住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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日本の古寺めぐりシリーズ第8回若狭神宮寺と明通寺をゆく 2

2010年02月23日 07時49分17秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
次に、明通寺は、真言宗御室派棡山(ゆずりさん)明通寺という。若狭街道から離れた丘陵の谷間、松永川沿いの奈良室生寺を思わせる佇まい。開山は坂上田村麻呂だと伝承されている。彼は、蝦夷を平定した最初の征夷大将軍で、それは三度にわたる激戦の末のことだった。田村麻呂は敵の首長アテルイの助命を朝廷に嘆願するものの採りいれられずに死刑とされ、その四年後に過去に殺戮した蝦夷の鎮魂のために、また桓武帝の女御であった娘に皇子誕生を願い寺院建立を発願した。

「お寺を建てるに相応しい地を示せ、その地に薬師如来を造立す」と願うと、鏑矢が神通力で放たれ、その矢を坂上田村麻呂が追ってこの地にやってくると矢はユズリギに当たっていた。大同元年(806)のことだった。そこで一人の山中に住む老居士と出会い、その老人から最近火のような光明を見たので近づいてみると生身の薬師如来だったが喜びの余り抱きつくとユズリギに変わってしまったと聞いた。

そこでその大樹で等身の薬師如来、降三世明王、深沙大将を彫って寺院を建立した。それで棡山(ゆずりさん)と山号するが、棡の古葉は新葉に譲って散るといわれ、新たな命への継承が含意されているという。そして、その後も光明は山河を通し照らしたので、光明通寺と称するのだと言い伝えられている。

その後20あまりの坊舎が建ち栄える巨大寺院となり門前町まであったというが、その後火災に遭い衰退。鎌倉時代に、頼禅法印が現在の伽藍を中興した。武家と密接な関係を保ち寺領を拡大し、鎮守堂、大鳥居、湯屋など24坊など伽藍整備を行っていった。古くから明通寺は勅願寺として国の祈願を担っていたが、この時代には、坂上田村麻呂の寺ということで、武士たちから特に崇敬を受けたという。

異国降伏の祈願もしたと言うが、 元弘三年(1333)には後醍醐天皇側に組して兵糧米を献上し、朝敵退散の祈祷をするなど戦勝祈祷を繰り返し、若狭・能登野の内乱においては住僧も巻き込まれ討ち死にしている。鎌倉・室町時代を通じて幕府、守護、地頭の崇敬を受け、歴代守護の祈願寺として隆盛を極めた。近在の土豪百姓らによる先祖供養のための如法経料足寄進札などで信仰を集めた。

大永八年(1528)の寺領目録によるば8町1反の寺領があったというが、江戸期以降は除々に衰退。しかし、その後火災にあうこともなく、鎌倉時代の国宝が存続できたことは幸いであった。古代から中世においては、天台宗・真言密教・修験道などの法灯を伝え、比叡山や高野山、吉野・熊野の両峯との交流もあったというが、今日では真言宗御室派に属す。

松永川にかかるゆずり橋を渡り山門へ。市指定文化財の山門は、明和九年(1772)江戸時代中期再建の瓦葺き重層。金剛力士像も市指定文化財で、文永元年(1264)鎌倉時代中期の作。山門手前の坂両側には、老杉の巨木か聳える。左手には小振りの鐘楼堂。ユズリハ、ノウゼンカズラ、ギボシ、アジサイの木を眺めつつ、三つ四つ石段を上がる。本堂は国宝。檜皮葺入母屋造り。正嘉二年(1258)頼禅法印の再建。桁行き14.7メートル、梁間14.9メートル。鎌倉時代の荘重な力感溢れる名建築と評されている。

本尊は、薬師如来、像高144,5㎝平安時代後期の作、重文。ヒノキの寄木造り穏やかな相好でゆったりとした量感、にこやかな表情を浮かべているかのよう。十二神将は室町時代の作。薬師如来の脇侍は普通日光月光菩薩だが、ここは、右に降三世明王、左に深沙大将の立像が祀られている。四つの顔と八本の腕を持ち、252,4㎝の巨像。インドの三世を支配するシヴァ神・大自在天を降伏させた力強い明王。シヴァ神と妃ウマを踏みつけている。明王像としては静かな品格を備えた名作。

深沙大将とは、玄奘三蔵(600-664)がインドに向かう際に、砂漠で救われたという護法神で、多聞天の化身とも言われる。西遊記の沙悟浄のモデルでもある。頭にドクロをのせ、右手に戟、左手に蛇をつかみ、腹部に人面を付ける異形の姿ではあるが、忿怒の相も穏やかで、太い足で悠然と立つ姿は、おおらかな落ち着きがある。像高256.5㎝。この像は他には、岐阜県揖斐郡横蔵寺、京都府舞鶴市金剛院などにしかない貴重な尊像。

この三尊の取り合わせは、おそらくその時代には所謂薬師三尊というような今日に見る日光月光の菩薩の配置が定着する前の古い時代のありようをそのままに継承してきたが為のものではないかと思う。それがおそらく寺創建の由来となり記述され伝承されたが為にそのままの形が残されたのであろう。薬師如来が本願功徳経によって役割が定まる前からある古い如来であることを考えればこのような配置はかなり沢山大陸や朝鮮半島ではその時代結構あり得たのではないかと思われる。

本堂左手奥には弁天堂がある。本堂前からは左手上、石段正面に美しく三重塔か聳えて見える。高さ22.1メートル。文永七年(1270)の再建。国宝。かつては瓦葺きだったが、昭和32年の解体修理の際に本堂と同じは檜皮葺きに。内部には釈迦三尊坐像、極彩色の十二天像壁画がある。塔を囲むように杉の巨木が立つ。塔正面には権現山の美景が望める。室生寺の五重塔は16メートルの小塔だが、同じ山寺の木々に囲まれた風情は共通する。見比べてみるのも面白い。

ところで、明通寺のご住職中嶌哲演師は、「原発銀座」と呼ばれる若狭で、長年にわたり原発反対運動の中心として活動され、「現場」から全国に向けて深いメッセージを発信してこられた。明通寺は、蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂がアテルイたちの鎮魂のために創建した寺院といわれるが、そのお寺の住職として、若狭の核廃棄物を青森に押し付けることに心を痛めているとも言われる。

地球温暖化問題が叫ばれ、石油の高騰に不安を煽られ、原子力の必要性に世論が傾くよう仕向けられ、欧米でも原発を終息させていく方向が改められようとしている現在、被曝労働をはじめ、いのちを蝕まれる人々や自然と常に向き合っている明通寺ご住職に対面し、出来ればそうした市民活動家としての一面からの話も是非伺いたいと思う。

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日本の古寺めぐりシリーズ第8回若狭神宮寺・明通寺をゆく 1

2010年02月22日 14時43分46秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
この古寺めぐりシリーズも、早いもので始めて5年目を迎える。番外編を入れると11回目。今回は3月11日、福井県小浜市に若狭神宮寺と明通寺に参る。案内にあるように神宮寺は東大寺のお水取りのお水を送る寺として有名であり、明通寺は石段の上に国宝の三重塔と本堂が聳える山寺。近代化されていない古風な佇まいにひとときの安らぎを感じる。そんな旅になるであろう。

小浜は「海のある奈良」と言われるほどに、お寺が多い。三万四千の人口に137ものお寺がある。近世までは外交の表玄関として大陸からの先進文化の到着地だった。ロシアから中国沿岸部をリマン海流が南下して、朝鮮半島東部にぶつかり若狭湾へ流れ込んでいる。古代からその流れによって、半島東岸の新羅、高句麗の人々が若狭へやってきていたらしい。

それと別に九州には、朝鮮半島西南部に向けて対馬海流が流れていて、そちら側にあった百済との交流が進んだ。だから北陸は古来大陸からの外来文化が到達しそれを奈良京都や大阪に伝える大切な役割を担っていた。平安時代頃には、筑紫太宰府から難波津への正式外交ルートと別に、渤海から北陸へという交易ルートが頻繁に行われていて、若狭は、敦賀、能登、新潟とともにファッション文化の中心地だったという。

だから、若狭とは、朝鮮語の行き来を意味するワカソ、若狭の中心地だった遠敷は、遠くにやるという意味のウフオンニューの音写だと言われる。その遠敷の産業は昔から漁業、薪炭・鋳物、それに農業・商工業だったといい、中でも海の幸は名産で、若狭小鯛(こだい)、若狭鰈(がれい)は有名で、それらが京都へ送られるので、若狭と京を結ぶ街道十八里は「鯖街道」と呼ばれ、水揚げされた鯖に一塩かけて京へ運ばれたのだという。

神宮寺は、JR小浜駅から東へ6キロ、遠敷川沿いにある。天台宗霊應山根本神宮寺というのが正式な名称だ。和銅七年(714)、元正天皇の勅願により開創。開山は、和朝臣赤麻呂(わのあそんあかまろ)と言われ、時に、赤麻呂の前に若狭彦神が現れ、「我鬼道に落ちその身を逃れん為に悪病を流行らせる止めたくば仏像を安置して寺を造り我が鬼を救え」とのたまわったという。はじめは神願寺と称した。地主神と渡来神が一社に合わせ祀られ「若狭日古神二座一社」または「遠敷明神」として祭祀されてきた神仏両道の寺。

