟のご出身だが、東予市の神宮寺に住職され、高野山の伽藍、奥の院の維那を歴任された。いまは、こちらを隠居寺にしていると聞いていた。おそるおそる玄関にいたりチャイムを押すと、どうぞと本堂に案内された。

少し待っていると小柄だが肉付きのよい三井先生が現れた。当時九十歳になろうかというご高齢であった。拝むように挨拶をさせていただき、いきさつを話すと気安くいろいろとお話し下さった。その時その時を一生懸命に生きてきた、拝んでこられたという風格が感じられた。真言は意味を取った上での真言でなくてはいけない、阿字観はアになり切らねばならない、など心に響くお言葉を頂戴した。気がつくと一時間半も経っていた。帰り際に二冊の本を頂戴した。

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四国遍路行記-28

2012年05月22日 13時45分21秒 | 四国歩き遍路行記
翌朝、6時前に目を覚ます。遍路中というのに、ご住職にすすめられるまま、十時半過ぎまで宴をしていたのに頭は意外と爽やかだった。住職は6時過ぎに本堂へ入られ一座の行法を修され、終えられてから、外の地蔵堂や石仏を拝みに行かれた。その後、私もお経を上げさせていただいた。

御本尊は高野山別院なので弘法大師であり、その前に大日如来像が安置されている。修法壇にも大日如来が厨子に祀られていた。須弥壇の周りはスピーカーやマイク、コードがからみ、器材類が所狭しと散在している。高野山の御詠歌の詠監さんと言って、とても高い地位におられることもあって、いろいろな行事をされていることが覗われた。

朝食は、トーストに玉子と生野菜。同期の友人は付属保育園のお迎えのバスを運転に出たので私もお暇した。出がけにお昼のおむすびと御接待まで用意して下さっていた。誠に申し訳ない気持ちに包まれながら、隣の五十五番南光坊へ向かう。

南光坊は江戸時代までは、大三島の別宮としてお参りされていたのであろう。隣に今でも別宮大山祇神社が鬱蒼とした森の中に鎮座している。寺伝によれば、大宝三年(703)に伊予水軍の始祖越智玉澄が文武天皇の勅命によって、航海安全のために大山積明神を大三島に勧請した際に二十四坊の別当寺を建立したのが始まりという。その後和銅五年(712)に行儀菩薩来訪の折、この地にそのうちの八坊を移した。

天正年間には八坊が全焼するが、その後今治城を藤堂高虎が築城の折、祈願所に定め復興された。明治初年の神仏分離令に伴い、大山祇神社の本地仏である大通智勝如来を南光坊に遷し、境内を分割したという。この如来は余り聴いたことのない仏だが、「法華経化城諭品第七」に説かれる如来で、お釈迦様の師にあたるとある。ゆっくりとお勤めをした後、御本尊の真言に迷った。とりあえず「南無大通智勝仏」と唱えたが、後から調べたら、「おん まか びじゃな じゃなのう びいぶう そわか」という聞いたこともないご真言があるようだ。

大師堂前のベンチには、お年寄りたちがのんびりと朝の散歩帰りなのか座られている。のどかな雰囲気に時間の経つのを忘れたかのような空間を感じる。開放感のある境内に別れを告げ、次なる泰山寺に向け歩き出す。JR予讃線の線路を越えて南西に進む。国道を越えて進むと右側上に綺麗な瓦の建物が見えてきた。

泰山寺は、珍しく弘法大師開基の寺である。大師が巡錫の折、この辺りを流れる蒼社川が氾濫し、田地、家屋、多くの人を流したことから、堤防を築き、七座の土砂加持を修して祈願したところ地蔵菩薩を感得したので御像を造り、お堂を建てたという。元は金輪山の頂にあったと言うが、兵火で焼かれ今はその麓に石垣を積んで境内としている。どの建物も真新しく瓦が白く輝いていた。少し早い気もしたが、別院でいただいた、おむすびを頬張る。そこへまたお遍路さんの団体が来て、御接待を頂戴した。

しばし休憩の後、五十七番栄福寺へ歩き出す。南東に道を取ると程なく蒼社川に出た。通りの下に河床を見ながら進む。山手橋を渡り山側に入ると程なく山の上に神社が見えてきた。そこを回り込んだところに栄福寺はあった。栄福寺も大師を開基とする。嵯峨天皇勅願によって瀬戸内海の海難事故を防がんと祈願したときに、海中から阿弥陀如来が顕現して、その姿をとどめる御像を彫像して、この府頭山の頂きに寺を建てたのだという。

その後、貞観元年(859)石清水八幡宮を造営せんとして行教上人が、宇佐に向かう折、海が荒れこの地に漂着して、府頭山を見ると石清水八幡を造営する地・男山に似ている、さらにそこに祀られる阿弥陀如来は八幡神の本地仏ということで、境内に勝岡八幡宮を建てたのだという。

現在、少し手狭に感じさせる境内だが、それも明治初年の神仏分離によって、お寺が山の麓の現在地に移されたためである。軒を貸して母屋を取られるという言葉通りの推移を表しているようだが、このような例はここだけの話ではなく、全国各所に見られるのは残念なことである。

ところで、行教上人は備後新市の出身、この人の弟がかの有名な本覚大師益信僧正であり、平安初期に最初の法皇となられる宇多天皇の出家の戒師並びに伝法灌頂の伝授阿闍梨となられた。東寺長者、東大寺別当、石清水八幡検校を歴任。後々の真言宗の事相法流の広澤流流祖としても崇められる方である。

