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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

備後國分寺だより 第59号

2021年09月18日 14時20分00秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第59号


護摩供後の法話より
いのりについて


私たちは、だれもが自然に幸せを願い、不安や恐れから逃れたいと思い祈ります。

ですが、仏教はいつのころからか、学問仏教としては特に、祈り、つまりご祈祷や祭祀儀礼は仏教にあらずというような観念が浸透しています。現世利益を求めるなどというのは仏教ではないというのです。確かに初期経典の中にもそのようなくだりはあるのですが、はたしてそうなのでしょうか。

古い経典の中には、「信者から施された食べ物で生活しながら、・・・火の献供、墓地の呪術、鬼霊の呪術・・・願掛け儀礼、供犠、そのような無益な呪術による邪な暮らしから離れている。これもまた、比丘(びく)の戒です。」(『ソーナダンダ経』他)というくだりがあります。ですが、これは悟り一筋に日々精進する比丘(僧侶)の戒律としての記述であり、そのような人々にとっては無益であると言われたに過ぎません。

今日、お釈迦様の時代の仏教を色濃く残しているとされる、スリランカやタイなどの南方の仏教では、『パリッタ』(護呪経(ごしゆきよう))といわれるいくつかの経典を、毎朝比丘は唱えています。

これらの中には、蛇の害から逃れたり、病気が癒やされたり、信者たちの幸福を願って唱えられた伝統によって、今日まで大事にされてきた経典であるということです。

つまり、悟りへの本分に差し支えのないように、唱え、祈ることは当然のこととして許されていたと考えられるのです。ですからおそらくお釈迦様の時代にあっても、一般の信者たちにまで、こうした人間の自然な感情から発する祈りということを否定したわけではなかったといえます。

『アングリマーラ経』(パーリ中部経典)という経典があります。

もともとバラモン教の修行者であったアングリマーラという一人の青年の話なのですが、ある時師の心無い言葉によって、突然人や動物を殺すような凶悪な行為を繰り返すようになり、大人数で武器を手にして取り巻いても退治できないほどに凶暴な殺戮者となっていました。

お釈迦様は、彼が潜む所へ一人静かに近づき、教誨(きようかい)の奇跡ともいえるような説教により、一瞬にして改心させ僧院に連れて帰り、出家させ比丘として生活させていました。

ある時アングリマーラが托鉢していると、一人の婦人が難産で苦しんでいました。どうしたらよいかをお釈迦様に問うと、「私は生まれてより故意に生き物の命を奪ったことはない。この真実においてあなたと胎児は安らかになりますように」と言いなさいと教えられます。しかしそれでは偽りを言うことになると、アングリマーラがいうと、それでは「聖なる生まれによって生まれてより・・・」と言い換えていうように教えられたのです。そして、その通りその婦人の所に行き言うと、その婦人も胎児も安楽になったということです。

その人にとって最も守りがたい厳しい戒を保っているというその真実、その徳によって願いが叶いますようにと祈る祈り方を教えて下さったものと解釈できます。

さらに、これも初期経典の一つ『法句経』の第一六六偈の因縁物語に、「自己の利益」を意味するアッタダッタという名前の比丘の話があります。お釈迦様がふと、「あと四ヶ月後に入滅するであろう」といわれた、その一言に多くの比丘方が慌てふためき、何をしていいか分からず、香や花を供えて供養してお釈迦様の延命を願う中で、ひとりアッタダッタは瞑想修行に専念していました。

周りの比丘たちが単独行動するアッタダッタのことを告げ口すると、お釈迦様は呼びに行かせ理由を聞かれます。すると、アッタダッタは「お釈迦様が生きておいでになる間になんとか最高の悟りを得られるように瞑想に励んでおります」と答えました。お釈迦様は、「アッタダッタは正しい、自分に恩愛あるものは、香を供えて供養するよりも、如法に実践修養することが何より大事であり、そのことは私への無上の供養である」と言われたということです。

供養とは、インドの言葉では、プージャーpūjāといいます。プージャーは尊敬、供養、礼拝を意味し、今日でも、インドでは盛んに神様に沢山の香や御供えをし読経がなされています。

仏教でも、ブッダ像に香灯明供物がお供えされて読経がなされますが、それもプージャーに外なりません。

ですが、仏教での供養による祈りは、その上に自分のための修行が何よりの供養であるとお釈迦様が言われるように、自らの心を浄める、心を無にしてきれいにするという要素が欠かせないということになります。

ですから、護摩のご供養でも、お参りの皆さんは、火が上がっている間ずっと一心に心経を唱え、すべての思い計らい願いのすべてを仏様に放下(ほうげ)して、おまかせして、心を清浄にされるわけです。そして、そのことは法事などの供養にあっても同様のことが求められているということでしょう。

日頃持戒しつつその真実によって、さらにひたすら心清らかにあるよう励み、自分という思いを空(くう)じていくことによって、私たちの祈りが通じるということであろうかと思います。(全)


花山信勝著
『巣鴨の生と死ーある教誨師の記録』を読んで


『巣鴨の生と死』を再読する

一九九五年七月発行の中公文庫・花山信勝著『巣鴨の生と死ーある教誨師の記録』を再読しました。阪神淡路大震災の年に発行されていますので、おそらくボランティアで、何度も神戸と東京を往復し、その後インド・コルカタの僧院で雨安居を過ごしてから帰国した頃購入した本であったろうと思われます。

どういう思いでそのころ読んだのかは思い出せないのですが、この度再読したのは、昨年夏頃から毎週楽しみに視聴しているユーチューブの音楽報道番組『HEAVENESE STYLEヘブニーズスタイル2021.2.21号』にて、東條由布子さんを紹介されていたことにあります。

その番組を拝聴しながら、先の戦争開戦時の東條英機首相が、戦後戦争犯罪人という汚名を一身に背負わされ糾弾されたのは、報道機関並びに日本人一人一人の責任転嫁に外ならないのではないかと思えました。

翼賛体制に置かれたとはいえ報道機関も戦争に加担し、国民を扇動した責任を、あたかもすべて一人の軍人総理の責任にしてしまいたかったのではないか。当然そこには当時の宗教者仏教者も含まれるわけですが、昨日まで軍国主義一色だった国民誰もが手のひらを返したように一人の人に責任を押しつけて平和を叫び、おのれの不明を無きものにしたかった。そのように思え、当時のことをもう少し知らねばならないと思えたのです。

日本を勝ち目のない戦争に陥(おとしい)れ、アジアの国々を侵略した極悪非道の張本人に戦後仕立て上げられ、その汚名に一切の弁解もすることなく、すべての思いを胸に秘め亡くなった祖父を思い、東條由布子さんは昭和から平成の時代になって、それまで祖父の遺言により閉ざしてきた口を開き、勇気をもって祖父の実像と真実の歴史を語りだされたのだといいます。

その後、文春文庫・東條由布子著『祖父東條英機「一切語るなかれ」』を読んでみました。小さなころに触れた真面目で律儀で家族思いの祖父の面影、そして戦後東條の名を伏せて近隣に知られぬように何度も世間から逃げるように住まいを換えたこと、兄姉は小学校に編入しても「東條憎し」ですべての先生が担任を拒否して入るクラスがなかったという悲惨な話など、今ではあり得ないような非情な時代のことごとが綴られていました。

そして、その本を読み終えようとしたころ、本棚のどこかにあった本書『巣鴨の生と死ーある教誨師の記録』のことを思い出し、改めて読んでみたのでした。

著者の花山信勝師(一八九八ー一九九五)は、浄土真宗の学僧で、昭和二一年から三四年まで東大教授、日本仏教史を専攻し聖徳太子の著作研究が専門。昭和二一年二月から二四年四月まで巣鴨拘置所の教誨師を勤めました。

巣鴨拘置所での仕事

話は、昭和二一年二月二八日、戦時中の犯罪行為について訴追された被告たちを収容する巣鴨拘置所で、初めて法話した日の出来事から始まっています。二階のチャプレンスオフィス隣の広間に特設の仏壇を置き、六十名ほどの独房に収容された人たち、それから別に雑居房に入っている人たちに向け、それぞれ一時間ほど読経と法話をされました。

それから週に二日、四回の法話と週に四人から十数人の絞首刑者や精神異常者の個人面談をしたということです。が、聞く方からすれば月一回の法話と面談は三、四か月に一回しか日が回ってこない勘定になります。そこで、その間は浄土教関係が多いのですが仏教書を差し入れて読んでもらっていたのだといいます。それらの書籍を列記すると、仏教要典、正信偈講讃、観音経講義、白道に生きて、仏教の精髄、歎異鈔講話、真実の救い、信仰について、生活基調の宗教、霊魂不滅論、他力真宗、苦悩を超えて、など。

そうして、A級戦犯の刑が確定し執行されるまでの三年間に亘り、師の教誡は続けられました。回数を重ねる毎に、しだいに緊張し真剣に法話を聞こうという気持ちに進む人が多く、ともに念仏を唱えたり、深々と頭を下げて合掌して退室する人が多数現れたということです。師が見送った人たちは、戦争犯罪などの死刑囚としてランクされたBC級二六人が絞首刑、一人が銃殺刑。平和に対する罪としてのA級絞首刑が七名です。

BC級戦犯の絞首刑に当たっては、刑執行の前日に本人の独房に入り一時間程度の面談をし、家族への伝言や爪や髪、お守りなどを預かります。その後教誡事務所で過ごしたあと、執行時間前にもう一度独房に入り、紙と鉛筆をわたし書きたいことを書かせ、それから一階に下りて三、四分歩いて刑場に入ります。執行にあたり、刑場の仏間で線香ロウソクをつけ、父母と自分の分として三本の線香を供えさせ、読経し、君が代などをともに歌い、仏前に供えたコップの水を飲ませ、アメリカ製のビスケットを食べさせました。

刑場に見送ると、しばらくしてガタンという音がして、それから半時間ほど後には、霊柩室に一尺五寸ほどの棺が運ばれてきます。蓋をとると、頭から足先まで丁寧に真っ白な木綿で包まれており、その前で師は阿弥陀経を唱え葬式に換えることを常とされました。しかしその後遺骨がどのように処理されたのか、どこに埋葬したのかは米国軍規で知らされることはなかったといいます。師は各々の受刑者に「光寿無量院釈◯◯」という戒名を授け、遺族に送ったということです。

信仰に目覚める戦犯たち

BC級被告の中には、『往生要集(おうじようようしゆう)』の和訳を三回読みかえす信仰家もありました。この人は父親に向けた手紙の中に、「ずいぶん迷いました。苦しみました。が、自分というものをいっさい仏におまかせしたときからなにか気が楽になり、こうしてはおられぬという気がおこり、心の勉強にはげみました。・・・この死刑ということが自分の人格をさらに一段と向上させてくれたと思っています。億劫にも得がたい如来の御縁をうけることができたのはまったくこの不運がきずなとなったわけです。人間は身は亡びても魂は残ります。如来のお力を恵まれて自分は一だんと、心が豊かに進歩させてもらい、とても喜んでおります。・・・人間は死を前にひかえるときに何の不平がありましょう。何の悲しんでおられましょうか。お蔭で生かされる喜びに御恩報謝の道を気強くほがらかにお念仏をとなえ立ち上がるべきであります。仏の本願はおのれの本願となって下されて御恩返しの道が踏まれます。人を助けたい心も起こります。この道こそはわが家をさらに円満に栄さす道であります。不運を転じてわが家の仕合わせに向かう縁になったことを喜びこの力こそ恵まるるお慈悲の力です。(本書一〇五~一〇七頁)・・・」と書いて、自らの宗教的目覚めを説き、残していく遺族には悲しみを信仰にふり向けて生きよと励ましました。

また別の人は日記の中に、「・・・もし今度の事件に遭遇しなければ、自己を知り、人間性に目覚めることは出きなかったと思う。人間としての理性と自覚に目覚めることの出来たことは生涯における一大収穫であったと思っている(同一五八頁)」と書いて、かえって死刑宣告により深刻なる人生に対する気づきを得られたという感謝の気持ちを綴りました。

ただ一人銃殺刑を受けた元大佐は刑が執行される麻布射撃場に連行される車の中で高いびきを搔き、直立不動の姿で平然と銃弾を受けたとのことですが、その剛毅な元大佐の死を多くの米軍将校もたたえたと記しています。

この元大佐の遺書は、この後A級被告各氏に師が読んで聞かせるほどの名文でありました。「謹んで書す。昭和二三年十月二二日夜一時、余は銃殺刑という罪名の許にこの人生を終わるのである。余のためには誠に意義深き日である。思い返せば五十五年の人生、お世話ばかりになり通して、何の感謝の意を表することもできなかった。この度の弥陀の浄土への芽出度い往生、これまた仏恩に感謝せねばならない。仏恩に感謝これのみぞ、余の最後まで務めねばならないところである。父母妻子兄弟姉妹には、格別になげかれることと存ずる。然し決してかなしまないでもらいたい。余の今日あるは宿業の致すところである。人生の因縁事と思う。浄土に参りし後は、必ず還相(かんそう)の廻向(えこう)により、再びこの世に出で来たり、衆生済度(さいど)の大業にたずさわるであろう。(同一七三頁)・・・多くの部下は新しい日本建設の礎石として死んだのだ。余もその仲間入りをするのだ。(同一七八頁)・・・何事も忍べよ。仏さまはこの忍ぶということを経にもよく云ってある。忍ぶというのは徳の第一だといってある。人生は忍ぶということだとも云える。…上に立てば立つほど忍ばねばならない。(同一八〇頁)」と書き、辞世の一節には、「心は常に天外に遊ぶ 無限の栄光眼前にそばたつ 一心正念して唯これのみを信ず 天上天下我を害するものなし 我は歌わん真理の曲我はすすまん真理の道(同一八三頁)」とあり、まこと気高き最期であったことをものがたっています。

A級戦犯にむけて

この銃殺刑が執行された日、花山師は戦争指導者A級二五名の被告たちへ、これが最後と思い法話をしています。要約しますと、

「人間必ず一度は死なねばならない。毎日刻々生死を繰り返している。これまでに絞首刑台に上った四十代、五十代の人たちはいずれも固い信仰によって死をおそれるよりもむしろこれをよろこび、立派な大往生であった。戦争により領土は半減、百数十万の生命を失い、全国の都市は爆撃を受け想像をこえる災禍をこうむったが、それによってえたものは、死刑囚たちが信仰を深め、尊い遺書を残してくれたことこそ大きな収穫であった。明治以来八十年間の歴史の失敗は、今日これらの人たちの精神力によって未来数千年への人類の希望への基盤をつくってくれた。そこに人間の限りある一生を容易にすてて永遠の人生に生きる道がある。…(同二一二~二一四頁)」と説いたということです。

そして、ついに十一月四日から二五名の戦争指導者に向けて判決の朗読が始まり、十二日七名の絞首刑、その他終身刑有期刑が確定しました。

その日から絞首刑となった七名と十二月二三日に執行されるまでのひと月余り、師は各氏と面談を繰り返しています。その面談記録は、七人の経歴を記し、その人物像にも触れながら、克明に何を語り合ったかを記しています。

若い頃から坐禅に勤しんできたが自分のようなものには念仏にしか救われる道がないと改心された人、家族がキリスト教の信仰があり拘置所にドイツ人の牧師を差し向けて洗礼をさせようとしたが断って仏教で最期を迎えた人、伊豆山に南京上海で亡くなった日中両国戦死者の遺骨を祀り観音像を建立し供養を続ける人、親鸞聖人が語られたとする『歎異鈔(たんにしよう)』の第九章を毎日味わい信仰を深められた人など、みなそれぞれに宗教心に目覚め安心(あんじん)を得られたことを記しています。

東條英機元首相についてのみ本人の言葉として記されているものを抄録してみますと。

「…第二次世界大戦が終わってわずか三年であるが、依然として全世界は波瀾に包まれておる。ことに極東の波瀾を思い、わが日本の将来について懸念なきを得ず。しかし三千年来培われた日本精神は一朝には失われないことを信ずる。窮極的には、日本国民の努力と国際的同情によって立派に立ち直って行くものと固く信じて逝きたい。(同三〇四頁)・・・(自決後すぐに手当てされて生き長らえたことについて、それによって)一つには宗教に入り得たということ、二つには人生を深く味わったということ、三つには裁判においてある点を言いえたということは感謝しています。(同三一五頁)・・・(大無量寿経の)四十八願を読むと一々誠に有難い。今の政治家の如きはこれを読んで政治の更生を計らねばならぬ。人生の根本問題が説いてあるのですからね。国連とか、その他世界平和とかは人間の欲望をなくした時に初めて達成できることで、そこに社会の平和が成るのだ。(同三二二頁)…」などと話され、花山師との面談を何よりも楽しみとしていた様子が綴られています。

そしてこれはいささか今の時代となっては違和感すら覚えるのですが、当時の多くの人たちが教養として身につけられた時代なのでしょう、いずれの人も和歌を詠まれており、荒木貞夫元陸軍大将などは、この間に七百首も詠まれたといわれています。

東條元首相は処刑前日にも花山師に「散る花も落つる木の実も心なきさそふはただに嵐のみかは 今ははや心にかかる雲もなし心豊かに西へぞと急ぐ 日も月も蛍の光さながらに行く手に弥陀の光かがやく」(同三八〇頁)と三句の歌を残されたのでした。

かくして七名の絞首刑は、前日それぞれ二度の面談の後、十二月二三日午前零時前に、二組に分かれ、仏間でのお勤めの前に奉書に署名をし、コップ一杯のブドー酒を飲まれ、水を飲みかわしたとされています。それから三誓偈を読んでお勤めとし、「天皇陛下万歳」と三唱されて、刑場に向かわれました。七つの棺の前では、正信偈と念仏廻向を唱えたと記録されています。

歴史を振り返って

こうして、花山師の導きもあって、当時軍国主義の悪のシンボルのように云われた極刑に処された人たち誰もが、動揺もなく平常心のままに身まかられたのでした。懺悔(さんげ)するなどという心を遙かに超えて、巣鴨拘置所に収容されていたこの間に、深く人の世、人生の真実、いのちのありように立ち向かわれて、深く悟ることあり、そして人の世の穏やかなることを願い、信仰、宗教に生きることを人のあるべき姿と確信して、立派に死んで逝かれたことは誠に感銘深いことに思われます。戦犯と云われた方々がこうした最期を遂げたことを知る貴重な機会を改めてもてたことは誠に得難いことであり、今を生きる私たちにも当然生きる力となり、価値ある生き方を求められている思いがして、時を無駄にしないよう督励されているようにも思えました。

さらにこの後、私は講談社によって一九八三年に製作された実写版DVD『東京裁判』を手に入れて視聴しました。当時の映像をもとに時代背景にも触れ理解しやすいように編集されており、裁判冒頭からこの軍事裁判自体が当時の国際法上罪を問えるものかとの疑義が提起されたことや残虐行為を犯罪とするなら米国による原爆投下についても同罪とすべきであると米国人弁護士が指摘していた事実を知りえたことなど誠に参考になりました。

また本書に登場する戦犯の方々の実際の姿も拝見し、その姿の美しさ、当時の日本軍人、文官の凛とした威厳にわが身を正される思いが致しました。自ら弁明する機会であった個人反証の答弁においても、東條被告は「自存自衛の戦いであり植民地の解放と独立のためになされた戦争であった」と堂々と主張され、「されど敗戦の責任は自分にあり責任を受け入れる」と供述されていました。

戦後私たちは、大東亜戦争という名称が否定され太平洋戦争といわされたわけですが、先の戦争は軍国主義国家日本による侵略戦争というレッテルを貼ることによって、戦争の実像が隠されてきたのではないかと思います。

第二次大戦は、軍国主義やファシズムとデモクラシーとの戦いであったとする東京裁判などで印象付けられた歴史観は、今日誤りであったのかもしれないとする歴史の修正がなされつつあります。経済制裁は当時の国際法上からも戦争の始まりであると認められており、一九五一年五月の米上院軍事外交合同委員会でマッカーサー元帥自ら「日本の戦争は自衛戦争であった」と証言していたとのことです。(『太平洋戦争の大嘘』藤井厳喜著)

一つのユーチューブの番組を視聴し、尽きぬ好奇心から触手を伸ばすうちに様々なことを学ぶ機会を得ました。当時を振り返り、真実の歴史、戦犯とされ死刑となった人たちの生きざま、その心境を知ることは、それにより戦後の繁栄をえて今を生きる私たちにとって実に肝要、不可欠なことに思われました。

最後に、誠に唐突ですが、昨年四月、当時の安倍首相が、「この感染拡大は第三次世界大戦と認識している」と述べた言葉は何を意味していたのでしょうか。その後の一年、報道のありさまを見るにつけ、かつての統制された様相に似ていることに気づかされます。人々が無知のままに扇動されることだけはあってはなりません。異常な報道管制の中にあることを認識し、同じ轍を踏まぬよう、気を付けて今の時代を生きてまいりたいと思います。

  (巣鴨拘置所内の写真は中央公論社刊   『あるBC級戦犯の手記』より)

〈追記〉後日、中公新書・小林弘忠著『巣鴨プリズン 教誨師花山信勝と死刑戦犯の記録』を読みました。花山師本人の筆記に比べ、かなり時代背景や心中深く想像しての論説に当時の教誨師の置かれた状況が厳しいものであったことをうかがい知ることができました。花山師の後二代目の教誨師になる田嶋隆純師(大正大学教授)との比較も記され、収容者たちとの向き合い方、学者として、また宗旨の教義への証明としても説き方や対応が異なっていたため、花山師に対し冷ややかな見方がされていた事実も知ることになりました。しかし戦後間もなくの難しい時代であったこと、見習うべきものもない状態でおのれの信ずる教誨を一人続けられた業績に変わりはありません。その間収容者家族が上京した際に自宅を宿泊所に提供したり、教誨をやめてからも講演して歩き巣鴨の実態を世間に知らせ、本書の印税を遺族に人知れず送金されたりと、生涯にわたりかかわり続けられたのでした。師本人が死の間際に、「巣鴨プリズンは、人の真の生き方を学ぶことができた。私の人生は幸せだった」と述懐されたとあり、それは世間の様々な見方や自らの孤独感さえ乗り越えたうえでの納得ではなかったかと思います。合掌   (全)


あるべきようは② 
お釈迦様が教える本当の幸せとは


そして最後に、遊行期(ゆぎようき)、社会生活を離れ安らかな心の幸せを求める時期です。

⑨心の鍛錬(たんれん)、自分の心を知るという実践、神聖なる真理を見ること。覚りの世界を明らかにすること。これは最上の吉祥である。
⑩俗世間のことに触れても心が動揺せず、憂い無く、汚れなく、安らかである。これは最上の吉祥である。

定年をして、なおかつ仕事を持つ人も多いとは思いますが、出来れば仕事を離れ、残りの人生を心静かに安らかに過ごすことも大切なことではないかと思います。

定年後は一人四国遍路を歩くという人も多くなっているとのことですが、そうして、社会生活を離れ、自らの心を知るように励むことが何ものにも依存しない最高の幸せを求めていくことにつながります。人として人生の意味を知り、永遠の幸せである覚りをも求めることに繋がります。

利益や不利益、苦や楽、賞賛や非難、名誉や不名誉などといった俗世間の損得にも心動かされることなく、憂い、貪り、怒り、妬み、おごり、偽善といった心の汚れが現れなくなり、安らかな幸せが得られるのです。

ここまでの内容を四住期(しじゆうき)ごとにひとまとめにしますと、

[1]人として知識や技能を身につけ生きる力を蓄えることによる幸せ。 
[2]正しい仕事によって財を得て家族や社会を養い、善行を習慣とすることによる幸せ。
[3]生きとし生けるもののために善い行いをして、なおかつこれまでと違う次元のことに関心を向ける幸せ。
[4]なにものにもとらわれない清らかな心の幸せ。


というそれぞれの段階に応じた幸せがあることが分かります。

最終的には、結局覚りということが人生の目標です、ということになるのかもしれません。幸せを求めるならそこまで行って下さい。中途半端なところで満足しないで下さい。それがお釈迦様の言いたいことのようです。

それがために、日本では、人が亡くなるとお葬式で戒名をお授けして引導を渡すのではないかと思います。お葬式での引導作法は略式の出家得度式をしているのです。

それは、仏教に縁あった人には、最期、死に際にはなってしまったけれども、戒名を差し上げて出家してもらい、覚りという最高の幸せを求めて来世に旅立っていってもらいたい。そういう願いが込められているのではないかと思います。それが最高の死者に対する遇し方だとされて、はじめは天皇などの高貴な方々に行われていた作法が、時代とともに一般の人々にも行われるようになり今日に至っているのだと思います。

幸せとは何だろうと思って気楽に読んできて、最後まで来たら、何とも厳しい内容となってしまいました。ですが、皆さん、普通幸せというと、健康で、いい学校に入り、いい会社に入って、やりがいのある仕事をして、裕福に暮らしてと、つまり何かを達成したり、何かになること、欲しい物が手に入ったり、行きたいところに行き、したいことをする、そんなことが幸せと思ってはいないでしょうか。

つまるところ、何かある程度の贅沢が出来て、何でも思い通りになることが幸せだと思いがちではないでしょうか。ですが、地位があったり、お金持ちといわれる人が必ずしも幸せとも限らないものです。人生ずっと思い通りになるなどということは絶対にありません。

ですから、私たちが漠然と思っている幸せとは、本当はあり得ないことなのであり、私たちはどういう事が幸せかということを本当はよく分かっていないのかもしれません。

そこで、お釈迦様は、この『吉祥経』で、幸せとは、人としてなすべきことを人生の段階に応じてきちんとなし終えていくことですと、その上に自ずとおとずれる何も憂えることのない安らかな心、功徳ある行いをなした充足感であり、その上に求められる悟りとも言うべき至福感といったものであると定義なさっているのです。

大切なのは、このごく当たり前のこと、なすべきことを粛々とこなしていくこと。それで何の後悔も憂いもない、善いことをした満足感がある、これまでの歩みに納得している、その上に少し心のことを考えるゆとり、安らぎがある、そんなことが本当の幸せなんだとお釈迦様は教えられているのです。

タイトルの「あるべきようは」とは、室町時代の高僧明恵上人(みようえしようにん)の言葉です。『栂尾(とがのお)明恵上人遺訓』の中に、

「人はあるべきやうわの七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきやう。俗は俗のあるべきやう。乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきやう。臣下は臣下のあるべきやう。此のあるべきやうを背(そむ)く故に一切悪しきなり」とあります。「あるべきようは」と題したのは、この『吉祥経』は、まさにあるべきようにあることが幸せであるということを説くものであるからです。

