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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

第六回日本の古寺めぐりシリーズ・鰐淵寺と華蔵寺

2009年02月11日 09時08分59秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
足かけ4年目を迎える朝日新聞愛読者企画。今年最初の「日本の古寺めぐりシリーズ」は初めて山陰へ足を向ける。山陰は古代の海洋交渉により大陸からの隠れた文化移入の地と言われ、古い仏像や大陸から伝えられた文物が豊富なのだと聞いたことがある。3月9日、まだ寒い日和ではあるかもしれないが、知られていないそうした文化財の宝庫としても名高い鰐淵寺、そして臨済宗の古寺華蔵寺、二か寺に参詣する。楽しみにしたい。

二か寺とも備後国の北隣出雲国にある。出雲は、肥沃な出雲平野を背景として古代から発展し、特に弥生時代以降は、県内最大規模の古墳を造る大きな勢力が存在した。記紀神話において、日本の国生みの神イザナギ、イザナミのうち、黄泉の国から蘇りをして禊ぎをしたイザナギの鼻から生まれたとされるスサノオは出雲を舞台として主役を演じる。

姉の太陽神・アマテラスが、高天原、葦原中津国を治めるのに対して、風雨の神(荒ぶる神)スサノオは、そこでいろいろな乱暴を繰り返す。するとアマテラスが天の岩戸に隠れてしまうということがあって、ついにスサノオは追放されてしまう。その地が、根の国、闇の国つまり出雲だったわけだが、こちらに来るとなぜか一転して、スサノオは八岐大蛇伝説のような英雄になっていく。

そして、スサノオの後に子のオオクニヌシが登場して出雲の国譲り神話となっていくが、これは、大和朝廷という大王(おおきみ)の勢力に、鉄の産地で青銅器や鉄器を造る技術を持った出雲の一族が服従させられた、その一族が伝えてきた神話や伝承を再編集して神話にしたものだと言われている。

つまり、中央に匹敵する大きな勢力がもともとこの出雲にはあったのだけれども、しかしより大きな国を構想していた大和の天皇の一族との様々な諍いの結果和解をしたということを表しているという。おそらく大和朝廷が形成されていく3世紀4世紀の頃の実際にあったそうした歴史を後に神話にしていったのであろう。出雲の地は、古くから栄え、そういう物語伝承を大切にする精神性を併せ持った土地柄だといえよう。

鰐淵寺(がくえんじ)について

島根県出雲市にある天台宗の寺院。山号は浮浪山。中国観音霊場第25番札所、出雲観音霊場第3番札所、出雲国神仏霊場第2番札所。開山は智春上人、本尊は千手観世音菩薩と薬師如来の二体。

鰐淵寺は、推古天皇2年(594)信濃の智春上人が当地の浮浪の滝に祈って推古天皇の眼疾が平癒したことから、同天皇の勅願寺として建立されたという。推古2年というのは、日本最初の官寺である四天王寺創建の翌年であるから、つまりそれだけ当時この地が中央に匹敵する精神文化と経済力とがあったことを示している。

寺号の鰐淵寺は、智春上人が浮浪の滝で修行している時、誤って滝壺に落とした仏像を、鰐がその鰓(えら)に引っ掛けて浮上したとの言い伝えから名付けられた。ここで言う「鰐」はワニザメを指すという。山陰には近年にもサメの被害が報告されている。因幡の白兎の神話にも残るサメは当時は結構見られたものなのだとすると、サメのきわに位置する寺との意味だったのかもしれない。

ところで、鰐淵寺の所在する島根県や隣の鳥取県は修験道・蔵王信仰の盛んな土地であり、鰐淵寺も浮浪の滝を中心とした修験行場として発展したと言われる。修験道の開祖である役の小角は634年の生まれと言われているから、その前から、山岳霊地を他界と見なして跋渉して自然の霊跡を拝み、超自然の霊力や呪力を体得しようとする人々の一群があったであろう。

この地は古く栄えていた出雲も近く、そうした人々の集まる霊地として格好の地であったのではないか。後白河法皇の『梁塵秘抄』に収録された今様(はやり歌)に「聖の住処は、何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御碕、南は熊野の那智とかや」と歌われており、平安時代末期頃には修験行場として日本全国に知られていたことが分かる。

だから、鰐淵寺の草創期の信仰の対象は、役の小角が金峰山にて感得した金剛蔵王権現であったと言われる。出雲の地には蔵王権現を本尊とする寺院が点在していた。悪魔を降伏する形相を示す蔵王権現は、身体は青黒く、眼は怒り髪が逆立ち歯は牙のように尖っている。右足は蹴り上げたような姿。過去現在未来の三世において私たちを救う力強い神として信仰を集めた。

その後、奈良平安にいたり、仏教が組織化して宗派を生む時代となり、おそらく修験者たちの教義の基となる教えとして求めたのであろう、806年に立宗された天台宗、比叡山の最澄の法門に帰依して、鰐淵寺は最初の天台宗末寺になっていた。その後、中国の唐に行き10年間も各地を巡錫した慈覚大師円仁(天台第3世座主)が筑紫から山陰をぬけて帰るときに参籠。今日の本尊でもある薬師如来と千手観音を刻んで本尊とした。

また法華堂、常行堂を造り、一山衆徒に法華三昧、常行三昧の法を伝えたという。法華三昧とは、法華懺法とも言い、諸仏を勧請して礼拝し、六根の罪を懺悔して法華経を読誦して行道する21日間の行法。常行三昧は、7日ないし90日間、阿弥陀仏のまわりを歩きながら念仏を唱え心に弥陀を念じる行法。

ところで、平安時代末期までの鰐淵寺は現在地のやや西寄りの唐川にあったという。これに林木(はやしぎ)の薬師如来を本尊とする寺院が吸収された。以後、鰐淵寺は千手観音を本尊とする「北院」と薬師如来を本尊とする「南院」に分かれることになる。つまりは円仁はこの地の別々の寺に二体の仏像を納めたということなのであろう。つづく

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第五回兵庫浄土寺と丹波篠山・石龕寺3

2008年11月07日 19時17分26秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
次に、石龕寺について述べてみよう。石龕寺は、用明天皇の3年(587)、聖徳太子の建立と伝わる。その時、太子は16歳。用明天皇はその年の4月に没している。当時はまだ仏教が伝来したばかりで、物部氏は仏教宣布に反対していた。疫病が流行したりすると、敏達天皇と用明天皇の大連(大和朝廷の天皇を補佐する執政)であった物部守屋は、その原因は仏教などという外来の宗教を崇拝するからであるとして仏塔、仏像を焼き払った。

初めて仏教に帰依した用明天皇が亡くなると、蘇我馬子が太子ら皇子の軍勢とともに今の東大阪にあった守屋の館に攻め入り、討伐。その際に太子は四天王像を刻み、戦勝祈願をしている。中でも毘沙門天像は、兜の真ん中にいただいて戦ったとされる。

しかし、大勝した後、その毘沙門天像は、どこかに飛び去ってしまった。その毘沙門天像を各地に探し求めていたところ、発見されたのが、この石龕寺の奥の院の石窟である。太子は感激し、小さな堂を立て、その毘沙門天像を祀った。それが石龕寺のはじまりだという。

加古川駅近くに鶴林寺という太子ゆかりの寺があり、国宝の本堂で有名だが、開創の年が石龕寺と同じ587年と言われる。聖徳太子が勝鬘経と法華経を講じたのを喜んだ用明天皇が播磨国の水田百町(一町は三千坪)を太子に送った、それを太子は自ら創建の法隆寺に寄進したと日本書紀にあるという。

太子が高句麗の慧慈について学ぶのが24歳の時だから16歳ころに講義をするというのもどうかと思う。また、用明天皇の崩御は587年で、法隆寺の創建は607年だから、この記述はやはりおかしい。いずれにせよ、広大な法隆寺領があった土地だからその管理のために創建され、のちに太子創建という伝承にされ、お寺も豪壮に現存しているのであろう。

また姫路の西、揖保郡には太子町という地名があり、そこにも、斑鳩寺という太子創建の古刹がある。ここには鵤庄(いかるがしょう)という法隆寺領の荘園があり、寺領管理のために置かれた法隆寺の子院であったという。この二つの太子ゆかりの寺の北東、丹波に位置し、そうした太子に縁の深い土地柄にあるのが石龕寺だ。