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四国遍路行記-27

2012年02月01日 18時33分18秒 | 四国歩き遍路行記
太山寺の通夜堂はこぎれいな二間ほどの建物だった。トイレと簡単な流しだけではあるが、電気ポットと急須も置かれていた。布団も押し入れを開ければあったのだろうが、いつもの寝袋を拡げて一畳分のスペースだけで事足りた。翌朝は熱いお茶を頂いて、本堂へ向かう。通夜堂から一度外に出て、手水鉢を使い振り向くと、石段の上に国の重要文化財の指定を受けている仁王門が聳えていた。

五十二番太山寺は、仏教にはじめて帰依された用明天皇の頃に、豊後の長者が高浜沖で難破したとき観音菩薩に救われ報恩のために一宇を建立したのが始まりと言わる。後に聖武天皇の勅願で行基菩薩が十一面観音像を刻み本尊にしたという。鎌倉末期の建築で県下最古の国宝本堂の正面厨子には、七体の十一面観音像が収められている。いずれも、後冷泉、後三条など歴代天皇の勅願で造られた1.5メートルもある御像で、すべて重要文化財に指定されている。

本堂外陣の土間で一人立って理趣経一巻。しんと静まりかえった厳かな贅沢な時間を感じる。外に出ると二、三人の地元の人たちの参詣と出会った。境内は小高い台地になっていて、そこからさらに少し石段を登ると大師堂がある。大師堂では心経一巻。大きな声で唱える。境内には現代を感じさせるものがない。古びた風情に時間が止まってしまったような空間の不思議を感じさせている。錆びて茶色くなった、寺内行事などを記した掲示板を眺めつつ、太山寺を後にする。

来た道を戻り国道に出る。国道を左に海を眺めながら北上する。北条の町を過ぎたあたりで山側の小道に入る。鎌大師と矢印があったためである。鎌大師は、小さな番外札所ではあるが、ここには妙絹さんという尼さんが居られると聞いて訪ねたかったのである。鎌大師は、弘法大師が巡錫の折、鎌をもって泣きながら草を刈る少年がいて訳を聞いたところ、疫病で姉が死に弟も死にそうだという。そこで大師は、その鎌で自分の像を刻み拝むように言ったところ、弟も村人たちも快癒したと言われ、そのご像を祀りお堂が出来たのだという。

しばらく山に入り進んでいくと大きな松の木があり真新しいお堂と庫裏が建っていた。知人が訪ねたときには底の抜けるような建物に居られたと聞いていたので数年のうちに何もかも建て替えられたようだった。お四国病にかかり、ある時期になると四国に行きたくなって気がつくと四国を歩いていましたと語る妙絹尼は当時七十才くらいか少しそれより若かったのであろうか。

上品な物腰で、昔からの知り合いのようにお茶をすすめて下さり、語られた。妙絹さんの遍路はすべて歩くのではなく、女一人旅ということもあり、離れたところへは電車があれば乗るしバスにも乗られながら、その他はなるべく歩いて遍路するというとても自然な遍路旅をされていたそうだ。それでいつの間にか縁あってここに住み着かれたのだとか。

それにしてもこの鎌大師を再興されたのはこの方の魅力、お四国への信仰がかなえさせてくれたものとも言えようか。インドで出会った知人の話をするとよく憶えておられて、自身も若いときにはパキスタンで日本企業の仕事をされていて、懐かしいインドの言葉をいくつか口にされていた。『人生は路上にあり』という、愛媛大学でお話をされた際の講演録を頂戴した。

鎌大師を昼前にはお暇して、山道からまた国道に戻り、ひたすら国道を進む。途中瓦の町菊間町を通り、ところどころ各地のお寺の佇まいなどを眺めながら、今治の町の入り口に位置する五十四番延命寺に着いたのは午後四時過ぎだった。延命寺も行基菩薩によって不動明王が刻まれて祀り開基されたお寺で、その頃は海上を見渡せる近見山山頂にあったという。弘仁年間に嵯峨天皇の勅願で弘法大師によって再興された際に、五十三番と同じ円明寺と号した。江戸時代まで同じ名前の札所が並んでいたのだが、五十四番当寺の俗称を明治以降名のるようになったのだとか。

大きな池が左に現れると、藤堂高虎が伊予二〇万石の居城として築城した今治城城門だったという山門が姿を現した。山門からサツキに囲まれた参道を進む。左側に土産物屋が入り賑やかな境内。正面には唐破風の大きな庇が印象的な本堂に参る。弘法大師再興の後も何度か兵火に焼かれ現在の地には享保十二年(1727)に再建を果たしているから三〇〇年ほどの建物だが、中も暗く威圧感を感じさせている。夕刻に差しかがっていることもあり、急いでお経を唱え、本堂左側の石段上の大師堂に参る。

今治に来たら以前から高野山別院を訪ねようと思っていたので、そそくさと延命寺を後に、遍路道へ。延命寺からは小高い墓地が両側に広がる道を通り、国道に出る。高野山今治別院は、次の札所五十五番南光坊のすぐ隣に位置していると聞いたので、とにかく遍路道を進む。民家や商店がなくなり、大きな木に囲まれた別宮神社が右側に見えてきた。境内を横切り、右側に南光坊を見ながら、別院へ。別院は鉄筋コンクリートの近代的な三階建ての本堂の建物と、 それと別に庫裏があり、幼稚園の建物も大きい。こちらには高野山専修学院の同期生が役僧をされていることもあって、突然の訪問にもかかわらず、歓待を受けたのだった。・・・・