仏教は過去や未来ではなく、今が大切と教えられています。「過去を追いゆくことなかれ、未来を願いゆくことなかれ、過去はすでに過ぎ去りしもの、未来はいまだ来たらぬものゆえに。現に存在している法を、その場その場で観察し揺らぐことなく動じることなく、智者はそれを修するがよい(善賢一喜経)」と教えられています。

いま私たちは、この『吉祥経』のいう四段階の幸せのどの地点にあるでしょうか。

たとえば、四つの幸せの中の[1][2][3]とそれぞれの段階をクリアしてきて、今[4]番目の段階におられるのなら、善い歳の取り方をしてこられたはずですから、それだけで幸せを実感していただけていることと存じます。

私たちは、何かあると、たとえば、自分や家族が重い病気になってしまったり、大きな事故にあったりすると、それまでの何もない平凡な日常がいかに幸せなことであったかということに気づくものです。

ですから、今私たちにとって、あるべきようはとは、今こうしてあることに、何もない、この平凡な日々に幸せを実感する、その恵みに気づくということが大切なことなのだと思うのです。何もない平穏な日々かもしれませんが、その一日一日が幸せなのだと、その恵みに思いいたるよう教えてくれています。

それから、ここまで読んでくださった方はすでにそのお気持ちがあるのだとは思うのですが、少しでも心の教え、仏の教えについて学んでみるということをお勧めしたいのです。

お釈迦様は、晩年一人の長老に話しかけて、

「そなたは、もういくつになったであろうか」と問われます。
 その長老は、すでに七十を過ぎているというのに、
「私はやっと四歳になりました」
と答えたと言います。

「それはいかなることであろうか」とお釈迦様が問うと、長老は、

「私は歳を取ってやっとお釈迦様の教えに出会い、何とか精進して悟りを開くことができ、目覚めることが出来ました。そうして、やっと目を開き世の中を見ることが出来ました」と言われたということです。

仏教を学ぶのに遅いということはありません。毎朝仏壇に手を合わせるだけでなく、是非この機会に始めていただけますようお勧めいたします。                               


当山中興快範上人書       
『國分寺中興基録』 を読む⑨ 
 

『本尊并諸尊造立仕様好(影向(ようごう)・神仏の仮の御姿)目録』
        快範書(五百籏頭(いおきべ)孝行氏解読)

 一、御光は(光背)輪光上はく
  こんしゃうを入て雲をあひしらい鎌なしにしてよし
 一、台座上々はく
   唐屋(や)ふ座蓮花(蓮華座)青色糸はく(箔)にしてしほりを付 外え巻花にして上段は折入ひし
  三方(菱三方)共 中段はふち角の内表は木花両脇は何にても見合の草花置ものにして下段は
  石目にしてうづまき三方共同断下段柱口獅子のしかみ(獅噛(しかみ))阿吽(あうん)上段の柱の
  上に蓮台に付獅子をすへ銘々宝珠をにきらしていきおいよく造り付て何(いづれ)も台わには
  花むし(花筵(はなむし)・花蓆(はなむしろ))にこんしゃう赤漆(うるし)そこそこ合めの金具念
  入あつみを付

 一、十二神将
  同作やう御長壱尺七寸冠金具あつみ切ぬきしえ(紫衣緇衣)打かけくぎなし御持物何もかね
  にしていきおいつよく木眼にしてあざやかに御長に相応にして中にも申(干支のさる)の神
  御眼少小(ちいさ)くにして箭(や)ためといふしるし斗にして地眼の様に造りて
 一、御光(ごこう)は八福輪にしてかねあつく雲をあいしらひて二重かふぶつにして表に
  りんほう(輪宝)両脇に草花何もれんじ(連子(れんじ))すかし(透かし)八所かなぐあつみ付
  にして石(せき)座けいよくにして
 一、台座でいはく(泥箔(どろはく)) 
  右何も尊躰の内何も古佛造り少も木の枵(きよう)無之を造り膠遣不申うるし付けにての
  諸尊の内何(いづれ)にても一所二所宛取はなし見らるうるし御用意かど御下り可有之
  台座には膠(にかわ) 免(ゆる)し申す可く候
 一、弘法御影(みえ)御長壱尺五寸
  御法衣はもくらん□□□いきは赤色御手大事之御躰相応にわり合て五帖(?五条袈裟)は成程
  小く御眼は佛眼御面相成程(できるだけ)美敷(うつくし)本如来面にて
  〆
 一、礼槃(礼盤(らいはん))斗にして いすなし
  畳へりは赤地のきんらん(金襴(きんらん))地紋はほたん(牡丹)からくさにして敷地青色台
  から足畳下見付けはほたん(葉牡丹(はぼたん))金はくにして台わくろうるし
 一、水へう(水瓶(すいびよう)・比丘十八物の一)は金はく
 一、草鞋(わらじ)は黒色ぬり内は白〆(しめ)
  右の通膠なしうるしつめ是台座の外はにかわゆるし申し候
 一、本尊厨子は檜木ふしなし五歩板宝形
  但四枚戸蝶かなぐあつみ付にしておけ(桶(おけ))同えひじゃう(海老錠(えびじよう))をかけて
  三遍ぬぐいくりいろにして高サ五寸に床をはり見付けこみの板(蹴込板(けこみいた))に獅子
  にぼたんのほり物惣はくにして獅いかりよくにして
 一、十二燈台 此指図通にして七とう宛わけて両方に用ル右何も両方共にうるしにてぬり申さ
  るべく候
                  図あり
 一、大師の厨子 本尊同前其の内にけこみとこ(蹴込床)なし
 一、廿五の菩薩 御長八寸内中御高は九寸何もはく佛
     但し御面相は上ふんまき 上けにして 随分念入 雲座にして雲は羽を入て
 一、正観音   御長壱尺八寸
     たんけい(湛慶(たんけい)・運慶の子)やう(様)に
   御仕次き之ある可く 御くしたんけいの正作になし
 一、御光はざつとして輪光(光背・御光・円光・輪光・仏身から発する光明、
              光の筋を象徴化したもの)
 一、台座 大佛座
 〆
元禄五年申二月日  国分寺住侶
              快範 花押
京都柳の馬場松原下ル町
  林右近殿 
 終


【國分寺通信】暑中お見舞い申し上げます
◯今年春の土砂加持法会前の総会にてご参加の皆さんにすでに広報しておりますが、次回令和六年度の涅槃会事業として、境内にある大師堂並びに休み堂を併せて再建することになりましたことをお知らせ申し上げます。以前より休み堂の建て替えについては総代会での議題に上がっており、大師堂は毎月二十一日の護摩供で使用いたしますが、参詣者が堂内に入りきれず、外のベンチに腰掛けて参拝する状態が続いております。そのため、大師堂と休み堂を接続し、堂内から護摩供をお参りできる設計として再建を発願いたしました。

◯時宜にかない、中国新聞六月七日朝刊一面に「A級戦犯太平洋に散骨 公文書発見東條元首相ら七人 米軍将校私がまいた」との記事が掲載されました。本文中にも述べたとおり、戦犯の遺骨処理については米国軍規にて秘匿されてきたのですが、占領期に横浜に司令部を置いた米第八軍が作成した文書を日本大学の高澤弘明専任講師が米国立公文書館で入手。それによれば、七人の遺骨は横浜の東四十八キロ地点の太平洋に広範囲にまいたとのことです。

〇現在新型コロナワクチン接種が全国的に進められていますが、県の担当者に問い合わせたところ、強制ではなく、あくまで個人の判断で行ってほしいとのことです。これは、非常時に特例承認された未だ治験中のワクチンであること、これまでのワクチンと違いmRNAという遺伝子組み換え注射であることなど、よくお調べの上、ご自身の健康を第一に接種するかしないかをご判断されることをつよくお勧めします。厚労省ホームページによれは、6/23現在356名が接種後死亡しており、人口の99・37%の日本人は新型コロナに感染していない現状を考慮ください。


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備後國分寺だより 第58号(令和3年4月4日発行)

2021年05月09日 10時22分20秒 | 備後國分寺だより
令和3年4月号(B5・16ページ・年三回発行)



〇聖武天皇なぜ國分寺を建立されたか

聖武天皇は藤原氏によって誕生した

天平十三年(七四一)に「國分僧寺尼寺建立の詔(みことのり)」を発せられる聖武天皇は、後に天皇の外戚として日本政治の中枢で大きな権力を恣(ほしいまま)にする藤原氏に育てられた最初の天皇陛下でした。藤原氏が歴史の舞台に登場するのは「大化の改新」と私たちが習った事件からであり、今では「乙巳の変(いつしのへん)」といわれています。

外国の使節団の前で皇極天皇(こうぎよくてんのう)も臨席する中で当時の総理大臣の地位にあった蘇(そ)我入鹿(がのいるか)を、後の天智天皇となる中大兄(なかのおおえ)皇子(のおうじ)と藤原氏となる中臣鎌足(なかとみのかまたり)の二人が惨殺し、政権を転覆させるクーデターであったと考えられています。後に鎌足の子不比等(ふひと)が編纂の中心を担う『日本書紀』では二人は英雄として描かれています。

聖武天皇は文武天皇の子ではありますが、母は藤原不比等の娘宮子(みやこ)であり、生まれてからずっと不比等邸で育てられました。そして、皇族でない、臣下の娘を母とする初めての天皇となるのですが、そのために、のちに元正(げんしよう)天皇となる氷高内親王(ひだかないしんのう)を養母として控えさせ、元正天皇として皇位につけたあと養母から子聖武へと皇位を継承するという手の込んだ長期にわたる策が練られていたのでした。さらに他にも皇位に候補がある中で、みな若くして亡くなったり、皇位に就けないような措置が執られたとも言われています。父文武天皇が早くに崩御(ほうぎよ)された後、中継ぎに女帝が二人も帝位につき何としても首皇子(おびとのみこ)(聖武)を帝位につけるという執念すら感じられるものでした。

だからか、聖武天皇は何度も詔の中で「徳の薄い身であるのに」「私は徳に恵まれないが」という言葉を発せられ、災害や凶作、伝染病などを神経質なまでに怖れていたということです。

長屋王の変を契機に天武天皇を理想とする

聖武天皇は大宝律令が制定された大宝元年(七〇一)にご誕生になり、その同じ年に生まれた、不比等の娘安宿媛(あすかべひめ)(光明子)が十六歳で嫁ぎ、聖武天皇は二十四歳で即位します。そして、まず母宮子に大夫人(だいぶにん)という称号を特別に与えるべく、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)ら不比等の子息が議政官となり推進します。

その後、光明子を皇后にするにあたり、天武天皇の孫で当時右大臣として古来の慣習に忠実な長屋王(ながやおう)の存在は都合が悪いと思う人々がいたとされています。長屋王を天皇を呪詛したとのかどで尋問させると、長屋王は邸(やしき)を軍勢に取り巻かれたことを知り、自害してしまったのでした。歴史上、この事件を「長屋王の変」と言います。

その後、光明子は臣下の娘としては初めて皇后となり、不比等の息子ら四人は議政官となるのですが、それまでは一豪族から複数人議政官になることは避けられていました。

そして、長屋王の死から六年が経過した頃、大陸から天然痘が流行、瞬く間に九州から都に至ります。長屋王を尋問した新田部親王(にいたべしんのう)と舎人親王(とねりしんのう)が感染し死すと、翌年光明皇后は一切経の書写を開始。二年後には諸国の丈六(じようろく)の釈迦像と脇侍の造立を命じています。しかし、議政官だった藤原四兄弟が四月七月八月に天然痘で死去すると、長屋王の祟りではないかと市中騒然となり、それを最も怖れたのが、聖武光明の二人であったと考えられます。

その後、聖武天皇は母宮子と生後初めて対面する機会を得ました。そしてこの頃より、藤原氏の天皇としてあった聖武天皇は曾祖父天武天皇が国難に際して仏教に祈願したことを範とし、天皇という称号で初めて尊称され日本国の国号も正式に成立させた天武天皇の政治を理想とする姿勢に転換していくのです。

諸国で護国経典『金光明最勝王経』(こんこうみようさいしようおうきよう)を転読させ、長屋王の子息を従四位下に昇叙(しようじよ)。三年後には諸国に七重塔を中心とする寺院建立を命じています。これらはすでに後の國分寺制を見据えた施策と考えることができます。

藤原四兄弟なきあと橘諸兄(たちばなのもろえ)、吉備真備を首班とする政権が誕生すると、疎外された藤原広嗣(ひろつぐ)が左遷された九州で乱を起こします。すると、聖武天皇は、征討軍を派遣し、自らは平城京を出て東国へ行幸(ぎようこう)。その道程は、「壬申の乱(じんしんのらん)」を大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)が起こす行路と一致しています。そして、その年の末には恭仁京(くにきよう)(現在の京都府木津川市加茂地区)に遷都し、その翌年に國分寺の詔が発布されることになります。

華厳思想により理想国家建設を目指す

この頃聖武天皇は、河内(かわち)智識寺で毘盧遮那仏(びるしやなぶつ)を参拝し、東大寺良弁(ろうべん)和上より『華厳経(けごんきよう)』の講説を受けています。そして、「事々無碍法界重々無尽(じじむげほうかいじゆうじゆうむじん)」という教えを学ばれ、それを新しい国家構想とされるのです。

それは、仏の世界を千葉(せんよう)に開く蓮華に喩え、毘盧遮那仏は千の華蔵(けぞう)世界の中心に位置し、その千葉の蓮華には千体の釈迦仏があってそれぞれの世界で法を説く、それぞれの蓮華世界はひとつ一つ別々の世界でありながら、互いに相関し重々無尽にその関係性は続いている。個々の蓮華世界は全体の縮図であり、そのひとつ一つに変化ある時は全体すべてに変化が及ぶとするのです。

それぞれの釈迦如来により諸国が浄められ争いなく、多くの民が幸福になり豊かになることは国全体がよくなることであり、日本国全体がよくあることは一国、一個人がよくなることであるとの考えから、都に毘盧遮那大仏を造立し、諸国に國分寺釈迦如来が祀られたのでした。毘盧遮那如来の顕現は無数の釈迦如来の出現を意味し、それによって、無数世界の浄化救済がなされ、時処を超えて三世十方を貫く絶対理想を実現せんとするものでした。

こうして徳の高い行為をすることで、これまでの天皇同様によくこの国を治め、国穏やかで、民が楽しく災害のない凶作のない疫病のない世にでき、また長屋王の死を弔うことにもなるとお考えになられたのでしょう。
その後平城京に還都(かんと)して大仏造立を進め、聖武天皇は娘阿倍内親王(あべのないしんのう)に譲位して、僧行基(ぎようき)を戒師に天皇として初めて出家なされます。そして沙弥勝(しやみしよう)満(まん)として常に南面すべきお方が未完成の大仏を前に北面し、自らを三宝の奴(やつこ)と称したとも言われています。身も心も仏に心酔し、そうして自らの念願、鎮護国家と万民の豊楽(ぶらく)を叶えんとなされました。

天平勝宝四年(七五二)四月九日、大仏開眼供養はインド僧菩提僊那(ぼだいせんな)を開眼師に、僧千人文武百官(ぶんぶひやつかん)一万人が参加する盛大な国際色豊かな催しとなりました。そのとき、聖武太上天皇(だじようてんのう)の御心はいかなるものであったでありましょうか。感無量の喜びとともに、正に赤心(せきしん)からの祈りが聞こえてくるようです。

仏教という最先端の文化を知らしめる

さらにその当時の仏教の価値、当時の人々にとっての意味が今とはかなり違うことも一言述べておかねばなりません。

仏教は千五百年前に百済(くだら)からもたらされました。物部氏蘇我氏(もののべしそがし)による諍いの後、聖徳太子により、四方の極宗(よものおおむね)であるとして仏教は国の教えとなります。四方の極宗とは今の言葉で言うとグローバルスタンダードということです。中国も朝鮮も、どの国も仏教によって高度な文化国家として発展していました。なれば当然日本にも仏教は必要であるとするのです。

インドから中央アジアを経由してシルクロードを通って仏教がもたらされるにあたり、各地の先進文化技術を吸収しながら伝えられた仏教をそれらと共に輸入することになりました。つまり仏教は当時の建築技術、彫刻、金属加工、紙墨筆の製法、衣服の製造、歌舞音曲に至る先進的な総合的文化技術思想芸術を含むものでありました。よって、寺院は最先端の文化の象徴であり、結果的に諸国國分寺は中央集権国家・奈良の都の権威を示すものでもあったのです。        

参考文献 講談社学術文庫・「日本の歴史04 平城京と木簡の世紀」


〇薬師護摩供・初護摩後の法話
 礼拝に込める思い


今年も初大師初護摩の日を迎え、早朝からたくさんの皆様お参りをいただきありがとうございます。

世界は、いろいろな意味で混迷を深めておりますが、私たちの日常はそれぞれに置かれたところでしっかり生きていかねばなりません。そこで新年最初のお護摩でもありますので、今日は仏教徒にとって最も大事でもあり、また基本となる礼拝の意味するところについて考えてみたいと思います。

今護摩行の初めと最後に、「オンサラバタタギャタハンナマンナノウキャロミ」と唱え礼拝しました。これは正しくはサンスクリット語では、「オーン・サルワ・タターギャタ・パダ・バンダナン・カローミ」となり、すべての如来方の御足を頂戴し礼拝します、という意味になります。

インドの学校などに参りますと、子供たちが朝先生に会ったときなど、右手で先生の足に軽く触れ、その手を自分の額に持っていき、それから合掌し「ナマスカール」とニコニコして挨拶する光景をよく目にします。これはまさに身を低くして先生を敬い、自分を無にしてすべて先生の教えに従いますということを表す伝統的なしぐさとなっています。学校の先生ですから、様々な社会通念慣習も含め各教科の学びも頭を真っ白にして先生から一から学ばせてもらいますという気持ちを表すのです。

私たちが仏様を礼拝する時もこれと同様に、身を低くして身も心も真っ白に清らかにして、すべて教えに従いますという気持ちで礼拝することが望ましいということなのでしょう。そして学ぶべきは教えであり、決して当時のインドの人々が神々を礼拝するように、私たちの世界とは隔絶した超越的な存在に対し、ただ畏(おそ)れ平伏して、その恩恵を求めるというような姿勢ではいけないのだと思います。

そうではなくて、私たちも仏様の所へ一歩でも近づいていくのだという思いで、人生を生きる目標として最高の存在であり、つまり学び行ずる理想としての仏様を敬い礼拝するのだという思いを持つことが大切なことであろうかと思っています。

お釈迦様という方は、釈迦族の王子として産まれ、幼少の頃から物思いにふけることが多かったと言われています。出家時の四門出遊(よんもんしゆつゆう)の伝説に語られるように、なぜ老病死という苦しみ多き命を生きるのか、なぜ苦しみがあるのか、生きるとは何かとずっと問い続けられました。

出家前に釈迦族の王宮で贅沢な生活をしていたシッダールタ太子は、別々の日に東南西北の門から出て街に遊ぶと、それぞれ老人、病人、死者、出家修行者に出会い、若さや健康への傲慢な心が消え、自分も死によって人生が終わってしまうことを知り、俗世間を捨てて、生きる苦しみからの解放のために努力する道を歩もうと決心したとされています。

そして、ヤショーダラ妃が、王子の役目として大事な跡継ぎを生んだのを確認して出家されました。苦行の末に禅定に入り、当時はすべては神の意向であり、定められた祭祀をその通り行う事こそが人々の幸せも災いをも左右すると考えられていた世間の中で、神に祈るのではなく、すべての真実、この世の真理を悟ることによって、あらゆる苦しみからの解放を成し遂げられたのでした。だからこそお釈迦様は尊いのです。

『大サッチャカ経』によれば、お釈迦様はお悟りになられた晩に、はじめに深い禅定に入られて、自らの過去世について思い巡らされたといいます。その何万回とも言われる過去世での、それぞれの名前から家族仕事行いの数々を回想されていき、功徳を積みつつ転生してきた自らの命の営みについてご覧になられました。それから、他の者たちの生存についてご覧になられ、様々な者たちがそれぞれの行いの善悪の業(ごう)によって生まれ変わりしていく姿をご覧になられました。そうして、煩悩を滅する智慧について心を向けると、苦しみと煩悩(ぼんのう)について如実に知られ、欲と生存、無明(むみよう)のすべての煩悩から心が解脱(げだつ)したとされています。

生きるとは何か、どうして苦しむのか、どうあるべきか、どのように最高の幸せに到達するかという、この世の真理を知り尽くされてお悟りになられたのでした。

そして、悟られてから、梵天から説法することを懇請されて、縁ある人々に、生きるとは何か、なぜ苦しんでいるのか、いかに生きるべきかと教えられたのです。

ところで、昔、チベット仏教の瞑想会で、ラマ僧から仏教は問いから始まると教わりました。多くの経典はお釈迦様のところに訪ねてきた人が自らの心の煩悶(はんもん)を問うことから成立していると。

ですから、自分にとって何が問題なのか、生活する中で心にわだかまる様々な問題について、どうすべきかとの自分自身の心から発する問いがあって初めて私たちは教えを学ぶスタートに立つことが出来るのです。

お釈迦様が幼少の時から持ち続けられた問い。それと同じように私たちの心の中にある悩み苦しみを自ら認識し、どう考えたら良いのか、どうしたらよいかと問うことから学びは始まります。それを経典に求めることもありましょうし、人の言葉からヒントを得られたり、何か作業をしていてふと思いいたることもあります。さらには、生まれ変わり生まれ変わりしてきた私たちの業について考えることで何か思い当たる節が見つかるかもしれません。それらさまざまなところから学びが得られることと思います。

以前お話会にお越しになられた方から、十代の子供を亡くした知り合いがいるのだが、その人は神も仏もないという気持ちになったというが、仏は実在するのか、と問われたことがあります。そのとき、仏や神がいようがいまいが亡くなる人は亡くなるのではないでしょうかと話し、乳飲み子が亡くなって泣き叫び、お釈迦様のところにたどり着いたキサーゴータミーという母親の話をしました。お釈迦様の方便から、街のすべての家に死者が絶えないことをキサーゴータミーはさとり、出家して修行し最高の悟りを得られたのでした。

亡くなることは悲しいことではありますが、そのことによって、心に何かを得ていかれる、亡くなったことを無駄にせずに、そこから何事かを学び、自らに活かしていく。たとえばある方は、若い頃諦めた音楽の道に、ご子息の死をきっかけに没頭され、多くの楽曲を作り、同じ様に子供を亡くし悲嘆にくれる多くの家族をなぐさめられたという話をしました。

また、私がインドのサールナートに長期滞在し始めた頃のことですが、当初なかなか周囲に溶け込めず悶々と日を過ごしていました。そんなとき、ある日多くの宿泊者があって、一人で沢山の食器皿を砂でこすって洗っていたのですが、ふと何も考えずにただ皿を洗っている自分に気づきました。そう気づくことでその一瞬で心が晴れ、今の瞬間にただ集中しているだけでよいのだとわかり、その後はごく普通に周りの人たちと過ごすことが出来るようになりました。誰にでもそうした学びや気づきを得られた経験がおありのことと思います。

そうして学びや気づきの日々を過ごしながら、私たちはどう生きるべきか、どうあるべきかといえば、それは徳を積むということに集約されるのではないかと思います。日常の中で、周囲の人々に挨拶をする、にこやかに話をする、各々がよくあるように行い過ごす、お寺にお参りをする、こうして護摩に参加する、法話に耳を傾ける、坐禅会に参加する、それらは自分のためと思われがちですが、それらも皆自分のためであり、またすべての生きとし生けるもののためになされている善行為と捉えることが出来ます。

みんなが善くありますようにと思いなされる清らかな行い学びは、自分にとっては徳を積むことであり、それはそのまますべての生きとし生けるもののためになります。言い換えますとそうして生きることは、たとえそれが牛歩のごとくであったとしても、かつてお釈迦様が過去世で生きられた歩みを私たちも生きることになります。

ですから、國分寺では坐禅会をし、お話会を開き、護摩供を修しています。皆様と共に仏道を歩み、共に私たちもお釈迦様のように何度生まれ変わっても真実を見いだして、最高の清らかな心になれるように努力する歩みの中にあるべきと考えます。

このお護摩の火も、仏教以外の教えではただの現世利益を求めるものとされますが、私たちはそこに最高の悟りを実現するための修行として修法(しゆほう)しています。自分のことばかりか多くの縁者の名前でご祈願を皆さん書かれていますが、実は各々添え護摩木に書かれた願いを遙かに超えたその方々の最高の幸せを目指すためにかなえるべきものとして護摩供はあります。ですから、それは甚大な功徳ある行為となるのではないかと思っています。

最後に、対機説法(たいきせつぽう)という言葉を聞いたことがあると思いますが、みんな同じではない、それぞれの人の心に応じた教えが仏教にはあります。ですから、みんなと同じようにしていたら良いという発想は仏教にはありません。個々の問題意識から思いを重ね、解決していく、そこに各々に応じた教えがあると考えます。だからこそこれだと自ら教えの確かさを確認し真実を見いだしていくことも出来ます。

今の時代、特に仏教徒は何が真実か、この世の有り様について自ら問い、そして、いかにあるべきかとお釈迦様のように問い続ける役割を担っていると思います。お釈迦様を私たちの人生の最高の理想として生きる、何度生まれ変わっても真実を求め、問い続けることによって最高の幸せであるこの世の真実・真理を求めていくことを誓い、そうした万感の思いを込めて礼拝したいと思うのであります。

来月も早朝から大変ですが、どうぞお参り下さい。ご苦労様でした。


うれしい友からの電話

一昨日からひどい冷え込みで、本堂の花瓶や壇(だん)の洒水器(しやすいき)の水もシャーベット状になり、日中にも溶けないほど気温が上がらない中、昨日一月九日の坐禅会には9人もの篤信の方々が集い、10分の歩行禅、30分の坐禅を2度坐られました。ストーブを2つ置いての坐禅ではありましたが、寒いせいかお寺の周辺に人の気配もなく、静まり返った中でよい坐禅が正月からできたと思います。坐禅後の茶話会では、皆さん現在の世の中の状況にやや沈鬱(ちんうつ)な雰囲気にはなったのでしたが、それでも私たちは生きていかなくてはならず、すべてのことの真実を見つめながら日々の営みに集中しましょうということで散会しました。

そのあと、夕勤して寺務所に戻ると、遠路はるばる、ある高校の教頭先生をされている高校時代の友人から珍しく電話が入ったのでした。この人は私の人生の大事なところで、たびたび精神的インパクトを与えてくれる貴重な存在で、昨日の会話もおそらく何事か意味のあるものとなってくるのではないかと思っています。坐禅会での話の延長から、挨拶の後すかさず、今の時代をどう思うかと尋ねてみました。