石龕とは、石窟、または岩屋のことであり、まさしくこの毘沙門天像が祀られた岩窟をさす。近隣のを岩屋と言い、山号も岩屋山という。平安時代には山岳信仰の地として信仰を集め、平安中期の村上天皇が小野道風(尾張出身の書家・書道で三聖というと空海、菅原道真に道風)に書かせたという石龕寺の額が下賜されている。

また、鎌倉時代には、現在の仁王門が造られ、運慶派の大仏師・肥後別当定慶作の仁王像が祀られている。この定慶には鞍馬寺の正観音像がある。そして、南北朝時代は、石龕寺にとって、足利氏との関係が深くなる時代である。

鎌倉から九州へと攻めたり敗走したりして、福山の鞆の浦で足利尊氏が弟の直義とともに挙兵するのは建武の新政の混乱期。その後京を抑え、北朝の征夷大将軍となった足利尊氏が幕府を開くものの実務的幕政を見る異母弟直義(ただよし)との二頭政治であったために、幕政内に派閥が出来、観応の擾乱という混乱を招く。

そして、一時直義は南朝についた時期があった。その争乱に際して観応2年(1351)足利尊氏が直義軍勢に敗退し、書写山圓教寺にて再挙をはかるに当たり、子の義詮(よしあきら)に二千騎の軍勢をこの石龕寺に待機させ、その間に、将軍毘沙門天祈願を修行している。建武4年(1337)銘の尊氏寄進の鰐口があり、また弟直義闘滅の天下平安祈願を記す尊氏直筆の御教書が残されている。

余談にはなるが、その後、尊氏の子義詮が二代将軍になるが、直義はその補佐役になるが、北朝南朝入り乱れての混乱の中、南朝との講和交渉に際して幕府の姿勢を尊重し天皇方の権限をはねのけたかどで南朝から討伐の命が下り、鎌倉で幽閉の後毒殺された。なお、神護寺に残る頼朝像はこの直義であったとする説が有力だと言われている。

こうして室町時代には、大檀那であった足利氏の権勢により、参道の町石や石仏の造立があり、また応永28年(1421)銘の両界曼荼羅の版木が残されており、当時盛んに両界曼荼羅をたくさんの信者に頒布していたことを覗わせる。戦国時代になると逆に足利氏や地元豪族も衰微して石龕寺も荒廃。

時代は、織田信長が畿内の勢力を拡大し、自ら擁立した将軍義昭との断絶が決定的になると、義昭は打倒信長に向け御内書を朝倉、浅井、武田、毛利、延暦寺、石山本願寺に向けて発し、いわゆる信長包囲網を布く。勝ったり負けたりではあるが苦戦を強いられる信長を助けたのは、武田信玄の急死であった。

その後伊勢長島の一向一揆を平定し、千丁の鉄砲で武田軍を壊滅させ、加賀門徒衆も討伐。信長は安土城を築城。そのころ丹波の波多野秀治が叛旗を翻し、石山本願寺、越後の上杉、毛利も反信長で結束する。このときも上杉謙信の急死に信長は救われる。

が、様々な合戦の末、天正6年(1578)には播磨の別所氏の謀反が起こり三木の合戦があり、また毛利が激しく対立した時期、丹波攻めがあり、波多野秀治が降伏している。その最中、信長四天王と言われた一人丹羽長秀の岩屋城(石龕寺城)襲撃によって、石龕寺は、仁王門を残しすべてを焼失した。

江戸時代には、寛永3年(1626)僧・明覚が訪ね、荒廃している石龕寺の本堂と本坊を再興した。明覚は丹波、但馬、播磨で、23か寺を再建して歩いた傑僧と言われる。その後、梵鐘に鐘楼堂を建立し、江戸中期には毘沙門天信仰も盛んとなり、今日の基礎を築いた。

しかし、宝暦13年に本堂(今の奥の院)焼失。その後本堂を現在地に降ろして毘沙門堂として再建。昭和31年に仁王像が重要文化財に指定され、解体修理、門も改修された。しかし昭和35年には、台風で土砂崩れに遭い、持仏堂庫裏が全壊。昭和45年に再建された。

それでは、現在の伽藍の様子を見てみよう。仁王門前には、詩碑がある。荻生徂徠の弟子で江戸時代の漢学者・太宰春台の詩。

「経歴丹陽路 過来釈氏居 像霊運慶刻 字古道風書
 一将巣中鳥 三軍網裡魚 星霜千載下 遠客自躊躇」

仁王像は、国の重文。370㎝もある巨像。力強い忿怒相、仁治3年(1242)肥後法橋定慶作。仁王門を入ると左側には石仏群がある。大日如来や阿弥陀如来が薄彫りされた石仏。室町時代のものとされる十三仏の石像もあり、興味深い。

その先には町石が並ぶ。今の奥の院から何町かを表す。五輪卒塔婆型で、正面に仏像か梵字が彫られている。その前あたりに客殿、持仏堂に庫裏がある。持仏堂の本尊は、半丈六の聖観世音菩薩。右手は施無畏、左手に蓮華を持つ。平安後期の作。そこからさらに石段を登ると奥の院から移転した本堂・毘沙門堂がある。

毘沙門天は四天王の一人で北方の守護神。インドの古い神で、ヴァイシャラヴァナ、または、クベーラ。闇黒界の悪霊の長、夜叉羅刹の統領、財宝・福徳を司る神に転じ、帝釈天に属し、仏法守護の善神、勝軍のために祈願される。唐玄宗時代に不空三蔵が、安禄山の乱平定のために祈願した。甲冑を着け、右手に宝棒、左手に宝塔を持つ。信貴山、鞍馬寺、東寺が有名。

天部の仏ではあるけれども、他の菩薩や如来と同等の扱いを受ける。真言密教での各尊の修法の中に入我我入観という観法がある。普通天部は、これを行わない。しかし毘沙門天に限り他の仏同様に入我我入観がある。別格の存在として仏教に採り入れられたというか。

本堂の脇には、薬師堂、仏足石、水掛不動がある。日本最初の仏足石は奈良薬師寺のものだという、こちらは昭和54年の造立。そこから奥の院へは約800メートルの道をあがる。途中、足利尊氏寄進の京都東寺の梵鐘を模した新しい鐘が吊された鐘楼堂がある。奥の院は、石龕寺の発祥の地、平成6年、きれいな拝殿が新設され、毘沙門天石像を祀る。地蔵堂、蔵王権現、役行者石像、石燈籠18基が配される。

その本尊のゆえか、数々の歴史の舞台となってきた石龕寺、だからこそ紅葉を愛でるに値するその趣きもあろうということか。一つ一つの石段を登るに従い歴史の重みを感じつつ、変化する景色を楽しみに参詣したいと思う。

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第五回兵庫浄土寺と丹波篠山・石龕寺2

2008年11月04日 14時34分20秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
浄土寺の開創は、建久5年(1194)という。大仏殿の落慶法要が行われる前年に、重源が丈六の阿弥陀三尊を造立して浄土堂を建てた年を開創の年としている。しかしもちろん実際には、もっと前からここを拠点にして活動していたのだろう。大仏殿の目鼻が付いてやっと播磨別所にもお寺らしきものを造る段取りになったのがその年だったということだろう。だからそれまではもっと実務的な荘園経営の様々な取り締まりの手配所のような所だったのではないか。

重源が建永元年(1206)に亡くなると、甥にあたる弟子観阿弥陀仏が鎮守八幡や経蔵を建て伽藍を造営した。伽藍配置を見てみると、どこかで見たような配置になっている。そう、今年春に参詣した山城・浄瑠璃寺にそっくりである。浄瑠璃寺の創建は、永承2年(1047)ではあるが、今日見る伽藍に改装されたのは、治承2年(1178)である。浄土寺の開創は、その16年後である。当時の、つまり平安末期の浄土信仰が貴族の中で浸透し、阿弥陀信仰をもとにした寺院造りの典型だったのだろうと思われる。

浄瑠璃寺では、真東に薬師如来を本尊とする三重の塔があり、その前には大きな蓮池が広がり、真西に九体阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂が位置する。前世から現世に送り出してくれる四十九日忌の仏・薬師如来によって私たちはこの世にいたり、そのご利益のもとに釈迦如来に教えを受けて修行の人生を送り、そして来世で迎えて下さっている阿弥陀如来に往生を頼む、そのような伽藍となっている。そして、この浄土寺もそれと同様な配置になっている。

浄土堂(阿弥陀堂)は、創建時のままで国宝。当時最新の宋様式を採り入れた天竺様(大仏様)の建物で、この様式の建物は日本では他に東大寺南大門だけといわれている。つまり、お堂としては唯一のものということになる。天竺様の特徴は天井を貼らない化粧屋根裏や軒では円柱から何本も突き出ている挿肘木などに見られるという。