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四国遍路行記-26

2011年10月19日 18時59分59秒 | 四国歩き遍路行記
石手寺に到着したのは10時過ぎ頃だったろうか。駐車場そして仲見世入口あたりから大勢の人で賑わっている。その流れに入り51番石手寺に参拝する。もとは聖武天皇勅願寺で安養寺と言った。後に行基菩薩が薬師如来を彫刻して本尊としたというが、その後弘法大師が巡錫。そして、現寺号の由来はよく知られるように、寛平四年(892)に道後湯築城主河野息利(こうのやすとし)の子息の開かぬ左手を安養寺住持が加持して開かせたところ「衛門三郎再来」と書いた石を握っていたことから改号された。

土産物や昔懐かしい玩具類を置いた店など楽しい仲見世を通り過ぎると、大きな仁王さんの立つ国宝の門が姿を現す。お遍路さんや観光で参る人も多く、また地元信者さんも混じって人が行き交う中、正面の本堂に到達する。鰐口を勢いよく叩く参詣者の横で理趣経を唱える。落ち着かない気持ちを抑えつけるように先を急ぐ。そんな姿を見ている人もあるのか、袖の中に手が入りお接待を何人かから頂戴する。お礼も言えず、ただ会釈する。

そこから右手奥に進み、大師堂を参ってから、ビルマの仏像を祀ったパゴダへ。その途中坂道を降りるところに「雲照律師供養塔」と陰刻された大きな石碑があった。明治の傑僧・釈雲照律師(1827-1909)はここ石手寺において松山十善支会を催されていた。十善会とは、江戸時代の高僧慈雲尊者(1718-1804)が十善の教えは「人となる道」であると説かれ、その教えを継承する雲照律師が近代の世で十善を広めんがために、当初久邇宮殿下を上首と仰ぎ、通仏教で国民道徳の復興を目的に設立された一つの道徳的教会組織である。この碑は賑々しく沢山の稚児行列をもって催行された雲照律師三回忌法要の折に建立されたものであった。

それからその日特別に、庫裏の前に陳列されていたので、衛門三郎の名の入った石も拝見した。後から知ったのだが、その日は旧の4月8日で、茶堂前で甘茶の接待を受けた。どうりで参詣者が多いはずだった。そのあと二時間ほど参道の入り口付近で托鉢をさせていただいた。持参していた鉄鉢ならぬ木製の小さな鉢に入りきれないくらいの賽銭を頂戴した。

そして、石手寺を後にして温泉街に入り、道後温泉本館の神の湯に入る。着替えをしているとあちこちからねぎらいの声を掛けられる。石の湯槽につかる。しみじみ道後の湯は肌にいいと感じた。お湯からあがり衣を着ていると、またお接待を頂戴する。草鞋を履いて歩き出すと心持ち身体も軽くなったように思えた。心も軽やかに温泉街を歩いていくと、通りの右側に山頭火が晩年を過ごした一草庵があった。ぐるりと庵の周りを回ってみる。小さな家だが、管理が行き届いていて、窓から位牌や使われていた笠、鉄鉢などが見えるように並べられていた。

一草庵を出て、すぐに歩き出す。国道へ出て、また左に続く遍路道を入る。次の札所52番は太山寺だが、道の途中先に53番円明寺に札を打つ。もとは和気西山の海岸に位置し、七堂伽藍を備えた大伽藍だったという。戦国時代兵火に焼かれ江戸初期に須賀重久によって現在地に再建を果たした。本堂の厨子に貼られた銅板の収め札が有名である。慶安3年(1650)江戸で材木商として巨万の富を築いた樋口平太夫家次翁が奉納したもので、家次翁は京都の五智山蓮華寺を再興したことでも知られている。

余談ではあるが、この蓮華寺とは、江戸時代の学僧・曇寂(1674-1742)が住持した寺であり、曇寂は備後出身。草戸明王院で出家し、京都五智山に宗学を学び住持となり、明王院をも兼務した。弟子に備中寶島寺に晋住する梵学の大家で寛政の三書僧と言われる寂厳がある。なお、曇寂は経疏・事相に亘る沢山の著作を残しているが、備後國分寺には明王院現住曇寂書の「備後國々分寺鐘銘併序」が伝えられている。

夕刻を迎えていたので本尊阿弥陀如来を拝して、急ぎ太山寺に歩く。山門をくぐったのに、延々と参道が続く。坂道にさしかかり、民家も軒を連ねる道を進むとやっと右手に寺務所が見えた。お参り前なのに恐縮するが暗くなりかかっていたので、この日は寺務所手前の通夜堂にお世話になることにした。

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四国遍路行記-25

2011年06月07日 19時49分45秒 | 四国歩き遍路行記
四十八番西林寺は、聖武天皇の勅願寺。天平十三年の開創。この年は、國分寺建立の詔が出された年である。開基は行基菩薩ともいう。元は松山市小野播磨塚にある一の宮の別当寺であったが、弘法大師がこの地に寺を移し十一面観音を本尊として刻んだ。

別当とは、もとは諸大寺に置かれた一山の寺務を統括する長官職のことであった。が後に熊野や石清水、祇園、北野、白山、箱根、鶴ヶ岡、吉野など大きな神社は、どこも併設された寺院の僧侶(社僧)が別当に任命され、寺社領を統括し神主を兼務してきた。その別当職が住職する寺が別当寺ということになる。