突然のことではありましたが、彼なりの返答があり、私も思うところを述べたのですが、やや丁寧さに欠ける話だったのか、内容的にらしくないと思われたのか、世の中のお坊さんのようではないねという言葉をいただいてしまいました。大事なことは、私たちの仕事は常に周囲の人々に幸せと安心を与えるものでなくてはならないということを教えられたように思えました。彼は米国のキリスト教の学校に留学していたこともあり、常に生徒も含めていろいろな人たちに教えを施す立場にもあって、そう感じられたのであろうかと思います。

その後、いろいろとそれぞれの近況を話し、最後に彼からこれからの時代どういうことが大事になってくると思うかと尋ねられたので、知識があるものが賢いとされるような世の中になりつつあるけれども、いくら人の知らないことを知っていたとしても、それが単なる記憶であっては何の意味もない、それらを用いて自ら考える、人の言うこと、ニュース報道を鵜呑みにすることなく、自分の頭で考え、今置かれた現状を正しく認識し、どうあるべきかと判断できることが大切なのではないかと話しました。

すると、彼は、いま特にコロナコロナとストレス過多の世の中にあって、精神を病んだ状態になると何物にも感動したり美しいと思える感覚が失われていく、また何でもスマホやパソコンで事足れりとする時代となっているが、花であっても、自然であっても、音楽であっても、本物、実物と生で対面し、見たり聞いたりして、美しい、素晴らしいと感動できること、そうした感性を大切にすべきだと思うと話してくれました。

ますます仮想空間の中で人と人が出会わずとも、また現地に行かなくてもバーチャルで事を済まそうとする世の中になっていくことでしょう。ですが、そんなことではなく、その人そのものと直に出会うことの大切さ、実物と対面した時の感動する感性、そのものを失ってはいけないということであろうかと思いました。

私も、彼の話に賛同し、まさに今、私たちは生きることにもその美しさ、周りを感動させられるような生き方、身の処し方、潔さが求められているのではないかと思うと申しました。自らの地位や利得、上辺だけの称賛、そんなものだけを大事にするような世の中に成り果ててはいまいか、私たち日本人には本来もっと気高いものを大切にする心があったのに、いつの間にか失われ、寄らば大樹という処世感覚ばかりが跋扈(ばつこ)して、言いたいことも言わない、見て見ぬふりをして済ませる、みんながしているから同じようにしていればよい、そんな世の中になってしまっているのではないか、「たとえ鶏口(けいこう)となるとも牛後(ぎゆうご)となるなかれ」、という言葉もあるけれど、自分の生き方に自ら感動できるように生きたいものだと話しました。

そのためにはまずは実物、本物の美しさに感動できる感性を失わない、精神の落ち着いた状態にあることが必要だということでありましょう。

久しぶりにうれしい友と話ができた感激をここにとどめておきます。彼から言われたことを心に大切にして日々を過ごしたいと思います。ありがとう。


〇あるべきようは① 
 お釈迦様が教える本当の幸せとは


こちらに来て、今年で早いもので二十二年目となります。自分の出来ることをたださせていただいているという様なことで、気がつけばもうそんなに長く居ることになりました。

今思うことは、住職の仕事というのは、本当に幅が広い、何から何までしなければいけないんですね。お経を上げるというのはほんの一部のことで、伽藍、境内の整備維持管理、様々な行事の準備から執行、これらは勿論檀家総代、世話方様方の皆様のおかげで何とか勤めさせていただいているのではありますが。

他にも参詣者への対応、お寺の会計管理も大事な仕事の一つです。諸々でありますが、私の場合、サラリーマン時代に経験してきたことが、今になって大変役に立っています。経理も、総務も、営業も、会合の司会や事務局の仕事、研修旅行の企画立案のような仕事もしてきました。

それらすべてが今に生きていると思います。誰もがそうだと思いますが、人生無駄なことなど何もなく、すべてが役に立つ、糧になるものだとつくづく思います。

ところで、國分寺では仏教懇話会という月一回のお話会を、もうかれこれ二十年ばかり前から開いていて、仏教全般のことをお話して、お越しになられた皆さんに聞いてもらっています。

私が毎度話したいことを話すわけですから、聞いている皆さんにとってはあまり楽しいことばかりではないのですが、それでも来てくださる。皆さんが私に対して慈悲を垂れて話を聞いてくださっているのではないかとさえ思っております。

それはともかくとして、皆さんお寺というと葬式法事、お墓があって供養供養と言う所だ、と思っているのではないでしょうか。ですが、私は、生きている皆さんが元気で幸せで悩みなく安心して暮らしてくださることが本当の供養だと思っています。

たとえば、この世の中で最もよく供養ができた方は誰だと思われますか。うちのおばあさんは良くしていたがなぁ、という方もあるかもしれませんが。私は、やはりそれはお釈迦様やお大師様に外ならないのではないかと思います。

これだけ二千五百年もの長きにわたって、今もなお世界中の人々に幸せをもたらしている方はいない訳です。神々でさえ教えを乞いに来たのですし、生きとし生けるもの全てがお釈迦様の教えに酔いしれたのでした。お大師様は四国をはじめ全国に信仰という種をまかれ、今日では地域経済のために多大の貢献となっています。

今にも亡くなるという方でも、お釈迦様の短い説法を聞いただけで、そのまま天界に昇天されたという話が、経典にあります。ですから、そのお釈迦様が生涯なされたことが最高の供養だとするならば、私たちのするべき事もはっきりしてまいります。

毎日仏壇にお供えをして読経する。お墓に行って花をかえ、線香を立てて、手を合わせる。それはとても大事なことであり、意味あることではありますが、それだけでは勿体ない。その先にある、大事な仏教のエッセンスを是非味わっていただきたいと思うのです。

忙しく日々が過ぎていく中で、ふと心からの幸せを実感する。心に何のわだかまりもなく、何がなくても大丈夫という、そんな安心感、そういう心を養うことこそが私たちにとって必要な事なのであって、それは、おそらくご先祖様方もお喜びになられることだろうと思います。そして、そういう心、ご先祖様方が喜んでくださる幸せな心を養うためにこそ、法事や様々な仏事が本来あるのではないかと思います。

それでは仏教では、幸せとはどのようなことを言うのかということですが、それは『吉祥経』というお経にわかりやすく説かれています。原本では、『マンガラ・スッタ』と言いますが、タイ、スリランカ、ミャンマーなど南方仏教でよく唱えられる経典です。南方の仏教国では、日本の「般若心経」のように、誰もが暗唱しているお経です。

私もインドにいる頃は毎日唱えていたのですが、原文では、こんな感じで始まります。「エーバンメースタン、エーカンサマヤンヴァガバー、サーヴァッティヤン、ビハラティ、ジェータバネー、アナータピンディカッサ、アーラーメー・・・」

この経典は、冒頭、容色麗しい神様がお出ましになって、お釈迦様に「多くの神々や人々は幸せを望みつつ、吉祥について考えてきました、最上の吉祥を説き給え」とお願いします。それに答えてお釈迦様が幸せとは何かについて述べていかれます。

吉祥とは、人に成功や繁栄、幸せをもたらすものであり、そのまま幸せと言い換えてもいいものです。

ところで、インドの古い慣習のひとつに、人の生き方として四住期(しじゆうき)という考え方があります。

まずはじめに、生まれてから親のもとで養育され、生きる術を学ぶ学生期(がくしようき)というのがあります。それから、結婚して家族を養い護る家住期(かじゆうき)、その次に、心の教えを学ぶ林住期(りんじゆうき)、さらに、諸国を修行するために遍歴する遊行期(ゆぎようき)があります。

もちろん今日のインドでは、そのようにきっちりと住み替えて年を重ねていく人はめったにいないと言いますが、インドの人々の人生の捉え方として今も大切にされているものです。

この吉祥経を読んでいくにあたり、人生をこうした四つの時期に分けるインド人の考え方に則って、内容を四つに分けて見ていこうと思います。

ではまず学生期から見ていきましょう。人として生きる力を蓄える時期の幸せについてです。

①愚かな人に近づかず、賢い人に親しむ。尊敬供養するに値する人を尊敬する。これは最上の吉祥である。
②適当なところに住み、先になされた功徳があり、正しい誓願を起こしている。これは最上の吉祥である。
③多くの見聞、技術、道徳を身につけて、きれいな言葉を語る。これは最上の吉祥である。

生きるために必要なものを蓄えることがここでの要点です。

人は人に学んでいくものです。と、スリランカのお坊さんに教えていただいたことがあります。南方の仏教では、今も目上のお坊さんには投地礼を三度して挨拶する習慣があるのですが、そうして尊敬する心があってはじめて、その方から様々な教えを授かることが出来るのだということです。

ですから、どのような人を参考にし、尊敬して生きるかは、私たちにとってとても大切なことです。学も財もあるけれど、人の道に外れた人を手本にしていてはいけないのです。

この場合の賢い人とは、単に多くの事を知り語る人ではなく、心安らかで人に恨まれたり憎んだりということのない、行いの清らかな人を指しています。特にその人の業績でなしに、そこに至る間に培った人格や考え方を尊敬すべきではないでしょうか。

そうした人たちを手本にして生きるのに相応しい場所に住まい、そして、善い行いの功徳を積むことを心がけ、それによってさらに正しい生き方に心を向けていくことが大切だということです。

そして、単に知識や学歴ではなく、より実用的な見聞や技術を身につけるべきであることはもとより、人として生きるための道徳やきれいな言葉も大切な要素です。

特に今の日本では重視されませんが、相手を尊重したきれいな言葉遣いは、社会の中で自らが大切にされるためにも、とても大事なことです。また、道徳をわきまえていなくては、せっかく学んだ学問知識も正しく役立たないことは言うまでもありません。

次に、家住期です。結婚し家庭を持ち、家族、社会を養う時期です。

④父母を養い、妻子を愛し護る。混乱なき仕事をする。これは最上の吉祥である。
⑤施しと、法にかなう行い、親族を愛し護る。非難されない行いをする。これは最上の吉祥である。
⑥悪い行いをつつしみ離れ、酒類を飲むのを抑制し、徳行の実践を怠けないこと。これは最上の吉祥である。

結婚し、家族、親族そして地域社会をも導いていく存在としての役割を担う時期です。

これらのごく当然とも取れるものをクリアして初めて何の後ろめたさもない、誰からも非難されることのない幸せを享受できるということです。混乱なき仕事とは今様にはストレスの少ない仕事と言い換えれば分かりやすいでしょう。

また、法にかなう行いとは、より多くの者に利益がもたらされるように行うことです。欲や怒りにより、他を害するような行いをつつしみ、他の者と分かち合い共に幸せを感じられるよう行うことが肝要なことです。

これに対し、自分の幸せだけを求めるばかりに悪いことをしでかすことは、今の社会問題でもあります。何でも出来る立場にあるこの時期、悪い行いをつつしむことは憂いや後悔を残すことなく幸せになるために不可欠なことと言えます、

お金がたくさんあっても何かむなしさが残るのを多くの人が感じ、ボランティアに励む姿も見受けられます。徳のある善行が心豊かな幸せを感じさせてくれることは言うまでもありません。

そして、林住期、仕事を次第に退きつつ、功徳を積み心の教えを学ぶ時期です。

⑦尊敬と謙遜と、知足と知恩。ときどき、覚れる人の教えを聞くこと。これは最上の吉祥である。
⑧忍耐、忠告を率直に聞く、出家者に会う。ときどき、覚れる人の教えについて話をする。これは最上の吉祥である。

社会生活を営みつつも徐々に一線を退き、後継者に道を譲り、世の中を冷静に眺め心を養っていく時期です。
自分の実績や経歴を誇り高慢になりがちですが、他者を尊敬したり謙遜する徳を身につけることでより深い幸せを感じます。こうした豊かな心を育むためにも足ることを知り、これまでに受けた恩を忘れず、また欲得を超えた心の教えについて学ぶことも大切なことです。

また、人の言うことに耳を傾けたり、世の中を超越した人の教えに学ぶこと、自分の経験や技術、時間などを生きとし生けるものの為に生かすことで、より一層の幸せを感じられるようになります。・・・つづく


〇当山中興快範上人書       
『國分寺中興基録』 を読む⑧
 

『國分寺中興基録』快範書(五百籏頭(いおきべ)孝行氏解読)

「一、弐匁五分     同村   久三郎
 一、弐匁五分     同村   甚六
 一、弐匁五分     同村 浅岡佐助
 一、弐匁五分     同村 浅岡吉右衛門
 一、弐匁五分     同村 矢野才兵衛
 一、壱匁       同村 五郎右衛門
 一、壱匁       同村 弥次兵衛
 一、壱匁       同村 十太郎
 一、壱匁       同村 弥兵衛
 一、壱匁       同村 左兵衛
 一、弐匁       川北村 五郎三郎
 一、五匁       川北村庄や 川相伝六
 一、拾匁       同村戸田や 弥助
 一、壱匁       平野村 瀬兵衛母儀
 一、弐匁       福山府中町 すたや 長左衛門
 一、五匁       湯野村 徳永与三郎
 一、四匁       同村庄屋 石田弥四郎 
 一、弐匁       同村 徳永善兵衛
 一、五匁       徳田村砂原 徳永徳右衛門
 一、四匁       同村庄屋 徳永与惣兵衛
 一、弐匁       川北村 安左衞門
 一、弐匁五分     平野村 半右衛門
 一、弐匁       湯野村与頭 吉左衞門
 一、四匁       川北村 七右衛門
 一、弐匁       川南村 林久右衛門
〆 三拾弐人  出銀 百五匁

 一、四拾六匁     畳拾帖は自分より調
 一、九拾壱匁     大手板戸拾間自分調
   但 丑の年雨乞代日指不違雨ふり御ふせ下され候て
其の礼にて戸調
 一、打キン(打金(うちがね)) 指渡九寸代銀弐拾め(目)八分 自身
 一、物器(仏器?) 大小三ツ             同断
 一、十二燈油臺(台)二ツ    矢かけ大かなや
                 高草六郎右衛門房近
 一、五ゝ三御膳同小道具         自身 
   (五五三御膳)

 右は本堂寺造立相調候次第 寄進物書付 件(くだん)の如し
 干時(ときに) 元禄第十二己卯(つちのとう)暦 国分寺住僧春秋六拾一歳
(一六九九年)            快範
    三月十九日 是を記す者なり」

『本尊并諸尊造立仕様好(影向(ようごう)・神仏の仮)目録』
 一、本尊薬師如来の御姿
御長弐尺五寸座像春日様の古佛造り
薬壺(やつこ)御手の内に相応にして木眼同白がふ(白毫(びやくごう))てり(照り)水昌にして羅ほつ(螺髪)成程(なるたけ、できるだけ)にうわ(柔和)に数表両脇に十二なり
 一、御光輪光上はく(箔)
かう(光)八屋(はちや)う(八葉の蓮華)鏡上白み八寸りん(輪)にこんしよう(紺青色)を入れ雲をあいしらひ(あえしらう(取り合わせる、付け合わせる))
 一、大佛座上々はく
   蓮花花の高六寸横五寸にして八屋う(はちやう)に付け花まき成程にうわにかえして敷なすび(敷茄子(しきなす)・蓮華台の下の鼓型の台)にこんしやうを入所々に金へう(鋲(びよう))を打て台は赤染金具あつみ付け 
 一、脇立二菩薩
御長壱尺七寸同作やう(つくり様)てんぐわんかざり(天眼飾り)あつみ打ちぬき両に日の玉月の玉赤白にして屋(や)うらく(瓔珞(ようらく)・ネックレス)の玉しげくてんえ(天衣・細長くて薄い布を巻き付けている)巻付けにしてくぎなしきやうぜちは御腰より下へ玉ふさあまる程にして玉多く中に青赤をまして御持物(じもつ)日月の輪累年に及てもぬけざる様にしてくぎは何(いずれ)もかなもの(金物)也                                            つづく


【國分寺通信】 

◯國分寺から六百メートルほど東に愛宕山華曼院法道寺という天台宗寺院がありました。後深草院の御代に右大臣となられた三条藤原法道公により宝治二年に開基造営。本尊は釈迦如来並びに不動明王と「御野村(みのそん)郷土史」にあります。明治の廃仏に遭い廃寺となりますが、昭和三十年ころまでは藁葺(わらぶき)の庫裡(くり)が残っていたそうです。その後ご縁をいただき、御本尊とその他諸仏は昭和32年より國分寺本堂西側の壇上にてお祀りしてまいりました。釈迦如来像並びに厨子の傷み激しく、将来にわたり末永く継承し供養し続けていく為には保存修理が欠かせないと判断し、この度ご像の解体修理並びに厨子の新調をさせていただきました。解体に際し表面の洗浄をしたところ潤み朱色の下地に金の線と箔の跡が現れたことから、左下写真のような開基当初のお姿に復元されております。誠に端正なお顔立ちの神々(こうごう)しくなられたお釈迦様に是非お参り下さいますようご案内申し上げます。


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備後國分寺だより 第57号(令和3年1月1日発行)

2021年05月09日 09時37分44秒 | 備後國分寺だより
令和3年正月号(B5・16ページ・年三回発行)



【六大新報令和二年七月二五日号掲載】
  松長有慶先生著
 『訳注(やくちゆう) 声字実相義(しようじじつそうぎ)』を読んで



松長有慶先生の新刊、訳注シリーズ第4巻『訳注 声字実相義』(春秋社刊)を拝読させていただいた。

『声字実相義』(以下『声字義(しようじぎ)』と略す)は、『密教辞典』(法蔵館刊佐和隆研編)に、真言教学の重要聖典、即身義、吽字義(うんじぎ)とともに三部書の一つとある。従って、専修学院時代に多少の知識は得ているはずなのだが、はたしてどのような内容であったか記憶に乏しい。もとより一から学ばせていただく気持ちで本書を開いた。

そこには、凡例(はんれい)に続いて参考文献として、真言宗全書、智山(ちざん)全書、豊山(ぶざん)全書などより、鎌倉時代から江戸時代までの学僧による十四の注釈書が掲げられ、さらには英語ドイツ語の文献を含む、近代の三十二の解説書、研究書まで一覧にある。それらは本文に【略記号】で文献を表示し該当する頁数まで記して、原漢文の読みから用語の解釈まで比較検討されており、現時点における『声字義』に関する最高レベルの研究成果をすべて注ぎ込まんとされる先生のこだわりや気迫が感じられる。

まず本編はじめに「『声字義』の全体像」が説かれる。古来インドや中国、また日本において、声や言葉がいかなる意味あるものとして受け取られてきたかを説いていかれる。そして20世紀前半にヨーロッパに起こった構造主義の哲学の根幹である言語論において、この『声字義』も実は20世紀後半には多くの研究者たちの研究対象であったことが紹介されている。

また中国思想における言語論争で注目される「名」は、『声字義』にも用いられるが、伝統的注釈者の多くが「すぐれた」という意味に受け取ってきたという。しかし、正しくは「名」とは、名づけるということ。ものを分けて明らかにしていく、ものの違いによってそれぞれを特定する、そのためにさまざまな名前や言葉が発生していくわけだが、そうして原初の世界において真実の根源から発せられるものを、私たちの現実世界において表現するために用いられた言葉を「名」というのであるという。そうした根源的な存在とかかわる言葉を、本書においては「コトバ」とカタカナ書きにして区別して先生は使われている。

そして、『声字義』の主題について触れられ、それは、私たちの眼耳鼻舌(げんにびぜつ)身意(しんに)の感覚器官・六根(ろつこん)に入る六境(ろつきよう)・色声香味触法(しきしようこうみそくほう)、すなわち普段の生活の中で目にする物、耳にする声や音、香りや匂い、口に感じる味、身体に触れる感触、考えたり思うあらゆるもの、それは本来覚りの障害になり六塵(ろくじん)ともいわれるものだが、その中にこそ如来が説法される声や言葉が潜んでおり、それは世俗の存在のままに絶対の真実(実相)なのだと説かれる。つまりそれこそ法身(ほつしん)大日如来の説法なのであり、心して聞くべきものであるということであろう。

著作年代については、『声字義』中に「『即身義』の中に釈するが如し」という語が二度記述されていることから『声字義』は『即身義』以後の作品とされてきたが、先生はこれを後世の挿入とせられる。そして、『声字義』後半部分に法相(ほつそう)や華厳(けごん)教学への配慮からか自説の主張が抑えられており、また『金剛頂経』からの引用が少なく、両部経典を自在に駆使して自らの主張を巧みに説く準備が熟していなかった時代、つまり真言教学がまだ十分に社会に認知されていなかった弘仁(こうにん)の一桁代後半の作であろうと推定されている。

そして、本編に入るのだが、各段ごとに、はじめに【要旨】が説かれ、次に【現代表現】としてやさしい言葉で現代語訳が示される。【読み下し文】と【原漢文】が続き、難解な用語は【用語釈】として、注釈書に斟酌(しんしやく)した丁寧な解説が附されている。【要旨】と【現代表現】をまずは読んで、【読み下し文】や【用語釈】、【補注】を参照すれば、難解な大師の著作をいとも容易に読むことができる。

『声字義』前半では、声字実相という新しい思想を立ち上げる論拠として大日経の偈頌(げじゆ)を説き、また内容を説くに当たり四句一頌を自作して自ら解釈して、その中の声・文字などの言葉が実相に他ならないことを述べる。後半ではやはり四句一頌を自作し、六境の代表として色・物質について生物も非生物も、いろ・かたち・うごきの三種の性質を具えていて、いのちを持ち、かつ文字として、そこにこそ諸仏が存在していることをあきらかにしていく。

ところで、中国天台智顗(ちぎ)の著作『摩(ま)訶止観(かしかん)』に関する注釈書が出典とされる言葉に「草木国土悉皆成仏(そうぼくこくどしつかいじようぶつ)」がある。以前この言葉について法話するに当たり、筆者は仏とは法を説く者であり、それをたよりに人は試行錯誤しながら何ごとかを覚っていく。しかし、自然が発する音も姿も、時にこの世の法則、真理を垣間見させてくれる。そうして人に示唆し、教え、励ましを与えることがある。されば、それは仏の説法にあたるのであろう、自然そのものも法を説くものとして仏と言い得るのではないかと考え、そのように話してきた。が、これはまさに『声字義』の説く、すべての存在は声字なり、実相なりという教えそのものであったとも言えようか。かつて学んだ教えが朧(おぼろ)気(げ)ながら筆者の頭に残っていて、意識もせずに紡ぎ出した解釈だったのかもしれない。

毎朝本堂に向かうとき、中の間に掛かる書軸を拝む。そこには「閑林(かんりん)に独座す草堂の暁(あかつき) 三宝の声を一鳥に聞く 一鳥声有り 人 心有り 声心雲水俱(とも)に了了(りようりよう)たり」(性霊集補欠抄巻十)とある。先生は、本書巻頭「『声字義』の全体像」において、この詩を紹介し八行の現代詩に訳されて、『声字義』に込められた真言密教独自の哲学思想を凝縮するものとして示されている。これまで、十分にその深遠なる意味を知らずに拝してきたが、本書に学んでからは、池に落ちる水の音、鳥のさえずり、風に吹かれて起こる木々のざわめき、それらが一つに融け合う永遠なる瞬間にあることを心に留めつつ入堂している。そして、唱える読経も実相を具えた声字に他ならないと、心新たに日々勤めたいと思う。三部書の一つをここに学ぶ貴重な機会をいただきましたことに感謝申し上げます。

奥深い真言の教えの真髄を祖典に学ぶため、また日々の勤行の質を高める心構えを学ぶ一冊としても、是非、御一読をお勧めしたい。


〇令和元年十月二八日長尾寺様の御縁日法会後の法話より
 法話 般若心経に、お釈迦様の教えを学ぶ・後編
 

四聖諦とは

そして、心経のその先には、四行目(第56号10頁参照)に「無苦集滅道」とあります。③の四角を見ていただくと、四聖諦(ししようたい)とあります。心経にはたった四文字ですが、しかしこれは、お釈迦様の根本教説と言われる、とても大事な教えです。お悟りになられたお釈迦様がブッダガヤからサールナートに二五〇キロ歩いてきて五人の修行者に初めて説法し、五人を見事に悟らせ、初めて法輪を転じたときの教えです。四つの聖なる真理と訳されます。

ひとつ一つ簡潔に申しますと、苦集滅道のはじめの苦聖諦とは、生きるとは何か。それは苦であるということです。今みてきた通り、生きるというのは、この五蘊を常に働かせることであり、私とは五蘊に過ぎないとお釈迦様も言われています。

色という身体があり、そこにいろいろな情報が入り、それに反応して判断して、行動していますが、その過程に私という自我が入って、自分本位にいろいろと好き勝手に考え判断し生きています。ですが、すべてが無常であって、変化し移り変わっていくものなので、自分の感覚も、思いも、したいことも、思い通りというわけにはいかないわけです。そこで常に、不満を抱え、悩み、苦しみつつあるということになります。この現実をよくよく見てみると、生きるということ自体が、そもそも苦しみであると解るということなのです。このことをよく認識理解することが大切だというのが苦の聖諦です。

そう申し上げると、そうかしらと思う人が居られるかも知れませんね。人生とは苦であると納得できない人もあると思います。

生きることは素晴らしい、素敵なことが一杯だと人生を捉える人もあるかも知れません。が、よくよく見てみると、生きるというのは大変ですね。一日中寝たいだけ寝ていられる人なんかいません、今日は何もしないでいいと思っても、ゴミを捨てに行かねばならなかったり、何か食べなくてはならないので作ってみたり、玄関前くらい掃除しようとか、本当に何もすることがなければ、逆に退屈してイライラしてしまいます。

皆さん結婚されたとき、二人で幸せになりますと大勢の前で言ったかもしれませんが、実際のところいかがでしょうか。何十年も経てどんな感慨をお持ちでしょうか。ですから、結構生きることはつらいし苦しいものなんだと私たちは知っています。ですから、夢を語ったり、いっ時のくつろいだときに、ああいい人生だと思いたいのではないでしょうか。

話変わりますが、今もこうして話を聞いて下さりながら、私の声が皆さんの耳に入り、よく理解して聞いて下さっている方もおられましょうが、人の話をずっと聞くというのは本当は苦しいものです。ですから、中には、なんだか今日の話は小難しいことばかりで、去年の能化(のうけ)さんの方が楽しい話だったなという方もおられるでしょう。ですが、そう判断したらもう話は耳に入らず、それこそ本当に、つらい、苦しいだけの時間を過ごすことになります。

昔奈良の藥師寺に高田好胤(たかたこういん)さんという有名な管長さんが居られて、話し好きで一時間でも二時間でも話すわけです。法相宗(ほつそうしゆう)なので難しい仏教要語が沢山出てくると、中には下を向いてしまう人もあったそうですが、そうすると、「人の話が少しくらい難しくても、結構な話やな、もっと良く聞いてやろうと思う人と、なんや難しい話になって早よ終わらんかいなと思う人では、その人生は雲泥の差があるんや」という話をされました。