浄土堂は昭和32年(1957)3月から2年半かけて解体修理が行われたが、建久年間からこの時まで一度も解体修理されたことがなかったといわれ、約770年もの間風雪に耐え持ちこたえてきたということになる。反りのない宝形の屋根が特徴。方三間で、柱間が約6メートル。

東は観音開きの扉、西は蔀戸で、西日が後方の池に反射して背後から差し込むような構造になっている。須弥壇を円形にし、周りの空間が広い。屋根まで伸びる四天柱が立つ豪快な造り。三千院の往生極楽院での常行三昧行のような、念仏を唱えながら巡る念仏行や来迎の様子を再現する迎講の舞台ともなる空間である。

本尊は丈六の阿弥陀如来立像。快慶作、像高530㎝、国宝。快慶の特徴は切れ長の眼にあり、目頭から目尻まで大きく開かれて、威厳と気品に充ちている。宋仏画をもとにした逆手の形で、左右の手の上げ下げが逆の中品・来迎印。来迎する様を表す雲座が足元を飾り、56枚もの材を寄せて造られている。光背は、二重円相挙身光で、光条は光を放つ様を表す。なお、その下には巨大像を支えるために、礎石の上に柱材を建て、貫でつなぎ須弥壇の下に根幹材を組み込んでいる。

脇侍の観音・勢至は、像高371㎝、快慶作、国宝。観音菩薩は水を持ち、勢至菩薩は梵篋(棕櫚に似たターラ樹の葉に針で経文を彫ったもの)を載せた蓮華を持つ。宋の阿弥陀三尊来迎図に倣った姿。

浄土堂のすぐ北側には鐘楼がある。寛永9年(1632)建立。袴腰付きの檜皮葺きの貴重な江戸初期の遺例。その東には八幡神社本殿。浄土堂と本堂との中央北に位置し、本来の本堂が位置する場所に造られており、重源上人が東大寺の鎮守でもある八幡神を重要視していたことが分かる。

その東には収蔵庫、不動堂があり、その南にはちょうど浄土堂と蓮池をはさみ、相対するように本堂・薬師堂が位置する。浄土堂とほぼ同形同大の堂で、創建当時の建物は正応5年(1292)に焼失。現建物は、室町時代の永正14年(1517)に再建された。重文。創建当時と同じ大仏様で造られ、本尊・薬師如来は、近在の広渡寺の薬師像を移したものと伝えられる。

この南側に開山堂。方三間の小さな建物で、国の重文・重源上人像を安置する。室町時代の再建。県の重要文化財。重源像は、奈良国立博物館に寄託中。この他に重文・阿弥陀如来立像、像高266.5、快慶作。迎講の際にかぶった菩薩面25面も快慶作、重文。ともに奈良博、東京国立博物館に寄託。

快慶は、鎌倉初期を代表する仏師で、運慶の実父康慶の弟子。快慶は熱心な仏教信者でもあり、重源に帰依した。自らを「安阿弥陀仏」と称した。法橋、法眼の叙位を得ている。「巧匠安阿弥陀仏」や「巧匠法眼快慶」などとの署名が確認されている作品は40点残っている。

浄土寺は、冒頭に述べたように山城・浄瑠璃寺と同配置の伽藍を形成している。しかし、浄瑠璃寺の九体阿弥陀堂の中尊・阿弥陀如来が座像で上品上生の来迎印であったのに対して、浄土寺の阿弥陀如来は中品の来迎印であり、右手はこれから中指と親指を付けようとされているかのような造りになっている。これは、まさにその時来迎したばかりの臨場感を表現したものであろうか。そして、その弥陀如来が西日に光り輝く様は正に迫力を増した阿弥陀如来の救済のエネルギーを表現しているとも言えよう。

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第五回兵庫浄土寺と丹波篠山・石龕寺1

2008年11月02日 19時28分03秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
早いもので古寺めぐりの時期を迎えた。今年は3月に山城の岩船寺と浄瑠璃寺を参り、6月には、国東冨貴寺・熊野磨崖仏、筑紫観世音寺に参詣している。さてどこに秋は参ろうか、思案のあげく、いつも素通りしている三木サービスエリアからほど近い、兵庫県小野市の浄土寺と石龕寺に参ることになった。

まず、浄土寺について述べよう。昨年のこの時期、周防國分寺と東大寺別院阿弥陀寺に参っているが、その阿弥陀寺が平安時代末期の東大寺再建に奔走された重源上人のいわゆる周防別所として東大寺再建用の材木を調達した砦であったのに対して、浄土寺は、やはり播磨別所として、荘園経営に当たりその収入によって、東大寺が再建されていった誠に重要な別所の一つであった。

重源が設けた別所は七カ所あり、その中で、当時の浄土堂と阿弥陀三尊が残る唯一の別所がこの浄土寺である。その意味で、当時の重源上人、ひいては当時の人々の信仰にかかるエネルギー、スケールを知る上で誠に貴重なお寺であると言えよう。

俊乗房重源上人は、保安2年(1121)に紀秀重の子として京都に生まれ、12歳で醍醐寺円明院で密教を学び、17歳からは寺を出て山伏となって四国大峰白山など諸国を放浪。その間法然上人から浄土教を学び、いわゆる念仏聖として高野山に念仏修行。その後、宋に行っている。

そこで、臨済宗を開く栄西と天台山に詣で、帰朝。三度入宋していると言いそれを重源のハッタリとする説もあるが、当時日宋貿易が盛んで、後には西大寺の西国國分寺復興も宋貿易によって支えられていたことを考えるとそうした系譜の中であり得た話ではないか。

その後、治承4年(1180)平重衡の兵火で焼けた東大寺の勧進職に法然の推挙で任命された。資金、資材調達、技術者の確保、寺内の調整など、平清盛の死後院政が復活していたため朝廷や鎌倉幕府への働きかけなどすべてを一手に引き受けた。時に重源61歳。しかし仕事師であり、請負師の気質のあった重源は、その2ヶ月後には大仏の螺髪を鋳造。宋人鋳造師陳和卿等を招いて四年後には大仏を再建した。その年は壇ノ浦の合戦の年でもあった。

その後大仏殿など堂塔の再建のため、4回も伊勢神宮に、60人もの僧を率いて参詣し大般若経の転読祈願をして、全国の貴賤から広く勧進。見事、この大プロジェクトを完遂した。この間のエピソードとして、大仏殿の建設のために大仏の後ろに聖武天皇が造った築山を重源は何の相談なしに崩してしまった。それに怒った後白河法皇は重源を捜索させるが、重源は高野聖に戻って各地を放浪。

困った重源は、室生寺にある仏舎利を法皇の丹後の局が熱望していることを知り、宋人を伴い室生寺を訪れ、大仏殿の資金繰りのためと偽って持ち去り、法皇に差し出した。しかしそのことが外聞に触れ、結局後に法皇は室生寺に仏舎利を返還。ただ、このとき二粒だけ数が減ったとされ、丹後の局が手放さなかったのではと言われている。

一昨年室生寺にこの日本の古寺巡りシリーズ第一回として参詣した。その折に、正にこの仏舎利が舎利塔に収められて灌頂堂に特別期間限定で祀られていた。その時の説明書きには、宋人が持ち出し、その後大師像下から発見されたと寺伝には記されているとあった。本当は、史実はここに記したようなことであったのだろう。まったく予期せぬ符号によって、こうして古寺巡りシリーズの中でことの真相が明らかになってくるのも誠に興味深い。

因みに、一昨年のこのブログの記事『室生寺散策1』の該当部分を転載しておこう。『この19日まで、弘法大師空海が室生寺に奉納したとされる仏舎利が宝筐印塔に入れられて祀られている。これは建久2年(1192)東大寺再建時に勧進職・重源の弟子宋の人空体がこの舎利を数十粒持ち出し、また文永9年(1272)には東大寺灌頂院の空智が室生寺弘法大師石塔下より舎利を発掘したとと言われ、永正6年(1511)に今の宝筐印塔に祀ったという。』

建久6年(1195)に大仏殿は完成。落慶法要には法然を導師に、後鳥羽天皇、将軍頼朝も列席した。貴紳文武僧俗2000人からの人が大仏殿を埋め尽くしたという。しかし、その時重源その人の席はなく、功労者としての嘉賞の品もなかったと言われる。

そのすべての総監督として差配する側だったからであろうか。それとも、その後も大仏の両脇侍や南大門、回廊の建設が残っていたからであろうか。それらすべての再建を終えたときには23年の歳月が流れ、重源は83歳になっていた。

