足かけ4年目を迎える朝日新聞愛読者企画。今年最初の「日本の古寺めぐりシリーズ」は初めて山陰へ足を向ける。山陰は古代の海洋交渉により大陸からの隠れた文化移入の地と言われ、古い仏像や大陸から伝えられた文物が豊富なのだと聞いたことがある。3月9日、まだ寒い日和ではあるかもしれないが、知られていないそうした文化財の宝庫としても名高い鰐淵寺、そして臨済宗の古寺華蔵寺、二か寺に参詣する。楽しみにしたい。
二か寺とも備後国の北隣出雲国にある。出雲は、肥沃な出雲平野を背景として古代から発展し、特に弥生時代以降は、県内最大規模の古墳を造る大きな勢力が存在した。記紀神話において、日本の国生みの神イザナギ、イザナミのうち、黄泉の国から蘇りをして禊ぎをしたイザナギの鼻から生まれたとされるスサノオは出雲を舞台として主役を演じる。
姉の太陽神・アマテラスが、高天原、葦原中津国を治めるのに対して、風雨の神(荒ぶる神)スサノオは、そこでいろいろな乱暴を繰り返す。するとアマテラスが天の岩戸に隠れてしまうということがあって、ついにスサノオは追放されてしまう。その地が、根の国、闇の国つまり出雲だったわけだが、こちらに来るとなぜか一転して、スサノオは八岐大蛇伝説のような英雄になっていく。
そして、スサノオの後に子のオオクニヌシが登場して出雲の国譲り神話となっていくが、これは、大和朝廷という大王(おおきみ)の勢力に、鉄の産地で青銅器や鉄器を造る技術を持った出雲の一族が服従させられた、その一族が伝えてきた神話や伝承を再編集して神話にしたものだと言われている。
つまり、中央に匹敵する大きな勢力がもともとこの出雲にはあったのだけれども、しかしより大きな国を構想していた大和の天皇の一族との様々な諍いの結果和解をしたということを表しているという。おそらく大和朝廷が形成されていく3世紀4世紀の頃の実際にあったそうした歴史を後に神話にしていったのであろう。出雲の地は、古くから栄え、そういう物語伝承を大切にする精神性を併せ持った土地柄だといえよう。
鰐淵寺(がくえんじ)について
島根県出雲市にある天台宗の寺院。山号は浮浪山。中国観音霊場第25番札所、出雲観音霊場第3番札所、出雲国神仏霊場第2番札所。開山は智春上人、本尊は千手観世音菩薩と薬師如来の二体。
鰐淵寺は、推古天皇2年(594)信濃の智春上人が当地の浮浪の滝に祈って推古天皇の眼疾が平癒したことから、同天皇の勅願寺として建立されたという。推古2年というのは、日本最初の官寺である四天王寺創建の翌年であるから、つまりそれだけ当時この地が中央に匹敵する精神文化と経済力とがあったことを示している。
寺号の鰐淵寺は、智春上人が浮浪の滝で修行している時、誤って滝壺に落とした仏像を、鰐がその鰓(えら)に引っ掛けて浮上したとの言い伝えから名付けられた。ここで言う「鰐」はワニザメを指すという。山陰には近年にもサメの被害が報告されている。因幡の白兎の神話にも残るサメは当時は結構見られたものなのだとすると、サメのきわに位置する寺との意味だったのかもしれない。
ところで、鰐淵寺の所在する島根県や隣の鳥取県は修験道・蔵王信仰の盛んな土地であり、鰐淵寺も浮浪の滝を中心とした修験行場として発展したと言われる。修験道の開祖である役の小角は634年の生まれと言われているから、その前から、山岳霊地を他界と見なして跋渉して自然の霊跡を拝み、超自然の霊力や呪力を体得しようとする人々の一群があったであろう。
この地は古く栄えていた出雲も近く、そうした人々の集まる霊地として格好の地であったのではないか。後白河法皇の『梁塵秘抄』に収録された今様(はやり歌)に「聖の住処は、何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御碕、南は熊野の那智とかや」と歌われており、平安時代末期頃には修験行場として日本全国に知られていたことが分かる。
だから、鰐淵寺の草創期の信仰の対象は、役の小角が金峰山にて感得した金剛蔵王権現であったと言われる。出雲の地には蔵王権現を本尊とする寺院が点在していた。悪魔を降伏する形相を示す蔵王権現は、身体は青黒く、眼は怒り髪が逆立ち歯は牙のように尖っている。右足は蹴り上げたような姿。過去現在未来の三世において私たちを救う力強い神として信仰を集めた。
その後、奈良平安にいたり、仏教が組織化して宗派を生む時代となり、おそらく修験者たちの教義の基となる教えとして求めたのであろう、806年に立宗された天台宗、比叡山の最澄の法門に帰依して、鰐淵寺は最初の天台宗末寺になっていた。その後、中国の唐に行き10年間も各地を巡錫した慈覚大師円仁(天台第3世座主)が筑紫から山陰をぬけて帰るときに参籠。今日の本尊でもある薬師如来と千手観音を刻んで本尊とした。
また法華堂、常行堂を造り、一山衆徒に法華三昧、常行三昧の法を伝えたという。法華三昧とは、法華懺法とも言い、諸仏を勧請して礼拝し、六根の罪を懺悔して法華経を読誦して行道する21日間の行法。常行三昧は、7日ないし90日間、阿弥陀仏のまわりを歩きながら念仏を唱え心に弥陀を念じる行法。
ところで、平安時代末期までの鰐淵寺は現在地のやや西寄りの唐川にあったという。これに林木(はやしぎ)の薬師如来を本尊とする寺院が吸収された。以後、鰐淵寺は千手観音を本尊とする「北院」と薬師如来を本尊とする「南院」に分かれることになる。つまりは円仁はこの地の別々の寺に二体の仏像を納めたということなのであろう。つづく