「結構やなと思う人は、どんなことがあっても結構やなと前向きな生き方をする、つまらんなと思う人は何を聞いてもなしてもつまらんなと、文句ばかり言う、そういう人生になるんや」と言われて、皆さんに話を聞いてもらえるようにおもしろおかしく話されていました。皆さんも、無理にも結構やなと思って聞いて下さった方が、得になると思って聞いて下さい。もう少しで終わります。

そして、次の集聖諦(じつしようたい)とは、その苦しみはいかにして生ずるのか、ということです。また、その次の滅聖諦はその苦しみをどのように滅していくのか、その滅した状態をこそ目指すべきであるということですが、それを説くのが十二因縁です。

これは、④の四角を見て下さい。これは、この図にあるように十二因縁には二系統ありまして、一つは苦しみが生じていく過程を述べた十二因縁、その下の縦長に書いてあるものの右側の部分です。それと、苦しみを滅っしていく過程を述べた十二因縁はその左側の部分に書いてあります。

心経では「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽」というところですが、意味からは、これは、無無明乃至無老死亦無無明尽乃至無老死尽となるところなのです。ゴロの関係からかこのような表現になっています。

まず、苦しみが生じていく因縁のところですが、詳しくは申しませんが、こうした十二の項目で因縁が展開していく過程を説明していくのです。

そもそも、生きるとは何かということに根本的な無知を抱えている私たちは、何かしたいという気持ちがつねにあって行為があり、その過去の行いによって新たな命が生まれ意識が生じます。そこには心と体があり、六つの感覚器官が生まれ、外界との接触により、感覚として受け入れ、愛というのは渇愛とも言いますが、飽くなき欲求のことです。この渇愛を生じ、取ると書く取は執着することで、それにより、生きたいという心・有を生じて、誕生があり、老死など苦しみを繰り返すという内容になります。

今申したように、その中に愛とあるのは渇愛とも言われ、この渇愛があるから、執着が生まれ、悩み苦しむことになります。渇愛とは無常ということを認めたくないという心であり、永遠なるものを欲して、もっと欲しい、ずっと生きていたいと思う心です。この渇愛こそが苦しみの元にある。そこがこの十二因縁の肝の部分です。

そして、その左に縦に矢印のある、十二因縁の苦しみを滅尽する因縁が書いてありますように、無明が尽きる、つまり無明がなくなれば、行がなく、行がなくなれば識はないというように展開して、苦を滅し尽くしていく過程が滅聖諦です。

そしてその過程で、もっと欲しい、良くありたい、生き続けたいという渇愛を滅することこそ、私たちは目指すべきであるというのが滅聖諦の意味するところです。それはつまり、渇愛を滅するということは悟りということになるのです。

これはどういうことかと言いますと、みんな誰もがそれぞれ人生の目標と言うようなものがありますが、その先の先に究極の目標として悟りがあると思って生きて下さいとお釈迦様が願っているということなのです。つまりは、仏教徒とは、悟りを究極の目標として生きる人のことだということにもなるのですが。

そして、最後に道聖諦は、その苦を滅するために八正道という具体的な歩み方を教えられています。それぞれの内容はそこに書いたとおりです。

正見は、この四聖諦を真理として理解することであり、正思、正語、正業は、勤行次第の中にある十善戒のことです。正命は正しい生業をもって生活し、正精進は、善いことに励むこと。大事なのはこの後の正念です。今という瞬間にきちんと意識して自分の現実に気づいているということですが、五年前にお話した瞑想のことです。マインドフルネスと今は喧伝(けんでん)されています。自らの行い、感覚、心、真理に気づいていることです。

私たちは、普段、頭の中で話をするように、ずっと考え続けてはいないでしょうか。漫然と目に入ってきたものに反応し、聞いたものに反応して考え続けています。野放し状態になっています。仏教では、それは良くないことであるとされていて、考えないことが良いことなんです。細かく今この瞬間に、自分がしていることに気づきを入れている状態、つまり今という現実に生きることが正念ということです。正定は、何も考えずに一つのことに集中し、落ち着いていることです。

以上、心経で無と頭に付けられた、五蘊十二処十八界十二因縁四聖諦、すべてを一通り解説してみました。

般若心経を毎日唱えている訳ですから、本来、皆さんも、これらのだいたいの意味を了解していてもいいような事柄なのではないかと思います。初めて聞いたという方もあるかも知れませんが、大切な仏教の根本の教えです。是非、難しいと思わずに、折角心経をお唱えになるわけですから、ご理解いただきたいと思います。

いかに生きたらいいか

仏教の開祖である、お釈迦様はこうした教えを諄々(じゆんじゆん)と何十年にもわたり説かれていたのです。もう一度解りやすく申し上げますと、

五蘊とは、人の営みとはいかなるものか、結局人間とは身体と心の働きが移りすぎていくものに過ぎず、自分と言えるような確たるものではないということです。十二処十八界は、私たちが外界とどのように接触しているのかを解明するものです。その接触したものにとらわれ、次から次にと心が移っていくことを観察するのです。

十二因縁は、人はどのように生きるが故に苦しんでいるのか、その苦しみをなくすには、いかにしたらよいか。

そして、四聖諦は、仏教徒としての歩み方を示すものです。

まず、苦聖諦は、人生をいかに捉えたらよいのか、苦と捉えよ、ということです。それは苦とわきまえるということです。悲観して言うわけではないのです。その方が幸せに生きられる、しっかり生きられるということでしょう。人生とは幸せなものだという受け取り方をしていると、ちょっと嫌なこと、しんどいことがあるともうイライラして嫌になります。ですが、もともと苦ばかりですよ人生は、とわきまえている人は、少しくらい何かあっても、そんなものだよと、気楽にニコニコしていられます。

それから、集聖諦は、何事にも原因ありということです。悩んだりつらくなるのにも原因があるということです。私たちには、誰にでも、自分には無いと思っていても、とらわれ、こだわり、うぬぼれ、があります。それらを悩み苦しみの原因として認識することが大事なのです。

執着するものにとらわれたり、家柄や地位にこだわって、自分だけはとうぬぼれて、人生の目標を見失ったり、人間関係を壊したりということはよくあることです。

ないと思っていても、みんなどんな人にも、とらわれ、こだわり、うぬぼれがあると思って、何かイライラしたり、つらい時や苦しい時に、何かにとらわれてはいないか、こだわっていないか、うぬぼれはないかと見て、それがはっきりわかると不思議なくらい急に楽になると思います。

滅聖諦は、では、私たちは何を目指して生きたらいいのか、心の幸せとは何であろうか。苦を滅して、究極的には最高の幸せ、心の解放、何の思いわずらいもない突き抜けた幸せを本当の目標にしてはいかがであろうかということなんです。が、どうですか、私たちは、逆に、とらわれ、こだわることを、人生の目標にしているのではないですか。

私たちの人生において目指すべきは、こだわり、とらわれを滅することにこそあるのだと、お釈迦様がおっしゃっているのです。

そのためにはいかに生きたらいいかと具体的に理想的な生き方を教えてくれているのが道聖諦の八正道です。見たり聞いたり外から入る刺激に翻弄され、過去未来に思いをはせることなく、いまという瞬間の現実に生きることを教えてくれています。

いかがでしょうか、結構大切な、現代人にも通用する生き方を説いて下さっているとは言えないでしょうか。無と無下に否定してしまっていいものではないと思われませんか。

悟りへの道筋

それで、ここで悟りということについてもう少しお話をしてみたいと思うのですが、八正道の中の正念にて申し上げたように、その時その時の、今の心に気づいてゆくと、心が次第に鋭くなって、一瞬のうちに展開する五蘊のひとつ一つが解るようになるのだそうです。すべては因縁によって、現れ消えていく、ただ流れていくもので、執着に値しないと解っていきます。

そして、とらわれ、こだわり、疑いなどが消えて、すべてを空と見て、自我がなくなって、貪瞋癡の煩悩のすべてを消していき、最後は生存欲も無くなって最高の悟りを得るとされています。これは、勿論とてもおおざっぱな流れではあるのですが、この道筋を理解して、将来私たちも、正しくこの道を行けば仏様に通じている、つまり私たちも仏になれるのだということになります。ここまでが心経で言う苦集滅道に含まれる内容です。

そして、ここで心経に戻ります。心経の最後の真言に、「羯諦羯諦・・」とあります。羯諦とは、行くという意味です。どこにか、彼岸、つまり悟りの世界にです。悟りに逝けるものよ、とか、彼岸に至れり、と訳したりします。全体では、「至れり、至れり、彼岸に至れり、彼岸に到達せり、悟りに幸いあれ」という意味になります。皆さんそのように悟りに至れりと、お唱えになられている訳です。

いかがでしょうか、ここでやっとお釈迦様の教えと心経の意味するところとが合致していたことがわかります。凡夫である私たちは、心経で無と否定したお釈迦様の教えにより、心経の結論にまで到達して、舎利子の立場となって、この真言を味わうべきなのかもしれません。

ではこうして、私たちも確かに仏さんになれるのだと解ったうえで、大事なのはその事を知ってから、どう生きるかということなのではないかと思います。

弘法大師が書かれたとされる『即身成仏義』という著作があります。今年改めて読ませていただく機会がありました(本紙第55号六頁参照)が、この本ですが、読むと、真言宗で言う即身成仏とは、何もみんな仏なんだ、悟ってるんだから安心しなさい、仏と気がつけばいい、などというような内容ではないんです。

「この身において仏になると確信しつつも、仏になることにこだわらずに、果てしなく輪廻を繰り返す生涯の中に身を置きながら、衆生の利益と安楽に勤めて、自身を百億の身に分けて、輪廻に苦しめられている生き物たちの中に入りこんで、彼らを導き菩薩の位に到達させるのが私たちの役割である」(松長有慶先生著『訳注即身成仏義』140頁)と書いてあります。

実は、これは、そもそも大乗仏教に生きる人の生き方であって、大乗の菩薩は自分は悟りの世界に行くことなく、何度も生まれ変わりすべての人々生き物たちが悟り尽くすまで菩薩行に励むことになっています。これを自未(じみ)得度先度他(とくどせんどた)「自ら未だ得度せざるに先に他を渡す」と言います。また真言宗の常用経典である理趣経もそこに書いたように何度も輪廻転生して利他行に励むべしとあります。

ですが、そう言われても、では具体的に何をしたらいいのかと困ってしまうという方には、「無財の七施」という教えがあります。衆生を助けるのに、何も多くの財産や知識、技術や知恵が無くとも出来ることが沢山あります。人に柔らかい気持ちを与える眼差しの眼施、時場合に相応しい顔を施す和顔施、幸せな気持ちになるような言葉を施す言辞施、身体により手助けしてあげる身施、善くあって欲しいという気持ちを施す心施、席を譲る床座施、泊まるところを施す房舎施というのがあります。これらをご縁のある方々に適した施しをして差し上げたら、ありがたい施しになると思います。

最後にはなりますが、仏教は常に向上する生き方を求める教えです。たいへん誇り高き教えです。そういうわけで、私も向上するために、今日は皆様に少々厄介なテーマを選び、原稿を作り準備をして、お話し申し上げた次第であります。仏教徒であるとの強い意識を持って、毎日お唱えになる般若心経を読む度に今日のお話を思い返し、精進いただけたらありがたく存じます。長時間にわたりご清聴ありがとうございました。


【六大新報令和二年八月十五日号掲載】
 いま、メディアリテラシーが問われている

いま私たちは自主規制の世の中を生きている。これまでには考えられないような窮屈な時代になった。どこに行くにもマスクが必要で、建物の入り口で手指を消毒し、体温を測定されたり人との距離を測られ、話をすることも控える自粛が当然という空気が漂う。テレワーク、オンライン授業、オンライン飲み会、オンライン帰省というのもあったが、なにを馬鹿なことをと思えることがまことしやかに行われる。しかし、いかにもそれが良いことのようにも思えてくる不思議な世界に生きている。これがいつまで続くのか、もう元の生活には戻れないなどという人までいるようだが、誰がこんな不愉快な世の中にしたのか。

「本日の新型コロナウイルスの感染者は…」という、毎日降り注ぐテレビをはじめとするマスコミ報道に洗脳された私たちは、怖いもの、感染しない、させないためマスクや消毒、ソーシャルディスタンス、自粛が必要と思っている。しかし一度頭をリセットして数字を見直してみてはいかがであろう。

新型コロナ感染のためとされる死者は、七月十二日現在千人に至らないのに、インフルエンザ感染が主原因で亡くなる人は毎年三千人を超えている。コロナの感染者は二万一千人なのに、インフルエンザの感染者は毎年約一千万人である。さらにインフルの感染者はみな熱や咳の症状のある人ばかりなのに対し、コロナ感染者のほぼ八割は無症状であるという調査結果もある。なぜインフルエンザ感染者は風邪症状があるのに、コロナ感染者は症状がないのか。感染とはどういうことを言うのだろうか。

私たちの鼻腔から肺に至る気道の一番外側には粘液に覆われた上皮細胞がある。病原性のあるインフルエンザウイルスが上皮細胞を破り、基底膜も突き破って数百万個にも増殖すると、リンパ球や毛細血管のある間質に抗原ができて、熱が出たり鼻水が流れ、咳で一気に外にウイルスをはき出すことになる。こうした症状があることを本来感染と言うのだそうだ。

私たちは沢山のウイルスを体内に持ち、それらを常在ウイルスと言ったりするが、それらの中にはコロナウイルスも含まれ、喉の粘液上にコロナウイルスが数個付着しているだけで、それが綿棒ですくわれてPCR検査に回されると、百万倍に増殖されてコロナ陽性と判定されてしまう。しかしその程度では、気道上にはウイルスの増殖がないので他者に感染させることはなく、そもそも感染とは言わないのがこれまでの医学の常識であるという。しかもPCR検査は、インフルA、B型のほかマイコプラズマなどにも反応し陽性となる可能性があるという。ではなぜ今回は、そんな偽陽性が多発するPCR検査をすることになったのであろうか。

六月に厚労省が、東京、大阪、宮城で八千人を対象に実施した抗体検査の結果、東京で過去に感染し抗体を持つ人は0.1㌫、大阪では0.17㌫であったと報告されている。誰もが無症状ではあってもコロナに感染しているかもしれないと言われ、マスクをしてきたのに、東京でさえ、千人に一人しか感染していなかったことが判明した。つまり感染力がそれだけ弱いということであり、さらにたとえ感染しても、症状もなく、インフルエンザよりも病害性が弱いのに、マスクに加えソーシャルディスタンスやら自粛など、なぜしなくてはいけないのか。

いやいや海外では桁違いの多くの感染者死者が出ているではないかと思われるであろう。しかし、米国をはじめとする各国の医療関係者の中には、そうした数字に疑問を呈する人々が多く存在する。米国では、コロナが死亡に関連したとされるようなケースでは検査を要せず新型コロナによる死亡とするように健康統計局から指示があるという。四月八日WHOが発表した「新しいコロナに関するガイドライン」でも、検査を実施することなく新型コロナウイルスによるものと疑われる場合には公式の死因を新型コロナウイルスによる死亡とするように、と各国の医療機関に指導している。なぜ数字を水増しする必要があるのか。

かくして様々な疑問が山積する。そこでいささか唐突だが、メディアリテラシーという言葉について考えてみたい。ご存知の通り、その重要性が問われるようになって既に久しいわけだが、しかしそれは、ふつう言われるところの、現代社会に溢れる情報の中から有用で、かつ信頼に足るものを選び出す能力のことだとするなら説明が足りないという。神戸女学院大学の内田樹名誉教授は、自身のブログ『内田樹の研究室(2019.2.22)』の中で、「メディアが虚偽の報道をし、事実を歪曲した場合でも、私たちは、虚偽を伝え、事実を歪曲することを通じて、メディアは何をしようとしているのか?と問うことができる。メディアリテラシーとはその問いのことである」と述べている。さらに、「メディアには決して情報として登場してこないものを感知する能力」が必要であるという。

メディアは真実のみを報道をしているわけではないことをまずは知ること、そして、そこにどんな意図があるのかと問うことの大切さ、そして、自ら情報を見つけ出す感性が求められるということであろう。内田教授は同じブログの最後に、「私たち一人一人がメディアリテラシーを高めてゆかないと、この世界はいずれ致命的な仕方で損なわれるリスクがある」と、正にいま私たちが目にしている世界を予言するような言葉を残している。

米国や欧州で、ロックダウンや外出制限に抵抗する人々、反対デモ、反ワクチンを叫ぶデモ行進など、一切日本のマスメディアで報道されることはない。五月七日ドイツ・ベルリンでは、医師専門家千五百人が支援する「啓蒙のための医師団」が結成され、新型コロナウイルスは季節性のインフルエンザウイルスと同程度のものであり、コロナパニックは演出である、マスクの強制や何が混入されるかわからないワクチンの全国民接種を思いとどまるよう要請した。

厚労省は、六月二日、日本でも来年前半には国民全員に接種が可能なように国費を投じてワクチン製造ラインを整備すると発表している。コロナを収束させるためには、それは好ましいことと受け取っている人もあるかもしれない。しかし、例えばインフルエンザワクチンを接種して、はたしてインフルによる死者は減っているであろうか。統計を調べてみると、平成十年頃よりワクチン使用量が年々増えているが、死者も増加傾向にある。子宮頸がんワクチン投与後、重篤な副作用で苦しむ多くの女性たちがいることをご存知であろう。

昨年(二〇一九)十月十八日、ニューヨークで、世界経済フォーラム、ジョンズ・ホプキンス大学、B&M・ゲイツ財団の共催により、「イベント201」という会議が開かれていた。そこでは人獣共通コロナウイルス感染症の流行をシミュレートし、パンデミックの最初の数ヶ月の間に、症例の累積数は指数関数的に増加し、経済的、社会的な影響は深刻なものになると予測した。そして、今の世界はほぼその通りに推移しているように見える。

ところで、オリンピック延期が発表された日、すべてのマスコミ報道がそこに集中する中で、総務省経産省国交省は、「スマートシテイ関連事業」を公表し、AIや5G、IOTを用いた未来型のオンライン社会実現のために事業推進パートナーを募集した。

さらに京都アニメーションの放火犯が逮捕された日、参議院で「スーパーシティ法案」が可決成立している。これは行政サービスのIT化、車の自動運転、キャッシュレス決済、遠隔医療などのために、国や自治体、企業、IT企業が各々保有する個人情報を、一括して「データ連携基盤事業者(外資系企業を含む)」が管理活用できる仕組みをともなうものだという。

コロナコロナと騒いでいる間に、日本も管理監視社会に向けて後戻りできない事態に陥っている。実はこれらの制度改革は世界中で進められており、こうした管理社会に移行するための予行演習こそが「新しい生活様式」なのではないか。

世間の人々と同様に、怖い怖いと言っていて、いいわけがない。ことの真相を探し出し、いかにあるべきかを自ら考えることが求められている。

参考・youtube「学びラウンジ」講師・大橋眞徳島大 学名誉教授、『PCRは、RNAウイルスの検査に使って はならない』大橋眞著(ヒカルランド刊)、『コロナパン デミックは、本当か? コロナ騒動の真相を探る』ス チャリット・バクディ著(日曜社刊)


〇故武村充大前総代追悼(先生最後の随筆)
 広重の描く「瞽女(ごぜ)」


私は現在、週二回、井原第一クリニックのデイケアに通っている。このデイケアは二十人規模の通所施設で、入浴、リハビリ、昼食、運動、脳トレ、手芸など、多様なプログラムが用意されている。

ある日のことである。「塗り絵」の課題が出され、白絵が数枚ずつ配られた。何げなく目を通していた時、その中の一枚に目がとまった。それは「広重画 東海道五拾三次之内 二川猿ケ(にかわさるが)馬場(ばば)」の一枚である。この絵は何かで一、二度見たことがある有名な浮世絵である。目に止まったのは絵に描かれている東海道二川(現愛知県豊橋あたり)の広大な原野の中の街道にたたずむ四人の女旅人である。いずれも三味線を肩にかけているから、この女たちはあの「瞽女」であることがすぐにわかった。

辞典によると、「瞽女」は三味線などを弾き、歌を歌って「門付(かどづ)け」をした盲目の女性芸能者で、民謡、俗曲などのほか説教系の語り物も語った。」とある。「門付け」については、「人家の門口に立って歌や踊りなどの芸能を演じ、金品を貰い受けること。また、その芸能者」とある。中には一夜の食のために身を売る女もいたという。

いつの時代にも社会の底辺でぎりぎりに生きている貧しい者たちがいる。

私は学生時代、そのものたちの生き様に興味を覚え、研究テーマにして調査したことがある。

私らが子供のころには、この貧しい者たちをみかけることがあった。貧しい親子連れの「ものもらい」を見つけると石を投げ付けて追っ払ったこともあった。

高屋町銀山の集落には、「ホイトウ塚」と言われている巨大な岩穴がある。古墳の跡と思われるが、「ホイトウ」とは通称「ヘイトウ」といわれる「ものもらい」のことで、おそらくこの岩穴で寝起きしていた者たちのことであろう。

村の荒神祭りの翌日、この貧しい者たちが数人、祭りの御馳走の残り物をもらいに歩いていたのを見かけたこともある。

わが家の門に立つ「遍路」に、一握りのしゃぎ麦を接待したことが幾度もあった。

もう忘れ掛けていたあのころのことを思い出させる一枚の浮世絵であった。     (令和元年十二月記)


〇当山中興快範上人書       
『國分寺中興基録』 を読む⑦  


『國分寺中興基録』快範書(五百籏頭(いおきべ)孝行氏解読)

「元禄九年
 一、子正月十二日寺建申度(てらたてもうしたき)願書の事(がんしよのこと)
     御断願口上覚(おことわりねがいこうじようのおぼえ)
 一、下僧儀寺建立仕度(つかまつりたく)存(ぞんじ)一両年此のかた材木も少々心用意仕(つかまつり)且つ又備中辺え罷越(まかりこし)近村の者共に寺造立申し度き旨物語仕(つかまつ)り候(そうら)へは、少々合力銀も御座候、其の上去る方支堂銀御座候故旦那の内当村庄屋弥   右衛門下僧一家の内近田村庄屋五兵衛両人加判を以て彼(か)の銀かり申す可く候、御存の通り拙僧病気御座候へば、存生の内寺建立仕り度存じ奉り候、然れ共悉く新(あらたに)作事仕り候へば、銀大分入り申す儀御座候間、只今住宅仕り候庫裏を引き直し寺に仕る可きと存じ候、此の段御奉行中へ御沙汰成され下さる可く候 以上
    子正月十二日          国分寺 判
     桜井忠左衞門殿 

   右の願御奉行中え沙汰(さた)これあるうえ寺建立の儀相調えるべき由(よし)、仰せ出(おおせいだ)されさしづ(指図)仕る、料家村(甲   奴郡領家村のことか)の大工八兵衛と申す大工呼び寄せ候て作事積(つもり)
 一、三間はりに四間半の客殿 但し四方共に瓦ひさし
 一、弐間に三間半の 釣り屋但し瓦屋ね後前一尺のひさし
 一、弐間半はり 五間の下を取草屋のくり
              但し外とも四間半に七間なり
右の見積もりにして木よせ(寄せ)申し付け候て作事は日や といにして作領(料)は上大工壱匁三分 中は壱匁 下六分 五分 扶持方は万事にして日米壱升弐合ッッにして

    木寄覚(きよせのおぼえ)
 一、百九拾五匁七分三り  上々日向松角五寸角ふしなし
      但し船ちん共       弐拾六本代
 一、七拾三匁六分     同小ふし物  拾本代
      但し船ちん共に ひさし
 一、弐拾八匁       松柱拾本たる木代
 一、拾七匁六分       同断 うたち(梲(うだち))
                  わり物
                  上はしり
 一、四匁五分       はふ(破風)木 四寸の丁
 一、九拾弐匁四分     ぬき(貫)
              わり物
              らうか入用共に
 一、百四匁五分船ちん共に えんかうりよう(縁虹梁(えんこうりよう))※
  上々栂(つが)ふしなし 壱尺壱寸に弐尺六分の平物弐間半木
 一、四拾四匁  上々栂ぬき  くれえん(榑縁)
 一、八拾七匁五分 松坂五歩引立三拾壱間 縁の上うら板
 一、六拾目    同断
 一、百八拾七匁八分    竹大小
 一、百八拾め三分     釘大小 五寸
                  三寸
                  弐寸
                  同瓦くき共に
 一、弐百五拾弐匁     瓦代

     内 合力銀
 一、百五拾目      当村庄屋弥右衛門
 一、五拾目       同村  七左衞門
 一、五拾目       同村  与右衛門
 一、五拾目       同村  市右衛門
 一、五拾目       上御領村庄屋平助
 一、百五拾目      惣旦那中
 〆 五百目
右は寺建立書付如件(くだんのごとし)
 一、元禄十年丁丑(一六九七年)十二月十二日平野村庄屋三郎右衛門越され候て申し候は、本堂建此かた打続き寺くり共造立之(これ)有り借銀等も出来申し候様造作等も結向(結構)に候へ共座敷の内竹すのこにて置き候事見る目笑止に候間畳弐拾丈(帖)程肝煎(きもいり)申す可く申され畳弐拾帖人数を集め指立て申され候事
    畳 施主人数
 一、五匁    平野村 庄野三郎右衛門
 一、五匁    同村庄や三郎右衛門子五郎助
 一、五匁    同村  矢吹 勘右衛門
 一、五匁    同村  矢吹 太郎左衞門
 一、五匁    同村  矢吹 市右衛門
 一、五匁    同村  庄野 善次郎
 一、五匁    同村  太夫 永迫主馬            つづく

※社寺建築に用いる虹のように上方にやや反りを持たせてある梁、化粧梁


【國分寺通信】 

 ほめばほめ そしらばそしれ 世の中は
 ただ百(もも)とせの 人の命を (慈雲尊者和歌集より)

「人よりそしりをうけしころ」の歌とあります。尊者にしてもそしりを受けることがあったこと自体が意外に思われますが、法句経にも「すべての人から非難される人、すべての人から賞賛される人はいない」とあります。いかに生きようとも百歳(ももとせ)なれば、自らすべきこと、本当に自分の信じる道を生きようとの意気込みが感じられます。私たちも、人の目や周りを意識して、自己を見失うことなく、自ら信じる人生を歩みたいと思います。


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備後國分寺だより 第56号(令和2年8月1日発行)

2020年08月23日 11時47分08秒 | 備後國分寺だより
令和2年盆月号(B5・16ページ・年三回発行)