そして、その国家的大プロジェクトの拠点として、重源は西日本七カ所に別所を設けた。それが、周防別所であり播磨別所、備中別所、東大寺別所、高野山新別所、摂津渡辺別所、伊賀別所だった。周防では国司の地位についている。数々の地元豪族からの邪魔もあったらしいが幕府の力でねじ伏せて税金を取り立てている。

周防、備中、伊賀からは用材を、播磨は大事な大部庄という荘園の収入の地であった。高野山は信仰上の拠点、摂津は荷揚げの港として、また東大寺別所は、丈六仏が10体も安置されていたと言うから、そうした造像の拠点であったのでないか。つづく

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国東半島と観世音寺4

2008年06月13日 11時52分35秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
観世音寺参拝

太宰府天満宮から南西に2キロほどのところに観世音寺がある。「遠(とお)の朝廷(みかど)」太宰府の条坊内、太宰府政庁の東隣に位置していた。太宰府は、九州の行政の中心であり、中国や朝鮮など異国の敵に備えた拠点であるばかりか、平時には外国から訪れる外交使節が最初に訪れる迎賓館でもあった。したがって、都に劣らぬ相応しい設えが必要であり、その一つとして観世音寺もあったであろう。

そもそも観世音寺は、朝倉橘広宮にて斉明7年(661)に崩じた第37代斉明天皇の追善のために天智天皇が勅願した寺である。斉明天皇は、唐と新羅から攻められた朝鮮半島の百済軍救援の為、中大兄皇子(後の天智天皇)等と共に、筑前を訪れ朝倉橘広宮に行宮を営まれたが、疫病によって崩御された。斉明天皇は天智天皇の母君であった。

しかし、女帝没後50年近くなるのに、寺はなかなか完成せず、遂に和銅2年(709)、時の元明天皇から、太宰府に対して早く造営せよとのご沙汰があり、養老7年(723)僧満誓が、そして天平17年(745)11月には僧玄が筑紫に派遣され造営に当たり、翌天平18年6月、やっと落慶法要が行われ、発願から80年近くの歳月を要して完成した。

玄は、唐に留学した際に玄宗皇帝から重用され、紫衣の着用を赦されたほどの僧侶で、唐からもたらした経論五千余巻は興福寺に勅蔵されて後の仏教学発展に大きく寄与した。帰国後は聖武天皇に重んじられて國分寺の創建に関わり、政治に深く関わった。

同じ遣唐船で唐に行った吉備真備と政治的パートナーとなって、藤原氏と対立。藤原広嗣が彼らを批判して九州で反乱を起こした藤原広嗣の乱に発展し、広嗣は捕らえられ殺されるが、政情不安となり、それで玄は観世音寺に左遷されたのであった。そして、その落慶法要の最中に急死。広嗣の怨霊のために怪死したとも伝えられており、北西の隅に墓所がある。

そして、天平宝字5年(761)正式な僧侶の戒律を授ける戒壇院が観世音寺に設置され、管内すべての寺の僧尼を管理掌握する府の大寺としての地位を得た。戒壇とは、シーマーと言われる結界をした場所のことで、その特別に設えた神聖なる場で正式な僧侶になるために戒が授けられた。

仏教が伝来したのは538年と言われるが、鑑真和上来朝の天平勝宝6年(754)まで二世紀もの間正式な授戒が行なえず、和上のもとで東大寺大仏殿前に戒壇を築き聖武上皇はじめ400人あまりに戒を授けたのが始まりと言われる。翌年には大仏殿西側に常設の戒壇が設けられ、その6年後に筑紫観世音寺と下野(しもつけ・栃木県)薬師寺に戒壇が設置された。

今の九州と壱岐、対馬の僧尼は観世音寺、関東地方から東北にかけてが薬師寺、その他中央部は東大寺で行った。授戒は、毎年3月11日から8日間と決められ、試験を受けて合格すると得度し、さらに戒を受ける資格試験があり、その後授戒申請して東大寺は20人の僧侶が、他は15人が立ち会い審査して授戒したという。

『続日本記』によれば、方3町327メートル四方を境内にして、中央正面に講堂(現在の講堂の2.5倍の大きさ)、東に塔、西に東向きに金堂を配す観世音寺式伽藍であった。また延喜5年(905)の『観世音寺資財記録』によると、当時は、大門・中門・五重塔・金堂・講堂等の仏殿を始め、荘園を有した大寺院であったことが伺われる。

康平7年(1064)の大火など何度か火災に遭い、保安元年(1120)律令制の衰退により太宰府の権力が失墜したため東大寺末となり、逆に寺領の収益や日宋貿易などで東大寺の経済を支えたと言われている。その後火災や台風により寺勢が傾き、戦国期には秀吉に寺領を没収され衰退。

現在の伽藍は江戸時代に復興する。寛永8年(1631)現金堂(現本尊不動明王)が、元禄元年(1688)に現講堂(現本尊聖観音)が再建された。この間に多くの丈六仏・巨大仏像を観世音寺は各堂に奉安していたが、現在は昭和34年建設の宝蔵に収蔵されている。

また戒壇院は、元禄16年(1703)観世音寺から独立し、黒田藩家臣らの寄進によって再建された。当初戒壇院は、敷地が南北65メートル東西32メートルの規模と推定されている。現在の戒壇は本堂内に花崗岩の切石で正方形に造られており、中央に盧舎那仏座像(平安後期の作像高148㎝・胸の前で五指を立て説法印を結ぶ)を安置しているが、これは往古の戒壇を転用したものではないかと言われている。現在戒壇院は福岡聖福寺末の臨済宗。

現在観世音寺創建当時の唯一のものとして、鐘楼がある。日本最古の銘文「文武2年(698)」を刻す京都妙心寺の鐘と同じ型による梵鐘と言われ、総高159㎝。もとは講堂の東南の角にあった。日本最古の白鳳期の名鐘で国宝。菅原道真が、「都府楼はわずかに瓦の色を見る観世音寺はただ鐘の音を聴く」と詠んだ。

最期に宝蔵内の諸仏を紹介しておこう。17体すべて国の重文。もと講堂の本尊だった不空羂索観音立像は、像高517㎝、鎌倉時代1222年の作。不空羂索観音は、左手に羂索(漁のための網と綱)を持ち、煩悩生死の世界に仕掛けて漏らさず済度する大悲願の観音。

無病、身体細妙、衆人愛敬、財宝自然、無災害、無饑餓、無戦死、鬼神害受けず、煩悩消え、毎日が慈悲と喜捨に満つと利益が説かれている。(興福寺南円堂の本尊としても祀られている) 観世音寺のこの御像は、頭上に十一面をいただく珍しい像。頂上の仏面は平安前期の作とみられ、前代の一部かと思われる。

十一面観音立像。像高498㎝、平安時代1069年の作。除病と滅罪の観音。前面三面は菩薩面で寂静相、右三面が瞋怒相、左三面が利牙出現相、後ろ一面が笑怒相、頭上一面が如来相で、観音の表象である阿弥陀の化仏が付く。すべて化仏の場合もあり、正面を一面と数えることもある。他にもう一体像高303㎝の十一面観音も蔵する。

馬頭観音立像。像高503㎝、平安後期1120年代の作。もと石清水八幡宮の護国寺薬師堂に旧蔵されていたとされる。檜材寄木造り。四面八臂の珍しい姿。顔は忿怒相、馬頭の印を結び、法輪と数珠の他は斧や剣など武器を持つ。観音ではあるが明王の性格を併せ持つ。馬は馬の頭に化身する破壊と創造の神・ヴィシュヌ神から転化したことを表す。馬は水草を食い尽くすように衆生の無明煩悩を貪り食って救済する、忿怒相は、慈悲が最も深いことを表す。

聖観音座像。像高321㎝、平安時代1066年の作。もと講堂の本尊。阿弥陀如来座像。像高219㎝、平安後期の作。もとは金堂の本尊。四天王立像。像高236~224㎝、平安後期。金堂に阿弥陀如来と共に祀られていた。樟材一木造り。国家鎮護の守護神。他に地蔵菩薩二体。吉祥天立像。大黒天立像など。みな平安時代の作。

宝蔵にはこれら巨大な仏たちが所狭しと安置されている。一堂に会すると正に圧倒される迫力。不思議な仏の世界を体感できる。外国の使節をあっと唸らせるに足る威圧感。多くの仏弟子たちに畏敬の念を持たせるに足る大きな存在であったろう。