平安時代には桓武天皇、また白河天皇(在位1072-1085)の勅命により伽藍整備が行われ。鎌倉時代には、第四代将軍頼経(よりつね)が七堂伽藍二十五坊を再建。若狭彦神社を造営して別当寺として、根本神宮寺と改称した。その後細川清氏(きようじ、応仁の乱の頃には丹波摂津を領していた。若狭は武田氏)が再興、越前・朝倉氏が本堂再建。しかし秀吉が荘園召し上げ、その後明治の廃仏毀釈によって規模が縮小した。

境内には沢山のかつてあった坊跡が散在している。仁王坊跡というのもあり、北門に鎌倉時代末期に出来た重文仁王門。注連縄が張られ、柿葺き切り妻屋根の高さ5.5メートルの大きな仁王門。南北朝時代の金剛力士像が祀られている。像高2.1メートル。砂利の敷かれた緩やかな坂道を歩く。途中にもいくつもの坊跡。そして、本堂にも注連縄が掛けられている。注連縄は浄と不浄を分ける結界を意味しており、これより神域との表示。本堂の背面には神体山、山内の巨木も神々しい。

本堂は檜皮葺入母屋造り。桁行き15メートル、梁間16.6メートル。天文22年(1553)越前守護朝倉義景の再興。本堂は正に神仏共存の道場。中央は、本尊薬師如来の空間。本尊は若狭彦神の本地仏。日光月光、十二神将が所狭しと祀られている。左手は、千手観音に不動明王、毘沙門天。そして右手に、若狭彦若狭姫の両明神と、手向山八幡(東大寺の鎮守)、白石鵜之瀬明神、那加王日古(本堂後背の長尾山の神)、志羅山日古(真向いの山の神)と大きく書かれた掛け軸が三幅掛けられ、それぞれの後ろに神々が住まわれているという。

境内には、外で焚く護摩の石組みがあり、開山堂、奥の院がある。そして何よりもこのお寺を有名ならしめているお水取りの香水を酌む閼伽井戸が南奥にある。その由来には、実忠というインドからの渡来僧が関わる。実忠は、東大寺初代別当の良弁の弟子で、もとは若狭神宮寺に住し、後に奈良に出て良弁を助けた。そして、摂津灘にて補陀洛山に向けて観音菩薩の来迎を祈念して、ついに十一面観音が閼伽の器に乗って飛び来たり、朝廷に願い二月堂に安置、まさに仏教伝来200年かつ大仏開眼の年、天平勝宝四年2月1日(現在は3月1日より)から二週間の行法を始めた。

これが修二月会と呼ばれ今日に至るまで一度も休むことなく不退之行法として1260年も続いてきた。実忠がその行法中、全国の神の名を読み上げ守護を念じたが、遠敷明神だけが漁に出て遅刻してきた。その詫びとして、十一面観音にお供えする閼伽水を若狭から二月堂へ送ることを約束した。

すると白黒二羽の鵜が飛び出したその穴から泉が湧き、お水取りの霊水になったので、東大寺二月堂下の閼伽井屋を若狭井と言う。神宮寺の閼伽井の湧き水を上流二キロの鵜之瀬に流し、奈良東大寺の若狭井に10日かけて到着すると言われ、3月2日に若狭でお水送りをして3月12日の東大寺の二月堂修二会お水取りに使われるのだと信じられている。

因みに、修二会は、11人の練行衆により一日六座行われ、「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と言う、十一面観世音を本尊として人々に代わって罪障を懺悔して、天下泰平・五穀豊穣・万民快楽などを願って祈りを捧げる行法。もとは卒天にて行われていた行法で、天の一昼夜は人間界の400日に当たるので、勤行を速め走って行ずる必要があった。

12日深夜勤行を中断して若狭井に松明をかかげ香水を酌みに行く。十一面観音様へお供えされる香水は、根本香水という毎年汲み足される甕と、次第香水というその年の水を入れた甕と二つあり、次第香水はお水取りの行が終わると参詣者らに頒布されるという。

奈良も朝鮮語の都を意味するナラの音写だという。奈良と若狭おそらくその繋がりをさらに延長して渡来僧実忠が遠くインドから日本に至る神仏の伝承すべてに懺悔祈願する行として位置づける象徴として、若狭から奈良に至る霊水の道があったのではないか。ないしは、神宮寺の霊水を卒天からの香水と見立てたのであろうか。とにかく興味尽きない想像を膨らませてみたくなる伝承である。

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第7回日本の古寺めぐりシリーズ観心寺と金剛寺2

2009年11月12日 12時34分57秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
天野山金剛寺・真言宗御室派大本山

南河内郡天野村にあるので天野山といい、寺伝によると、聖武天皇の勅願で、僧行基が天平年間に伽藍を開創し、後に弘法大師が三密修行の地としたと言うが、その後荒廃して四百年の後には堂塔坊舎が荒廃していたところ、二条天皇の永萬元年(1165)高野山の僧・阿観上人が高野明神の霊夢によって、天野に来て、高野山の別院として再興を朝廷に奏聞した。これに後白河法皇が応え、金堂、多宝塔等三十余りの堂宇、坊舎七十余りを造営。さらに院宣によって仏舎利を賜り、寺号を金剛寺と改め、楼門に宸翰の扁額「金剛寺」を賜った。

建久二年には、後白河院によって、寺域内の殺生が禁じられ、阿観門流からの師資相承を命じ福寿増長を祈らせている。これにより寺運益々隆盛を見るに至った。また特に、八条女院子内親王は、当寺を崇敬すること深く、眞如親王の真蹟弘法大師画像を御影堂に安置して毎年御影供を厳修させられたという。八条女院は、鳥羽天皇の皇女で、父帝の死後その所領の大半を譲り受け、日本一の富裕者と言われた。

金剛寺との縁は、女官として仕えていた二人の姉妹が阿観により剃髪せられて弟子となり、浄覚、覚阿と称して、女院にはたらきかけたからとも言われ、金堂が出来ると女院の祈願所とされて、その威儀法式すべてに亘って高野山の如くせられた。阿観の後、この二人の姉妹が院主となり、女人禁制の高野山に参られない女性の参拝を歓迎したので、世に「河内の女人高野」と呼んで、建久九年(1198)には仁和寺北院の末に列せられた。

仁和寺は宇多法皇開創の皇室の大寺で、爾来皇室からの崇敬特に厚く、護良親王は金剛寺に戦勝祈祷を依嘱され元弘三年(1333)播磨の国西河井庄を寄進、建武二年(1335)には、後醍醐天皇が東寺の仏舎利五粒を賜れ、官軍の寺内乱入を禁じ、和泉の国大鳥庄を祈祷料として知行せしめた。さらに、正平九年(1354)、後村上天皇が大和より遷られ、食堂と摩尼院を十四年十二月まで六年間行宮となされ、当寺興隆にも尽くされた。南朝方が金剛寺を拠点としたのは、八条女院の所領が回りまわって後醍醐天皇が領したからだという。

さらに、この前のこと、北朝の光厳、光明、崇光の三上皇も逃れて、塔頭観蔵院を御座所とされ特に光厳上皇は、当寺学頭禅恵を戒師に落飾、僧名を恵信と称された。天正十一年には、秀吉が寺領三十七石を安堵、安堵とは領主などが所有権を認めたことを言う。慶長十年には、秀頼が諸堂宇の大修繕を行い、徳川氏も寺領を安堵。元禄十三年、綱吉の時に更に再修繕をして現在に至る。境内の楼門は、鎌倉時代後期作、朱塗り、本瓦葺き、3メートル近い持国天と増長天が祀られる。

金堂は、七間四面、本瓦葺き、入母屋造り、承安元年後白河法皇の御建立。本尊金剛界大日如来、五智宝冠に智拳印を結ぶ。平安時代、木造像高313.5㎝重文。右に不動明王、鎌倉時代、像高207㎝。左に降三世明王、鎌倉時代、像高220㎝。ともに運慶作で重文。

食堂、多宝塔も重文。食堂は向拝のみ檜皮葺。行在所となったので天野殿とも言う。多宝塔は、三間四面の下層を方形とした密教寺院に造られる塔で、内部には、八角の須弥壇に、大日如来を安置。他に御影堂、観月亭、薬師堂、護摩堂、求聞持堂等多くのお堂がある。寺宝古文書が頗る多く、特に南朝に関する古文書は天下の至宝と称せられる。

観心寺、金剛寺共に、最近結成された西国の名だたる古社寺が加盟する神仏霊場に入っている。参加社寺は百五十余り、かつての伊勢参り、熊野詣で、西国観音などで古びとが歩いた社寺をみな網羅している。当初加盟していなかった伊勢神宮は後から参加を申し出られ、なおかつ札所の頭にしてくれと言われたとか。明治の神仏分離、廃仏毀釈の前の人々の信仰の姿を現代に再現する誠に興味つきない霊場となっている。