元禄十四年再建の本堂に参り、真言宗豊山派の紋が大きく描かれたガラス越しに中を窺い、理趣経一巻。一夜の宿とさせていただいた阿弥陀堂と、その反対側に建つ大師堂でも心経一巻。そして、そのまま六時前には寺務所に御礼を述べ遍路道に戻るところで、白装束のお遍路さんに呼び止められ、白い紙に包まれたお接待をいただく。久万の大宝寺でお会いしたのだという。網代傘に錫杖、足元には脚絆、草鞋、そして藍色の衣というのは結構目立つ格好なのであろう。本当に、ありがたいことだ。

歩いてきた国道を北上する。四十九番浄土寺までは三キロ。途中左に昔の遍路道だった小道をたどる。伊予鉄道高浜横河原線の踏切を渡ると、古い家並みが続きお寺の近いことを知らせてくれた。仁王門を潜ると、目の前に石段があり、上ると国の重文である本瓦葺き寄棟造りの簡素な本堂が現れる。赤茶けた木肌が古さを感じさせる。

浄土寺は聖武天皇の娘孝謙天皇の勅願で創建され、行基菩薩作と伝える釈迦如来が本尊。八十八カ所の札所でお釈迦様を本尊にする五か寺の一つ。大師堂は本堂の右にあるが、弘法大師が訪れて霊場に定めてから末寺六十六坊を数える大寺になったという。ここ浄土寺は平安時代中期、浄土教の先駆者とも言える市聖・空也上人が滞在した寺としても知られる。

境内には空也松と呼ばれる松の切り株も残っていた。空也上人は天徳年間(九五七~六一)に滞在したとされ、出立する際に懇願されて自像を刻んだという。それがあの有名な六体の仏像を口から出している空也像(国重文)で、像高一三三㎝。現本堂に安置されている。しかし、残念ながら正面の格子戸から覗いても中の様子は見ることは出来ない。

この六体の仏像は当然のことながら「南無阿弥陀仏」の六字を象徴する。空也は、当時平将門や純友による乱が起こり騒然としていた畿内で、手に錫杖を持ち草鞋を履いて、金鼓をたたき念仏を唱え勧進して回った。そうして動揺した人々の心に弥陀念仏による救いを授けていった。鎌倉時代の爆発的な念仏の流行のお膳立てをしたのが空也であり、また天台宗の源信僧都だったのである。

その後空也は比叡山に上り、正式に僧となってから修行の場としたのがこの地だったということであろう。後に庶民ばかりか貴族からも帰依され、十一面観音を造立して京東山に六波羅蜜寺を建立している。現在の浄土寺は、境内もそう広いわけではないが、しっとりとした落ち着いた雰囲気の漂うお寺である。仁王門を入ると別世界に入ったような不思議な感覚がするのは私だけであろうか。

いくつかの団体遍路さんたちに混じり懇ろに読経して、次の札所五十番繁多寺に向かう。お寺を西に出て、いくつか温泉宿の看板を見ながら車道を北上する。新しい住宅街を左手に見て大きな池が見えてくるとその向こう側に繁多寺の境内が見えてきた。繁多寺も孝謙天皇の勅願寺。山門を入ってからしばし石畳を歩いて伽藍に向かう。石段を上がると正面に本堂。本尊は像高九十㎝ばかりの薬師如来。本瓦ののった屋根が大きくせり出していて落ち着いた雰囲気の中、ゆったりと上に掛かっている立派な字の扁額を見上げながら理趣経を唱える。

繁多寺は、浄土教の一派である時宗の開祖一遍上人が鎌倉時代に修行した寺としても知られる。浄土寺で修行した空也上人を先達と仰ぎ、三十五才で全国行脚を始めるまでの一時期、二十五歳頃この繁多寺で修行したとされる。本堂の少し手前に鐘楼があり、右に大師堂。さらに奥には弁天堂、歓喜天堂、毘沙門堂が所狭しと建っているが、全盛時はかなりの大寺院だったという。

室町時代に後小松天皇の命で京泉涌寺の僧が住持となり末寺百余りを数え、一時衰退の後、江戸時代には徳川家の帰依を受けて再興され、特に四代将軍家綱の念持仏歓喜天を祀り隆盛を極めた。歓喜天とは、聖天さんのことで、人身象頭と言い、頭が象の姿で二体が抱き合った御像が有名である。単身の場合は、左手に大根を左手には斧を持つ。財宝・和合の神とされ、商売をする人たちの中に篤信の信者が多く、大根をお供えしてお参りする。

繁多寺の境内は、今でも広く伽藍の背後には鬱蒼とした森が続く。景観樹林保護区に指定されてもいる。森と大きな池に囲まれてしばし静寂の中、英気を養い、次なる札所、道後温泉街に位置する石出寺へと向かった。

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四国遍路行記-24

2011年01月17日 18時58分42秒 | 四国歩き遍路行記
挨拶を済ませ、一晩お世話になった岩屋寺の石段を下る。次の46番浄瑠璃寺までは22キロ。川沿いに国民宿舎古岩屋荘の前を通り、途中昨日通った道を逆にたどる。山道に入り三坂峠を越え下った辺りに網掛石と言われる大きな石に出会った。弘法大師が巡錫の折、網をかぶせて棒で動かしたと言い伝えられ、網状の模様がある。小さなお堂があり番外札所となっていた。