そして、その仏たちの目に映った観世音寺の長い歴史は、まさに栄枯盛衰。国家の安泰を願い、沢山の僧侶の歩みを見守り、また、人々の安寧を見つめ続けてきた巨大仏たちのまなざしを、雄大な時間の営みに思いを馳せつつ感じ取りたい。

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国東半島と観世音寺3

2008年06月10日 19時18分48秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
熊野磨崖仏参拝

冨貴寺から5キロほど南に真木大堂(旧伝乗寺)があり、そこから2キロほどのところに熊野磨崖仏がある。熊野磨崖仏は、今熊野山胎蔵寺内に位置する。もとの山号は天治山だったが、12世紀頃に当時の住持が熊野を訪れ熊野信仰に心酔し、磨崖仏を彫り今熊野山の山号にしたといわれる。現在は浄土宗。

ところで、大分県は、磨崖仏の宝庫と言われる。磨崖仏とは、自然の崖や岩肌から彫りだした仏像のこと。宇佐国東をはじめ、県中部の大分市、県南の臼杵・大野川流域を中心に、88カ所、約400体もの磨崖仏がある。

これほどまでにこの地に磨崖仏が集中しているのは、阿蘇山火山灰の堆積層である熔結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)という岩質に恵まれていたことが第一にあげられる。また、平安時代から天台系の山岳仏教文化圏であり、かつ、宇佐八幡宮や六郷満山寺院、豊後国衙勢や豊後大神一族などの後ろ盾もあった。

しかしこの度参拝する熊野磨崖仏や国東の半島の磨崖仏は、凝灰角礫岩という不均質な岩肌に刻まれている。熊野磨崖仏は、あたかも岩肌から現れ出でたかのように頭部に比べ、体部が岩に沈んだような彫り方をされており、木彫仏が木に仏が宿るとされて刻んだように、岩に仏が宿るという発想があったのではないかと言われる。

仁王像が出迎える胎蔵寺から鳥居をくぐると、鬼が一晩で築いたと言われている乱積の石段がある。約300m(約15分)急な坂道を登る。そこは、国東半島の付け根部分に位置している田原山(別名鋸山・のこぎりやま)、奇岩の山の登山口。

石段や一般登山道が続くが次第に岩場が多く現われ、アップダウンを繰り返す。足がすくわれるような狭い岩場が続く、山頂からは別府湾や鶴見岳、国東半島の山々が見える。だから熊野磨崖仏なのであろう。紀伊熊野の熊野古道は現在世界遺産にも登録されているが、そもそも熊野は、神々の棲む山域であり、また死者の向かう、黄泉の国でもあった。

人生に傷つき絶望したとき、人は遥か彼方の熊野三山を目指した。熊野古道は、俗塵にまみれ汚れた過去の自分をその黄泉の国に葬り、新しく蘇えらせてくれる「蘇生への路」であった。「熊野にお参りすれば死んだ人と必ず会える」とも言われたのは疲れ切った所で、しかも昼までも鬱蒼と茂る木立の暗い所で、この世ならざるものとの出会いがあるからである。

心臓が今にも破裂しそうな状態になるまで苦行を経験し、鬱蒼と茂る山中をくぐりぬけ、ようやくたどり着くのが熊野である。この世ならざる世界の経験。生と死の境界をさまようまでの経験をして自らを蘇生する。そうした熊野を思わせる鋸山を熊野信仰の場として設定して、そこの彫られた磨崖仏だから熊野磨崖仏と言われてきたのであろう。磨崖仏の上には熊野神社がある。

胎蔵寺の境内から山道を300mほど登ると、鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積み石段、九十九段にかかる。「昔、熊野からこの地に移られた権現様から、一夜でここに百段の石段を造ったら人間を食べて良いという許しを得た一匹の鬼が、九十九段を築きあと一段で仕上がるところで、慌てた権現様が鳴き真似をした鶏の声を聞いて夜明けと思って逃げ出した」という伝説がある。

石段を登った先には平地があり、目の前の岩壁に浮彫りされた磨崖仏が現れる。熊野磨崖仏は不動明王像と大日如来像の2体が彫られている。制作年代は奈良時代とも鎌倉時代とも言われており定かでない。

造形から不動明王像が古く、頭に大仏のような羅髪のある大日如来像は後に彫られたものであろうと推定されている。いずれにしても国東を代表する見事な磨崖仏で国重文と国史跡の二重指定を受けている。

大日如来と称される如来像は、高さ約8mの囲いをつくり、その中央に高さ約7mの巨大な像が刻まれている。像の頭部は両耳後まであるが、体部は下へ行くに従って浅く刻まれ、頭部背面には円光背(こうはい)をもち、大粒の螺髪(らほつ)を刻み、切れ長の目、小鼻の張った鼻、ちいさな強く結んだ口、角張った顎とともに力強い威厳ある像容を示している。

熊野磨崖仏に関する唯一の記録として、安貞2年(1228)の『六郷山諸勤行并諸堂役等目録』に「不動岩屋、本尊不動、五丈石身、深山真明如来自作」と記されているという。この記録により、少なくとも安貞2年には、大日不動の両磨崖仏および種子曼荼羅が存在し、また既に如来像の方が大日如来とされていたこともわかる。これにより、臼杵石仏に先行する平安中期ころの作とされ、県下の磨崖の中で最も古い。

不動明王像は、高さ約8m。左右下方には高さ約3mの矜羯羅(こんがら)制多迦(せいたか)童子像が刻まれていた。風蝕が激しく細部は明らかではない。不動明王は、弁髪を左肩に垂らし、幅広の鼻翼に顎の張った顔に、二牙を上下に出す。右手の利剣はきっ先鋭く顔右側面から頭頂にいたる。

体部から下半身の表現は判然としない。大日像に比べてやや浅彫りであり、彫法も素朴で、その下ぶくれの面貌にはユーモラスな笑みを浮かべているように見える。大日像より下った12世紀後半ころの彫造。

また、大日如来像の頭上には、横長の囲いが彫られ、3面の種子曼荼羅が刻まれる。両側の2面は向かって右が金剛界、左が胎蔵界の両界曼荼羅と考えられ、中央の1面は中心に不動明王の種子を刻むことから不動曼荼羅を表わすと言われる。この3面の曼荼羅については、金剛界が熊野三山のうちの金峯山、胎蔵界が熊野山、中央が両者を統一する大峰山を表わすという説がある。

また、胎蔵寺には、直径50cmほどの鋳造品で、円の中に弥陀三尊が刻まれている胎蔵寺懸仏(かけぼとけ)が収蔵されている。「六郷本山今熊野御正体也」と刻まれ、建武4年(1337)の銘がある。熊野神社の本地仏とされているようだ。だから、実は大日如来とされている磨崖仏は阿弥陀如来であるとの説もある。

山岳修行者を修験者と言う。山を聖域と見たて、その聖域の奥深くまで分け入って修行することによって、神秘的な力を得て、その力によって自他の救済を目指そうとする、山岳信仰の修行者たちである。山伏とも言う。修験道とは、「修行して験力を顕す道」であることから名づけられた。

修験道は、自然の中でも特に「山」を神聖視してきた日本人古来の山岳信仰に、インドの宗教である仏教や、中国の宗教である道教や儒教など、外来の宗教が結びつき、さらにそこに神道や陰陽道、民間信仰などまでが取り入れられ、次第に形成されてきた。

国東半島六郷満山では、天台宗に属する修験者たちによって、各寺院を本拠に、おのおの各地に刻まれた磨崖仏を経巡って修行する道の参詣地として、これらの磨崖仏が存在したのであろう。滝にあたり身を清め、所々の平地では護摩を焚き俗塵を払い、また磨崖仏では経を読誦して仏に祈念をこらしたのであろう。

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国東半島と観世音寺2

2008年06月09日 09時49分49秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
冨貴寺参拝

国東半島には、六郷満山の様々な要素を複合した信仰によって、今日も多くの寺院や磨崖仏が残されているが、その一つに、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並び日本三阿弥陀堂の一つとされる冨貴寺大堂(おおどう)がある。

昔、冨貴寺のあたりの地に、高さ970丈もある榧(かや)の大木があったという。一丈は3メートルほどだから、2900メートルもの榧の木ということになる。その影は数キロにも及んだ。

仁聞菩薩が、この榧の木一本で冨貴寺大堂を造り、仏像を刻んだという。その余材で牛を刻み、それでもまだ余材があったので、刻んだ牛に乗せて熊野に運んだところ、途中で牛が動かなくなり、その地に建てたお堂が、真木大堂であると言い伝えられている。