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第7回日本の古寺めぐりシリーズ観心寺と金剛寺1

2009年11月11日 13時54分40秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
シリーズの7回目、番外まで入れると10回目となる今回は、はじめて大阪府内のお寺。これまで、京都奈良を中心に、西に東にと参詣を続けてきたが、まだまだ誰もがあまり行ったことのないお寺、行っていそうで行けてない盲点のような古刹、もちろん札所でもないところが沢山ある。そんなお寺をこれまでも探し出して参詣してきたが、今回もそうした古寺を、今月27日に訪れる。

大阪南部の観心寺と金剛寺。ともに真言宗の古刹である。古くより京都や大阪から高野山に至る高野街道の中継地として栄えた地。また南北朝時代には、南朝の功労者である楠木正成が観心寺で少年時代を過ごし、後醍醐天皇の皇子後村上天皇も金剛寺で6年、観心寺に10ヶ月行宮を開いた。正に南朝の本拠地、歴史の舞台として記憶されている。

地理的には、弘法大師との縁の深い土地であり、当時は、京都の東寺から高野山へ登山する際には、奈良の東大寺を経て、明日香村の弘福寺を通り、西の水越峠を越えて観心寺に入り、南に紀見峠を越えて吉野と尾根続きの高野山に登ったという。このあたり、つまり大阪府と奈良県和歌山県の三県の境、葛城山、金剛山のある金剛山地、それから和泉山脈は修験の行場で、昔から沢山の行者が往来した土地。また、西には、大阪湾南部の海が近く、山と海からの様々な文物情報の行き交う要衝として栄えた。

檜尾山観心寺・高野山真言宗遺跡本山
観心寺は、河内地方最大の古刹、創建は奈良時代前期、文武天皇の大宝年間(701~704)に修験道の開祖・役小角によって草創された(雲心寺として)。現在観心寺に伝えられる四体の金銅仏(観音三、釈迦一)は、奈良時代前期(白鳳期)の作とされ、この頃の遺品とされている。その後寺伝によれば、弘法大師空海が帰朝2年目の大同三年(808)当地巡錫の折、北斗七星を勧請。高雄山寺での金剛界灌頂の2年後、高野山開創の前年に当たる弘仁六年(815)に再度この地を訪れ、国家安康・衆生除厄祈願をして如意輪観世音菩薩(七星如意輪観世音菩薩)を刻み本尊とし、寺号を観心寺と改めたといわれる。

本格的な伽藍造営は、甥の実恵(じちえ)とその弟子真紹(しんじょう)によって行われた。実際には、実恵が国家のために建立を発願し、真紹が実行したであろう。その後も法灯よく護持され、定額寺として、密教の一寺院にして官寺でもあった。(定額寺とは延暦二年(783)以降朝廷が定めた官寺であり、官稲などが給される)

当時の伽藍堂舎は現在ほとんどないが、全ての建物は桧皮、及び萱葺きであり、瓦葺きのものはなかった。創建期の伽藍と現在のそれとでは、地形、形態などに大きな違いがあった。寺領荘園は、地元の河内国錦部郡のほか、石川郡、古市郡(現在の大阪府南東部)、紀伊国伊都郡、那賀郡(現在の和歌山県北東部)、但馬国養父郡(現在の兵庫県北東部)などにわたっていた。

また『三代実録』によれば、禅林寺に安置された仏像が斉衡元年(854)、河内国観心寺で製作されたと記しており、現在観心寺には檜材で造られた仏像が多数残されていて(そのほとんどが文化財に指定されている)東寺の仏像との近似も言われており、これらの仏像は檜材に富む河内の地で製作したらしい。つまり当時観心寺は造仏所を併設していたのであった。

鎌倉時代には、源頼朝以来の慣例を明文化した武家法『関東御成敗式目』(貞永式目)の第二条に、「可下修造二寺塔一勤行中佛事等上事右寺社雖モ異ルト崇敬ハ是同ジ仍テ修造之功恆例之勤」などとあるように、武家社会になっても、仏教、寺院に対する基本的な姿勢に変化はなかったといわれる。

そして、鎌倉末期、建武新政へ至る元弘元年(1331)、後醍醐天皇の蜂起、楠木正成の挙兵は河内の地、とりわけ観心寺を政争の荒波の中に巻きこむ。楠木正成は、ご存知の通り明治以降大楠公と言われ南朝方の大功労者であり、公家も武士も主に誰を選ぶか損得ばかりで右顧左眄していた中で、劣勢と知りつつも終生後醍醐帝に忠誠を貫いたことで知られる。正成が八歳から十五歳まで観心寺中院で学問に励んだ時の師・滝覚坊は観心寺で正成に、四書五経、宋学、国史を中心に教授したという。

そのなかでも正成に大きな影響を与えたのは、弘法大師請来の『心地観経』の中にある四恩の教えだという。四恩とは、父母、衆生、国王、三宝に対する四つの恩をいい、天皇のために一命を賭して忠誠を尽した正成の生き方は、後世勤皇の祖として、坂本竜馬、西郷隆盛等明治維新で活躍した志士達の精神的支柱となった。その根底にあったのがこの四恩の教えであったという。敵味方の区別なく戦死した兵の菩提を弔ったことや、恩顧のあった社寺に対する敬虔な態度なども、この教えが影響しているのであろう。

正成は、元弘元年、後醍醐天皇に応じて倒幕に挙兵、二十万とも言われる鎌倉幕府軍をたったの五百騎で赤坂山にて神出鬼没の奇襲により対抗、その後後醍醐天皇は捕らえられ隠岐に島流しにあうものの、その後六波羅探題軍、さらには幕府軍と、赤坂城千早城にてわら人形の策、長梯子の計など機略を施した戦法で撃退、後醍醐天皇の全国の武将への綸旨を出し、反幕府に挙兵した新田義貞軍によって鎌倉幕府が滅び、ここに建武の新政がなった。

元弘三年(1333)後醍醐天皇は綸旨を発して観心寺地頭職は寺家に付され、同年十月十五日、天皇は弘法大師作と伝える観心寺不動明王像を宮中に遷座するように綸旨を下した。諸祈願をすべく念持仏とされたのであろうか。正成は観心寺に、十月廿八日に不動明王が京都に到着するよう依頼し、滝覚坊自身が不動明王とともに上洛することを勧めた。この間観心寺では、従来五間四方であった講堂(現金堂)の外陣造営を、後醍醐天皇の勅命により楠木正成が奉行し、自らも三重塔の造営を進めた。

しかし、その後建武二年(1335)尊氏が新政に離反。尊氏追討の命を受けた義貞が箱根・竹ノ下の戦いに敗北して、足利軍が京へ迫るが、正成らは足利方を京より駆逐する。しかし延元元年(1336)足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏との和睦を進言。しかし容認されず、次善の策として天皇の京都からの撤退を進言するも却下。

正成は、絶望的な状況下で義貞の麾下(きか)での出陣を命じられ、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で足利直義の軍に敗れて、弟の楠木正季と刺し違えたとされる。これにより観心寺で建立していた三重塔は、その完成を見ることなく、初層のみの大きなわらぶきの屋根が載る有名な建て掛けの塔として残る(重文)。正成の戒名は「忠徳院殿大圓義龍大居士」、後醍醐天皇より賜わったもの。

尊氏は光明天皇を立てて幕府を開き、建武の新政は頓挫して、後醍醐天皇は神器を奉じて吉野へ遷られた。これにより、元中九年(1392)後亀山天皇が後小松天皇に神器を渡し、南北朝の合一となるまでの56年間を南北朝時代という。因みに神戸中央区の正成自害の地には、湊川神社が明治五年に理想的な勤皇家としての正成を主祭神とする立派な神社が出来ている。

延元四年(1339)八月十五日後村上天皇即位、同年八月十六日には、後醍醐天皇が吉野で崩御。正平十四年(1359)には、後村上天皇が天野山金剛寺から観心寺へ遷り、翌年五月大和宇智郡北山に移られるまでの間10ヶ月間行宮を開き過ごされた。正平二十三年(1368)三月十一日、天皇四十一歳で崩御、同年観心寺に葬られる。

中世末期、室町時代後半の観心寺は南朝時代の情勢と大きく異なり、漸次衰退の兆しをみる。戦国時代までは、つまり応仁の乱の前までは、この地を統治した畠山家の寄進を受けるが、かつての盛時には到底及ばなかった。南北朝時代に戦乱の渦中にあった河内の地は、この時期、畠山氏の内紛に端を発した抗争で再び戦乱の地となった。そして、畠山氏の没落後の織田信長の登場は、観心寺にとってさらなる大きな打撃となる。『檜尾蔵記』によると、観心寺は七郷支配によって九十三石の知行があったが、天正八年(1580)をもって終わりを告げた。しかし、信長の跡を継いだ豊臣秀吉は文禄三年(1594)、観心寺村を検地のうえ二十五石を寺に寄附した。