里に出て車道を歩く。途中長珍屋という旅館の看板が目に入る。歩き始めてどのくらいの頃に聞いたのだったろうか。この旅館は歩き遍路さんをただで泊めてくれるというので、その名前は歩き遍路たちには有名だった。一度宿賃を受け取った後、お接待ですと返して下さるのだとか。まだ夕刻には間がある。すぐ先の石垣に囲まれた浄瑠璃寺に札を打つ。

浄瑠璃寺は、和銅元年(708)、行基菩薩がこの地を訪れ、薬師如来、日光月光菩薩、十二神将を刻んで安置したのが始まりという。その後一時荒廃していたというが、弘法大師が訪れ伽藍を修復。室町期には荏原城主が霊験を得て土地を寄進するなど寺観を調えたが、江戸・元禄時代に山火事が類焼し全焼。その後復興の目途がたたなかったところ、庄屋出身の堯音上人が本堂を再建。さらに橋を造るなど社会事業にも尽力したという。

境内には本堂前の見事な老木のほか樹木が所狭しと植えられ、お釈迦様の足の裏を刻んだ仏足石や平たい大きな説法石などが置かれている。木々に囲まれた参道を通り抜け、唐破風の庇が正面に突き出た本堂にたどり着く。本尊薬師如来。お薬師様ということもあってか、霊水で入れたお茶のお接待がありがたい。喉を潤して理趣経一巻。大師堂は、本堂右手に進み心経一巻。狭いがいろいろな見所のある境内を後にして、先を急ぐ。

細い水路が横に流れる道を進む。小さな神社があり、また建設中の家を眺めつつ歩く。次の47番八坂寺は一キロも離れていない。すぐだと思うせいか、なかなか到着しない。民家が軒を連ねた一本道に出る。そこを進むと石段の先に八坂寺が姿を現した。創建は大同元年(701)、文武天皇の勅願寺として伽藍を造る際に八カ所の坂を切り開いたので八坂寺という。

本尊は恵心僧都源信作と伝わる阿弥陀如来。国の重要文化財。鎌倉から室町時代には修験道の根本道場として知られ、僧兵も擁し末寺48か寺と栄えたが、戦国時代の兵火で伽藍を消失し現在に至っている。ちなみに岩屋寺も浄瑠璃寺も真言宗豊山派に属しているが、ここ八坂寺は修験道のお寺ということもあり、真言宗醍醐派である。

本堂の隣に小さな建物があり、中を覗くと、八大地獄絵図が描かれている。恵心僧都が、極楽往生の手引きとして平安中期に著した『往生要集』で、最も詳細に認めた地獄の描写をここにビジュアルで表現されている。現代は漫然と、死んだらみんな極楽に行くと考えがちだが、昔は悪いことをしていたら地獄に落ちるのだと考えた、だからこそ極楽へ行きたいと人々は願い念仏を唱えた。

現世の浮き世話に熱中するあまり、誰も真剣に死後を憂えることもなくなれば、世の中は悪人が大手を振って歩く世になる。そんなことにならないように昔は地獄絵を絵解きしたのであろう。逆に言えば地獄を説かなくなった現代は悪人が跋扈している世なのだとも言えようか。そんな良き時代の名残であろうかと考えつつ眺めた。

ここでも錫を置くには、まだ早い。来た道を戻り、国道を北に歩く。48番西林寺までは、4.5キロ。車の多い時間帯だったのだろう、数珠つなぎに車がひしめく。こちらはそれを眺めつつ、のんきな歩みを進める。途中別格霊場のひとつ文殊院がある。遍路の元祖ともいわれる衛門三郎の私邸があったところでもあり、また菩提所でもある。

大きな重信川にかかる久谷大橋を渡ってしばらく進むと西林寺の山門が姿を現す。夕刻にさしかがっていたので、寺務所に行き一晩の宿を請う。こころよく山門入って右横の阿弥陀堂に案内された。位牌堂でもあるのか沢山の位牌が祀られている。古いお堂で、隙間だらけだが、板の間に寝袋を広げられるだけでもありがたい。早速教えられた近くのお店に行き、海苔巻きとおからを買い入れた。

この日、なぜか心休まるものを感じていた。山間から街中に入ったからであろうか。食べるもの、寝るところ、困ったときに頼れるものが多いからであろうか。田舎の山寺にでもいいところはないかなどと考えるのも、結局は都会しか知らない人間の戯言にしか過ぎないのかもしれない。そんなことを考えながら寝袋に入り込んだ。

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四国遍路行記-23

2010年09月22日 12時58分49秒 | 四国歩き遍路行記

一回目の遍路の時は、ゆっくりと大寶寺での読経を済ませ、昼過ぎに次の岩屋寺へ向けて歩く。距離は8キロとある。夕方までには十分な時間があると思って、のんきに歩き出した。門前の来た道に出ると、その前からすぐに遍路道は山道に入るように矢印がある。迷わず獣道のような細い道を上がる。アスファルトの道よりも足には心地良い。車も横を通らないので気ままに歩けるのもありがたい。

「まむしに注意」という看板があった。山と言うよりも、長く続く丘の中腹を通る道が続く。ハイキングコースのような快適な道だ。右側には何か福祉施設のような大きな建物が見える。ずっとその道を進んでいくと、車道に出た。住吉神社や久万高原ふるさと旅行村という施設の看板が目にはいる。それからまた山道にはいる。

今度は鬱蒼とした木々の間に大きな岩が散在する道が続いていた。登ったり降りたりを繰り返していたら、岩の裂け目の上に鉄の鎖で上に登れるような行場があった。これは弘法大師の行場として知られる「逼割禅定」と言い、岩の頂には白山権現が祀られている。