◯ラタナ・スッタを唱えて 
 新型コロナウイルス感染終息のために


四月五日、國分寺の恒例行事、土砂加持法会が執り行われました。世界が震撼する新型コロナウイルス感染拡大に伴い、受付時間を遅らせ、飲食を控えるなどの対策のもとで執行いたしました。土砂加持法会は、檀信徒各家先祖各霊の得脱のために修される法会ではありますが、この度は新型感冒感染症終息平癒祈願を併せ行いました。

お釈迦様在世時のことですが、ヴァッジー国の首都ヴェーサーリーで、飢饉から疫病が蔓延し人々が苦しむさまを見て、阿難尊者とともにラタナ・スッタ(宝経)を七日間唱え続けて平癒せしめたとの故事があります。そこで、職衆(しきしゆう)が土砂加持法則(ほつそく)により法要が進む中、導師は光明真言法を修法し、前供養終わって、観法(かんぽう)の間にパーリ・ラタナ・スッタを読誦し、祈念を凝らしました。

この故事にまつわる話が、法句経(ダンマパダ)二九〇偈の因縁物語に、次のように残されています。

かつて、ヴァラナシの書店で手に入れたヒンディー語訳『ダンマパダ』(『Dhammapada』Bhikshu Dharmarakshit訳注・sanskrit pustakalay刊)より翻訳してみますと、

「あるとき、ヴェーサーリーに飢餓が起こり、疫病が蔓延し、鬼神が災厄をもたらしていた。そのとき、リッチャヴィ王はラージャグリハに行き、お釈迦様をヴェーサーリーにお連れした。お釈迦様がヴェーサーリーに来られ、ラタナ・スッタを読誦させるとすべての病が沈静し、水が降り注ぎ、鬼神たちの恐怖も去っていった。お釈迦様がラージャグリハからヴェーサーリーに行かれたとき、様々なやり方で道が飾り付けられ、沢山の供養の品々とともに旅をなされていた。ビンビサーラ王とリチャッヴィ王はガンジス河の両岸で各々の国で前代未聞の盛大な祭りを催したのであった。

お釈迦様は、比丘たちから、この祭りの因縁を聞かれると、『比丘たちよ、私は過去世でシャンカという名のバラモンであったときスシーマという名の独覚(どつかく)の霊廟で供養を捧げていた。これらのお祭りや歓待尊敬は、その時の業果によるものである。過去世にはわずかな施ししかしていないが、このように大きな果報があったのである。』と言われて説法をなされ、この偈文をお唱えになられた。『もし微少の安楽を捨てて広大な安楽を得べしとおもわば、賢者は広大な安楽をのぞみて、微少の安楽を捨つべし』」とあります。

実は、このヒンディー語本の解説は、元の因縁話からかなり話を要約しているようです。『パーリ語仏典ダンマパダ』(北島泰観訳注・中山書房仏書林刊)には、「ヴェーサーリーに到着したお釈迦様は、阿難尊者に命じてリッチャヴィの王子と共に三つの城門でラタナ・スッタを一晩中唱えさせると、病人が癒えはじめ、その後お釈迦様自ら七日間に亘ってラタナ・スッタを唱えられ、ヴェーサーリーの町は再び平和を取り戻した」とあります。

また、敬愛する薬師寺の院家(いんげ)様からは、ダンマパダ・アッタカターという注釈書の邦訳『仏の真理のことば(三)』(及川真介訳・春秋社刊)に、「阿難尊者は、お釈迦様の水晶の鉢に水を入れて城門にいたり、宝経(ラタナ・スッタ)を唱えつつ投げ上げると、鬼神や病人に銀の耳飾りのような水滴が落ち、するとただちに病気が鎮まった」という記述があることを教えていただきました。

ヒンディ語文には、阿難尊者が投げ上げたという水については、「水(pani水または雨)が降り注いだ」という簡略された表現になってしまっているようです。

いずれにせよ、このラタナ・スッタは、bhutaブータという、生類、鬼神、鬼類、または神とも訳される霊的なものに対して、信仰ある人々に、疫病をまき散らすことなく、汝らに御供えしてくれる人間たちを慈しみ、守り給え、悪さをするな、仏法僧の勝れたものたちを敬い礼拝せよ、精進せよ、幸せであれと諭していく経典となります。

お釈迦様自ら、七日間にわたり唱えられたとされる、このラタナ・スッタを、私も新型コロナウイルス感染が終息するまで、毎朝毎晩お唱えしたいと思います。世界の仏教徒たち、特に南方のパーリ経典を読誦する人たちとともに、このラタナ・スッタを唱え、世界の新型コロナウイルス感染にまつわる騒動が一日でも早く終息するよう祈念したいと思います。(全)


◯月例薬師護摩供後の法話から 
 なぜ葬儀は必要か


最近葬儀社の方とお会いしましたら、この神辺でも、数年前から葬儀もせず、会館で一晩寝かせて火葬するという家が出始め、昨年は特に多くなったと言われていました。

都会では、かなりそうした直葬が増えているとは聞いていましたが、古い家が多く、近所との関係が濃い土地柄と思っていましたので、この神辺で直葬があるとは驚くばかりです。が、知り合いの近県のお寺さんでは、盆参りに行ったら、いつもすぐに出てくるお婆さんが居ないから尋ねると、実は亡くなったのですが、…とのことで、急遽仏間で略式の葬儀をして戒名を付けてあげたという話を聞いたことがあります。

ではどうしてお葬式をしなくてはいけないのでしょうか。私が思うには、人はどのように一生を過ごしてきたのだろうかと考えなくてはいけないと思うのです。人は一人では生きられません。一人が生きるには、家族だけでも、親族だけでもなく、沢山の周りの人たち、衣食住に関わるすべての人たちのお蔭で長い人生を生きてきた訳です。

それを死にましたらからと、もう居ませんから関わりが無くなりました。という訳にはいかないのが人間ではないでしょうか。長年皆様のおかげで生きてまいりました、故人に代わり御礼申し上げ、故人亡き後もご交誼を願うのが本来ではないかと思うのです。

今頃はペットとして可愛がられた動物でも葬儀をして火葬にし、さらには供養までする時代です。それを何十年も生きてきた人が亡くなって、何も周りに言わずに、直葬で済ませましたというのでは、その方のお陰でこの世に生を受け育てられた子孫として、なすべき勤めをなさず、余りにも故人に気の毒であり、近隣の人たちに対しては誠に礼儀を欠く行為ではないでしょうか。

そもそも亡くなったご本人は何を頼りにみまかるのでしょうか。残された遺族や親しかった人は、どのように心の悲しみや心の空白を癒やすのでしょうか。

葬儀は告別式ではありません。葬儀において、導師は改めて三帰五戒を授け、戒名を授与します。これは出家得度式であり、徳の高い行為であるとされるからです。日本では古来高貴な人々が、このように出家をして亡くなることが最も尊い功徳あることとされ、なされたきた伝統が一般の人々に広まり、戒名を授けて引導を渡す葬儀が連綿と執り行われてまいりました。

インドでは、今でも、仏教徒が亡くなると、子や孫が一時出家し白い衣姿で、僧院内でしばらくの間生活して功徳を積むという習慣があります。また、平安中期の公卿藤原道長公は亡くなる数年前に出家をし、九体の阿弥陀仏の手に結んだ五色の糸を握って、西向きに横になり、多くの僧と共に念仏を唱えながら亡くなりました。

私たち日本人は、後生がいい、悪いという言葉があるように、自分の死後のことを気にかけて生きてきました。ですが、現代人は今のこの刹那のことにばかりに気を取られ、まったく余裕がなくゆとりのない生き方をしているが故に、自分の後生はもとより、身近な人の死後のことも気にかけてあげられないというのが実際ではないでしょうか。

後生がいいか悪いか。死後の行き先がよいかわるいか、それは生前の行いにもよりましょうが、ともに生きてきた家族親族の方々にとっては、故人が死後もよりよくあって欲しい、よいところに逝って欲しいという思いを託す場として葬儀がありました。祈り手である導師にその思いを託し、死後の安楽を願う場です。

直葬で、という方には勿論のこと、深刻な事情があることでしょう。ですが、何かできることがあるはずです。今風に立派な会館でしなくても、小さな会場でも、家ででも、近い人たちだけの心のこもったお葬式はできるはずです。

是非、身近な方で葬儀のことでいろいろと悩んでいる方があったら、こんな話をしてあげて欲しいと思います。私たちも、自分の後のことを考え、家族の後のことを思いやれる、ゆとりを持った生き方をしたいと思います。

今月もご参詣ありがとう御座いました。来月もまた皆さん二十一日、朝八時と早くからで大変とは思いますが、お誘い合わせの上お参り下さいますことをお待ち申しております。(全)


◯昨年十月二八日福山市長尾寺様の御縁日法会後の法話より
法話 般若心経にお釈迦様の教えを学ぶ・前編


ご紹介いただきました國分寺の横山で御座います。五年前にもこちらでお話しさせていただいております。その時には「しあわせに日々生きるために」というテーマで、海外で注目されている仏教の瞑想についてご紹介をし、仏事についてお話しました。そして、皆さんも仏壇の前で少し座って下さいというお願いをして終わったように思います。

今日は、皆さんが仏壇の前でお唱えされている般若心経に関するお話をしたいと思っています。

心経への新しいアプローチ

早速ですが、私たちの仏教は真言宗の教えです。真言宗の教えは、インドの仏教の中で最も新しい教えです。そもそも、仏教には二千五百年もの歴史があり、インドでお釈迦様が亡くなられるのが西暦で紀元前五世紀半ばのことです。一方、真言宗の教えが現れるのが七、八世紀ですから、お釈迦様の時代からゆうに一千二百年も経ってからの教えということになります。

ところで、医療現場では、少し前から統合医療という様な言い方がなされるようになりました。これは細分化した専門部署が統合して一人の患者さんを診ていくという試みです。そこで、仏教も単に真言宗の教えだけを言うのでなしに、仏教全体の理解から発想していくことも必要なのではないかと考えております。

実は、そう考えて見回してみますと、私たちにとって一番親しみのある般若心経が、そもそもの古い仏教と私たちの真言宗を結び付けてくれる格好の経典であると気がつきました。般若心経は五世紀頃に成立したとされていますが、心経にはお釈迦様の教えもきちん
と説かれているからです。

心経は皆さんよくご存知のように、観自在菩薩が、舎利子というお釈迦様の弟子に説く教えです。観音様という悟れるのに悟らずに、衆生を救うとされる菩薩が、阿羅漢というお釈迦様と同じ悟りを得られた、智慧第一のシャーリプッタ・舎利弗尊者に教えを垂れるという内容です。つまりすでに真理を悟った人に向かって説かれた教えであり、私たちのような凡夫に対して説かれた教えではないということです。

ですから、その中に説かれるお釈迦様の教え、この後解説していきますが、五蘊、十二処、十八界、十二因縁、四聖諦は、無と頭に付けられて、あたかも不要なものというように思われていますが、空ということを本当に解り切れていない私たちには、実は、これらの教えこそ、たよりに学び、歩んでいく必要があるのです。

心経は、最後の真言、羯諦羯諦の真言が大事だと、唱えればご利益がある、有り難い、と思われています。また色即是空空即是色こそ心経の中心であると説く方もあります。それは間違いではないのですが、今日は、普段説かれることなく見過ごされている部分、プリントに一部分取り出してある無無無と否定されたような表現になっているところの話をいたしたいと思います。

今日は、このお釈迦様の教えに学んで、私たちはいかに生きたらいいのか、また悟りとはどのようなものなのかということを見て参りたいと思います。

それでは、お手元のプリント(10頁)をご覧になられてお聞き下さい。順を追って話しますから、頑張って最後までお付き合いをお願いします。

五蘊とは何か

まずは五蘊とは何かということを話します。プリントの上部に四角く囲ってある心経の抄録があります。一行目には、「照見五蘊皆空度一切苦厄」とあり、二行目には、「是故空中無色無受想行識」とあります。心経は冒頭からこの五蘊が皆空と解れば、すべての苦しみがなくなるとあるように、五蘊は心経にとっての大切なキーワードであることが解ります。

それで、その下に①と書いてある四角をご覧下さい。下に向けて色受想行識と展開してあるものですが、五蘊とは、五つの集まりという意味です。これはもともと、仏教において、私という存在はいかなるものかと規程するものです。私とは尊い、常住不変の永遠なるもの、我(が)などではなく、うつろいゆく五つの集まりに過ぎないのだという意味なのです。

いろと書く色(しき)は、私にとっての物質のことですから、身体ということです。正しくは身体の物質的なエネルギーのことです。心臓が動き、血液が身体を流れています。呼吸をして酸素を体中に巡らしてもいます。ですからジッとしていても常に動き流れ変化しています。長い目で見たら、皆さんもかなり変化していますね。五年前、十年前とは別人のように。そこまで変わっていないかも知れませんが、瞬間瞬間変わりつつあります。

それが色です。この色つまり身体に、これからお話しする受想行識という四つの心の働き、これらをまとめて名(みよう)と言い、身体に心がはいり、心と体が一つとなって私たちは生きています。因みに、死は心と体の分離と定義します。

心のはじめに受(じゆ)があります。これは感受するといいますが、感じることです。見たり聞いたり、嗅いだり、また痛いとか、暑いとか。身体の感覚の変化をずっと感じつつあるということです。

ここに関係してくるのが、十二処(じゆうにしよ)、十八界(じゆうはつかい)です。②の四角ですが、十二処は身体に感じられる情報の取り入れ方を説明するものです。「無眼耳鼻舌身意無色声香味觸法」と心経にあるところですね。眼耳鼻舌身意が六根(ろつこん)と言って、外からの情報が入ってくる場所で。そのあとの色声香味觸法が六境(ろつきよう)と言って、外から入ってくる対象・情報のことです。この六根と六境を併せて十二処となります。

六境の色(しき)、形あるものが眼に入ります。声(しよう)というのは音ですね、音が耳に入る。香(こう)は香りが鼻に入る。味(み)あじのするものが舌に入る。触れるものの情報が身・皮膚に入る。法(ほう)とは、頭に浮かんだもの、記憶とか感情とか思い、それを受け取るのが意(い)という場所ですね。眼に入るものも次々に変わっていき、その間に香りや音がしたり、何かを口に入れて味わったり、体に何か触れたりと刻々と感じつづけます。それが受ですね。

次は、想(そう)です。受によってとらえられたものがどんなものかと瞬時に捉え、イメージすることです。頭の中にどんなものかと概念を作り出すことです。

たとえば目に入ってきた物が茶色く丸い物で、甘い匂いがして、手に触れると柔らかいとイメージした物が、饅頭という概念にあてはめていくというような過程になるわけです。感覚として入ってきたものを次々に瞬時にそれは何かととらえていくことです。これが想という心の働きです。

そして行(ぎよう)がきます。行は想によって概念化したものについて、何かしたいと行為を誘発していきます。想によって饅頭ととらえたものに対して、食べたいという気持ちを起こすことになります。この何かしたいという意欲が行という心の働きです。饅頭を口に入れたら、もっと食べたい、隣のものも食べたい、今度はお茶を飲みたいというように次から次にと意欲が消えずに流れていきます。

最後に識(しき)がありますが、これは知るという働きで、図の六識とあるものですが、目でものをとらえる際に知るという心の働きがあって、はじめて感覚として捉えることになります。耳も鼻、舌、皮膚、意にそれらの対象が入る際にこの識という心の働きによって知ることになります。

識という、この知るという働きですが、これは心のことで、この機能があることが生きているということ、生命であると仏教では考えます。

そして、眼耳鼻舌身意と色声香味触法、それに眼識 耳識 鼻識 舌識 身識 意識を併せて十八界と言い、心経には、「無眼界乃至無意識界」とあります。これは、外界を私たちがどのように認識しているか、その仕組みをお釈迦様が解明したものです。

いかがでしょうか、ここまでで、五蘊、それを展開するところの十二処十八界も含めて、どんなものかおわかりいただけたことと思いますが、大事なことは、五蘊はみな変化しつつある、と見ていくことです。

私は、毎朝五時に鐘をついているのですが、ゴーンと鐘を突くと、中秋の名月のころですと、西の空に輝く満月が目に入ります。そして、鐘の音が少しずつ小さくなると、遠くの草むらでカサカサと音が耳に入り、何だろうと、目を向けます。すると、大きな黒いものが動くのが目に入ると、それが猪であるとわかり、さらによく見ようとすると、猛烈な勢いで山の方に走って消えていきました。その間にも鼻には前日掃除して火を付けていた草焼きの匂いが入っており、また耳にずっと虫の鳴く声が入っていることに気づきます。そうしていましたら、鐘の余韻がなくなるのに気づき、また鐘を撞くという具合に、この短い時間にさえ五蘊の働きは、次々に移り変わり流れていっていることが解ります。

五蘊は、色受想行識が、このように常に変化し移り変わっていく、無常なものであり、すべて私たちの前に現れる、見えるもの、聞こえるもの、匂いも、味も、みんな変わっていってしまうものなので、そのつど受と想と行の心の働きも刻々と移り変わっていきます。

好みの服もバッグも、流行り廃りがあり、手に入れても直にまた別のものに目移りします。好きな音楽も何度も聞いていたら耳障りになり、ほかの曲が聞きたくなります。大好物の饅頭も三つも四つも食べたらあいでしまいますが、何日かするとまた食べたくなります。

五蘊のそれぞれがみなそうして、六根に飛び込んできた六境に作用して移り変わっていく無常なもので、もうこれで十分、満足しましたと、もう何も要りません、とはならないのです。ですから、どんなものでも執着するに値するものではない、そこで、すべてのものは空であるという見方をしていきます。

つまり五蘊十二処十八界は、お釈迦様が、私とは常住不変の我(が)などではなく、無我(むが)であり、空(くう)であるということを証明するために説かれたものであり、だからこそ、空を解ってしまえば、無と言い得たわけです。

自我も空なり

さらに、この五蘊の過程の中の受ですね、感覚として受け入れていく際に、自分が見た、聞いたと、自分が入り込んで、自分という思いが生まれ、さらに、想のところで、いろいろな思い巡らせることで自分がいるという思いを強くしていくことになります。自分がいる、と自我が形成され、私たちは、みんな自分がいると確信しています。自分という思いにこだわり、他の人と比較して、羨望や嫉妬などの心を生み、大変に生きることを複雑なものにして、苦しみの元になっています。

ですが、仏教では、それは単なる幻想に過ぎないと考えるのです。この自分という思いも空なんだということです。自我は、この五蘊の中の受や想という作用により作られたものにすぎず、妄想なのだと捉えるのです。

うつろいゆく五蘊にすぎない自分も空であり、無我なのだと理解するのです。何か悩み事があったようなときに、一度冷静になって、そのように自分を捉え直してみますと、楽になることがあります。

あるとき境内の草取りをしていたときのことですが、ひどく疲れを感じることがありました。そのとき、仕事の途中に、ある郵便物が配達され、開いてその中身を見て、また仕事にかかりました。ですが普段感じないような異常な疲れを感じて仕事を終いにして、事務所に戻りました。そして、机に置いてあったその郵便物を見て、ああなんだ疲れの原因はこれだと、その郵便物に記された人たちについて、色々と頭の中で思いが巡っていたのでしょう。それで身体がグッタリしているのが解り、自我が、そうさせたのだと解った瞬間に、さっと疲れがとれました。

皆さんも落ち込んだり悩んだりしたとき、普段意識もしていない自我が悪さをしているのかもしれない、と見てみると不思議と楽になると思います。是非、試してみて下さい。・・つづく。

般若心経に、お釈迦様の教えを学ぶ



◯月刊「佼成」令和元年九~十二月号
「つれづれ仏教歳時記」 掲載

 
九月
曼珠沙華の咲く頃
秋の彼岸頃になると、いつの間に茎を伸ばしていたのか、赤い曼珠沙華(まんじゆしやげ)が仁王門前の側道に咲き出します。そうして毎年、彼岸入りが間もなくであることを知らせてくれるのです。

彼岸は、インドの言葉ではパーラミター。到彼(とうひ)岸(がん)と訳され、この世の迷いの世界である此岸(しがん)から悟りの世界・彼岸に到ることです。そこで、パーラミターは、彼岸にいたる修行をも意味するようになりました。

大乗の教えに生きる私たちにとっては、六波羅(ろくはら)蜜(みつ)という、なすべき六つの実践修行であります。それは、持てるものを他者に施し、みんなが良くあるように五戒(①生き物を殺すことなく②与えられていないものを盗らず③邪な行為をせず④うそを言わず⑤飲酒せず)をまもり、どんなことがあっても心をおさめ、善きことに励み、心のおちつきを得て、何事にも分け隔てなく、とらわれなく明るく生きることです。

お彼岸の中日には真東から日が上り真西に日が沈みます。日の沈み行く西の空に向かって、弥陀の浄土を敬慕し礼拝する好機であるとして、いつのころからか、この時期に仏道に精進するようになったのでしょう。お墓にお参りして彼岸が済んだと思うことなく、できればこの六波羅蜜を心がけて生活したいものです。

ところで、曼殊沙華は、天上に咲く花とも言われ、奇瑞が現れるときに天から降るとされています。いつの日か、私たちの六波羅蜜が完成するときにも、天上から花が降ってくれることでしょう。

十月
カティナ・ダーナ
スリランカ、タイ、ミャンマーなど南方の仏教寺院では、雨期の三ヶ月間、比丘(びく)(正式な戒を受けた僧侶)たちは外出せず僧院内で勉学修養して過ごす決まりがあります。それを安居(あんご)といいます。

二十五年ほど前のことになりますが、私もインド・コルカタの僧院で安居いたしました。そして、安居が開ける、太陽暦では十月の満月の日の翌日から、各地の寺院でカティナ・ダーナという行事が各地の寺院で催されました。

カティナは功徳衣、ダーナは施しとの意味で、安居開けの比丘にその先一年間纏(まと)う袈裟を施すことによって、命や財産の安全、健康や地位を得て幸せな生活が送れ、死後もよいところに生まれ変わる功徳が得られるとされるのです。

コルカタ郊外のある寺院に招かれたときには、昼前にご馳走が接待され、三時頃から野外の特設ステージに他の十数人の比丘たちとともに座り、その前には米、果物、皿、歯ブラシ、タオル、線香、蝋燭などたくさんのお供え物が並んでいました。ステージ下のゴザの上には溢れんばかりの大勢の仏教徒が座り、長老比丘方から延々と説法が続きました。そして比丘全員による読経の間に、たくさんの袈裟が盆に乗せられてステージ上に運ばれます。それから功徳を随喜する偈文が唱えられ、最後に全員で「サードゥ(善いかな)・サードゥ・サードゥ」と唱和し閉幕しました。

今年も十月後半からひと月間、私たちの知らないところで、南方仏教徒の一大イベントが盛大に行われることでしょう。

十一月
護摩を焚く
毎月二十一日、午前八時から境内の大師堂で薬師護摩供を修法しています。護摩の火の温もりがありがたく感じるようになる今月あたりから、遠方からも多くの方々が参詣されます。

護摩とは、そもそも火の中に注ぐことを意味する、インドの言葉ホーマの音写語です。供物を火の中にくべることによって煙や匂いとして天の神々に供養して利益を願う供儀のことです。

かつてインドを巡礼した折に、ベナレスのガート(沐浴場)で、一人のヒンドゥー教の修行者が小枝を井形に組んで小さな護摩を焚いていました。火を付け、マントラ(真言)を唱えながら供物を投げ入れると、白い煙がゆらゆらとまっすぐ上にのぼっていきました。

護摩は、このようにヒンドゥー教でも行われ、もともと古代インドのバラモン教の儀礼の一つだったものです。それを五世紀頃に仏教も取り入れ、密教の儀礼としたのでした。

真言宗寺院でなされる護摩供では、単に火に供物をくべるのではなく、行者は護摩供の本尊と一体となる瞑想を修し、心を寂静にとどめて護摩の火に供物を投じ、一切衆生の利益を願うのです。

護摩供に参詣された方々は、燃えさかる火を前に般若心経やご真言を何遍となく唱え続けます。一心に唱えつつ、心の中の様々な思い、計らい、願いのすべてを仏様にお任せし手放すのです。

そうして心の重荷を降ろし、軽やかな気持ちでお帰りいただけたら、ありがたい護摩のご利益と言えましょうか。   

十二月
一陽来福
お寺の生まれでもなかった私が、初めてお寺の生活を経験させていただいた東京早稲田の放生寺(ほうしようじ)は、冬至に授与するお札で有名なお寺です。

毎年冬至には何万人という人々が詰めかけ、交通規制が引かれるほどです。もっとも、その多くの人たちはその由来を知らず、似た名前の御札を頒布する神社に並んでしまうのではありますが。

放生寺は、江戸寛永年間に良昌上人によって造営された高田八幡宮(現穴八幡宮)の別当寺(べつとうじ)として開創され、三代将軍家光公の来駕(らいが)を仰ぎ、徳川宗家(そうけ)の祈願寺でもありました。

江戸時代中期には、冬至に授与する金銀融通の御札を創始。易(えき)の言葉「一陽来復(いちようらいふく)」に因み、冬至に陰極まって一陽が生じるように、海の如く無量なる福が一陽一陽授かるよう、本尊正観音菩薩(しようかんのんぼさつ)に祈念して「一陽来福」と命名したのでした。

この御札は、冬至の晩の十二時、居間の鴨居などに明くる年の恵(え)方(ほう)に向けて貼る決まりがあります。が、今日では大晦日の晩、または節分の晩に貼ってもよいとされています。

ひと昔前には、鹿児島から冬至の前日に飛行機でやって来て、お堂の前で寝袋で休み、授与される朝五時に買い求めてすぐに飛行機で帰り、冬至の晩には家に御札を貼るというような熱烈な信者も多かったようです。

冬至には、一日五座、本堂で観音護摩供が修法されます。今年もご参詣の善男善女の除災招福(じよさいしようふく)を祈願して、私も護摩を焚かせていただきます。

皆様の一陽来福を祈念いたします。合掌(全)


◯当山中興快範上人書       
『國分寺中興基録』 を読む⑥ 


『國分寺中興基録』快範書(五百籏頭(いおきべ)孝行氏解読)