この時期、文禄四年(1595)と慶長十八年(1613)の二回にわたり、持明院正遍と豊臣秀頼によって金堂の修理がおこなわれているが、寛永十年(1633)八月十日、洪水によって、金堂、塔、坊舎など多数が破損、翌十一年(1634)将軍家光の上洛の際、観心寺惣中が伽藍の造営を奉行衆に願いでて、正保三年(1646)御影堂再建になり、万治二年(1659)阿弥陀堂建立、同年八月には西南両大門が再建されている。寛文五年(1665)九月十日には金堂修理完成、元禄十二年(1699)には行者堂が再建。

延宝六年(1678)、河内国石川郡山中田村に生れた堯恵は、五十五歳で観心寺僧綱の最上位である法印に昇進し、『檜尾蔵記』四巻四冊、『檜尾山年中課役双紙』五巻五冊をはじめ、『金堂修理萬記』、『一院建立萬記』、深い学識と謹厳な筆体で寺史を残した。また安永三年(1774)には開基の実恵僧都に対し、後桃園天皇から道興大師号が贈られた。

明治維新前の文久三年(1863)八月、中山忠光を総裁とする尊皇攘夷を訴える天誅組は大和五條に打ち入る前の十七日、楠木正成の墓前に詣でた。明治四年(1871)寺領上地(政府に上納)、同十九年(1886)内務省より保有金五百円下附、同三十一年(1898)金堂修理。昭和四年(1929)には金堂尾根瓦葺き替え。昭和五十九年(1984)十一月、金堂昭和大修理落慶をみる。

金堂の前には、弘法大師の礼拝石があり、国家安泰と厄除けのために北斗七星を勧請し、七つの石が降ってきたとして、梵字の刻まれた石が境内に祀られている。金堂は南北朝の建造で府下最古、国宝。七間四面の入母屋造り、本瓦葺き、和様、禅宗様、大仏様の折衷様式、左右板壁に両部曼荼羅、内陣須弥壇には三基の厨子。

中央に国宝如意輪観音。像高109㎝平安時代作、榧一材から彫りだした像の表面に木の粉を漆で練ったもので塑形。密教彫刻の中で、最も魅力的な傑作と言われる。意の如く宝を出す宝珠と説法の象徴である法輪、蓮華に数珠を持つ六臂、災害を除き、病気平癒、延寿、安産などに効験がある。この像は、嵯峨天皇の后檀林皇后が840年頃に像立したものと言われ、秘かに皇后のイメージが重ねられているとも言う。

左右に愛染明王、不動明王。修法壇は正面に一つと左右に二つ曼荼羅に向いて置かれている。広大な境内には沢山の堂宇があるが、金堂左手に霊宝館があり、地蔵菩薩立像や宝生如来像など重文の平安期の見事な木彫像が収蔵されている。その逆側には、阿弥陀堂に御影堂、開山堂には実恵大徳(道興大師)像が祀られ、御廟もある。その奥に正成の首塚、師の龍覚坊の墓、山門近くには、後村上天皇旧跡碑、山門手前には、正成騎馬像がある。


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善光寺ご開帳に参詣す 3

2009年05月15日 08時34分58秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
それでは定額山善光寺の諸堂並びに諸尊について述べてみよう。まずその伽藍配置は、真北に進むと仁王門、山門、金堂がある配置で堂宇が南北線上にある古代の伽藍形式。現本堂は、宝永4年(1707)の再建。高さ約27メートル、間口5間約24メートル、奥行14間約53メートルで、桧皮葺、国宝に指定されている木造建築の中で3番目に大きいといわれている。 昭和28年(1953)3月、国宝に指定。建物は撞木(しゅもく)造りと呼ばれる屋根を持っている。撞木とは鉦、鐘などを打つT字型の法具のこと。入母屋造りの屋根をTの字に組み合わせた構造である。

入って回廊の前に賓頭廬尊者、外陣左に閻魔大王、内陣前には、来迎二十五菩薩、右に地蔵菩薩、左に弥勒菩薩、内々陣前に、向かってやや左側の瑠璃壇、こちらに御本尊が祀られ、正面には御三卿つまり、中央に善光寺開山の祖とされる本田善光卿像、向かって右に善光の妻弥生御前像、左は息子の善佐卿像が安置されている。瑠璃壇の御本尊は、一光三尊阿弥陀如来像。綱吉の生母桂昌院寄進の御宮殿の中の厨子に納められている。中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が一つの光背の中におられる。

御本尊は白雉5年(654)孝徳天皇の勅命で絶対秘仏とされた。先にあげた『善光寺縁起』によれば、善光寺如来は、遠くお釈迦様在世の時にインドで出現し、その後百済に渡り、欽明天皇十三年(552)、日本に仏教が伝来した時に、百済より贈られたと伝えられる。古来より「生身の如来様」といわれ、人肌のぬくもりを持ち、人と語らい、その眉間の白毫から智恵の光明を発しているという。奈良の法隆寺には「善光寺如来御書箱」という、聖徳太子と善光寺如来様が取り交わした文書を入れた文箱が現存している。

善光寺の御本尊の印相は、中央、阿弥陀仏は、右手は手のひらを開きこちらに向けた施無畏印、左手は下げて人差し指と中指を伸ばし他の指は曲げるという刀印と言うが、薬指と親指が着いている。下品下生の印と言われている。左右の菩薩の印は梵篋印、胸の前で左の掌に右の掌を重ね合わせる珍しい印相。その掌の中には真珠の薬箱があるという。また、三尊像は蓮の花びらが散り終えて残った蕊が重なった臼型の蓮台に立っている。

今回ご開帳のお前立ちは、銅造像高42.4㎝脇侍は30㎝。鎌倉時代初期に御本尊を精緻に写したとされ、重文。7年ごとに御三卿の間の左に宮殿を設けてご開帳される。本堂では床下の真っ暗な通路を通り、本尊の阿弥陀如来が安置されている瑠璃壇の真下にあるとされる「極楽浄土への錠前」に触れる「戒壇巡り」が500円で入場券を購入し阿弥陀如来へ祈祷後に体験できる。

三門(山門)は、寛延3年(1750)に建てられた重文。高さ20メートル幅20メートルの楼門。平成19年(2007年)に修復工事がなされ、大正から昭和にかけての修理で檜皮葺きになっていた屋根が、創建当初の栩葺き(とちぶき)に改められた。栩葺きとはサワラの板材で屋根を葺く方式。扁額は鳩が五羽隠された鳩文字。輪王寺宮公澄法親王の字。昔は楼上に木像百羅漢像が安置されていた。今は、文殊菩薩に四天王像。また、江戸時代から昭和に至るまでの参拝者による落書きが多数残されている。

経蔵は宝暦9年(1759)落慶の重文。方15メートルの宝形造り。江戸時代の鉄眼版一切経6771巻を納める輪蔵がある。輪蔵は、腕木を押して回すと、一切経を読誦した功徳ありという。中国南北朝時代に輪蔵を発案した傳大士(ふだいし)と二人の息子の像がある。釈迦如来、如意輪観音を祀る。

梵鐘は、寛永9年(1632)の銘がある鐘が破損して、寛文7年(1667)に新鋳したのが現在の銅鐘。高さ180センチ。この他沢山の文化財がある。善光寺造営図 1巻 源氏物語事書(大勧進所有)重要美術品。銅造地蔵菩薩坐像(通称:濡仏)享保7年(1722)銘。釈迦涅槃像銅造166㎝。鎌倉時代重文。出開帳の時には前立本尊と共に各地に運ばれた。善光寺参道(敷石)史跡(市指定)1714年完成。当時の敷石の枚数は7777枚、現在では6千枚強。算額 天保3年(1832)3月 吉田玄魁堂門人田原小野右衛門忠継他5名奉納。 算額 天保4年(1833)仲秋 武内担度道門人山下喜総太宣満他4名奉納。

なお、ご開帳には、寺がある場所で開催する『居開帳』の他に、大都市に出向いて開催する『出開帳』があった。出開帳には、江戸、京都、大阪で開催する『三都開帳』や諸国を回る 『回国開帳』がある。何れも、境内堂社の造営修復費用を賄うための、一種の募金事業として行われた。

今回の善光寺のご開帳の正式名は、「善光寺前立本尊御開帳」。7年に1度(開帳の年を1年目と数えるため、実際には6年に1度の丑年と未年)、秘仏の本尊の代りである「前立本尊」が開帳される。普段、前立本尊は本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進に安置され、開帳の始まる前に「奉行」に任命された者が、前立本尊を担いで本堂の中まで運ぶという。

期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱が五色の紐で結ばれ、回向柱に触れると前立本尊に触れたのと同じ利益があるとされる。回向柱(えこうばしら)は、松代藩が普請支配として建立されて以来の縁により、代々松代町(藩)大回向柱寄進建立会から寄進される。2003年は赤松が使用され、2009年は小川村産の樹齢270年の杉を使用。

また、釈迦堂前にも小さい回向柱が立てられ、堂内の釈迦涅槃像の右手と紐で結ばれ、回向柱に触れることにより釈迦如来と結縁し、現世の幸せが約束されるとされる。故に、この二つの回向柱に触れることにより、現世の仏様である釈迦如来と来世の仏様である阿弥陀如来と結縁し、利益・功徳が得られると言われる。