そこからさらに300メートルほど下ると、岩屋寺の門があり、大師堂が100メートルはあろうかという大岩壁の下に建っているのが見えてくる。その前を通り、隣に建つ本堂へ。岩屋寺のあるこの山中には、昔法華仙人と言われる神通力を持つ女人が住んでいたそうだ。弘仁六年(815)に弘法大師が訪れると、仙人は大師に帰依し、この地を献じて大往生を遂げたという。大師は不動明王像を木と石で刻み、木像を本堂の本尊にして、石像は山の岩石に封じ山全体を本尊にしたと伝承される。

この岩山にかかる雲を海に見立てて海岸山岩屋寺と名付けられた。岩壁にくくりつけられたような本堂前で理趣経を唱え、大師堂に参る。よく見ると大師堂はどことなく変わっている。向拝の柱が二本一組でその上部にはバラの花から綱が下がっているし、手すりの柱には優勝カップのような飾りがあり、四隅の柱には波形の装飾がある。後から調べたら、焼失後大正九年に再建する際に、地元出身で国会議事堂建築の際の技師を務めた河口庄一氏が手がけたものと分かった。和風の骨格の中に西洋のモチーフがちりばめられた、他に例を見ない稀有な文化財と言えるようだ。国の重文に最近指定されている。

本堂の下から弘法大師が彫った霊水が沸いており、その水をすすっていると事務所から声を掛けられた。「歩いてお越しなさったのでしょう。通夜堂がありますよ」こんなことは初めてだった。札所の方からこんなお声を掛けて下さるとは。本堂の下の段に古ぼけたモルタルの通夜堂があった。中は六畳ほどの部屋が廊下づたいに並ぶ二階建ての建物だった。ありがたいことではあるが、ただ泊まるだけのお接待なので食べるものに困った。聞くと参道下の店がまだ開いているでしょうとのことだった。

早速、バスで巡る遍路さんにとって八十八カ所のうちで最も難所と言われる所以の岩屋寺の石段の参道を往復することになった。だんだんと夕刻に近づき、暗くなりかかっていた。下に降りていくと、土産物屋があり、直瀬川に架かる橋を渡る。小椋屋さんというよろず屋に入る。何かご飯ものをと探していると、店の奥さんが出てこられて、「岩屋寺にお泊まりになるのかいな、じゃ何か用意してあげようね」そんなことを言われたかと思うと奥に入り、しばらくすると大きなパックに沢山のご飯を詰めておかずまで沢山のせて、「お接待よ」と下さった。ありがたく頂戴する。

石段を登り、通夜堂に向かう。小さなガスストーブを付けて温まりながらご飯を食べる。混ぜご飯にタケノコ、里芋、厚揚げ。おいしい。ご飯を食べながら、しみじみご恩を頂いていることを思う。食べていたら、お寺の奥さんが、饅頭とリンゴと夏みかんを持ってきて下さった。ありがたい奥さんだと思った。

この日は山越えの道が続いたせいか、膝がガクガクする。二三日前から右の膝の外側を押すと痛みが走る。左の草鞋の後ろ側が切れたので履き替えることにした。気になりつつ歩いていたのでマメが出来るかと思われたが大丈夫だったようだ。大きな通夜堂にその日はたった一人、風呂もないトイレだけの宿で横になった。

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四国遍路行記-22

2010年05月07日 19時35分32秒 | 四国歩き遍路行記
仏木寺から明石寺までの距離は10.5キロある。4時半に仏木寺を出たので、3時間半ほど山道と車道を歩いてきたことになる。かなりの疲労をしたようで、足は棒のようになり身体がバラバラになりそうだと日記に記している。宿の部屋に入ってもしばらく動けず、ようやく風呂に入って布団にもぐり込んだ。寝汗をかき二時間おきに起きた。寝ていながら、上から自分を眺めていた。

丁度初めてインドに行ったとき、ヨガの聖地・リシケーシュで下痢をして高熱を出して寝込んだときのようだった。アシュラム付属の診療所でもらった強い下痢止めの薬を飲んで寝ていたら、気がつくとベッドの蚊帳のずっと上の方から下を見ていた。すると、5人ほどの人たちがベッドの縁につかまって寝ている私の身体を見守っていた。が、その時はいるはずもない人を見ることはなかった。

翌朝も寝不足なので、まったく自分の身体のような感触がない中、43番明石寺に参詣する。寺伝には欽明天皇が勅願して、円手院正澄という僧が千手観音を安置して創建したという。欽明天皇の時代に百済から仏教が正伝したことを考えると少し無理があるかもしれない。その後修験道の道場として栄えたが、弘仁13年に弘法大師が訪れて伽藍を復興した。

駐車場から緩やかな坂道を進むと境内に出る。鬱蒼とした木々の中の石段を登り本堂に参る。地元のお年寄りたちがお参りに来られている中で読経。下の大師堂でお勤めの後、しばしベンチに座りお地蔵さんの前に祀られた風車を眺めた。現在は天台宗寺門派に属することもあるのだろか、建物の瓦が銅色をしていたり、造りも重厚で、少し雰囲気が独特であった。