蓮華山冨貴寺(蕗寺)は、六郷満山のなかで、満山を統括した西叡山高山寺の末寺の一つ。天台宗に属し、寺伝によれば、養老2年(718)八幡神の化身とも言われる仁聞菩薩開基とされる。

富貴寺の所在する豊後高田市大字蕗(ふき)は、古代末から中世には糸永名と呼ばれ、宇佐宮領田染荘(たしぶのしょう)に含まれ、富貴寺の創建にも宇佐八幡宮がかかわっていた。宇佐八幡宮の神職には、辛島家、大神家、宇佐家が創建当時からの祭祀を司っていた。

貞応2年(1223)、大宮司宇佐公仲(うさきみなか)が田染荘内の末久名と糸永名1町5反を蕗浦阿弥陀寺(富貴寺)に寄進したとき、同寺を「これ累代の祈願所にして、攘災招福の勤め、今に懈怠無し」と『大宮司宇佐公仲寄進状案』に記しているというから、冨貴寺は宇佐八幡宮宮司の祈願所として創建されたらしい。

大堂が建造される頃には、後に大宮司となる到津(いとうづ)家が祈願所として冨貴寺の檀那となっている。しかし、鎌倉後半期以後には新興武士層の勢力の及ぶところとなり、代々地頭職によって修理が行われ、南北朝期以後は直接的には宇佐八幡の保護からはなれ、六郷山内の一寺院として存在したようだ。

まず、冨貴寺への入り口には、山門の両端に地石ををつかった石像仁王像が祀られている。顔が平面的でレリーフの様な彫り方。国東半島の仁王像は、ほぼ全て同様な石像で、阿形の正面を向いた鼻の穴、吽形の緊張した顔と手、胸の筋肉。全部同じ特徴を持っている。

国宝・大堂は平安時代後期12世紀後半の数少ない阿弥陀堂建築であり、西国唯一の阿弥陀堂でもあり、九州最古の和様建築物。大堂は、本瓦の行基葺(ぎょうきぶき)の宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根は緩やかな反りを見せ、軒裏の垂木(たるき)が、この重厚な屋根を軽やかに支えている。行基葺きとは、本瓦葺きの丸瓦を上に重ねていく葺き方。正面三間、奥行四間のやや縦長の堂の周囲を幅広の縁が廻り、伸びのある屋根と釣合って堂全体を安定感のよい優美な姿にしている。

床板張りの堂内は、やや後方寄りに4本の丸柱で囲まれた部分を内陣とし、須弥壇が設けられ、本尊阿弥陀坐像が安置されている。低めの天井は 小組格天井(こぐみごうてんじょう)で、内陣のみは一段高く天井が貼られている。

内陣を後ろ寄りにした堂内は、礼拝者が仏前で礼拝し拝みやすい空間となっており、随所に描かれた壁画も含め阿弥陀浄土の世界をこの場に坐して観想するのに相応しい構造となっている。

富貴寺大堂にみるこの独創的な平面構成並びに外観は、構造的にも当時としては独創的なものであり、堂の柱間間隔の取り方や垂木懸(たるきがけ)に至るまで、建物の隅々まで計算されつくした制作者の卓抜した意匠力を見てとることができる。

大堂本尊阿弥陀如来坐像は、榧の寄木造り、二重円光を背負っている、重文。像高85.3㎝平安時代後期の作。ふっくらとした丸い顔面に切れ長の伏し目と小さめの口、なで肩で自然な体躯に、流れるような衣がゆったりと包んでいる。平安後期の定朝様の影響が表れていて、熟練した都の作風がうかがわれる。弥陀の定印を結ぶ。

また、本堂にも阿弥陀三尊像が安置される。阿弥陀如来坐像は高さ約88センチ観世音菩薩と勢至菩薩はともに立像で約108センチ。藤原時代末期の秀作で、現代は県指定有形文化財。いずれも榧材による寄木造の彫眼像で、その丸顔のふくよかな円満相、浅彫りの穏やかな衣文など、平安末期における和様彫刻の典型的作風を示している。

大堂の壁画は、天台教学、奈良仏教の影響を受けた六郷満山特有の信仰がうかがわれるものと言われ、これらは白土地に下絵を描き、岩絵の具や金銀泊で彩色し、墨や朱で輪郭線を書き起こす伝統技法により描かれた。

内陣須弥壇の仏像後ろの壁には阿弥陀浄土図が描かれ、楼閣や廻廊を四周に廻らした中に阿弥陀三尊と菩薩を中心に、その左右に楽器を演奏する音声菩薩、比丘(びく)群を配す。前方の舞台上では4体の舞踊菩薩が舞い踊る。一方画面下方の蓮池には島上に仏菩薩、池上に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟2艘が浮かび数体の菩薩が乗る。

仏後壁画の華座段を中心に虚空段、楼閣段、舞楽段、宝池段からなる画面構成は、基本的には 当麻曼荼羅などの浄土変相図の類型ではあるが、寝殿造にも似た建物や池上に舟を浮かべる光景など平安貴族の日常生活を思わせる描写がみられ、現実的要素を取り込みながら和様化がより進んでいるものといえる。

内陣四天柱の各々を大きく上中下三段に分かち、合計70体以上にのぼる仏菩薩を配す。各段を区切る装飾に宝珠型火焔や羯磨を描き、尊像が三鈷や五鈷杵を持つなど密教様式の描画と考えられる。内陣にはその他、四天柱を結ぶ長押上の小壁4面に定印の阿弥陀坐像50体が並坐する図柄が描かれ、また同長押や鴨居は、繧繝(うんげん)模様の宝相華文で彩色される。

外陣四方の長押上の小壁には、東に薬師、南に釈迦、西に阿弥陀、北に弥勒の各四仏浄土図が描かれる。各浄土図は、主尊を中心に脇侍、供養・音声・舞踊菩薩および眷属、衆生がほぼ左右対象に配され、両端に各浄土を守護する形で明王が1体づつ描かれる。

また、境内には国東塔、石殿、板碑、笠塔婆、仁王像梵字石などが多数置かれている。笠塔婆(柱上の塔身上に笠石、宝珠を置く)も五基ある。鎌倉時代の僧侶広増によって建立され、最も古いのは仁治二年(1241)造、昭和40年県指定有形文化財。国東塔は国東地方に特有の形式で、天沼博士が命名された由緒あるもの。大小二基のうち、大は無銘、小は慶長八年(1603)と墨書の銘がある。

冨貴寺大堂は、中央須弥壇の阿弥陀如来を右回りに念仏を唱える常行念仏の道場ではなかったか。ちょうど大原三千院の往生極楽院がそうであったように。浄土図の壁画が取り囲む中で、念仏を唱え、弥陀の浄土を念じつつ、常時歩き行ずる行者がおられたのではないか。そこへ大宮司も参り、攘災招福と極楽往生を願った。

鎌倉新仏教としての浄土宗浄土真宗の念仏ではなく、平安後期には源信僧都の『往生要集』が読まれ、人々の生き死にに対する関心が呼び覚まされて、輪廻転生の観念が浸透した。地獄には行きたくない、極楽に往生したいとの願いがもたれ、そこに天台宗の厳しい念仏の教えが広まった。

そうした時代に冨貴寺大堂も創建され、当時は、細かい作法に則った弥陀浄土の観想と念仏三昧の厳正なる修行の道場であったのであろう。そこでの往生は決してたやすいものではなく、念仏とは生き方そのものの転換を意味していたのであった。

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国東半島と観世音寺1

2008年06月03日 09時32分38秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月24、25日に、朝日新聞愛読者企画「備後國分寺住職とゆく・日本の古寺巡りシリーズ番外編その2」で、国東半島の冨貴寺と熊野磨崖仏、そして太宰府の観世音寺に参詣する。国東半島は以前から一度は参詣したい霊場であった。参詣するに際して、さっそく国東半島の信仰の特徴から調べを進めていこう。

九州大分県の北東に位置する国東半島は、直径30キロほどの円形で、周防灘と伊予灘と別府湾とに、三方を海に囲まれた特異な地形をしている。中央には両子山721mがそびえ、古来瀬戸内海交通の目印になってきたという。

半島の突端には宇佐八幡がある。この宇佐八幡と国東は切っても切れない関係にあるので、まずは八幡神について少し述べておきたい。全国に神社は12万社あるが、八幡社はその三分の一を占める4万社もあり、宇佐八幡宮はその総本社である。八幡神はこれほど尊崇を集める神格ではあるけれども、その実体は謎めいていると言われている。