江戸時代の居開帳は、1730年から始まり、八年から十数年の間をおいて開帳されてきた。今日のような七年に一度のご開帳は明治以後であり、 丑年と未年開催が慣例となるのは1955年から。 2003年には同時期に甲府市の善光寺(甲斐善光寺)、長野県飯田市の元善光寺、稲沢市の善光寺東海別院の四善光寺同時開帳となり、今回は、岐阜市の岐阜善光寺、関市の関善光寺を加えた史上初の六善光寺同時開帳となる。

なお、寺内に、寛慶寺という大寺が位置しているが、このお寺は、浄土宗総本山知恩院の末寺にして、寿福山無量院寛慶寺という。はじめ、治承4年(1180)九月栗田城主 、戸隠山顕光寺(現戸隠神社)別当栗田範覚に依り栗田の地にお寺が建てられ栗田寺といったが、栗田氏は代々戸隠山別当を世襲し寛覚の代に至り、鎌倉幕府より更に善光寺別当をも任じられた。以来、代々、善光寺・戸隠両山別当を世襲。栗田寛慶、明応5年(1496)十二月没するとその子寛安は、父の遺言に依り栗田寺を善光寺東門(現在地)に移し、父寛慶の名を以て寺号とした。天正10年(1582)洞誉春虎(どうよしゅんこ)和尚を招じ開山第一世とし、以来二十世四百年連綿法灯を継承という。

なお、西国巡礼のお礼参りに古来善光寺と北向観音に参る習慣があるが、現在では、高野山にお礼参りする人もあるという。しかし、平安後期頃から教えを聞くだけでなく、自ら善行功徳を積むべきであるとの考えから、霊地霊蹟へ参る習慣ができはじめると、いつの時代からか、たとえば東国から入る場合に、西国参りの前に伊勢神宮に参り、熊野詣でを済ませてから観音巡礼をスタートし、最後にお礼参りとして善光寺に参って帰路につくという誠に長期の参詣の旅が一つの定型となっていったようだ。

当時既に浄土教が浸透していた時代でもあり、観音の聖地に修行して現世の利益を願い、その観音の母体とも言える阿弥陀如来に最後参って来世の極楽往生を願うというときに、やはり、日本最古の霊験あらたかな善光寺如来に参詣しなければという気持ちに巡礼者を誘ったものだと言っても不都合はあるまい。それだけ当時から善光寺は有名であり、またその威徳は高かったのだと言えよう。

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善光寺ご開帳に参詣す 2

2009年05月13日 11時55分32秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
以上がおおよその善光寺縁起であるが、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642)現在の地に遷座したらしい。皇極天皇三年(644)には勅願により伽藍が造営され、善光の名を取って「善光寺」と名付けられた。おおよそ11世紀前半ごろから貴族を中心に浄土信仰が盛んになり、しだいに善光寺聖と呼ばれる念仏聖が本尊のご分身仏を背負い、この縁起を絵解きして、全国津々浦々を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めていったのだった。

善光寺縁起は、後に作られた物語にせよ、実際に善光寺の周辺からは、白鳳時代の瓦が度々発見されているという。大正十三年と昭和二十七年には境内地から白鳳時代の川原寺様式を持つ瓦が発見され、7世紀後半頃にはかなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかっている。また、平安後期12世紀後半に編集された『伊呂波字類抄』は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として中央にも知られていたことを示す記事を伝えている。

鎌倉時代になると、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地を寄進した。善光寺信仰が広まるにつれ、全国各地には新善光寺が建立された。現在では全国善光寺会という組織ができ、200以上の寺社が加盟して2年に一度善光寺サミットが開催されている。また、鎌倉時代には東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人、時宗の宗祖・一遍上人なども善光寺に参拝した記録が残っている。

戦国時代に入ると、善光寺平では甲斐武田信玄と越後上杉謙信が信濃の覇権を巡り川中島の合戦を繰り広げた。当時善光寺平は上杉の支配にあり、謙信は寺宝のいくつかを本拠地に移した。しかしその後、弘治元年(1555)、武田信玄は御本尊や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移す。その地が現在は甲斐善光寺となっている。現在は浄土宗。

その後快進撃を続けた武田家だったが信玄歿後、織田・徳川連合軍に敗れると、信長は御本尊を岐阜に遷座させてしまう。その三ヶ月後に本能寺に信長は没して、美濃の所領を分割された信雄(のぶかつ)は、尾張清洲城近くの甚目寺(じもくじ)に遷座させるも、信雄と同盟を結んだ家康が、その翌年には、浜松の鴨江寺に移す。しかし家康の夢枕に善光寺如来が立ったとのことで、また、甲斐の善光寺に再び遷座、十数年を過ごす。

しかしその後天下人になった豊臣秀吉が京都に奈良の大仏よりも大きな大仏を建造した方広寺の造営に当たり、地震で落慶目前に倒壊した大仏の代わりに御本尊として善光寺如来を移し祀った。しかし、それ以来京には疫病が流行り、秀吉の周辺でも不幸が続き、自らもにわかに病に罹る。秀吉は如来の祟りと思って、信濃善光寺へ善光寺如来をお還しすることにして、善光寺如来が京を出発したその翌日秀吉は伏見城で亡くなったという。こんな風聞がまた庶民の信仰を煽ったのであろう。

42年振りにご本尊が戻った善光寺は戦乱の時代に巻き込まれ、荒廃を余儀なくされた。しかしその後江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げた。泰平の世が到来すると、「一生に一度は善光寺詣り」との言葉が流布して、念仏を唱えて一心に祈る者を皆極楽浄土に導いくれる、男女平等、地位や身分の上下にかかわらず人々の救済を説く寺院として知られていった。

ところで、女性の参拝者が多いことが善光寺詣りの特徴であり、当時の絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれているという。創建以来十数回の火災に遭い、江戸時代に入ってからも火災に遭っているが、御本尊様の分身仏である前立御本尊を奉じて全国各地を巡る「出開帳」によって浄財が寄せられ、宝永四年(1707)には現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられた。

現在善光寺は、天台宗本坊大勧進とそれに属す25院、そして、浄土宗大本願14坊が護持している。大勧進貫首と大本願上人が共に住職を兼務している。しかしそれは明治以後のことであって、おおもとには宗派のない時代を経て、宗派ができると八宗兼学と言われるように各宗の僧侶が滞在したであろう、しかし大本願の伝承では、そもそも皇極天皇の命により蘇我馬子の娘・聖徳太子妃が出家され尊光上人と称し開山上人として、代々女性の上人が住職してきたのだと言う。

善光寺住職でもある善光寺上人は、かつては宮中から上人号と紫衣着用の勅許を賜った称号で、尼僧では信州善光寺、伊勢神宮の慶光院、熱田神宮の誓願寺が近世において日本三上人と称されていた。現在では善光寺上人のみが法燈を伝承し、住職晋山時には宮中参内が慣例になっている。現在の善光寺上人は第121世鷹司誓玉大僧正(たかつかさせいぎょくだいそうじょう)。

一方、弘仁8年に伝教大師が信濃路巡錫の際、善光寺に参籠され、それより天台の宗風により善光寺は護持されたともいう。この僧たちが、ある時期から浄土信仰をもって、善光寺の営繕修理護持のために全国に勧募する権限を持つ組織である大勧進として善光寺の全般について管理してきたものと考えられよう。

江戸時代、慶長6年(1601)徳川家康によって大本願を歴代住職とし、大勧進は経理面を担当するように制度化された。明治9年(1876)県より大本願は浄土宗・大勧進は天台宗として寺務を分掌され、明治26年(1893)大本願と大勧進の争論が県により調停されたと大本願のホームページに記されている。おそらく、これによって、両者が共に住職を兼務する現体制になったのであろう。なお、二宗管理の寺としては、当麻寺が真言宗と浄土宗の二宗で管理している。つづく

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善光寺ご開帳に参詣す 1

2009年05月11日 19時45分57秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
5月26~28日、朝日新聞愛読者企画「日本の古寺めぐりシリーズ」特別編として、七年に一度の善光寺ご開帳にあわせ、善光寺、北向観音はじめ周辺の霊場を参詣する。善光寺は、昔一度だけ松本に行った折に帰りしなによって、駅から歩き参詣したことがある。長い仲見世通りを歩いた印象しかないが、多くの参拝者で賑わっていたことはよく記憶している。

長いバス旅の中でじっくりと参詣寺院の縁起などについて解説するよすがに、少し調べを進めてみよう。それにしても善光寺は凄い。今でも毎年600万人もの人が参るという。その秘密は奈辺にあるのであろうか。よくよくいろいろな文献をさらってみると、どうも、女人に古来開かれたお寺だからというところにあるらしい。

女が参れば男も参る。女性に優しい、誰でも受け入れる懐の広さ、皇室や貴族のためでなく一般庶民の為に開かれたお寺、それに最も古い部類に入るお寺の由来の確かさも起因しているだろう。牛に引かれて善光寺参りの主人公も女性だった。善光寺のホームページによれば、以下のような物語がその原型だという。

『昔、信濃の国、小県の里に心が貧しい老婆がいました。ある日、軒下に布を干していると、どこからか牛が一頭やってきて、その角に布を引っかけて走り去ってしまいました。女はたいそう腹を立てて、「憎たらしい。その布を盗んでどうするんだ。」などと怒りながらその牛を追いかけていきました。