ゆっくり風に吹かれていたら、徳島の9番法輪寺前で車のお接待をいただいた方との約束を思い出した。明石寺に来たら遍路道沿いのフジマートに寄って下さいとのことだった。急に動く元気が湧いてきて遍路道に戻る。卯之町の商店街の中程にそのスーパーがあった。レジの人に問うと、すぐに出て来てくれて、大きなお弁当と缶コーヒーを持ってきて、「これお接待です、すんません、少し待っていて下さい」と言うとどこかに消えてしまった。

しばらくするとあのときのシーマが店の前に横付けされ、どうやら車の接待をしてくれるらしいとやっと、その時わかった。この次の大寶寺までは、67キロもある。その途中までお連れしましょうとのことであった。内子の町に入ったあたりまで送ってくれた。別に近くに用事があったわけではなかったようだ。のろのろと歩き出して、途中に遍路無料宿と書いた看板などを眺めつつ歩くものの、身体が冷えてきて、どうも風邪を引いてしまったようで熱っぽい。

左手の小高いところにお寺があったので、少し休ませてくれるよう頼むが、断られてしまった。細い一車線の一本道をひたすら歩く。気分も低迷して、人に頼る心ばかりが先行する。車が横を通れば乗せてくれないかとか、どこぞに宿を貸して下さらないかとか、そんな気持ちばかりが湧いてくる。お弁当を途中で食べ、小田町まで来たところで夕刻にさしかかった。道沿いの大きな樽のある造り酒屋の先に小さな古い宿があった。4時頃だったが宿に入る。

泊まり客が私だけだったこともあってか、宿の女将さんがとても気遣って下さって、洗濯までしてくれた。夕飯には、天ぷらに玉子、ワカメの吸い物、それに唐揚げも。精の付く食事を用意して下さった。その上、宿賃まで、素泊まり同然の支払いで送り出して下さり、誠にかたじけなく思う。

お陰で、昨日の朝と違って、この日は足取りも軽やかに大寶寺への道を急いだ。大寶寺のある久万町は林業の町に相応しく、遍路道沿いに太い丸太が積み重ねられた材木置き場をいくつか越えて、小高い森に向かう道を一直線に進んだ。左側に樹齢数百年という杉や檜の大木が44番大寶寺の伽藍を囲んでいた。

左手に入り斜め後ろに伸びた坂道を上がる。信徒会館の奥に伽藍が広がっていた。聖徳太子の父用明天皇の御代に、明神右京という狩人が十一面観音を発見して、その百年後大宝元年(701)に文武天皇の勅願で創建されたとも、同年に百済から十一面観音を奉持して来日した僧がここに草庵を結んだとも言われている。弘法大師が大同13年に巡錫の折、天台宗から真言宗に改めたのだと言う。大正時代に再建された本堂は銅板屋根ではあるが、とても豪壮な造りをしている。

実はこの一年後遍路したときには車のお接待もなく、内子の手前の大洲の国道56号線下の別格20霊場の一つ十夜ヶ橋の札所で夕刻にさしかかり、その通夜堂に泊まったことがある。ノミがいるのか痒い思いをしたことを今も思い出すが、翌日元気だったこともあり、遍路道を外れて別格20霊場7番札所の金山出石寺へと歩を進めた。ところが途中道に迷い、山の道無き道をよじ登り何とか出石寺にたどり着いた。本堂に参っていると、今度は強い雨が降ってきて、困り果てていたら、お堂の下を覗き込んでいた人から声をかけられ、お接待しますと言われ、車でその人の家に連れて行かれた。

聞くと、十夜ヶ橋のお寺の檀家さんで、その大師堂を再建することになった大工さんなのだとのことだった。見ると右手の指が二本欠けている。それでも大工仕事ができるような道具を工夫して続けているのだとか。誰もいない家に案内されて、何故か用意されていたご飯をご馳走になり、しばらく待っていてくれとのことで少し横になり休んでいたら、どうぞと、娘さんが大寶寺の近くまでクラブ活動で行っているので迎えに行くから乗って下さいとのことだった。大雨の降りしきる中、何の苦労もなく大寶寺へ参ったのであった。

道が今のように整備されていなかった時代には、この明石寺から大寶寺にかけての遍路道が最難所だったとも言われるのに申し訳ないことではあるが、この前年のこの辺りでの難儀を考えると丁度バランスを取ってくださったものかと得心したものだった。その日は既に夕刻、外はどしゃ降りということもあり、そのまま大寶寺で宿泊を乞うと、乗務員用の部屋に案内され、お接待を受けた。

翌朝、本堂に他のお遍路さんたちと共にお詣りした。その時、本堂の左側手前に、正に生きているかの如くの先師さんの御像が祀られていて、読経中目が離せなくなったのを記憶している。確かに木肌なのに、つやつやと輝き、眼光も生きているように感じられたのだった。ご住職は真言宗豊山派の抑揚にとんだ豪快なお経を唱えられた。

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四国遍路行記-21

2010年02月01日 18時37分07秒 | 四国歩き遍路行記
四十番観自在寺から次の龍光寺までは、六十一キロもある。豊後水道沿いの国道を歩く。ひっきりなしのクルマの騒音に気持ちが落ち着かない。四国の道の矢印があったので、右の小道に入る。途中小さな番外の札所があったり、お地蔵さんが並ぶ道を歩いた。山道だったこともあり、かなり遠回りだったのかもしれない。国道に戻ってみると、まだ景色は先ほどとさほど変わっていなかった。