応神天皇を主神として神功皇后と比売神(ひめのかみ)をあわせた三神で八幡神とされる。しかし応神天皇と宇佐の地は関わりがなく、そもそもは半島からの外来神であるとも、海神(わたつみ)、鍛冶神に祖形があるとも、秦氏の氏神、畑の神、また仏教の伝来とも関係しそもそもが仏教の根本教説である八正道が神明に垂迹して、八幡は八正道の標幟であるとの説まである。

そして、神亀2年(725)、八幡神は「未来の悪世の衆生を救うために、薬師と弥勒を我が本尊とする」と託宣があり、現在地に八幡宮を造営し、同時に八幡が願主となり、勅命によって、日足(ひあし)に弥勒禅院を造り、南無江(なむえ)に、薬師勝恩寺を造ったと言われている。

そして、その13年後には両寺を宇佐八幡宮の境内に移し、弥勒寺と改め、金堂に薬師勝恩寺の薬師仏、講堂に弥勒禅院の弥勒仏を安置して、世にも稀な二寺合併寺が誕生した。これが、わが国最初の神仏習合の姿であった。

日向・大隅の隼人の鎮圧や新羅外交において朝廷に寄与するなど影響力を発揮。大仏建立時には託宣を下して、工事が殊の外順調に推移し、天平勝宝元年(749)、八幡神が手向山に勧請されて東大寺の鎮守となる。それによって全国の國分寺も鎮守として八幡神を勧請した。また神護景雲3年(769)、弓削の道鏡が天皇の位を取るか否かとの託宣によって、皇統が守られたことも有名である。

こうして中央にまで重大な影響力を持った八幡神は、天応元年(781)、光仁天皇から「護国霊験威力神通大菩薩」の位を得て、八幡大菩薩と通称されて伊勢神宮に次ぐ地位を与えられ仏教の守護神として、鎮護国家、庶民救済を担うものとなった。

そして、宇佐八幡宮弥勒寺はその後全盛期には何基もの塔がそびえ都の大寺に劣らぬ巨大寺院となっていた。そして石清水八幡宮、鶴岡八幡宮にそれぞれ八幡神は勧請されて、八幡神の尊格は肥大し、皇室、将軍家の守護神としての地位を確立し、全国各地の寺院にも分霊して、全国に広まる。

そうした八幡社の総本社として巨大な伽藍を持つ宇佐八幡には、当然のこと広大な経済基盤を要するわけで、宇佐八幡とその神宮寺であった弥勒寺は、九州一の荘園領主となり、国東半島は、ほぼ全域が宇佐八幡宮と弥勒寺の荘園であった。

半島の全域は峻険な山々がしめており、六つの郷からなっていたことから六郷満山と言われ、沢山の寺院、磨崖仏が配置されている。これらの寺院は養老2年(718)、仁聞菩薩が開基したと伝えられている。

仁聞とは奈良時代の弥勒寺の僧とも、八幡神の化身とも言われるが、当時の僧侶が神仏習合のもとで山岳修行に打ち込む中でその基点となる場をもってのちに発展させて寺院を造り、霊験を得てそこに磨崖仏を彫り上げていったのであろう。

これら六郷満山の寺院は、奈良時代から平安初期に宇佐八幡宮弥勒寺の境外寺院として成立し、後に天台宗を開く最澄が入唐の折に、乗船する前に宇佐八幡に参詣し、また帰朝の際にも参詣したことから、天台宗の僧が弥勒寺に参集した。

中世には学問寺として、真木大堂や智恩寺など本山本寺8か寺、冨貴寺など本山末寺が12か寺、修練場であった、両子寺など中山本寺10か寺、布教場としての末山本寺10か寺など、平安時代末には、65か寺も存在したという。

これら六郷満山と総称される各寺院は、宇佐八幡宮弥勒寺の境外寺として、天台宗に属しながらも、山岳修験、仏教、八幡信仰、などが混在した独自の豊かな文化を育んでいった。そうした豊かな文化を今日に伝えるものとして、六郷満山の伝統行事・修正鬼会(しゅじょうおにえ)がことに有名である。

かつては六郷満山の各寺院で行われていたが、現在では天念寺と成仏寺・岩戸寺(国東町)に残るのみとなっている。西満山に属している天念寺では毎年行われ、東満山の成仏寺と岩戸寺では隔年交代で行われる。五穀豊穣 国家安泰、無病息災、万民快楽を祈願する宗教行事で、養老年間元正(げんしょう)天皇の頃(西暦720年頃)に京都で行われたのが最初であるといわれている。

ここ国東の六郷満山ができたのも同じ時代なので、鬼会行事も1200~1300年前から伝わる行事であると考えられている。他の地域の鬼会行事の鬼は、桃太郎の鬼退治に代表されるように悪い鬼であり、「鬼を追い払う」行事だが、ここ国東の鬼は「鬼に姿を変えた御祖先様」であるとされ、良い鬼である。

そのため鬼の面には角が無い。「鬼に姿を変えた祖先を出迎える」という考え方のため、堂内を火のついた松明(たいまつ)を振り回す鬼は、見物客の背中や肩を叩き回るが、これが無病息災につながるとあって、人々は進んで鬼の前に出て行くのが特徴となっている。この考え方は平安時代以前の一般的な考え方であったようで、平安以前の習俗を今に伝える国東の修正鬼会は国指定重要無形民俗文化財に指定されている。

天念寺の修正鬼会は毎年旧正月の7日に行われる。19時頃にタイレシ(松明入れ衆)が天念寺前の長岩屋川で身を清め、鬼会が始まる。タイレシの若者達は着替えをして20時ころあらわれ、4mもある大松明に火が付けられる。そして講堂前で倒して、ゆすったり地面にぶつけたりして火の粉をちらす。

その後大松明を左右からぶつけ、大きく松明が燃え上がる。火祭りらしい光景にだんだんと気持ちが高揚してくる。まもなく僧侶が現れ講堂内で読経し、僧侶の法舞などが22時頃まで続く。22時ころに赤鬼があらわれ、松明を持って講堂内をあばれる。22時20分頃に黒鬼があらわれ、この鬼会行事のクライマックスを迎える。

堂内は松明の火の粉が飛び散り、煙が立ち込める。見物客が進んで鬼の前に行き、背中やお尻を松明で叩いてもらい、無病息災を祈願する。大衆も参加できる楽しい庶民的な行事であり、国東半島の信仰文化のダイナミックな豊かさ、混沌さ、複雑さを表しているとも言えよう。

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浄瑠璃寺と岩船寺-3

2008年03月12日 07時49分07秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
浄瑠璃寺本堂は九体阿弥陀堂とも言う。藤原時代の建立。現在は瓦葺き、もとは檜皮葺だった、国宝。九体阿弥陀仏をまつるため細長いお堂で、堂内は極楽浄土図など一切無く、簡素そのもの。

過去に三十ほどの九体堂があったと言われるが、現存する唯一のもの。寄せ棟造り、正面十一間、側面四間。一体一体の如来が堂前に板扉を持ち、柱間一間に一体が配置されている。

板扉を開けると池にお姿を写す構造になっている。太陽の沈む西方浄土へ迎えてくれる阿弥陀仏を西に向って拝めるよう東向きにし、前に浄土の池をおき、その対岸から文字通り彼岸に来迎仏を拝ませる形にしたものである。

阿弥陀如来像九体は藤原時代の作で、すべて国宝。九品往生といい、人間の努力や心がけなど、いろいろな条件で下品下生からはじまり、下の中、下の上、・・・上品上生まで九つの往生の段階があるという考えから、九つの如来をまつった。

中尊は丈六像、丈六仏、立ち上がると一丈六尺ある仏像ということ、像高221cm。来迎印(上品下生印)。宇治の平等院本尊の作りに衣紋などがよく似ており、なで肩で優しいふっくらとした顔立ち。桧材の寄木造り。漆箔。

他の八体は半丈六像、像高140cm。すべて弥陀の定印(上品上生印)を結んでいる。穏やかな表情だが、一体一体作風が異なる。本来なら、下品下生から上品上生までの九種類の印相を持った阿弥陀像を安置すべきだが、おそらくここは平安貴族のための寺であって、上品な人々のための祈願所であったろう。

中尊が上品下生の来迎印なのは、そこから五色の糸が往生しようという人の手に握らされたからであり、中尊の手からはそれぞれ左右の四体ずつの阿弥陀像の手に糸が結ばれていたであろう。来迎印の阿弥陀様から上品上生の阿弥陀様に受け継がれ最高の浄土に往生することを願う設定になっていると言えよう。