ところが牛の逃げ足は早く、なかなか追いつきません。そうする内に、とうとう善光寺の金堂前まで来てしまいました。日は沈み牛はかき消すように見えなくなりました。ところが善光寺の仏さまの光明がさながら昼のように老婆を照らしました。ふと、足下に垂れていた牛の涎(よだれ)を見ると、まるで文字のように見えます。その文字をよく見てみると、

「うしとのみ おもひはなちそ この道に なれをみちびく おのが心を」

と書いてありました。女はたちまち菩提の心(仏様を信じて覚りを求める心)を起こして、その夜一晩善光寺如来様の前で念仏を称えながら夜を明かしました。昨日追いかけてきた布を探そうとする心はもうなく、家に帰ってこの世の無常を嘆き悲しみながら暮らしていました。

たまたま近くの観音堂にお参りしたところ、あの布がお観音さんの足下にあるではないですか。こうなれば、牛に見えたものは、この観音菩薩様の化身であったのだと気づき、ますます善光寺の仏さまを信じて、めでたくも極楽往生を遂げました。そしてこのお観音さまは今、布引観音といわれています。これを世に「牛に引かれて善光寺参り」と語り継いでいるのであります』ということである。

『善光寺縁起』なるものがある。それによれば、善光寺の一光三尊阿弥陀如来は、なんとインドのお釈迦様の時代にまでその起源があるとしている。おおよその物語は以下のようである。

お釈迦様が、ヴァイシャーリーという街におられたとき、托鉢に回っても何も差し出さなかった長者が、娘が疫病に罹り薬も効かず、お釈迦様に救いを求めたところ、「西方極楽世界におられる阿弥陀如来様におすがりして南無阿弥陀仏と称えれば、この如来様はたちまちこの場に出現され、娘はもちろんのこと国中の人民を病から救ってくださるであろう」と言われた。(勿論これは大乗の浄土経典に基づくお話しになっている)

そこで、長者が一心に念仏すると、西方十万億土の彼方からその身を一尺五寸に縮められ、一光の中に観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う阿弥陀三尊の御姿を顕現され大光明を放った。たちまち娘の病は癒されたが、長者はその三尊を止め置くことをお釈迦様に頼み、目連尊者が竜宮に行き、竜王から閻浮壇金(えんぶだんきん・経典に出てくる想像上の最も高貴な金)をもらい、それを手にした長者は、また一心に阿弥陀如来の来臨を乞うと出現し、閻浮檀金は変じて、三尊仏そのままの御姿が顕現した。この新仏こそ、後に日本国において善光寺如来として尊崇を集める如来様であったという。

時は流れ、百済国では日本に仏教を伝える聖明王の治世を迎えた、この王はこの阿弥陀如来を顕現した長者の生まれ変わりで、百済国に顕現し教化の後、如来様は次なる教化の地が日本国であることを自ら告げた。そして、欽明天皇十三年(552)、この尊像は日本に渡ることになった。

天皇は蘇我稲目にこの尊像をお預けになり、稲目は屋敷を向原寺と改め、如来様を安置し、毎日奉仕した。これが我が国仏教寺院の最初である向原寺であった。しかし、国内でにわかに熱病が流行ると、物部尾輿はこれを口実として、向原寺に火を放った。が、如来様は不思議にも全く尊容を損うことがなく、ついに尊像を難波の堀江に投げ捨てた。

後に、聖徳太子は難波の堀江に臨まれ、沈められた尊像を宮中にお連れしようと祈念されると如来様は一度水面に浮上し、「今しばらくはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待とう。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す時だ。」と仰せられ、再び御姿を水底に隠した。

ある時、信濃国の本田善光が国司に伴って都に参った。この難波の堀江にさしかかると、「善光、善光」と、いとも妙なる御声がどこからともなく聞こえてきた。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現した。如来様は、善光が過去世にインドでは月蓋長者として、百済では聖明王として如来様にお仕えしていたことをお話になった。

そして、この日本でも多くの衆生を救うために、善光とともに東国へお下りになられることをお告げになる。善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰り、西のひさしの臼の上に安置。やがて御堂を建てて如来様を移したが、翌朝、最初に安置した臼の上に戻っていた。そして、善光に、「たとえ金銀宝石で飾り立てた御堂であろうとも、念仏の声のないところにしばしも住することはできない。念仏の声するところが我が住みかである」と仰せになったという。

善光は貧困で灯明の油にも事欠く有様だったが、如来様は白毫より光明を放たれ、不思議なことに油の無い灯心に火を灯された。これが現在まで灯り続ける御三燈の灯火の始まりという。如来様の霊徳は次第に人々の知るところとなり、はるばる山河を越えてこの地を訪れるものは後を絶たなかった。

そこで、時の天皇である皇極帝は、善光寺如来様の御徳の高さに深く心を動かされ、善光と善佐を都に召されて、ついに伽藍造営の勅許を下された。こうして、三国伝来の生身の一光三尊阿弥陀如来を安置し、開山・善光の名をそのまま寺号として「善光寺」と称した。以来千四百年以上の長きにわたり、日本第一の霊場として全国の老若男女に信仰されるようになったのだという。つづく

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華蔵寺に参って

2009年03月11日 09時25分31秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
一昨日3月9日、『朝日新聞愛読者企画、日本の古寺巡りシリーズ第六回、出雲国をゆく、鍔淵寺と華蔵寺』にて両寺を参詣した。鍔淵寺は深遠な厳かな雰囲気を漂わせる霊地に相応しい重々しさを感じさせてくれた。華蔵寺は松江城築城の際その鬼門として再建された伽藍を今にとどめる枕木山山頂の禅刹だ。鍔淵寺では残念ながらどなたともお会いすることがなかったが、華蔵寺は親しくご住職が出迎えて下さった。

本堂に上がり、心経一巻。かつて三島・龍沢寺の蝋八接心で唱えられた、あの独特の朗々とした力の籠もる禅宗の心経だった。その後御法話をいただいた。なんと現在一人でこの由緒ある大寺を守っているのだという。それも妻帯せずに。専門僧堂のお師家さんでも妻帯している人が多いと聞く。さらに檀家は20軒。どうしたらこれだけの伽藍を守っていけるであろうか。

現在住職されて四年半。本堂の雨漏りもあり、本堂や開山堂の修繕を発願された。そのため今年から、午前中は松江市内に托鉢に出ているのだという。寺務所の脇の柱には太めのビニール紐で編んだ草鞋が置かれていた。おそらくそれを履いて托鉢されているのであろう。私も知り合いの臨済宗の僧から教えられ編んだことがあり、それで四国を歩いたことを思い出させた。

しかし市内へ托鉢しても、どこの乞食坊主が来たかという顔をされ、なかなか効果が上がらないのだとも。ご修行は京都の建仁寺でなされ、こちらに来る前は大徳寺におられたとか。建仁寺は臨済宗を開いた栄西禅師が創建された最も歴史ある禅宗寺院であり、大徳寺は、大燈国師の創建で、応仁の乱後の伽藍をあの一休禅師が復興したことでも知られる。

一休禅師は、あるときひどく寒い時分に寺で焚き物が無くなると、仏像を燃せと言ったといわれるが、このとき華蔵寺の和尚も、こんな仏像が無くてもいいのが禅宗なのだと本尊の釈迦如来立像を指さして言われて、生きている私たち自身が仏であって大切にされるべき者だと。

あるとき京都の檀家さんの盆参りで小さな子供が「仏像はただの木なのに何がありがたいの?」と言ったところ、師匠は「そうだその通りだ、でも、そこにご先祖様みんながいて下さっているのだから大切にしなくてはいけないのだ」と答えたという。大人は社会の暗黙の決まり事の中に生きがちだけれども、そうした素直な物の見方が出来なくてはいけない。

今世の中は様々な凶悪事件に例を取るまでもなく若い人たちの心が荒廃している。核家族化、若い人は都会に出るなど、祖父から子に孫にという次世代に伝えていくことが難しい時代。できるだけ、仏壇のお供え、お墓のお参りなどによって、そうした大切さを伝えいくことで、心を病んだ若い人たちに無謀な方向に突き進む前に心を引き止める防波堤としなくてはいけない。

禅宗は言葉の前に形を示す教えでもある。石段、参道はきれいに掃除されていた。堂内の床も光り輝くほどに磨かれていた。冷たくてもしっかり水で絞った雑巾で自らの心を磨く如く心を込めて、決してやらされている何でこんなことしなくてはいけないのかなどと思うことなく行う。行いがそのまま人を作っていく、そこに生きることがそのまま修行となり、落ち着いた心が得られる。

禅宗は不立文字と言いながら沢山の語録が残されているが、『無門関』に「仏道とはいかに」と問われて、「仏道とは平常心是道」と答えるくだりが出てくる。仏道はどこまでいってもこれに尽きる。常に平常心。こうあらねばならない。今出雲では神仏霊場会が出来て、1200年もの歴史ある神社寺院がともにその歴史ある信仰の心をあらたに伝えようとしている。