青い海に浮かぶ小島。水飛沫が白く美しい。それを見ているだけで元気が出てくるようだった。海が見え隠れする道を歩く。相変わらず車の多さにうんざりするが、5時過ぎ頃、バス停で休憩していると、たまたまそこに車が迎えに来るという方と話し始めた頃に、乗用車が到着。津島までクルマのお接待を受けた。山道を歩いた分車で今日の道程を進ませていただいたような格好になった。

津島は、国道沿いに川が流れ、橋を渡って街に入る。お寺の建物が目に入った。しかしどう見ても禅宗のお寺のように思えた。普段であれば、庇をと言って玄関を叩くところではあったが、このときは何故か橋を渡ったところにあった新橋旅館に泊まってみたくなって、境内を覗いただけで踵を返した。

新橋旅館は木造二階建ての古い旅館で、こざっぱりした落ち着いた雰囲気の宿だった。真珠の養殖の街だけあって、古風な落ち着きのある街並み。川と国道の先に見える夕暮れ時の海も美しい。景色を眺めながら、ゆっくり日記を認める。

ここまで、沢山の方たちのお接待や善根宿のお陰で、何の苦労もなく至っていることを思った。ただ自己の心を見つめ、歩くときには一歩一歩何も考えないことを心がけてきた。しかし、ここ数日、札所などで出会う、他の歩き遍路さんたちの様子や話しかけられての会話に違和感をおぼえ心乱している自分を不甲斐なく思い、お経に身が入らないこともあったことなどを反省した。

翌朝、家に電話をした。元気そうな声に安心する。気持ちよく宿を後にして、橋を渡る。バスの走る国道をひたすら北に向け歩く。宇和島の街に入るところで、中務茂兵衛(なかつかさもへい)という明治の人が建てた道標があった。少し茶色になった四角の石に、手形と龍光寺と記してあった。茂兵衛は江戸時代の終わりごろに山口県大島に生まれ、十九歳の時に四国遍路を思い立ち、大正十一年に七十八歳で遍路途中に亡くなるまで、二百八十回も四国を巡ったという。

その間に四国全域に沢山の道標を建立し、施主が広い範囲に見られることからも、かなり有名で生き仏と慕われていたとも言われている。大きなものでは六尺、平均四尺の高さで遠くからもよく分かる道標である。茂兵衛の辞世の句が遺されている。

「生まれきて 残れるものとて 石ばかり 我が身は消えし 昔なりけり」今の世にこうして顕彰されることを先読みしていたかのような句を書き残した。

沢山の賑やかな飲食店などが目にさわる宇和島の街並みを過ぎると、国道とも別れ東に道を取る。四十一番稲荷山龍光寺は、三間のお稲荷さんの下に位置する。古い集落の間の道を進むと山門ならぬ鳥居が目に入った。昔弘法大師がこの地に至ると、白髪の老人が現れ、我れ仏法を守護せん、と告げて姿を消したことから、ここが霊地と知り寺を造った。その老人の尊像を刻み、稲荷明神として祀ったという。

お稲荷さんは、稲を象徴する神、もとは五穀豊穣の神であったが、今では開運や商売の神となっている。ここでも、明治になり廃仏の煽りを受けた。江戸時代までは現在の境内の上に位置する社殿が本堂だったという。現在では狭い土地に本堂が造られ十一面観音を祀っている。気の毒なほどに狭小な境内。それでも、落ち着いた静寂の中にあり、ゆっくりと理趣経を唱える。石段をまたいで反対側に大師堂があった。

龍光寺を後にして、次の仏木寺に急ぐ。三・七キロの距離。近いと思ったのが間違いだった。田んぼの畦道の脇を歩き、小高い山をいくつも横に見ながら、もう着いただろうと思うと、神社だった。アスファルトの整備された道を進むと、右側に大きな楼門が見えてきた。石段を上がると茅葺きの堂々とした鐘撞き堂が目に入る。そこを左手に進むと境内に出た。奥に本堂と大師堂が並んでいた。

寺伝では、弘法大師が唐の国から還った翌年、大同二年(807)頃にこの地にいたり、牛を引く老人に牛に乗るように言われ乗ったところ、楠の木の前に案内された、するとその楠の木には唐の国から有縁の土地に至れと投げた宝珠が掛かっていたという。さっそく大師はここでその楠の木で大日如来を彫り、その宝珠を眉間に納め白毫にしたという。

鎌倉時代には、大覚寺統の後嵯峨天皇の皇子で、最初の宮将軍となる宗尊親王(鎌倉幕府第六代将軍)の護持仏になったと言われる御像である。宗尊親王は十歳の時征夷大将軍になり、その十四年後に謀反の疑いで京都に追放され、三十一歳の時出家、三十三歳で崩御。時代に翻弄された一生であった。また、仏木寺の大師堂の大師像は、鎌倉末期の正和四年開眼との胎内銘がある御像として有名である。現存する大師像の中でも最古の胎内銘だという。

整備された境内の落ち着いた雰囲気の中、お勤めを終えて時計を見る。四時半を指していたが、さらに先を歩いた。北に進む。夕刻が迫ってきたが、木々に覆われた山道が続ていた。突然視界が開けたと思うと、車道の左側から長い崖を下る道が続いていた。はるか下の方には車道に繋がっている様子が見える。一段一段気をつけながら下る。草鞋が段にひっかかる。日が落ちるのが気になりながら歩く。

ようやく崖を下ると車道が、明石寺のある卯之町に向けて延々続いていた。気がつくと、もう八時になろうとしていた。一気に疲れが全身に広がる。卯之町の商店街に入り最初に見つけた宿に草鞋を脱いだ。

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