「一、百拾三匁 てうの初(手斧初(ちようなはじ)め、おのはじめ)入用
           餅米 酒 祝銀 万事
 一、四拾七匁弐分  本堂荒壁日用
 一、百参拾弐匁五分 棟上げ入用大工祝銀共に
 一、百四拾八匁   門 大工ふち方
             同作領 くぎ板代 万事
 一、四拾九匁四分  本堂中ぬり 芝居安左右衞門ぬり
           ふち方 共
           作領共に
 一、弐拾弐匁六分  同土仕手伝人  半兵衛に渡す
           ふち方作領共に
 一、拾七匁四分五り 白壁 合物 酒 油 
                 ふのり かみすさ 
 一、四拾六匁    上ぬり ふち方 
           作領 同土仕半兵衛共に
 一、拾九匁七分   本堂軒裏ぬり たん にかわ 
                さけ代共に
 一、弐拾三匁弐分  本堂地祭諸事入用
 一、百参匁八分五り 御入仏入用 ふち方 万事
 一、拾八匁九分   同時餅米三十
               石六拾三匁かへ
 一、四拾八匁八分八り 本堂 地形メ 木やり弐人
               同はばらつき
               本石突き共に日用礼銀
               ふち方 万事
 一、壱貫四百目   大工請取前本堂敷板迠
 一、三拾目壱分五り 本堂造作大工やといの分
           ふち方万事
 惣合七貫九百五拾九匁八り  本堂入用諸事

外に
 一、壱貫六百八拾九匁弐分
      内 壱貫五百六拾四匁五分 諸尊造立代
        百弐拾四匁七分 堂佛前の寄進物代
 二口合 九貫六百四拾八匁弐分八り
右は本堂作事同諸尊建立入用書付件(くだん)の如し
  元禄七年戌十二月八日迠
 一、本堂建立相究材木願の時節書付の通無残御立山にて
   御下し下され其の外山出の人夫の書付
 一、山野山串かはな山材木は山野村より八句ぞうと言
   たわ(撓・峠?)まで一同村人夫にて山出し
 一、八句ぞうより当村は  三谷村 東中条村 西中条村
           湯野村 徳田村 霜田村(箱田村?)
              上御領村 八尋村 上竹田村
              下竹田村
 右十ヶ村の人夫にて御取り越し下され候
 一、中条村の材木は 東中(条)村より国分寺迄出る人夫
東中条村・西中条村・道の上村
           十九間や村・徳田村
 右五ヶ村より御取り越し下され候
 一、地形の地も御作事やより五拾人引きのとうづきやぐら
                  (胴突櫓)
   参候は川南川北両村の人夫福山より取り越し下され候
 一、同地も毎日四拾八人宛日数十六日穴(はばら)つき本石突共に
   同上二人の木やり二人御作事屋より仰せ付けられ下され候
                   長右衛門
                   忠右衞門  
   人夫の数七百六拾八人内肝煎弐人与頭釣頭くみ合
 一、三百四拾人は方々材木取
 一、九拾五人は本堂立前人夫
 一、参百拾九人は屋敷引人夫
 都合千五百弐拾弐人
 右は御公儀より下され候人夫
 一、本堂引物尾引(おびき)の大木望(のぞみ)に付(つき)山奉行丹治弥市郎に仰せ付けられ方々御立山(おんたてやま)見分仕り候へ共之れ有るは難所人夫叶わず候故代弐百三拾目遣わされ川南村の材木買い此の材木は川北平野より寄進に当月十二日に当所両村より取り越し給わり候
 一、諸事の御礼に御屋敷御老中御本〆(元締め)
   中村治左衞門殿御作事屋御奉行郡方御奉行相勤められ申し候明る戌の春御勘定の節(せつ)也
戌の春
 一、十六石御蔵前にて拝領定て本堂造営の扶持方大分入可申と仰せ上げられ候段御蔵入り米の内にて下され候
右本堂始終書付件の如し                    つづく


【國分寺通信】 
新型コロナウイルス感染終息祈願のための朝晩のラタナ・スッタ読誦は五月二十五日で終えました。緊急事態宣言が解除され一段落を終えたのと、事の真相について考えるところがあり、祈願して済むものではないと理解したからです。

日本では今季三千人がインフルエンザで亡くなり、感染者は一千万人をはるかに超過しています。新型ウイルス感染症自体が重篤化し亡くなられた人は、はたして何人おられるでしょうか。人との接触を八割削減してまで感染予防をするほどのことだったのか冷静に考える必要があります。

九年前の震災の折に、私たちは特に原発事故の公の報道に対して、それは明らかに不誠実なものであったことを知りました。住民自らが本当の情報を得る難しさを知り、マスコミ報道をどのように聞き、判断すべきか。それは生死をもわける重要事項であったことを学びました。

今はたして本当の情報を私たちは手にしていると言えるでしょうか。マスコミに登場することのない立場にあっても、現状を憂え、真摯に本当のことを訴えている学者や医師の方々が世界中にいます。そうした免疫学病理学を専門とする先生方の声こそ、私たちは頭を白紙にして聞いてみる必要があると考えます。

ネットで「学びラウンジ」と検索してみてください。感染とは何か、PCR検査は本来いかなるものか、新型コロナウイルスは患者から分離されているのか、感染実験はなされたか、無症状者からの飛沫感染が本当にありえるのか、マスクや行動の自粛は必要なのか、ワクチンとは、こうした疑問に科学的にどう考えるべきかを優しく教えてくれています。

九年前をもう一度私たちは思い出す必要があります。ただ一つ違うことは、これは世界的な動きであることです。より深く考察しなければいけないことなのでしょう。

仏教は、自ら観察し理解を深め真実を知ることを教えています。何が真実か、これからの世界を生きるために私たち一人一人が取り組むべき課題だと思います。


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備後國分寺だより 第55号(令和2年4月5日発行)

2020年04月01日 08時52分47秒 | 備後國分寺だより
令和2年4月号(B5・16ページ・年三回発行)



◯薬師如来の真言は、なぜ「オンコロコロ・・・」なのか

これは長年解けない難問でした。薬師如来の真言は意味不明であり、なぜ仏様の前でこの真言を唱え拝むのか、理解できなかったからです。

まず、お薬師様の真言とされる「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」のいろいろな訳し方を見てみましょう。
「仏様よ、早く人々の願いを成就したまえ」
「帰依し奉る、病魔を除きたまえ払いたまえ、センダリやマトーギの福の神を動かしたまえ、薬師仏よ」
「速疾に速疾に暴悪の相を有せるものよ、降伏(ごうぶく)の相に住せる象王よ、わが心病を除きたまえ、成就あらしめよ」
などなど。

ところで、藥師真言には以下のように三種類のものがあります。
小咒「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」
( oṃ huru huru caṇḍāli mātaṅgi svāhā)
中咒「オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」
(oṃ bhaiṣajye bhaiṣajye bhaiṣajya samudgate svāhā)
大咒「ノウボウ バギャバテイ バイセイジャ クロバイチョリヤ ハラバ アランジャヤ タタギャタヤ アラカテイ サンミャクサンボダヤ タニャタ オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャサンボリギャテイ ソワカ」
(namo bhagavate bhaiṣajyaguru vaiḍūryaprabharājāya tathāgatāya arhate samyaksambuddhāya tadyathā oṃ bhaiṣajye bhaiṣajye mahābhaiṣajya -samudgate svāhā)

それでは、さっそく小咒の意味を『真言事典』(平河出版刊八田幸雄著)を参考にして、ひもといてまいりましょう。訳としては、「帰命、普き諸仏に。オーム、フルフル(欣快なるかな)、チャンダリ・マータンギ鬼女よ、スヴァーハー。」とあります。

これは解説に、不空(ふくう)訳『仏頂尊勝(ぶつちようそんしよう)
陀羅尼念珠儀軌法(だらにねんじゆぎきほう)』の無能勝(むのうしよう)真言では、nama samanta -buddhānāmuを冠す、とあることから、冒頭に「帰命普き諸仏に」と挿入されているようです。

はじめに、オンとは、古来インド宗教で聖なる音とされ、仏教では帰命、供養、称賛を表すとされています。コロコロとは、歓喜の間投詞で喜ばしきことよとか、速疾に、と訳されます。

では、センダリ(正しくはチャンダリ)とは何でしょうか。caṇḍāliは『梵和大辞典』(山喜房仏書林)に、旃陀羅(せんだら)家女(けのおんな)とあり、caṇḍālaには、社会の最下層の人(シュードラの男とブラフマナの女との間に生まれた混血種姓にして一般に蔑視し嫌悪せられる)、漢訳では、屠種(としゆ)、下賤種(げせんしゆ)、執暴悪人などとあります。現代ヒンディー語でチャンダーラと言えば、不可触(ふかしよくせんみん)の一種姓を指します。

また、マトウギ(マータンギ)は、mātangaを大辞典で引けば、象、または象たる主な最上の者とはあるが、最下級の種姓の人[caṇḍāla]ともあって、漢訳にはやはり下賤種、旃陀羅摩登伽(せんだらまとうが)種とあり、チャンダリとマータンギはインド社会の中で最も虐げられた下層の人々(女性)を指すと考えられます。

なお、スヴァーハーとは、svāhāを大辞典で引けば、幸あれ、祝福あれと訳すようですが、現代ヒンディー語では、供儀の際に発する言葉であり、(神に)捧げ奉ると訳します。

もとより調べをしてみればこのような意味合いとなることを存じていたので、冒頭にあげたように訳されている意味合いにどうしたらなるのか、いかなる解釈を付けるべきか解らなかったのです。

しかし今朝(1/26)本尊薬師如来の供養法を修法していて、ふとこれらの疑念が一瞬にして溶解したのでした。その時、頭にひらめいたのは、これは薬師如来の心の底から起こってくる願い、誓願であって、社会の最下層の人々、虐げられて痛ましいチャンダリマータンギの人々こそ速やかに救われて欲しい、その人たちが救われるならば、すべての者たちもより良くあるはずである、そしてすべてものたちの悩み苦しみがなくなり、生きとし生けるものたちが幸せであって欲しいというお薬師様の願いを最も短い言葉で表現したものに違いないと思ったのです。

やや専門的な話になって恐縮ですが、真言宗の諸尊を供養し拝む修法の中で、入我我入観(にゆうががにゆうかん)という仏と一体となる瞑想にひたった後、本尊の真言を数珠を爪繰りながら唱える正念誦(しようねんじゆ)という祈念をするのですが、その際唱える真言はどちらが相応しいのか。つまり、小咒か中咒かという問題があります。

中院流という高野山の流派では小咒であり、國分寺が先代まで修法してきた三宝院流では中咒となるのです。そのため、これまで私も中咒を唱えていたのですが、次第にしっくりこないものを感じていました。本尊と一体不二となりながら中咒では不具合を起こすと言えばお解りがいただけるでしょうか。そして今朝、入我我入観から正念誦にうつる時、お薬師様の願いはと心を向けた瞬間に小咒の意味するものが了解されたのでした。

中咒は大咒をつづめたものに他ならないので、大咒の意味を確認してみますと、『真言事典』の大咒の訳には、「帰命し奉る、世尊薬師瑠璃光如来、阿羅漢、等正覚に。オーム、医薬尊よ、医薬尊よ、医薬来生尊よ。スヴァーハー」とあります。

つまり、これでは、自分と別の対象として、薬師如来に向けて唱えることになるのです。ですから、入我我入観の後に唱える正念誦は中咒よりも小咒が適当なのではないかと思うのです。本尊薬師如来と一つに、その願いをともに口に唱え念じることが肝要ではないかと思います。

このように思っておりましたら、ある方から、「いやいやセンダリマトウギは、そういう意味ではあるけれども、転じて仏教を外護する役割をもつようになったんですよ」とご意見をいただきました。

勿論そのようなことも存じてはおりましたが、だからこそ冒頭にも記した、この真言の訳し方の事例の中にあったように「センダリやマトウギの福の神」にもなるし、「降伏の相に住せる象王」という表現にもなるのです。が、はたしてそのような解釈でよいのであろうかと考えて、長年思案し続けてきたのでした。

ところで、田久保周誉先生の『梵字(ぼんじ)悉曇(しつたん)』(平河出版社)二一五頁には、「唵(おん) 喜ばしきことよ。旃蛇利(せんだり)・摩登祗(まとうぎ)女神は(守護したまえり)」と訳された上で、?マークが付されています。

解説には、「この真言は『薬師如来観行儀軌法(かんぎようぎきほう)』等に見える薬師如来の小呪である。呼嚧呼嚧(ころころ)は歓喜の間投詞である。戦駄利(せんだり)(旃蛇梨正しくはcaṇḍāli)は古代インド社会階級のうち、最下層に属する卑族旃陀羅の女性名詞、摩蹬祗はその別名であり、悪徳者と見做されていたが、仏の教化(きようけ)によって衆生の守護者に転じたと伝えられる女神である。・・・この真言に薬師如来の尊名がなく、鬼女神の名のみを挙げてあるのは、薬師如来の生死の煩悩を除く本願力を、鬼女神擁護の伝説に喩説したものであろう。」とあります。

このように、仏の教化によってチャンダリ・マータンギ鬼女が衆生の守護者に転じたとあるのですが、だからといって、なぜ教化せしめた側がその者の名前をわざわざ真言の中に、それも、その者の名前だけを入れ込まねばならないのかが問われねばなりません。

そもそもこの真言の出典が『薬師如来観行儀軌法』などとありますように、密教儀軌に由来します。密教的要素が多分に含まれるとされる『薬師本願功徳経』など薬師経は、五世紀中頃中国で漢訳されていますが、近年中央アジアなどで発見された薬師経写本も五世紀頃までさかのぼることができるといいます。

そして、それよりも一世紀ほど早い三世紀末成立とされる、雑密経典に『摩(ま)登伽経(とうがきよう)』があります。これが田久保先生も記される卑族旃陀羅教化の出典であろうかと思われます。

『大正新修大蔵経(だいぞうきよう)』に収録された経典までたどれないので、それからの引用である『佛弟子傳』五一二頁(山邊修学著無我山房刊)よりその内容を要約しますと、

「お釈迦様の侍者であったアーナンダが旃陀羅種のマータンギの娘から水を飲ませてもらったことに起因して、その娘がアーナンダに恋慕の情を募らせます。そして、その母親とされる呪師によって、牛糞を塗って壇を築き護摩を焚いて呪を唱えながら蓮華を百八枚投じる呪術がなされると、アーナンダがこころ迷乱してその家に誘導されていってしまいます。すると、天眼をもってそのことを知られた、お釈迦様が『戒の池、清らにして衆生の煩悩を洗ふ。智者この池に入らば無明(むみよう)の闇消えむ。まこと此の流れに入りし我ならば禍を弟子は逃れむ。』と偈文を唱えてアーナンダを救ったということです。

しかし、その後も、娘のアーナンダに対する恋慕は止むこと無く、町に出たアーナンダの歩く後ろに付き従い祇園精舎にまで足を踏み入れると、それを知ったアーナンダは恥ずかしさ浅ましさを感じ、そのことをお釈迦様に申し上げました。

すると、お釈迦様は娘に、アーナンダの妻になるには出家せねばならぬと語り、父母にもたしかめさせてから髪を剃り出家せしめたのでした。そして、『娘よ、色欲は火のように自分を焼き、人を焼く。愚痴の凡夫は、灯に寄る蛾のように炎の中に身を投げんとする。智者はこれと違い色欲を遠ざけて静かな楽しみを味わう。・・・』などと様々に教化されました。すると、白衣が色に染まるように娘の心の垢が去って清涼の池に蘇り、遂に悟りを開いて比丘尼となったということです。」

こうした話が仏典にもあり、またこれより後には、呪術をつかさどる力あるものとして伝承されたためか、ヒンドゥー教ではいつの時代からか、チャンダリマータンギは女神としての尊格を与えられるのです。そして、最下層の人々が礼拝していたとされるマータンギー女神となり、穢れを嫌わぬ禁忌のない音楽芸術をつかさどる神としてダス・マハーヴィディヤー(十人の偉大な知識の女神)の一尊としても尊崇されているということです。

しかしだからといって、薬師如来の真言に、その女神の名が用いられたとするのはいかがなものでしょうか。ましてや、その神としての力を念じて、その力によって人々の病魔を除き給え、心病を除き給えと念じるというのは、仏教徒として余りにも残念な解釈とは言えないでしょうか。教化した仏が教え諭した者の名前を唱えて、そのヒンドゥーの女神の呪力によって人々の願いを叶えるなどという解釈はあり得ないことであろうと私は考えます。

私がこのように解するのは薬師如来はお釈迦様と本来同体と考えるからです。『密教辞典』六八〇頁(法蔵館刊佐和隆研編)薬師如来の項に「医王善逝(ぜんぜい)などの名は本来は釈迦牟尼の別称で、世間の良医に喩えて釈迦が迷悟の因果を明確にして有情の悩苦を化益(けやく)する意であるが、釈迦の救済活動面を具体的に表現した如来である。世間・出世間に通じる妙薬を与える。」とあります。

つまり、薬師如来というよりも医王、もしくは薬師仏としての原初に返って、お薬師様を捉えてはいかがであろうかと思うのです。そう考えるならば、両部曼荼羅に薬師如来が不在なのもこれで了解できます。薬師如来が十二の大願をもって如来となったという大乗経典にある説は、後世の人々にとっての願いをこの如来に託しつくられたものでありましょう。

では、「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」をあらためていかに解釈すべきかと考えるならば、「オーン、フルフルと速疾に、社会の中で最下層のセンダリ・マトウギたちに、幸あらんことを、(そしてすべての命あるものたちが苦悩なく幸福であらんことを)」としてはいかがでしょうか。さらに、この意味から、お薬師様の誓願として、次のように意訳したいと思います。「すみやかに最下層にある者たちが救われ、すべての生きとし生けるものたちがもろともに痛みなく、悩みなく、苦しみなく、しあわせであらんことを」

お釈迦様は何の躊躇もなく、まさに世間では卑しく蔑まれていた旃陀羅種のマータンギの娘を教化されました。その教化せんとされた願い、四姓(カーストなどの階級)の別なく、すべてのものたちがよくあらんとされる心、心病による苦は癒やされ、安楽なることを願う、すべての衆生に利益を与えんとされる医王であるお釈迦様の心、それこそがお薬師様であります。

その心に随喜して、私たちもともにこの誓願を念じさせていただくのだと思い、すべてのものたちに思いを拡げ、その中にはお唱えする私たちも当然含まれているのですから、ともにこのすべての生きとし生けるものがよくあれと、この真言を唱えることで、自分自身の願いも叶うと思いお唱えしたいと思うのです。

お薬師様の広大な慈悲の心に包まれ一体となって、その願いをともに念じ、「オンコロコロ…」とお唱えしたいと思います。(全)


◯【六大新報令和元年七月十五日号掲載】松長有慶先生著
『訳注(やくちゆう) 即身成仏義(そくしんじようぶつぎ)』を読んで

松長先生の最近刊となる『訳注 即身成仏義』(春秋社刊)を拝読させていただいた。そもそも筆者が初めて『即身成仏義』(以下『即身義』と略す)を読んだのは、栂尾祥雲先生の『現代語の十巻章と解説』(高野山出版社刊)においてであり、専修学院に学んでいた頃であるから三十年も前のことである。誠に申し訳ないことではあるが、それ以来まともに『即身義』と対峙することもなかったのである。が、この度改めて松長先生の解りやすく、されど伝統的な解釈に忠実に懇切丁寧に説かれた本書を読んで、新たに様々なことを学ばせていただいた。

まず巻頭の「『即身義』の全体像」において、『即身義』は当時の天台の学匠や南都の碩学(せきがく)、知識人に、即身成仏という画期的な教えの根拠を示すものとある。それは単に成仏する時間の問題だけでなしに、人と仏、物と心というような二元的な存在の本来的同一、さらに山川星辰など非情も仏に他ならないことが説かれるとされる。

『即身義』の著作年代については、即身成仏という表現は弘仁の初期に書かれた『辯顕密二教論(べんけんみつにきようろん)』中に、密教の四カ条の特色の一つとして登場するが、まだ即身成仏思想の構想は熟しておらず、その後の大師の著作などから思想形成の過程が語られ、弘仁六年以降遅くとも、高野山に金剛峯寺が建立され、東寺を下賜(かし)される弘仁の末頃までに『即身義』は出来上がっていたと推定せられる。

そして、即身成仏、特に即身という語を説くための三種のキーワードについて解説されており、六大については、現実世界を構成する要素ではなく、五大としての物質的なものと識大としての精神的なものとの総合体であり、物と心は元々同体として存在するとされる。

四曼については、特に法曼荼羅とは行者が金剛微細智(みさいち)の境地に入り体験する音や響き、声、光、根源的なコトバを表すものであり、羯磨(かつま)曼荼羅は活動智を表現するため本来は五仏以外女尊形で描かれるべきものであることが紹介される。

三密加持については、加持とは行者と仏との入我我入であり、三密加持とは身口意の三密それぞれが一体化した状態であり、仏・衆生・自然これら三者の三密も一体化し、融合していることをいうのであるという。

そして本編に入るが、各段ごとに、はじめに【要旨】が説かれ、次に【現代表現】としてやさしい言葉で現代語訳が示され、【読み下し文】と【原漢文】が続き、難解な用語は【用語釈】として、平安時代から戦後にいたる三十四もの注釈書や著作の解釈に斟酌(しんしやく)した丁寧な解説が附されている。【要旨】と【現代表現】をまずは読んで、【読み下し文】や【用語釈】を参照すれば、難解な大師の著作が不思議なほど容易に了解できる。

大師は、二頌八句(にじゆはつく)を創作し即身成仏という四字を讃嘆し説明していかれるが、先の頌において、六大とは、物と心を総合し一体化しており、それはあらゆる存在の本源たる大日如来に外ならないのであり、そこから仏も衆生も万物自然をも生み出し、互いに融合し結びついているという。四曼は、その真理のありかたを四つの形で象徴的に表現したものである。

そして三密加持はその働きを身と語と心と捉え、仏と衆生の三密は本来ともに入り混じり互いに支え合っているので、仏と人との三密の関係をよく心得て三密瑜伽の行法を修すれば速やかに大悉地を得ることが出来るとするのである。さらにこの六大四曼三密は相互に一体化しておりそれを無碍という言葉でまとめられる。そして後の頌においては、人、動植物、環境社会が本体、形相、作用において仏に他ならないことを成仏という語で説明されていく。

この度、本書を読んで、『即身義』に不読段があることを知った。灌頂を受けていない者には説かない決まりがあるという。その段は、即身成仏を確信して、尚私たちはいかに生きるべきかを教えてくれているように思える。それは、理趣経系統の儀軌である『五秘密軌』を引用したくだりであり、受者が阿闍梨から三摩耶戒を授かり、金剛薩埵の五秘密瑜伽の教えを早朝・正午・夕方・夜半に日常生活の振る舞いの中で絶えず思念し実践すれば現世で初地を得るとあって、

続いて「五秘密の修法を修することによって、覚りとか生死に染まらず、執着せず、果てしなく輪廻を繰り返す生涯の中に身を置きながら、広く衆生の利益と安楽に努め、自身を百億の身に分けて、輪廻に苦しめられている生き物たちの中に入りこんで、彼らを導き、最終的には金剛薩埵の位に到達させる。」(P140)とある。正に『理趣経』百字偈に説く勝れた智慧ある菩薩としての生き方そのものであり、『高野山萬燈會願文(まんどうえがんもん)』にある大師の誓願にも適うものであろう。なぜなら、その誓願をかなえるべく実働すべきは私たちなのであろうから。

釈尊はその生涯において、弟子たちの多くを阿羅漢果という最高の悟りをさとらせた。がそれが故に、解脱して死後再生せず、死とともに慈悲行を諦めざるを得なかった。解脱することが目的ではなく、何度も輪廻しつつ菩薩行に挺身することこそが大乗菩薩としての理想であることをここに示してくれていると言えよう。

『即身義』によって大師は、現代に生きる僧侶である私たちに何を訴えかけておられるのか。大師の思いを私たちの心にそのまま繋げて下さるのが本書である。本書は、今年九十歳になられる松長先生が真言僧侶関係者に向けて宗祖大師の著作を現代に生きかえらせようと渾身の力を振るって、そこに先生の持つすべてを注ぎ込まんとなされた労作である。多くを学ぶことが出来よう。是非御一読願いたい。(全)


◯【六大新報令和二年二月二五日号掲載】
『アジア的融和共生思想の可能性』第一章 保坂俊司先生執筆
「梵天勧請(ぼんてんかんじよう)思想と神仏習合」に学ぶ

昨年十二月二十日刊行の中央大学政策文化総合研究所研究叢書(そうしよ)の一冊である。編著者の中央大学国際情報学部教授の保坂俊司先生は、これまでにも世界レベルの論文をいくつも世に問うてこられた。インドのヒンドゥー教とイスラム教が融合したシク教と大乗仏教との相似に関する研究、大乗仏教興起発展に関する西域から来たる異民族多民族統治のイデオロギーとしての思想展開論、インド世界から仏教がなぜ亡んだかということについてイスラム資料を渉猟されて仏教徒が非暴力を貫くが故に改宗していったとの推論、またイスラム教の宗派の中にあってインドに伝わるスーフィーという神秘主義者たちの思想による穏健なイスラム教徒の存在に注目すべきであるとする論文など、枚挙に遑ない。

そしてこの度は、本書第一章「梵天勧請思想と神仏習合」において、これまで保坂先生ご自身が、インドにおいて仏教が衰滅したのはなぜかと探求されてイスラム教側の資料である『チャチュ・ナーマ』に着目されて到達された推論には実は完全にはご納得が得られていなかった部分があり、その後も思索され続けたことにより、仏教の根幹ともいえる他宗教にない最も独特なる思想を見つけられ、それこそが仏教を広く世界宗教に押し上げたのであり、かつ、逆に衰滅にいたらせることになったのだと結論される。

その仏教の根本たる独特なる教えとは、そもそもの仏教の発端ともいえる「梵天勧請」にあるのではないかと言うのである。梵天勧請とは、ご存知の通り、お釈迦様成道後に、この悟りは深淵にして欲望燃えさかる世間の者たちには理解し得ないであろうから説くまいとされたお釈迦様の前に、インド世界の最高神である梵天が舞い降りて、このままでは世間は滅びてしまう、この世の中には欲薄く心清き者もあり、その者たちに教え諭すならばきっと最高の悟りを得られる者もあろうから法を説いてくれるようにと説得を受ける。そして、ならばもう一度この世の中を見てみようと天眼通によって世間の者たちを眺めてみるに、確かに心清き者たちの存在があることを知り、お釈迦様は法を説くことを決心したというエピソードである。

私自身は、この教えは、お釈迦様に対してインドの当時の宗教世界の最高神自らが教えを乞う、つまりは神々の立場よりもお釈迦様の悟りは上位にあり、その存在はより崇高なものであることを示す教えとして受け取ってきた。しかし、先生は、その教えはそれだけにとどまらず、他者からの働きかけが不可欠であるという仏教の性格、特に他宗教との融和融合共生を示すものであり、これこそが他の宗教にない、最も仏教的なる、独特なるものなのだとその意味を説いていかれる。