ここに参って、その昔からある木々、自然の中に呼吸し、その当時の人々の心に心身ともに通じ思いを馳せて、今の私たちの心にその歴史ある伝統ある日本人の心を思い起こして欲しいと願っている。より多くの人に参詣いただき、心あらたに何事かを感じ取ってもらい、またこの寺の復興になればありがたい。

こんなご法話を頂戴した。揮毫も立派である。いい字をお書きになる和尚だ。私同様身体の大きな方でもない、年も私とそう変わらない。しかし、こんな厳しいお寺でたった一人檀務と修行の日々を送る、想像を絶するものがある。今の時代に誠に有難い方とお見受けした。色紙や短冊を頒布して何とか糊口を凌ぎ、托鉢して伽藍の復興を願う。精進料理のもてなしも出来るとか。福山からは泊まりがけで坐禅に来るグループもあるという。

お別れして2日となるが、未だにこの和尚の顔が思い出される。また是非ともお会いしたい方であり、出来るなら一緒に坐禅をさせて欲しいと思う。何とかいいようにお寺の復興がかなえられることを願い念じていたい。是非多くの人に枕木山華蔵寺をお訪ねして欲しい。

690-1111 島根県松江市枕木町205 臨済宗南禅寺派 龍翔山華蔵寺 TEL0852-34-1241

尚、今回もツアーの企画から実施まで倉敷ツアーズの金森氏、添乗には安川氏にたいへんお世話になった。この場をかりて御礼申し上げます。

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第六回日本の古寺めぐりシリーズ・鰐淵寺と華蔵寺3

2009年02月21日 17時20分21秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
華蔵寺について

華蔵寺は、島根半島の東部中央に位置する枕木山頂にある。海抜456メートル。展望台からの眺望は、眼下に大根島を浮かべる中海と弓ヶ浜の海岸美が望め、遠くには大山と中国山脈の山並み。北側には、日本海はるか先に隠岐島、西には三瓶山、山陰唯一の雄大な景観を楽しむことが出来る。また山内は、春は花と新緑、夏は避暑地、秋は紅葉、冬は雪景と四季折々の景色を現出する。

お寺の開基は、約1200年前の延暦年間、天台宗の僧・智元上人で、鰐淵寺を開いた智春上人の系統に属する僧だったのであろうか。何も詳しいことが知られていない。華蔵寺の華蔵とは、蓮華蔵世界を意味する。開基が法華経を依経とする天台宗の僧だから、と言いたいところではあるが、この蓮華蔵世界とは、華厳経に説かれる世界観である。

十蓮華蔵世界(海)とも称し、世界の根底に風輪があり、その上に香水の海があって、一大蓮華が覆う。毘盧遮那如来が中心におられ、二十重に重なる中央世界を中心に、121の世界が網のように蓮華による世界網を構成している。それぞれ宝で荘厳され仏がその中に現れ、衆生もその中に充満しているという。おそらく枕木山の眺望から、香水の海に浮かぶ、たくさんの仏の世界を目の当たりに観じとられ名付けられたものであろう。

華蔵寺も鰐淵寺同様に、創建当初は、修験道の行場として発展したのであろう。蔵王権現を信仰する行者の一連のコースの一つだったのではないか。そこへ天台宗の教えによって基礎が作られていく。平安後期の作と伝える薬師如来が薬師堂に祀られている。薬師如来像は、藤原時代初期の傑作と言われ、国の重要文化財。ヒノキの一木式寄木造りで、高さ87.2センチ。後光に五仏を配している。秘仏で、開帳法要は50年ごとにあり、一般公開している。

前回は、平成13年で、京都大本山南禅寺派の塩沢大定管長が導師になり開創1200年法要が執り行われた。子安薬師ともいわれ、子授け、安産、諸毒消滅、所願成就に霊験あらたかという。他に日光月光菩薩、十二神将、大梵天、帝釈天、四天王を安置する。

鎌倉末期に霊峰慧剣(れいほうえけん)が禅寺として復興したと伝えるが、仁王門からすぐのところにある杉井の霊水を、鎌倉時代、亀山法皇ご病気の際、この霊水と御霊符を献じたところ、病がたちどころに平癒し、法皇はこれを深く感じ入り、天台宗であった華蔵寺を自らが開創した京都臨済宗南禅寺の別格寺院にされたという。

亀山法皇は、後嵯峨天皇の子であって、その後南北朝にいたる訳だが、大覚寺(真言宗)統のお一人だ。自分の子である後宇多天皇のとき上皇となり院政をとるが、そのあと、持明院統の伏見天皇が即位すると、後深草院が院政を開始したため、亀山上皇はその後後嵯峨帝が造営した離宮禅林院を自ら寺院化した南禅寺で40歳の時出家し、金剛源という法名で禅宗に帰依した。そのため、その後皇室にも禅宗が浸透したという。なお、御陵は嵯峨天龍寺境内の亀山陵(かめやまのみささぎ)である。

なお、余談ではあるが、南禅寺は、はじめ、「龍安山禅林禅寺」といったが、「太平興国南禅禅寺」と改められ、京都鎌倉の両五山の上に位置する別格とされた。今では湯豆腐で有名な南禅寺、三門は歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)で、石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」という名台詞を吐くのが「南禅寺山門」である。ただしこれは創作上の話だという。

華蔵寺は、その後、室町期にはこの地方の臨済宗の名刹として繁栄するが、戦国時代に尼子、毛利の戦陣争いの兵火を受け諸堂悉く灰燼に帰し、寺運も衰退した。そのあと、関ヶ原の戦功によって出雲・隠岐24万石を与えられた堀尾吉晴(ほりおよしはる)候が、慶長12(1607)年、松江に築城するときに、華蔵寺を鬼門に当たるとして祈願寺に指名して復興。堀尾吉晴は安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名。豊臣政権三老中の一人。出雲松江藩の初代藩主。

しかし、築城は石垣が何度も崩れなかなかはかどらなかった。築城を急ぎたい堀尾吉晴は、天守の予定地で盆踊りを開催。そこに集まった領民の中から娘をさらい、密かに城の人柱として埋めた。完成までの2年間に、3人の娘が人柱とされたのだという。

しかし、それほどまでに城の完成を望んだ堀尾吉晴は、その完成を見る前に病死。堀尾家も犠牲になった娘の数と同じ、三代で断絶した。その後、天守近くで盆踊りを催すと城が震えだし、人柱となった娘たちが生前を懐かしんで踊っているのであろうと言われ、これを防ぐため松江では盆踊りが禁止された。

復興途上にあった華蔵寺は、明暦3(1657)年に松平直政候が済遍(さいへん)禅師を招いて現在の伽藍を中興開山した。仁王門もこのときの建立で、2メートルを超える仁王像は、運慶の作とも伝えられる。仁王門の先には、石の大きな不動明王が聳える。慶応年間の造立。

そこから進むと、平成13年に改築された薬師堂を経て、境内の鐘楼門は江戸時代明暦年間の建造で県指定文化財。ただしこちらも平成13年に修築された。境内に入り本堂も明暦年間の建立、本尊は金色の釈迦如来立像。

臨済宗南禅寺派の直末寺である。修行の道場としての厳かな凜とした雰囲気を感じつつ静かにお参りをしたい。そして、展望台から、おそらくその名の由来でもある景観を楽しみつつ、蓮華蔵世界の鳥瞰を味わいたいと思う。

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五山について(wikipediaより転載)

五山(ござん)とは、中国・日本における禅林(禅宗寺院)の格式であり、十刹・諸山の上。

五山の由来
元は南宋の寧宗がインドの5精舎10塔所(天竺五精舎)の故事に倣って径山・雲隠・天童・浄慈・育王の5寺を「五山」として保護を与えたのが由来と言われている。鎌倉時代後期には日本にも禅宗の普及に伴って広まるようになり、正安元年(1299年)には鎌倉幕府執権北条貞時が浄智寺を「五山」とするように命じたのが日本における最古と伝わる。

京都五山と鎌倉五山

鎌倉時代
鎌倉幕府の五山制度については詳細は明らかではないものの、鎌倉の建長寺・円覚寺・寿福寺及び京都の建仁寺の4ヶ寺が「五山」に含まれていたと考えられている。同様に後醍醐天皇の建武の新政においても「五山」が制定され、南禅寺と大徳寺の両寺が五山の筆頭とされ、東福寺と建仁寺が含まれていた。


室町時代
その後、室町幕府を開いた足利尊氏は、天竜寺を建立したが、天竜寺を五山に加えることを望んだ。これに対して北朝は暦応4年(1341年)に院宣を出して尊氏に五山の決定を一任した。これに応えて同年に尊氏は第一位に南禅寺・建長寺、第二位に円覚寺・天竜寺、第三位に寿福寺(鎌倉)・第四位に建仁寺(京都)・第五位に東福寺(京都)・准五山(次席)に浄智寺(鎌倉)を選定した。

これ以後、五山の決定及びその住持の任免権は足利将軍個人に帰するという慣例が成立することになる。その後、延文3年(1358年)に2代将軍足利義詮がこれを改訂して浄智寺を第五位に昇格させるとともに同じく第五位に鎌倉から浄妙寺、京都からは万寿寺を加えて計4寺として京都と鎌倉からそれぞれ5寺ずつが五山に選ばれた。