堂内に四天王像四体、藤原時代の作で、平安時代屈指の名作と言われる。国宝。四天王は元来世界の四方を守り、外から悪が入らぬよう、内の善なるものは広がるようにという力の神。現在、多門天が京都、広目天が東京の国立博物館に収蔵される。堂内には持国天と増長天がまつられている。
 
また日本の吉祥天の代表格とも言われる吉祥天女像(厨子入り)が中尊の左に祀られている。鎌倉時代の作、90cm重文。豊な暮らしと平和を授ける幸福の女神吉祥天。南都の寺では正月に五穀豊穣、天下泰平の祈願の法要をするのが伝統的で吉祥天の像は多い。

この寺の像は建暦2年にこの本堂へまつられたことだけが記録に残されている。宝冠や衣体、瓔珞などの彩色が施された装飾も美しい。厨子の周囲には梵天・帝釈天・四天王・弁財天と四神といった天部の諸像が見事な画像であらわされている。像内には摺仏(しゅうぶつ)と言う和紙に版木で摺った吉祥天が四枚一組十九体ずつ書かれた物が納められていた。

また中尊右には、子安地蔵菩薩像、藤原時代の作、定朝様式、157.6cm重文。片手に如意宝珠を持ち、一方は与願の印を示す。木造で胡粉地に彩色された美しい和様像。腹部に紐の結び目があるので出産を守護するとして子安地蔵と言うが、袈裟の下につける安陀会と言う腰巻きの紐であろう。 

本堂左奥には、不動明王三尊像(重文)99.5cm鎌倉時代。元護摩堂の本尊であるこの三尊像は、力強い表情、鋭い衣紋の彫り、玉眼の光、見事な迦楼羅光景など鎌倉時代の特徴をよく顕した秀像である。向って右にやさしいこんがら童子、左に智恵の杖をもった力強いせいたか童子を従えている。

山門右側に建つ潅頂堂のご本尊は大日如来。鎌倉時代、運慶一派の作と言われる。また役行者神変大菩薩三尊を祀る。宝地の中の弁天祠には、吉野天河弁財天から勧請したとする八臂の弁天像が祀られていた。現在は灌頂堂に安置する。

他に、延命地蔵菩薩像(重文)藤原時代作。馬頭観音像(重文)鎌倉時代。石灯籠二基(重文)南北朝時代。本堂と三重塔前、池の両岸にある。また、浄瑠璃寺庭園(境内)は特別名勝及史跡。藤原時代。浄瑠璃寺流記事(重文)鎌倉時代。浄瑠璃寺の根本史資料文書。

岩船寺、浄瑠璃寺ともに、現在真言律宗に属しているが、それは明治からで、元々は興福寺末であった。興福寺は藤原氏の氏寺で、法相宗の大本山だが、明治維新の折、神仏分離令が出されると、何のもめ事もなく皆神官になり、五重塔も売りに出され、廃寺寸前の状況になった。

そのとき、山城の多くの寺も廃寺となったが、鎌倉中期から関係のあった奈良西大寺を本山とする真言律宗としてこの二寺は、何とか地元当尾の人々とともに、法統を守ったのであった。古人の現世から来世へと素直な願いを形にしたここだけの信仰舞台。私にとっては、三十年ぶりの参詣となる。

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浄瑠璃寺と岩船寺-2

2008年03月11日 15時06分28秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
浄瑠璃寺は、738年(天平11年)行基によって開かれたといわれているが、実際には、浄瑠璃寺流記事(るきのこと)にあるように、1047年(永承二年)阿知山大夫重頼というこの地の豪族が檀那となり、義明上人が、現在の三重塔の薬師如来を本尊に、一日で屋根を葺けたというほどの小さな堂を建てたのが始まり。当初は西小田原寺と言った。因みに岩船寺は東小田原寺と言われた。

当時平安時代後期には、比叡山にも大原の里に別所が出来たように、奈良京に挟まれたこの地には、多くの大寺から逃れた修行者が住み着いていた。おそらく当時流行した浄土教の信仰者もいたであろう。そして、開創から60年後の、1107年(嘉承二年)本尊の薬師如来像などを西堂へ移したといわれる。

そして、1157年(保元二年)にも、本堂を西岸の辺へ移したとあり、1166年(永万二年)興福寺の文書に「西小田原九体阿弥陀堂」と書かれているので、これが現在の本堂だとされる。興福寺権別当をつとめた興福寺一条院の門跡恵信(えしん・藤原忠道の子)は、浄瑠璃寺を一条院の御祈所とし、坊舎などをまとめ、境内中央に湧水をたたえる宝地を作り、庭園を整備していった。

1178年(治承二年)京都の一条大宮から現在の位置に三重塔を移し、初層に元の本尊の薬師如来をまつり、大きな池を挟んで九体堂と三重塔が向かい合う伽藍構成が完成した。昭和の発掘調査で、当時は、九体堂ギリギリまで池が迫りお堂を回り込むように池が入り組んでいたと判明。これは、宇治平等院のように池の手前の此岸から彼岸を拝む、欣求浄土の思想を表現したものだという。

ここで、末法思想について述べておこう。平安時代中期には、末法思想が浸透し、新しい教えを必要としていた。釈迦入滅千年は正法の世で、教・行・証が揃っているが、次の千年は、教と行のみで像法の世といい、次の一万年は、教のみの末法の世と言われた。つまり仏滅二千年後に末法に入るとされ、その末法に入る年が、日本では永承7年、1052年とされた。

それから換算すると仏滅は、紀元前949年となる。実際には、紀元前四、五世紀なのだから、これは当時中国での仏滅年代を老子よりも遡ることにするために仏滅の年が故意に捏造されたためだと言われる。ともかくも、末法という言葉はインドの経典にはなく、正法、像法も正しい教えとそれに似たものを意味する言葉であって、時代を意味する概念ではなかったのであるが。

しかし当時の人々は天災飢饉が続き、僧兵の時代を迎えると、正に末法の世を予感させた。藤原道長は、太政大臣を二ヶ月で辞すと、壮大な法成寺を建て、臨終間際には九体の丈六の阿弥陀像を祀る無量寿院で、九体像の前に北枕に臥し、それぞれのご像の手に五色の糸を結びそれを握って、僧たちの念仏の中で生涯を閉じた。道長の子頼道が宇治平等院を建てるとその数年後には法成寺は一夜で焼失した。

そうした平安貴族の死への畏れと極楽往生への願いという切実な思いが、900年という時間を超えて、この浄瑠璃寺の九体堂にも充ち満ちているのである。住職佐伯快勝師によれば、三重の塔の薬師如来の白毫と九体堂の中尊の白毫を結ぶとちょうど東西の直線で結ばれる、つまり彼岸中日には、薬師如来の真後ろから日が昇り、阿弥陀如来の真後ろに日が沈むという。

これは、三重の塔を拝み、過去から現世に私たちを導いてくれた薬師如来を拝み、礼拝し、そして、振り返って此岸から、死後来世で極楽に往生することを願い、彼岸に向かってぬかずいて、池に映る弥陀浄土を拝する構造なのだと言えよう。人間の願いを一度に叶える何とも絶妙な、ここ浄瑠璃寺だけの、まさに特別なる伽藍配置なのである。

山門に向かう参道には、アセビやはぎ、それにモクレンが植えられており、堀辰雄が『浄瑠璃寺の春』に「馬酔木よりも低いくらいの門」と書いたように、小さな門で、創建時には南門があり、これは副門であった。入ると宝地が視界に飛び込んでくる。三方が小高い丘に囲まれ、右手に本堂・九体阿弥陀堂、左には三重の塔がある。

はじめに三重塔に参る。浄瑠璃寺三重塔(国宝)檜皮葺朱塗り16.8m。平安時代中期後期にあたる藤原時代に造営されたもので、京都一条大宮にあった寺院から移されてきた。相輪が塔高の三分の1の時代に三割七分あり、長く見える。四天柱(してんばしら)が無く、心柱が初層の天井上に設けられており、初層内は何も遮るものが無く、薬師如来が祀られている。

塔には元々仏舎利が納められたが、後代には、仏像を納める仏像舎利を祀る様式になった。扉の釈迦八相、四隅の十六羅漢図など、装飾文様と共に壁面に描かれている。薬師如来は、重文。大きな白毫があり、厳しさを感じさせる威厳ある表情。身体の部分には金箔が押され、衣紋には赤い彩色が残る。秘仏。現世の祈願をして後ろを振り返り、宝地の向こうの九体の弥陀を拝す。

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