かつて『インド仏教はなぜ亡んだのか』(二〇〇三年北樹出版刊)において推論された、当時の仏教徒らが不殺生非暴力の教えを大切にするが故にイスラム教徒に改宗していって、それがためにインドにおいて仏教が亡んだのであれば、同様にジャイナ教という非暴力を説く教えも亡んでいなければならないが、未だに少数ながらジャイナ教は今日迄存在し続けている。その矛盾を解く鍵として、この梵天勧請があるのではないかと着目されたのであった。

先生は、この話はお釈迦様自らが早い段階から弟子たちに説いたのではないかと推量されている。パーリ経典中の「サンユッタ・ニカーヤ」、漢訳経典の「増一阿含(ぞういつあごん)」に収録されている『梵天の勧請』に経典としてまとめられていくのは、もちろんお釈迦様没後のことではあるが、お釈迦様自らこうしたエピソードを語り伝えてきていたのであり、それは他宗との共存協和共生のために必要不可欠なものであった。そして、これこそが仏教の伝統ともいえる、他を受け入れ自らを変容してでも融和して一体となって繁栄する相利共栄の思想になったといわれるのである。

当時バラモン教が主流だったインド世界にあって、仏教勢力が世間の中で一定の位置を得て、托鉢し、また昼食に招待されつつ社会の中に留まるためには、こうした教えに基づく融和共生の立場はとても大切なものであったのだと思われる。初期経典を読んでみれば当時のバラモンらがこぞってお釈迦様に疑問をぶつけ、討論しては論破され、教え諭されて信者になったり弟子となり出家をしている。

大乗仏教も、先生の他の著書(『国家と宗教』二〇〇六年光文社新書)にて学ばせていただいたことではあるが、西域からやってきた異民族による王朝の多民族を統治するイデオロギーとして、誰をも分け隔てなく受け入れる原理として自らを絶対視しない互いに他を尊重する教えとして空を説いた。そして、西域の文化を取り入れ誰もが菩薩であるとの平等思想を説き、民衆のために聖典の読誦や仏像ストゥーパを信仰し礼拝することを行とする現実的な教えを説いていくことで繁栄した。

そして、イスラム教徒のインド侵攻に際しても、もちろん当時のヒンドゥー教徒からの圧力に対抗する意味合いもあってのことではあるが、イスラム教徒との融和共生を模索するが故に、改宗と見られる様な立場となりながらも不殺生非暴力の教えを守ることになる。しかし、そこには仏教徒としての矜持として、仏教の教えをその中で活かし誇示する行動も記録されているという。八、九世紀の中央アジアでの事例として、改宗したかつての仏教徒一族がブッダ伝をアラビア語に訳したり、メッカのカーバ神殿の儀礼に仏教的な儀礼を導入したらしいといわれていると記される。

そしてこの梵天勧請という思想構造は、私たち日本人にとっての「神仏習合」に他ならないのだと解りやすく説いていかれる。梵天勧請とは、仏教側に他宗教が教えを乞い、それによって相手を救済していくという構造にある。百済からもたらされた仏教が蘇我氏によって進んで取り入れられはしていたが、用明天皇によって帰依を受けることによって初めて公認された宗教となったのであり、神道の最高なる主宰者としての天皇が帰依することによって法が説かれ、神社に仏が祀られ、寺院に神が祀られてともに発展繁栄していく。この神仏習合の形態は正に梵天勧請と同じ構造と言えるのだという。これは比較宗教学を専門とされつつも日本仏教文化に精通された保坂先生の慧眼による一学説となるものであると言えよう。

そして、日本において江戸時代まで国教の立場にあった仏教が今日の様な位置に貶められた切っ掛けとなった明治の神道国教化に基づく仏教排斥も、正にインド仏教が亡んだように、自分の中に他の宗教と融和し共生するが故にその内包した他者によって内部から破壊されると大変もろく衰亡に繋がる一事例に他ならないと説明されている。

最後に、先生は、こうした仏教の特質は、今日の宗教間の確執によって抗争する国際情勢にあって、「異なる他者を受け入れ、自己犠牲を厭わず、平和裏に共生関係を持とうとする仏教の教えは再評価する意義があるのではないか」といわれる。これは正に仏教の他にない最も大切なアピールポイントであって、だからこそ今世界的に仏教の瞑想が普及し得たとも言えようか。先生も近年欧米でもてはやされる「マインドフルネス」と喧伝(けんでん)される仏教瞑想が普及することで仏教の平和思想への共感が急速に高まっているといわれていると指摘される。単にビジネスに活用するスキルとしての瞑想ではなく、根本の仏教思想にまで彼らの関心が及び、これからの世界を平和に導く原動力となることを先生共々に願いたい。今回こうした最先端の仏教論文を読ませていただき、仏教の仏教たるゆえんを新たに知ることができましたことに感謝申し上げます。

最後にはなるが、皆様には、是非この中央大学の研究叢書『アジア的融和共生思想の可能性』(中央大学出版部)を直接手に取り、先生方の論文からさらに多くのことを学んで欲しいと思う。(全)


月刊「佼成」令和元年五~八月号
「つれづれ仏教歳時記」 掲載

 
五月
国連ウェーサクの日
 五月の満月の日に、南方の仏教国では、お釈迦様の誕生とさとりと入滅を同時にお祝いする盛大なお祭りを催します。
 新暦の五月頃にあたる、インド暦の二月・ウェーサク月の満月の日にお釈迦様は誕生し、三十五歳の同じ日におさとりになられ、八十歳の同じ日に入滅したとされているからです。
 実はこの五月の満月の日は、一九九九年十二月国連総会にて、「国連ウェーサクの日」として、世界中の仏教徒にとり、もっとも聖なる日であると認められました。そして、この日に仏教徒が集い、祝うことを国連がサポートすると決議しました。
 これにより、毎年この日には、国連本部や地域事務所において、各国の仏教徒が集い相互理解を深め、世界の融和の為に会合が開かれています。
 お釈迦様は生まれると、すぐに七歩歩いて、「私は世界の第一人者、最年長者、最勝者である。これは最後の生まれであり、二度と生存はない」と、このように語ったと「希有未曾有経(けうみぞうきよう)」にあります。
 これは、さとりを確信されて生まれたお釈迦様が、さとりこそ人類にとって最も価値あることであると宣言したものといえます。さとりを開かれて説かれた教えは、世界中の人々にとって有益な教えであることも意味しています。特に、分け隔てのない友情と非暴力、共感と寛容を説く平和へのメッセージは、人類の平和共存のために不可欠な教えと言えましょう。
 今年の国連ウェーサクの日は五月十九日です。私たちもともにお祝いしたいと思います。

六月
四国遍路の話
 三十年程前のことになりますが、五月から六月にかけて四国を歩いて巡礼したことがあります。四国八十八箇所は、弘法大師ゆかりの霊場とされますが、それより古くからあった四国の難所・辺路(へぢ)を遍く巡るところから遍路ともいわれます。
 ビニール紐で編んだ草鞋(わらじ)を履き、衣を着て頭陀(ずだ)袋(ぶくろ)を下げ、網代傘(あじろがさ)と錫杖(しやくじよう)をもち、東京港から夜行フェリーで四国に入りました。一番札所霊山寺(りようぜんじ)から歩き始め、夜は寝袋に入り、雨の日は遍路宿や宿坊に泊まりました。
 次の札所まで、まだかまだかと思って歩くときにはその道のりは遠く、ただ一歩一歩、ひたすら足下を見て歩いていると、気がつくと札所の前に来ていたということが何度もありました。
 道端で佇むお婆さんから百円玉をのせたミカンをいただいたり、食堂でお会いした方が車で次の札所にお連れ下さり、そのまま善根宿(ぜんこんやど)をお接待いただいたこともありました。こうして、お接待して下さる四国の方々のやさしい心に支えられ、八十八番大窪寺(おおくぼじ)まで千四百キロの道のりを三十九日で結願することができたのでした。
 夕刻札打ちを終えてベンチに腰掛けていましたら、隣に座るご夫婦に話しかけられ、小松島のフェリー乗り場まで送って下さいました。そして、フェリーで和歌山港へ。その後も車のお接待をして下さる方が現れ、その日の晩遅くには高野山にお礼参りできたのでした。
 誠に不思議なご縁とご利益(りやく)がある四国遍路。是非一度お参りされてみてはいかがでしょうか。

七月
七月はお盆月
 推古天皇十四年(六〇六)七月十五日に、わが国で初めてお盆の行事として、僧侶に食事を施す斎会(さいえ)が行われています。
 この七月十五日は、僧侶が雨期の三ヶ月間遊行(ゆぎよう)せず、精舎(しようじや)の中で修養に勤める安居(あんご)の最終日にあたります。「仏説盂蘭盆経(ぶつせつうらぼんきよう)」には、この日安居を終えた沢山の清浄なる僧侶に食べ物などを供養した、その功徳によって、死後長く餓鬼の苦しみの中にいた目連尊者(もくれんそんじや)の母が救われたとあります。
 私たちのご先祖様の中に、同じように餓鬼道に苦しむ人が万が一にもあってはならぬと、毎年この時期にご先祖各霊をお迎えして供養の誠を尽くすようになったのでしょう。今日のようにお盆の行事として一般に広まったのは、江戸時代から。明治時代の改暦以降、東京や南関東などでは新暦の七月十三日から十五日に、その他の地方では一月(ひとつき)遅れの八月に行われています。
 東京のお寺にいる頃は、七月十三日に持仏堂(じぶつどう)の位牌を精霊棚(しようりようだな)に移して、ホオズキや素麺などを供え、盆提灯を出し、夕方玄関先で麻幹(おがら)を焚いて先師尊霊(せんじそんりよう)方をお迎えしていました。
 ところによっては、精霊棚ではなく、床の間に位牌を並べて、その各々の前に素麺を御供えしたり、また、暗くなってから提灯の火をたよりにお墓からご先祖様をお迎えしたりと、地域によって風習が違うようです。
 いずれにせよ、お盆は、ご先祖様方があっての私たちであることを改めて思い起こさせてくれる、ありがたい日本の仏教行事といえましょう。

八月
夏の夜の万灯会
 ここ國分寺では、毎年八月二十一日、夏の風物詩・万灯会(まんどうえ)が開かれます。
 日が落ちるころ、参道両側の石灯籠や本堂の軒に釣るした、たくさんの提灯(ちようちん)が点灯されます。提灯の下には、献灯申し込み各家の「先祖代々各霊菩提の為」と書いた短冊が取り付けられています。
 そして、晩の七時半から、本堂では結衆寺院方(けつしゆうじいんがた)による法会(ほうえ)が始まります。読経の中、参拝者一人一人、本堂東南角の縁に設えた施餓鬼壇(せがきだん)に進み、焼香のあと、水の子(洗米にナス、キュウリを采の目に切って混ぜたもの)を蓮の葉に供え、水を掛けて餓鬼に施します。最も身近にいて、人間界から功徳が廻向(えこう)されるのを待っているといわれる、餓鬼たちに向けて供養するのです。
 そもそも万灯会は、天平十六年(七四四)奈良平城京朱雀路(すざくじ)と金鐘寺(こんしゆじ)(後の東大寺)に一万杯の燃灯供養を行ったのが、わが国での最初とか。罪障を懺悔(さんげ)して、四恩(しおん)(父母・国王・衆生・三宝)に報いるために一万の灯明を献じる法会であります。
 私たちは誰もが、四恩のおかげで、人として命を与えられ成長し平穏に暮らしています。ですが、日頃そのことに思いいたらずに過ごしているのではないでしょうか。そこで、改めてその恩恵に思いをいたし、四恩をはじめ、生きとし生けるものに感謝の心を捧げるのです。
 お釈迦様の教えは、よく暗闇を照らす灯火に譬(たとえ)られます。私たちも、たくさんの灯明が法の導きとなって世の中を明るく照らし、生きとし生けるものが幸せであるよう祈りたいと思います。(全)


当山中興快範上人書『國分寺中興基録』 を読む⑤
『國分寺中興基録』快範書(五百籏頭(いおきべ)孝行氏解読)

「一、同長弐間 幅一尺五寸厚さ弐寸五分弐枚
   壱枚付拾匁五分宛 弐拾壱匁
           御物(ぎよぶつ)の上すがるはふ(縋破風(すがるはふ))
 一、同長三間半七寸角壱本
   弐拾三匁           御物のけた(桁)
一、同長壱間半五寸角弐本
   壱本付四匁弐分宛八匁四分   脇旦入用
 一、同長弐間半三寸に七寸の丁拾壱本 
   壱丁付九匁四分宛百三匁四分  本間のぬき(貫)
 一、同長弐間半弐寸五分に六寸の五分の丁六丁 
   壱丁付七匁三分宛四拾三匁八分     同断
 一、同長弐間三寸に七寸の丁拾六丁
   壱丁付六匁九分宛百七拾九匁四分    同断
 一、同長弐間三寸に七寸の丁拾六本 
   壱丁付五匁三分ツヽ(宛(つつ))八拾四匁八分  同断
 一、同長弐間弐寸五分に九寸の丁六丁 
   壱丁付六匁七分宛四拾目弐分  内陣廻り敷井
 一、同長弐間弐寸五分に三寸わり物百拾本 
   壱本付弐匁五分宛弐百七拾五匁
               けしゃうたる木(化粧垂木)
 一、同長弐間弐寸四分に弐寸七分五拾六本 
   壱本付弐匁壱分五り宛百八匁弐分  天井ふち(縁)
 一、同長壱間半弐寸五分に六寸五分わり物三丁 
   壱丁付四匁ツヽ拾弐匁     御物前入用
 一、同長壱間半三寸に七寸の丁六丁 
   壱丁付五匁六分宛三拾壱匁弐分 はふの前包入用 
                  同とびのお共に
 一、同長八尺四寸の丁弐枚 
   壱枚付五匁六分宛拾壱匁弐分  下陣地廻り
 一、同長壱間あつみ壱寸三歩板八間半 
   壱間付九匁宛七拾六匁五分   椽板(縁板)
 一、長壱間五歩板七間
   壱間に付き四匁宛弐拾八匁   床の上はり同
                けこみの板(蹴込板(けこみいた))共に
乄(しめて) 弐貫七百壱匁五厘     上方材木
       貫 万事板共に
  右は御作事屋御比官宮崎庄右衛門 同阿坂五右衛門
  作事や小頭小林太郎右衛門三人請相(うけあい)にて鞆材木屋の内  
  播磨屋理兵衛請取(うけとり)上方より下す福山より牛車弐百七拾
  五匁にて国分寺迠引(までひく)
   外に
 一、百八拾目(匁) 伊与(伊予)枌(そぎ)(枌板(そぎいた)・そいだ薄い木の
                    板、屋根を葺くのに用いる) 
                        弐百四拾束代   
 一、九拾八匁       檜木ふしなし  二丁 代
   合 弐貫九百七拾九匁五り
 一、五百七拾三匁 長弐間木 地山松木 弐百三拾七本
内百拾五本東中条村にて、くみ立足代木
   外は大屋ね 野けた(野桁) 野たる木(野棰木) う立(うだち、梲、卯建)共に 
 一、六拾四匁 長三間   引物三本代
 一、百五匁  長弐間   尾引(大引き、尾引き)
              同えんねた(根太(ねだ))共に拾六本
 一、三百六拾四匁五り 釘諸事鉄物代かち(鍛冶(かじ))五兵衛へ
            同六兵衛へ
 一、弐百七拾五匁     牛車代   長右衛門に渡す
 一、四百三拾目四分 たりかわら(瓦)代 久右衛門に渡す
 一、七拾三匁八分五り   作事こや竹
       本堂こまい竹(木舞・小舞)
       屋根土居ふせ竹共
 一、弐百六拾壱匁七分   木洩ふち方作領共に
 一、三拾六匁五分     こや入用のなわ
              本堂こまひ入用
              屋ねふせ竹まきなわ
 一、八匁         大なわ とう□き
              えりなわに成る
 一、拾八匁        かいるまた 木代 作領ふち方
 一、百六拾目       石代 石切 すえ前
        同かつら石 つき石共
 一、三拾壱匁       山野山木代
              日用銀同木の番礼銀共
 一、六匁八分       同平野山木切ふち方
       日用同木預け所礼銀共に
 一、弐拾壱匁       本堂壁もみすさ 
              同土仕半兵衛日用共に
 一、六百三拾壱匁九分   四歩板
              五歩板
           八歩板
            山野山松板代   
              同日用銀共に     つづく


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備後國分寺だより 第51号(平成31年1月1日発行)

2020年04月01日 07時17分12秒 | 備後國分寺だより
平成31年正月号(B5・16ページ・年三回発行)




〇正月から善行功徳を積む- 冬木弁天堂の思いで

正月、皆様はどちらかに初詣に行かれたことでしょう。このあたりですと、福山の草戸稲荷、岡山では最上稲荷に出かける人が多いと聞きます。草戸稲荷の隣には明王院という国宝の金堂と五重塔のある福山きっての名刹があるのに、こちらに参る人はごく一部の篤信家に限られているようです。

ところで、私はこの地に来る前には、東京の下町、深川七福神の一つ、冬木弁天堂に住まいしておりました。正月ともなれば、大勢の人たちが「深川七福神」と隷書で書かれた色紙を持って、それぞれのお姿の朱印をもらいにお参りに来られました。

冬木弁天堂は、当時は正月ともなると地元の富岡八幡の神輿総代会の方々や下部組織・睦会(むつみかい)の人たちが大勢お手伝いに来られ賑わいました。年末には大掃除をして正月の飾り付けをし、大晦日の晩から泊まり込みで皆さんお堂の番をするのです。

晩の十一時頃になるとちらほらと初詣のお参りの方たちが来だします。弁天様なのに、一つ前に富岡八幡の福禄寿を拝んでくる人が多いので、つい拍掌して手を合わす。そうすると必ず、「ここはお寺だから手を叩かなくていいの」と言って教える役員さんがいました。

色紙に朱印をもらうと百円。その上に納経帳に書き込みを頼まれる方もあり、そのときには他で用事をしていても、私が呼ばれて書いていました。
昼間お参りの人で狭い境内が一杯となり、お堂の中にも人で一杯になるようなときには、納経帳が、十数冊も積まれ、大忙しになります。色紙の他には焼き物の七福神の顔を七つ集めて笹に取り付けていく縁起物や弁天様の巳年ごとにお衣替えをするその衣を刻んだ布入りの肌守りも人気でした。

弁天堂のお堂の中には、現在の新しいお堂を再建したときの寄付額が掲示されています。ここ弁天堂の信者団体「開運講」の講員の芳名録ともいえるものです。その名前を見ていると町の名士から始まり、門前仲町の御茶屋さんの女将さん、芸者さん、富岡八幡の神輿総代、木場の材木問屋の旦那衆の名前がずらりと江戸文字で刻まれていました。

今ではおそらく門前仲町には芸者さんはおられないと思うのですが、一昔前には結構たくさんの方たちがおり、またその頃でも浜町など遠くからお参りになる芸者さんもありました。ですから、それより一昔二昔前には芸の神様ということで沢山の芸者さんや幇間(ほうかん)(男芸者)さんがお参りにこられていたようです。

弁天様は、もとはインドの神様で、サラスワティという河の神であり、河のせせらぎが音として美しいので音楽芸能の神となり、また作物を実らせることから五穀豊穣の神、そこから財宝の神ともなり、弁財天と書かれたりもするのですが、もともとはやはり辯才天と書いていたようです。

インドの神で仏教とともに日本に入ったものなのに、なぜか明治の廃仏毀釈の折には日本の神のように扱われ神社となっているところが多いのです。

日本三弁天の筆頭・安芸宮島の厳島神社もその一つで、そもそもの本尊八臂の弁天様は今では大願寺に祀られています。琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)弁天は西国観音霊場の宝厳寺に祀られているのですが、この後に記す江ノ島弁天は神社に祀られ、お寺は廃寺になってしまいました。

冬木弁天堂は、もともと江戸時代の材木商冬木屋の邸内にあったお堂で、冬木屋は紀伊國屋文左衛門や奈良屋茂左衛門と並び称される大商人でした。ただ彼らが派手に大尽遊びにうつつを抜かしているとき、冬木家は茶の湯を嗜み、尾形光琳(おがたこうりん)のパトロンとして、また後には弟の乾山(けんざん)をも支援したといわれています。光琳が筆をとり描いた国宝の冬木小袖は冬木家の奥方のために描かれたものであり、現在国立博物館に収蔵されています。

この冬木屋の弁天様は、裸弁天で、もともとは江ノ島の弁財天の座像を模刻したものだったと言われています。いまも裸の上に白衣と着物をお召しになっていますが、残念ながら現在の御像は琵琶を持つ立像です。正月の七日間と正五九、つまり一月五月九月の縁日・巳(み)の日に行われる大祭の時だけご開帳されていました。

大祭と言えば、前日には主だった信者さんの家にパック詰めの赤飯が配られ、いやが上にも皆さん御供えを持ってこざるを得ないような仕組みになっていました。当日は、近隣や長年の信者さんたちがお堂一杯に詰めかけて、沢山の御神酒が上がる中、萬徳院住職がご出仕になられ息災護摩を焚き、読経。講元を当時は渡辺さんという元建具師の方がされていて、老齢をおして、祈願をお申し込みの百枚近い護摩札を火にあぶっていました。

終わると、賑やかに会食が始まり、下町の歯切れのよい江戸言葉が飛び交う中、暗くなるまで宴会は続いたものでした。弁天様はお使いが蛇ということもあって、必ず卵の御供えが上がるのですが、大祭にも沢山のゆで卵を用意して、お供物としてお持ち帰りいただいていました。

もちろん行事でないときにも、毎朝お参りにられる人もありますし、お昼には狭い境内に置かれた長椅子に、向かいにあるビルからOLたちがお弁当を持ってきて食べていました。

毎日お参りに来られる元町内会長の奥さんがおられて、あるとき、毎日何を拝んでいるのか尋ねたことがありました。すると、「毎日?そうね、お嫁さんと今日も一日平穏無事でありますようにって拝むのよ」と教えてくれました。で、御利益はどうですかと聞くと、「まあ、ぼちぼちね」と。

東京の下町で、狭い家に二世帯が暮らすのですから、それはいろいろあったのでしょう。それからしばらくして、巳の日があり、午後護摩を焚いた後、ちょうどお参りになったその奥さんに、「最近はどうですか」と水を向けると。

「それがね、この間の突然の大雨の時、あちらの出ていた洗濯物を片付けてあげたのよ、そしたら、随分丁寧にお礼を言われてね。ついこの間、お二人も一緒にどうですかって、外に食べに行くから来いっていうのよ。どういう風の吹き回しかと思ったけど、そこはおじいさんと、ハイハイとついて行って、・・・」そんなやり取りを記憶しています。

お参りに来られる人の中には、定期的に沢山の卵やミネラルウォーターを御供えして行かれる人たちもありました。少ない手当の身にはそれがことのほかありがたく、きっと施主にはその後よいことがあったことでしょう。

冬木家も自分のためだけでなく才能ある光琳などを支援したからこそ、一代で終わった大店(おおだな)が多かった中にあって、何代にもわたって身代を相続し江戸末期まで存続できたのです。善因には善果。功徳を積めば必ず良い結果が現れます。因果応報、自業自得の世の中。さて、今年も正月から善いことをするといたしましょう。(全)


〇当山中興快範上人書 『國分寺中興基録』を読む①

延宝元年(一六七三)のこの地を襲った大水害の後、建物も何も流された國分寺に晋山し、今日のような伽藍を構想し造られていくのが、当山中興一世となる快範上人であります。三百二十五年前に現在の本堂が水野勝種侯を大檀那に再建されたあと、その当時の事々が快範上人によって『國分寺中興基録』(B5版和綴じ五十二頁)として記録され、その後國分寺資料庫に大切に保管されてまいりました。

この記録は、冒頭は漢文が続き大きな字で楷書で書かれていますが、途中から小さな草書かな交じりの和文となり、古文書を読める方でないと解読できないものでした。ですが、なんとか解読したいと念願しておりましたところ、古文書の会で長年研鑽を積まれた五百籏頭孝行(いおきべたかゆき)氏が平成二十二年四月に國分寺に入檀され、一昨年より菅茶山記念館古文書講師になられました。

そして、そのお忙しい貴重な時間を費やして、この度、この快範上人書『國分寺中興基録』を見事に解読下さいました。誠にありがたく改めて感謝申し上げ、筆記いただいたものを少しずつではありますが活字に換え連載してまいりたいと考えております。是非一字一句味わいつつお読み下さい。(全)

『國分寺中興基録 快範書』(五百籏頭孝行氏解読)

「山陽備後の國、安那郡下御領の郷、唐尾山国分寺と者(いつぱ)、三密瑜伽(さんみつゆが)の精舎一國不二の霊崛(れいくつ)なり。昔日(そのかみ)御門(みかど)坐(おわし)ます。聖武皇帝と号(なつけ)奉(たてまつ)る。信身堅固の胸の中(うち)には佛像を造り、金陵(こんりよう)の御袂(たもと)には泥土を運び、精舎を建つ。一天泰平の為には、日域に於いて六十六箇寺の御誓いの寺を立て国分寺と号し、天平九年御草剣(創建)なり。本尊は東方浄瑠璃世界の教主藥師如来尊像なり。抑(そもそも)諸佛如来の本誓悲願区々(まちまち)になるといえども、勝而(すぐれて)この尊は十二の大願を立て、像法転時の衆生を憐れみ、手持ちの一壺には理智教の三薬を収め、一切衆(生)の病患を救い、種々の善功を廻らし、末法像(法)時の群迷を利益(りやく)し、日月の二大士は昼夜を守護し、十二神将(じゆうにじんしよう)は二六時中を警固し、八万四千の夜叉眷属は衆生念々の中を鑑み、現在有餘の栄福を授け、当来数千蓮華の上に坐さしめ、本有不生(ほんぬふしよう)の得果をあたへ、利生広大なること翰墨(かんぼく)に尽くしがたし、是(これ)を以て諸佛の能生諸神本地万法の根元、衆生の父母眼前の理なり。(経)文(もん)に曰く、我此名号(がしみようごう)一経其耳(いつきようごに)衆病悉除(しゆびようしつじよ)信心安楽(しんじんあんらく)、此の文の如くんば、尊重するに足(あきたら)ず、一念信仰の輩は寿算久しく霜を重ね、随縁真如(ずいえんしんによ)の水澄みて、五智円明(ごちえんみよう)の月、影を移し、即身成仏の御(おん)結縁(けちえん)疑い無し。