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二か寺とも備後国の北隣出雲国にある。出雲は、肥沃な出雲平野を背景として古代から発展し、特に弥生時代以降は、県内最大規模の古墳を造る大きな勢力が存在した。記紀神話において、日本の国生みの神イザナギ、イザナミのうち、黄泉の国から蘇りをして禊ぎをしたイザナギの鼻から生まれたとされるスサノオは出雲を舞台として主役を演じる。
姉の太陽神・アマテラスが、高天原、葦原中津国を治めるのに対して、風雨の神(荒ぶる神)スサノオは、そこでいろいろな乱暴を繰り返す。するとアマテラスが天の岩戸に隠れてしまうということがあって、ついにスサノオは追放されてしまう。その地が、根の国、闇の国つまり出雲だったわけだが、こちらに来るとなぜか一転して、スサノオは八岐大蛇伝説のような英雄になっていく。
そして、スサノオの後に子のオオクニヌシが登場して出雲の国譲り神話となっていくが、これは、大和朝廷という大王(おおきみ)の勢力に、鉄の産地で青銅器や鉄器を造る技術を持った出雲の一族が服従させられた、その一族が伝えてきた神話や伝承を再編集して神話にしたものだと言われている。
つまり、中央に匹敵する大きな勢力がもともとこの出雲にはあったのだけれども、しかしより大きな国を構想していた大和の天皇の一族との様々な諍いの結果和解をしたということを表しているという。おそらく大和朝廷が形成されていく3世紀4世紀の頃の実際にあったそうした歴史を後に神話にしていったのであろう。出雲の地は、古くから栄え、そういう物語伝承を大切にする精神性を併せ持った土地柄だといえよう。
鰐淵寺(がくえんじ)について
島根県出雲市にある天台宗の寺院。山号は浮浪山。中国観音霊場第25番札所、出雲観音霊場第3番札所、出雲国神仏霊場第2番札所。開山は智春上人、本尊は千手観世音菩薩と薬師如来の二体。
鰐淵寺は、推古天皇2年(594)信濃の智春上人が当地の浮浪の滝に祈って推古天皇の眼疾が平癒したことから、同天皇の勅願寺として建立されたという。推古2年というのは、日本最初の官寺である四天王寺創建の翌年であるから、つまりそれだけ当時この地が中央に匹敵する精神文化と経済力とがあったことを示している。
寺号の鰐淵寺は、智春上人が浮浪の滝で修行している時、誤って滝壺に落とした仏像を、鰐がその鰓(えら)に引っ掛けて浮上したとの言い伝えから名付けられた。ここで言う「鰐」はワニザメを指すという。山陰には近年にもサメの被害が報告されている。因幡の白兎の神話にも残るサメは当時は結構見られたものなのだとすると、サメのきわに位置する寺との意味だったのかもしれない。
ところで、鰐淵寺の所在する島根県や隣の鳥取県は修験道・蔵王信仰の盛んな土地であり、鰐淵寺も浮浪の滝を中心とした修験行場として発展したと言われる。修験道の開祖である役の小角は634年の生まれと言われているから、その前から、山岳霊地を他界と見なして跋渉して自然の霊跡を拝み、超自然の霊力や呪力を体得しようとする人々の一群があったであろう。
この地は古く栄えていた出雲も近く、そうした人々の集まる霊地として格好の地であったのではないか。後白河法皇の『梁塵秘抄』に収録された今様(はやり歌)に「聖の住処は、何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御碕、南は熊野の那智とかや」と歌われており、平安時代末期頃には修験行場として日本全国に知られていたことが分かる。
だから、鰐淵寺の草創期の信仰の対象は、役の小角が金峰山にて感得した金剛蔵王権現であったと言われる。出雲の地には蔵王権現を本尊とする寺院が点在していた。悪魔を降伏する形相を示す蔵王権現は、身体は青黒く、眼は怒り髪が逆立ち歯は牙のように尖っている。右足は蹴り上げたような姿。過去現在未来の三世において私たちを救う力強い神として信仰を集めた。
その後、奈良平安にいたり、仏教が組織化して宗派を生む時代となり、おそらく修験者たちの教義の基となる教えとして求めたのであろう、806年に立宗された天台宗、比叡山の最澄の法門に帰依して、鰐淵寺は最初の天台宗末寺になっていた。その後、中国の唐に行き10年間も各地を巡錫した慈覚大師円仁(天台第3世座主)が筑紫から山陰をぬけて帰るときに参籠。今日の本尊でもある薬師如来と千手観音を刻んで本尊とした。
また法華堂、常行堂を造り、一山衆徒に法華三昧、常行三昧の法を伝えたという。法華三昧とは、法華懺法とも言い、諸仏を勧請して礼拝し、六根の罪を懺悔して法華経を読誦して行道する21日間の行法。常行三昧は、7日ないし90日間、阿弥陀仏のまわりを歩きながら念仏を唱え心に弥陀を念じる行法。
ところで、平安時代末期までの鰐淵寺は現在地のやや西寄りの唐川にあったという。これに林木(はやしぎ)の薬師如来を本尊とする寺院が吸収された。以後、鰐淵寺は千手観音を本尊とする「北院」と薬師如来を本尊とする「南院」に分かれることになる。つまりは円仁はこの地の別々の寺に二体の仏像を納めたということなのであろう。つづく
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