その後、3代将軍足利義満の時代に管領細川頼之の要望を聞き入れて臨川寺を五山に加える(永和3年(1377年)- 康暦元年(1379年))が、康暦の政変で頼之が失脚すると外された。ところが、義満が足利将軍家の菩提寺として相国寺を建立すると、至徳3年7月10日(1386年)に義堂周信・絶海中津らの意見を容れて五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」として全ての禅林の最高位とする代わりに相国寺を「五山」に入れ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割した。両五山はこの格式で固定し、現在に至っている。





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第六回日本の古寺めぐりシリーズ・鰐淵寺と華蔵寺2

2009年02月12日 08時12分52秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
鰐淵寺は、鎌倉時代には守護佐々木氏の保護を得て栄える。またこの頃、鰐淵寺とは山をへだてて南西側に位置する杵築大社(出雲大社)との関係が深まる。十世紀頃、国造出雲氏は本拠地を意宇(おう)郡から杵築大社に拠点を移し、その結果として十一世紀中頃出雲国における中世一宮制(出雲国の国鎮守)が成立した。

この時期は杵築大社が古代的な神社体制から、中世的な組織へと変貌していく時期であり、神迎え神事の場所として重要な位置である稲佐浜を極楽浄土の入り口とみなす信仰が起こり、隣に位置する鰐淵寺との神仏習合の形を取った両者の密接な関係が発展。鰐淵寺にとっても神聖な信仰と修行の場としての鰐淵山から、中世的な宗教勢力としての鰐淵寺へ転換し、後に杵築大社の別当寺となった。

杵築大社の由来について十四世紀に書かれたものには、「当社大明神は天照大神の弟、スサノオなり。八岐大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。また浮山(浮浪山)を留めて垂れ潜む。」とあり両者の縁起は同じスサノオとなっている。平安時代の神仏習合の展開によって、鰐淵寺と杵築大社は密接な関係の中で発展していく。

十三世紀、出雲守護佐々木泰清より、鰐淵寺は出雲の国を代表する寺院として認められ『国中第一之伽藍』と呼ばれた。そして杵築大社は『国中第一之霊神』と呼ばれ出雲の国で最も有力な神社とされた。杵築大社の年中行事には、鰐淵寺僧が出向き大般若経の転読を行ったという。

また、鰐淵寺は弁慶修行の地としてもよく知られているが、弁慶は平安末期、仁平元年(1151)松江に生まれ、18歳から3年間鰐淵寺にて修行したとされる。その後、播磨書写山、比叡山と旅して、源義経と出会いともに各地を転戦したが、壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした。

その後再び鰐淵寺に身を寄せて、多くの伝説や遺品を残している。特に、弁慶が大山寺から一夜で釣鐘を運んだとの伝説は広く世に知られ、その際に持ち帰ったとされる寿永2年の銘のある釣り鐘は国の重要文化財に指定されている。

その後鰐淵寺は、南北朝時代には、北院と南院が、それぞれが北朝・南朝を支持して対立した。その頃鰐淵寺は、嘉暦元年(1326)大火で全山焼失していた。南院の頼源は、伽藍復興のために後醍醐天皇の南朝に頼り、また後醍醐天皇は、僧兵の沢山いる鰐淵寺を必要としたことから、天長地久の祈願所と命ずる文書を発した。

元弘2年(1332)後醍醐天皇が隠岐に流された際には頼源も國分寺行在所に伺候し、宸筆の願文(倒幕の所願を成し遂げたならば薬師堂を造営するという内容)を賜った。この願文は現存し重要文化財に指定されている。

頼源は後醍醐の隠岐脱出を助け、その後、京都吉野にも僧兵を率いて従った。その後南北朝の和議の後、鰐淵寺の南院と北院が和解し、これを機に鰐淵寺は今の根本堂の地に北院と南院を合併し、千手観音と薬師如来をともに本尊として安置することになった。

また、戦国時代には出雲においても尼子氏と毛利氏の間に激しい戦いが繰り広げられ、毛利氏による出雲侵攻時に鰐淵寺栄芸は一貫して毛利氏を支持して尽力。毛利氏勝利の後、鰐淵寺は毛利氏の保護を受ける。現在の根本堂は、この毛利氏が栄芸の功績をたたえて建立したものと伝える。

十六世紀後半頃から十七世紀初頭、杵築大社においては御頭神事の衰えから、鰐淵寺との提携が無意味となり、更に祭神をスサノオから国造家の歴史を考える上でオオクニヌシを祀る事の方が適切であるとされ変更された。そのため神仏習合で関係を深めていた鰐淵寺と大社との関係は改められ、十七世紀の杵築大社の造り替えの際、仏教諸堂が撤廃され神仏分離が行われた。

そうしたことも影響したのか、鰐淵寺の勢力は戦国期以降退潮となり、明治には廃仏毀釈により、境内に祀る摩陀羅神は須佐之男命と同体であるとか、大国主命と同体であるという説により、また鰐淵寺は神地にあり、仏堂を毀し僧侶を放逐し、寺領寺禄を大社に返納すべきであると主張された。

隠岐ほどの強烈な廃仏はなかったものの、取り巻く環境は穏かなものではなかった。そのとき、寺側では、松江藩神社調停役にたいして、摩陀羅神社は梵土の天台仏教保護の神であって、日本神祇に属する神で無いことを主張し、調停役も同意したため寺院消滅の危機を脱した。

『出雲国 浮浪山鰐淵寺』のなかには、「出雲は日本第一の神国とも謂わるべき国であるが、明治維新に神仏分離せらるるとき、別に仏教排撃の禍難に陥った寺院がなかったのは何か理由があろうと思っていたが、・・・・知事などが鰐淵寺を調査しようとしたが、一行が山道にかかれば、四方の山より大山の石塊が落下しすこぶる危険であり、一行は異変を恐れて途中で引き返し、遂に同寺を調査するに至らなかった 」と書かれているという。

「昔は谷々路を隔て、坊院軒を並べ、凡そ三千坊・・・」と古文書にも記入があるというが、かなりの数の僧坊が存在したらしい。伯耆大山大山寺でさえ九院四十三坊あったとされることから、山陰一の鰐淵寺は更に多くあったと思われる。しかしながら、明治期に書かれた絵図で確認できるのは松本坊、嚴王院、浄觀院、是心院、洞雲院、等澍院、密嚴院、現成院、七佛堂、覺城院、恵門院、本覚坊、和田坊、念仏堂、開山堂、釈迦堂、竹林庵、常行堂、根本堂、それに三重塔などであるという。

現在の境内の様子を見てみると、鰐淵寺川に沿って進むと、仁王門の先に大慈橋が見える。橋を渡るとすぐ右手に御成門。その奥に本坊。本坊客殿書院前には、自然石、角切石、筏石を配置した池泉鑑賞式の庭園がある。京都林泉協会選全国150名園の一つに選ばれている。

石段を登ると、子院の跡が点在する。そこからさらに石段を上がると、小さな十王堂が右手にあり、屋根のついた六地蔵、そして根本堂への108段の表坂が続く。それを登ると、左側に大きな円仁手植えの三台杉。正面には、雄大な根本堂が姿を現す。

その左には18世天台座主良源を祀る常行堂、その奥には常行堂の守護神を祀る摩陀羅神社。これは、円仁の帰朝を守護したと言われる夜叉神で、延暦寺の常行堂にも祀られている。根本堂の右手には弁慶縁の鐘楼堂とそして釈迦堂、その下の急な裏坂を下りると開山堂が奥にそびえる。

寺号の由来の浮浪の滝と蔵王堂へは、大慈橋を仁王門と逆にたどり天に聳える杉の老木の間の細い坂道を上がる。18メートル下に流れ落ちる滝。蔵王権現を祀る蔵王堂は岩窟にはめ込まれたように造られた流造り。弁慶の籠もり堂跡が休憩所となっている。

山陰屈指の霊刹、鬱蒼とした木々に囲まれ森厳さをたたえる一山、野鳥の声が響き、花々がひそやかに咲く広大な境内をゆっくりと散策したい。

重要文化財として、仏画、絹本著色山王本地仏像 - 室町時代初期、日枝神社の祭神7体のうち五体が僧形、本地は釈迦如来。絹本著色毛利元就像 - 室町時代後期。絹本著色一字金輪曼荼羅図 - 鎌倉時代初期など。仏像、銅像観世音菩薩立像(2躯) - 奈良時代前期(白鳳時代)、白鳳仏の基準作といわれる。

工芸品、銅鐘 - 総高113㎝、寿永2年(1183年銘)、もと伯耆国桜山の大日寺にあったもの。書跡。紙本墨書後醍醐天皇御願文(2通) - 元弘2年 。文書類2点(一括指定)紙本墨書名和長利執達状 - 建武3年。紙本墨書頼源文書(2通) - 元弘2年、貞和5年。考古資料、石製経筒 附:湖州鏡 - 平安時代。ほかに、県指定市指定の仏画、仏像、古文書等文化財も夥しい。

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