右是(みぎこれ)迄(まで)寺号本尊の縁基をしるすものなり。是より寺の威義を記す

抑(そもそも)当寺国分寺は西(国)三十三ヶ国打札御納経申す最初の霊地。古来、越え聞く内外の坊舎十二ヶ寺にして佛法繁栄の砌(みぎり)なれども時代不信なれば信徳も次第に劣し、寺領の分米ありといえども、乱世の兵災、又は時の国司、是(これ)を取上げ、又は度々焼失して、其の威義次第におとろへおわんぬ。

爰(ここ)に、永禄五年癸酉(みずのととり)(正しくは壬戌(みずのえいぬ)) 三月当寺兵乱の為、焼失してける時、当国神辺の城主杉原播磨守(はりまのかみ)盛重公、伽藍焼滅の跡を見たまいて、安那一郡分米集銭を以て、本堂七軒四面の草葺(くさぶき)に御建て之れ有り。其れより本堂小破の修覆の時節は安那一郡より集銭する事度々に及べば、寛永十九年丙寅(ひのえとら)(正しくは壬午(みずのえうま))歳に至って、本堂草屋ねの故に霊(零)落に仍(よ)って、七軒四面を五軒四面にして瓦葺きに再興す。年月久しくして、延宝元癸丑(みずのとうし)の年五月十四日洪水の時大原の池切れ、寺院悉く流れうせ、本堂は残るといえども内陣外陣のしとみ(蔀)打ち破れて、本尊を初め諸尊悉く泥土に埋もれ、方々より尊躰をひろひ、かつぎもてきたり、破堂にかりに松の木板を以て、かこいとして荒れたる尊躰をかくし置けり。此の時、俗家数十軒人の死ぬる事六十三人老若男女なり。是より此の院住僧無住にして六年なり。

一当寺住侶某甲(なにがし)生まれたる所は、当国大橋村高田氏の末葉なりしが、出家に望み深く、備中有田村小田原山教積院(きようしやくいん)にて、玄海法印剃髪(ていはつ)の弟子となり、福田村福性院に住職するといへども、当寺無住に依って郡奉行(こおりぶぎよう)神谷九郎兵衛、同豊田九郎左衞門、宗旨奉行豊岡彦四郎対談して本寺明王院宥仙上人に届けて曰く、国分寺の儀、只今寺も之れ無く、本堂も大破に及び、御佛も之れ無く候(そうら)へども、寺号旦那も絶へず、一国一寺の札所なり、福性院を以て彼の住寺に然(しか)る可(べ)き旨(むね)達(たつし)ていわれける故、無住六年目、午(うま)の歳四月廿六日に当寺に移り来るなり。

然(しか)るに、当地に渡りて見るに本堂は四方に一枚の戸もなく、椽(たるき)より軒の下板まで泥土にぬれ敷板所々に打ち付けて、旦(だん)上には松の木板を以て藁(わら)なわにてかこひ、ゆいぶし(結い節)の間より御佛を拝するに、尊躰続いる所もなく、深山埋木枝なきがごとく成るを一間の旦(だん)になげこみて有り、扨々(さてさて)、有るべき事にこそかかる御ありさま、ぢょくせ(濁世)の今といいながら、おそろしき事共(ことども)かなと、なみだながらに拝し奉る。それより菴(あん)に至って見るに、よもぎう(蓬生)のしげれるやどに雨もりて、月のさすべき、まどもなく、むぐら(荒れ地野原に繁る雑草)しげりて、草深く、いさご(砂子・すな)びょうびょうとして、はまどりのねやをもとむる一こえも、只しんしんとして、あわれにも心をもよおし、夜に入りては佛旦(ぶつだん)に至って読経えかふ(回向)事(こと)おはり、ふけ行くそらの月をだに、ながふる事も、なつの夜に蚊虻のこへ、雷をなし事とふ夜すがのともとては、田面(たのも)の蛙こえそえて、のきねになきし厄蛙の外(ほか)はなし、我つらつらおもひけるも、うれしきすまいかな、ほうねんぐそく(法縁具足)の心もなし、藁筵(わらむしろ)六枚は。」   つづく


〇大法輪平成30年9月号 特集 仏教でやってはいけない10カ条 掲載

日々のお勤めでやってはいけない10カ条

①灯明の火は息で吹き消してはいけない
日々のお勤めをするとき、仏壇の前に座り蝋燭に火を灯して、お線香をつけて香炉に挿し、お勤めいたします。

そして、終われば灯明を消すわけですが、普通は小さな柄杓のような火消しを上からかぶせて火を消したり、掌で軽くあおいで消していることでしょう。ですが、時に急いで、ふっと息を吹いて消してしまうということもあるかもしれません。

その時、強く吹いてしまうと、溶けた蝋が周りに飛び散り、仏壇や仏器に落ちることもあるでしょう。飛び散った蝋は掃除しにくく、いつまでも跡が残るものです。きれいな仏壇、荘厳のためにも息で吹き消すことは厳禁にしたいものです。

人の息は、汚れ不浄であるから仏様に失礼にあたるので息を吹きかけて灯明を消してはならない、との受け取り方もあるようです。が、浄不浄の分別を超えた空の立場からは、決して人の息が汚れていると決めつけることもできません。

灯明とは仏様の智慧に喩えられます。仏様の智慧は、灯明が暗闇の中で足元を照らし進むべき方向を示してくれるがごとく、真実を照らして煩悩を断じ、仏菩薩を生み出すもとになるものです。仏様がそこに立ち現れるとの思いで火をつけ、消すときも心して行いたいものです。

②御鈴は乱暴に叩いてはならない
お勤めは何のためにするのでしょうか。ご自分も含め家族みんなが幸せに過ごし、ご先祖様方に感謝を捧げる行為としてあるならば、お勤めの内容にかかわらず心静かに念じるものであり、御鈴もそれに相応しく音を出すべきでしょう。

乱暴に叩くという行為に至る心はいかなるものかと推察しますと、心に余裕なく、朝御供えして御鈴を叩き、すぐに他の用事に取り掛かることに心が向かっているような場合でしょうか。

家族中に御鈴の音に触れてもらうにはよいかもしれませんが、乱暴に叩いた音に日頃のストレスのはけ口を感じさせたり、しなくてはいけない不満を感じるさせるようなら逆効果と言えます。やはり御鈴はきれいな音で、家族に安らぎを与えられるように鳴らして欲しいと思います。

③水を何日もかえないのは良くない
お供えとは何でしょうか。仏様には水の他にも灯明・花・香・飯食(おんじき)・塗香(ずこう)などを御供えします。これらを六種の供養と申して、先ずお勤めの前にはこれらのお供えを済ませてから、礼拝しお勤めするのが順序であります。

この供養という言葉の原語プージャー(puja)には、供養の他に尊敬、礼拝という意味があり、敬うべき尊いお方だからこそ御供えし礼拝するということになります。心の中で敬い尊敬していたらよいというものではありません。形に表すことが大切であり、それが供養です。

仏壇の仏様ご先祖様方は、尊いありがたい存在であり、そうして今私たちがあると思えるならば、私たちが毎日の生活に欠かせない飲み物食べ物を摂るのと同様に、少量ではあっても毎日お供えして感謝の心を表すのが本来であろうかと思います。

しかし、毎日かえなければ何か悪いことが起こるというようなものではありません。感謝の心を伝える尊い行為、徳を積む折角の機会が失われたとお考えになったらよいかと思います。

④トゲのある花を供えるべきではない
花は、どなたに差し上げるものでしょうか。花を仏様ご先祖様方に供えるものなら、花の向きはあちら側に向けるところですが、花はふつうこちら側に向けてお供えします。なぜなのでしょうか。

たとえば、灯明も線香も、仏様にと思ってお供えしても、こちら側にも明かりが届き香の香りも室内に広がります。仏様にお供えしたものが私たちにも、仏様の側からその恵みが還ってきていることになります。また、それによって仏様の世界がそこに現出している様を目の当たりにすることになります。花も同様に仏様の世界を表現する、飾るという意味合いから、こちら側に向けて供えられるのでありましょう。

仏様ご先祖様方に差し上げ、その仏様の世界が現れるところに、トゲのある花、毒のある花などを差し上げるのは、やはり控えるべきでしょう。たとえ綺麗な花であっても、仏様の世界をトゲや毒あるものとすることになります。お供えするときに、トゲで怪我をしないためにも避けたいものです。

⑤仏壇の主役は先祖ではなく本尊であることを忘れてはならない
仏壇とは何なのでしょうか。たとえば、息子さんなりお孫さんが外国人の友達を連れて家にやってきたとして、どうぞと案内した奥の間に仏壇があり、その外国人の友達が「これは何ですか」と尋ねたら、なんと答えるでしょうか。

たとえば、これは「マイ・ファミリー・ブッディスト・オールター(My Family Buddhist Alter・直訳すると、わが家の仏式祭壇)」です、と答えたとすると、「そうですか、こちらの家は仏教徒の家なんですね」ということになるでしょう。

ということは、仏壇とは仏教徒のシンボルであると考えられます。そうしますと、仏壇とは御先祖様のおられるところではありますが、まずは一番上の上段中央に本尊として祀る仏様のために設えた場であるということになります。それは私たち仏教徒の理想であり、敬い礼拝する対象として祀られたものと言えます。

そうした神聖な場に、御先祖様方も仏になるべく精進されているものとして、仏壇中段に位牌として祀られているのです。

そして、私たちも、いずれその仲間に入り位牌に祀られ、仏になるべく生まれ変わり、ともに精進を重ねていく存在であることも忘れてはならないことでしょう。

⑥読経は近所迷惑になるほど大声でするべきではない
昔高野山の専修学院に学んでいたとき、ある日の夕方のお勤めで、八十人もの学生が真面目にお唱えするお経に倍音が発生し、まるで天界の音楽のような、心地よい様々な楽器の音色を聞くことができました。

お経はよどみなく雨だれの落ちるようなテンポで淡々とお唱えするものと教えられたことがあります。またお経は耳で読めとも言います。一人で読むときも大人数で読むときにも、お経の声をきちんと聞きながらお唱えするものです。そうして何人かで同じテンポでお唱えしておりますと、唱えるお経のきれいな音の波動が倍音となり、心地よい法悦の境地を味わうことができるのです。

あまり大声で唱えてはお経を聞くどころではないでしょう。一人で唱えるときにも、時と場合に応じて適度な大きさ速さでお唱えし、自分の声を聞きながら心清まるようにお唱えしたいものです。

⑦読経は経本を見ずにするべきではない
そもそもお経は何のために唱えられるのでしょうか。仏様に向かってお唱えしますが、仏様はそのお経を説法されたお方であることを考えれば、仏様のためにお唱えしているのではないことは明らかです。

仏様の前で、改めて仏様の教えられた言葉を自ら唱えながら聞くという行為は、すなわち仏様の説法を追体験していることになります。

その経典を暗唱していることもありましょうが、教えを学ぶためには、やはり経本を手にとり、文字を確認しながら読むべきでしょう。
難しい漢字を読みながら精神を集中すると、余計な雑念が湧くことがありません。そうしてリズムよく唱えるお経には、脳の中のストレス解消になり幸福感をもたらすセロトニン神経の働きを高める効果があるそうです。

お経に慣れて、そらで読んでいる方もあるかもしれませんが、心は上の空ということにならないよう、しっかり経本を手に雑念なく読経したいものです。

⑧数珠はあまりジャラジャラと擦るべきではない
昔、インドのヨーガの聖地リシケシに巡礼した折に見た、行者さんの神々しい姿が思い出されます。ガンジス河岸の大きな岩の上に座り、数珠を爪繰りながら、ずっとマントラ(真言)を唱えていました。

数珠は擦るためではなく数をカウントするためのものです。インドのマントラを唱える行者さんのように、何千回何万回と真言や念仏を唱えるときに数珠を爪繰ることで、きちんと唱えた数を数えられるように工夫された数取りの道具です。

数珠は一般に、百八の子珠と大きな親珠が二つ、親珠からは房が取り付けられ、その基に小さな弟子珠が十ずつついています。

真言を一回唱えて子珠を一つ爪繰り、一巡して百八回で百返と数え、弟子珠を一つ上にずらします。弟子珠を十すべて上にしたら千回となりますから、もう一つの親珠の房にある弟子珠を一つ上にして、それを十回繰り返すと一万回数えることが出来るのです。一万回以上数えるときには一万回数えたら小石を一つずつ置くのだとか。

ところで、数珠を擦るようになったのは、我が国でずいぶん時代を経て、堂外でお勤めをしたお坊さんたちが、唱える真言の終わりを知らせるため、数珠を擦って知らせたのが始まりと聞いたことがあります。

⑨だらしない恰好でお勤めするべきではない
僧侶であれば、衣を着て袈裟をまとって堂に入りお勤めいたします。袈裟は仏僧との標示であり、本来身なりを飾るなどの執着を断つために着されます。つまり心を調え修行に専心するためにあると言えます。

心さえしっかりお勤めに向かっていたら着る物など何でも良いと思いがちですが、やはり心をお勤めに向かわせるためには姿形も大切です。普段着で結構ですが、少なくともだらしないと自分が思うような恰好は控えるべきでしょう。

身なりを整え、背筋を伸ばし、合掌礼拝して、経本を持つならば、自ずから心落ち着き、よいお勤めができることでしょう。

⑩お勤めの終わりには、功徳の回向を忘れてはならない
私たちがつつがなく生きられているのは、四つのもののお蔭であると、仏教では考えます。それは四恩と言い、父母、衆生、国王、三宝の四つです。

父母のお蔭でこの世に生まれ、衆生の営みによって衣食住に事欠くことなく、国王(国家)あることによって安心して暮らすことができ、そして三宝に心の教えを学び、人としてより良く生きることができるのです。そうした恵みに心を配りつつお勤めいたしたいものです。

お勤めの功徳は唱えた人にあります。その功徳を自分だけのものにすることなく、恵みをいただいているとの感謝の気持ちを表し、周りの人たち、生きとし生けるもののためにふり向ける、つまり回向することでより大きな功徳となり、それがまた自分に還ってきます。

急いでお勤めするようなときであっても、少なくともお経の終わりには、「願以此功徳(がんにしくどく)・普及於一切(ふぎゆうおいつさい)・我(が)等与衆生(とうよしゆじよう)・皆共成仏道(かいぐじようぶつどう)」と回向文を唱え回向いたしたいものです。  (全) 


〇本堂の両部曼荼羅について

昨年八月、下の写真にあるように、大覚寺所蔵の両部曼荼羅(複製)を國分寺本堂にお祀りしました。約百六十㎝四方の額装仕立で、壁の上から下まで覆っています。

この両部曼荼羅は、昨年十月に京都大覚寺で嵯峨天皇御宸筆(ごしんぴつ)の勅封(ちよくふう)般若心経が御開封され法会が行われますのを記念して、特別限定にて複製されたものです。大覚寺で伝法灌頂(でんぽうかんじよう)など大切な儀式に際して荘厳として設えられる曼荼羅であり、仏様の衣などの特徴から江戸時代の製作ではないかと推定されています。明るい色使いで、一尊一尊の仏様も大きく、名前がすべてに標示されています。

そもそも、曼荼羅・マンダラとは、インドの言葉で、円、球形、輪、軌道、壇、集団、本質などを意味します。神さまをモチーフに円や線を用いて描いた幾何学的な図像をインドではマンダラと称してヒンドゥー教などで広く用いられてきました。

仏教徒にとっての究極の目的は悟りですが、悟り、ないし悟った人を言葉や図像で表現することは出来ないとされてきました。しかし時代を経て、仏像が現れ、お釈迦様以外にたくさんの仏様を発生させる教えが生まれていきます。その仏様方を教えに基づき規則的に配置することにより集合的な仏様の世界観ができていき、さらに仏様の悟りの世界を具象化して表わす曼荼羅が誕生しました。それは実際に修行者が前に置いて観想し瞑想修行する対象としても用いられるものでした。

弘法大師が唐から持ち帰られた曼荼羅に、胎蔵曼荼羅、金剛界曼荼羅があります。これを両部曼荼羅といって、真言宗寺院では一対として御堂に祀ることになっています。この度本堂に祀られた曼荼羅も大覚寺所蔵の金胎一対の両部曼荼羅であります。

胎蔵曼荼羅は、その名の如く母胎が胎児を守り育み、月満ちて元気な子を生み出すように、如来が大慈悲により生きとし生けるものを産み育て、さらに仏心をその子の心に育成していく如来の大慈悲の本質を表しています。 

そこで曼荼羅の中央に、大慈悲を表す蓮を描き、その中心に大日如来、八葉の蓮華の上に四仏(宝幢仏(ほうどうぶつ)・開敷花(かいふけ)王仏(おおぶつ)・無量寿仏(むりようじゆぶつ)・天鼓雷音仏(てんこらいおんぶつ))と四菩薩(普賢菩薩・文殊菩薩・観音菩薩・弥勒菩薩)を配しています。これを中台八葉院(ちゆうたいはちよういん)と言い、左図のように、その周りを持明院、遍知院、釈迦院などと名付けられたグループ分けされた二百尊を超える仏様方が縦横に四重に取り囲む構造になっています。

大慈悲を智慧と慈悲に分けて展開し、教えをこの世に実証されたお釈迦様とその弟子たちの集まりや、その智慧の目を開くための仏様方、自我の執着を取り除く仏様方、またいかなる苦難をも耐える仏様方、宇宙大の福智を身につけた仏様方など内から外へと大慈悲の仏心が展開されていく様子が描かれています。

次に、金剛界曼荼羅は、金剛石の如くに堅く、何ものにも砕かれることのない、大日如来の永恒に不滅の宇宙大生命そのものを表しています。そのいのちは白色の円、白浄の満月輪(まんがちりん)によって表現されており、そこにはすべてを包み込む永遠なる命と、生きとし生けるものに平等に価値あるものを与え、それぞれに適切な慈愛を以て育み、それぞれに応じた働き行動を起こす四つの智慧がそなわるとされます。

金剛界曼荼羅は、普通縦横三つずつに分け全体で九つの区画に分けられた九会になっていますが、この度の大覚寺所蔵の金剛界曼荼羅は、九会(くえ)の中心をなす成身会(じようじんね)という区画のみを大きく拡大させた一会(いちえ)の金剛界曼荼羅です。左図のように、大きな白い円・月輪(がちりん)の中に、中心と上下左右に五つの月輪があり、それぞれの中にさらに五つの月輪が描かれています。

中心には、四人の波羅蜜菩薩に取り囲まれた大日如来が位置し、この曼荼羅では東にあたる下部には阿閦如来、南にあたる左側には宝生如来(ほうしようによらい)、西にあたる上部には無量寿如来、北にあたる右側には不空成就如来(ふくうじゆうじゆによらい)が位置しており、これら四仏の上下左右にそれぞれ四菩薩が配され、つごう十六の菩薩たちが取り囲み、それぞれの如来の徳を成就する役割を与えられています。

中心の大日如来の悟りの智慧が四仏に展開し、その四仏がそれぞれ四菩薩を生み、さらに大日如来と四仏とが供養し合い、大日如来の大生命が限りなく開き広がっていく様子を七十尊余りの仏様方によって表しています。そして、それはすなわち万物が相助け合い尊重し合い繁栄するという宇宙全体の理想的な姿を示すものでもあります。

曼荼羅の中に描かれた仏様は様々で、よく存じ上げている仏様もありますが、聞いたこともない難しい名前を持つ方も大勢おられます。

國分寺のご本尊お薬師様は、釈迦如来と同体とのことで、残念ながらこの両部曼荼羅の中にはおられません。釈迦如来は、胎蔵曼荼羅の中台八葉院の上二段目に釈迦院があり、その中央に四尊の侍者に囲まれ、説法の印を結び蓮華にお座りになっています。

お薬師様の脇侍の日光菩薩は、胎蔵曼荼羅地蔵院の一番下、月光菩薩は、胎蔵曼荼羅文殊院の左中央に描かれています。

各家の仏壇の本尊様である大日如来は、胎蔵曼荼羅では、中台八葉院の中心に位置して五仏の冠(かんむり)を戴き髪を垂れ、条帛(じようはく)という布をまとう菩薩形で、臍の前に右の掌を左の掌の上に置き両親指を軽く着ける法界定印(ほうかいじよういん)に住しています。

金剛界曼荼羅では、中央の月輪の中心に位置し、五仏の冠を戴き結髪を肩に垂れ天衣(てんね)を肩から腰にめぐらし、胸の前で上に伸ばした左手の人差し指を右手の五指でまとう智拳印を結んでいます。

また、阿弥陀如来は、無量寿如来との名で、胎蔵曼荼羅では中台八葉院の西にあたる下の八葉に描かれ、金剛界曼荼羅では中央大日如来の月輪の西にあたる上の月輪の中心に描かれています。両手の親指人差し指を着けて臍の前で左右を合わせる弥陀の定印(じよういん)を結んでいます。

不動明王は、胎蔵曼荼羅の中台八葉院のすぐ下の持明院の一番右に大きな火焰に取り巻かれたお姿で描かれ、観音菩薩は、胎蔵曼荼羅中台八葉院の八葉の中の北西にあたる左斜め下に描かれています。

観音菩薩はこの他、釈迦院、文殊院にもそれぞれ主尊の脇侍として描かれている他、中台八葉院のすぐ北にあたる左の蓮華部院には、聖(しよう)観音、如意輪観音、不空羂索(ふくうけんじやく)観音、馬頭(ばとう)観音、白身(びやくしん)観音など変化(へんげ)観音二十一尊が描かれています。

このように個々に見ていっても誠に興味深い曼荼羅ではありますが、それぞれ迫力ある曼荼羅全体から発せられるメッセージ、あるいは力を受け取っていただくことも一つの鑑賞の仕方ではないかと思います。美術作品ではありませんが、どちらが好ましく思われるかといった見方でもよろしいかと思います。

胎蔵曼荼羅は仏様の慈悲の温もりを表現しています。大きな曼荼羅の前に立ち、あたたかい母胎から生まれ出るようなやさしい慈悲の息吹を感じてみてください。悩み事があったり、心ふさがれ落ち込んでいるようなとき、この曼荼羅を眺めているだけで、ふと心晴れやかに穏やかになっていることに気づかれることでしょう。

金剛界曼荼羅は仏様の智慧の輝きを表現しています。大きな月輪の仏様方を前にすると、自然とそれらが立体的に躍動する様子が立ち現れてまいります。日々の生活に疲れ、力失っているようなとき、またこれからどうしたらよいか展望を見失っているようなとき、この曼荼羅を心に思い描くだけで、心の中に確たる力がみなぎってくることを実感されることでしょう。

私たちはみんな、一人ひとりいずれは仏になるために尊いいのちを授かっています。未来の自分がそこにあると思い、しばし目を閉じ、曼荼羅の中にいる自分を思い巡らしてみるのも面白いかと思います。是非お参り下さい。 (全)


〇万灯会連続法話『死ぬと生まれ変わる んですか?』前編

昨年夏の殊の外暑い猛暑に責任を押しつけるわけではないが、万灯会参加の四ヶ寺の法話を担当するとなっても、何も頭に浮かばず、初日から法会後皆さんに何か質問があればと問うてみることになった。

初日のお寺には丁度中学生がお参りになっており、その子から早速に「餓鬼とは何ですか」と質問がいただけた。何も質問がなければ、お施餓鬼の作法をお参りの方々にもしていただいているので、そのあたりのことでもお話しようかと思っていたところだったので、ありがたい質問であった。

「餓鬼とは、私たちのような身体を持つことなく、心だけの存在で、暗いところで、私たちのすることを見ていて、何か食べていたりすると物欲しそうに指をくわえて見ていたりするのですが、姿はとても醜いと言われています。私たちも死ぬ瞬間に暗い心で死ぬと餓鬼になると言われていて、生前自分さえ良くありたいと人をうらやみ妬んだりしていると死ぬときにも暗い心で亡くなる、そうすると餓鬼になると言います。

私たちは亡くなると、お釈迦様のようなお悟りを得ていないと、六道に輪廻するといって、六つの世界、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天のどこかに生まれ変わります。生前の行いによって、それに培われた心にしたがってどこかに転生すると考えられていますが、皆さんのようにこうしてお寺に来て徳を積み、勤行次第にもある十善をまもる生活をしていたら人間界以上の世界に転生するとされています。

間違っても地獄や餓鬼の世界に逝かないように、常にみんなと共に良くあるようにと明るく、何があっても思い詰めたりせずに暗くならないように生活することが大切です。

昔お釈迦様の時代に、ある王様の妃が若く死んで餓鬼の世界に転生したのですが、そこで、生前の自分のたくさん徳を積んだことを思い出して、自分は何でこんな所に来たんですかと思った、その瞬間に兜率天(とそつてん)に転生されたというお話しもあります。

その方は、お坊さんに食事の供養をし、その後いろいろな法話を聞くことが何よりの楽しみだったということです。皆さんも、万が一餓鬼界にいったら、生前の功徳、善いことをしたこと、お寺に沢山の寄付をしたことなどを思い出して、自分は何でこんな所に来たんですかと思えるように、自分のなした沢山の功徳をよく憶えておかなくてはいけないということです。

それで、今日の施餓鬼の作法は、洗ったお米にナス、キュウリを采(さい)の目に切って混ぜ併せた水の子を蓮の葉に盛り、そこに樒(しきみ)の葉で水を掛けて供養しますが、これは餓鬼は私たちが食べるご飯をそのまま食べることが出来ないため、わざと腐らせたようにして餓鬼に供養しているわけですが、無数にいるとされる餓鬼の供養は誠に大きな功徳があり、その功徳を御先祖様、近くに亡くなられた精霊の菩提の為にふり向ける、回向(えこう)する法会がこの施餓鬼会ということになります。」

次に、「悪霊と浮遊霊の違いについて教えて下さい、以前夜中に家に白い三角巾を頭に巻いた人が立っているのを見たことがあるのですが・・・」という質問があった。

「悪霊と言えば、人を恨み、憎んで亡くなった人の霊が、ずっとこの世に、それも特定の人の周りにとどまって悪さをするような霊のことで、浮遊霊は、亡くなっても、それが急な事故であったり、人知れず亡くなったりして葬式もしてもらえず、死んだこともわからずにこの世にとどまっているような霊のことです。

そうした霊は見える人にたよるところがあり、ちょうど貴方がその頃見える状態にあり、現れたのだと思いますが、私も高野山にいた頃同室のお坊さんが霊が見える人で、ある晩に寝苦しく夜中起きたことのあった翌朝、その方から、昨晩白衣を着た坊さんの霊が貴方の顔を覗いていきましたよと教えてくれました。

また、お施餓鬼という夕方暗くなってからする作法の最中には、ちょいちょい白衣を着た霊が来ていたと聞いています。ですから、沢山そうした浮遊霊はいるのですが、見える人を頼って姿を現すようです。今はもう見えないのなら寄ってきませんから安心してお過ごし下さい。」・・・つづく


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