住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

見返りを求める心

2008年02月20日 19時44分20秒 | 様々な出来事について
あるスーパーに買い物に行った。本堂のお供え物や花を買いに行ったのだ。するとチラチラとこちらを覗い見るような方があり、どこぞやでお会いした人かなと思いながらも果物や野菜などを買いレジに並んだ。そのあと花の売り場に行くと、またそのお婆さんが来られて何やらレジの人と話をしている。

「ああ、○○寺さん」などという声が聞こえたかと思うと、そのお婆さん、こちらに来ると丁寧に挨拶を始めた。なんとそのスーパーのオーナーの奥さんだった。何年か前にもこんな形で挨拶されて、その時にはマンゴーやらメロンやら高価な果物をごっそりお供えして下さいと言っていただいたのだった。

こちらは忘れてしまっていたが、身なりが身なりだからあちらには分かってしまったのであろうが、こちらも挨拶すると、「何かお供えさせてもらいます、これらのどれがよろしいか」などと言われ、蘭の鉢植えをふた鉢お供えに頂戴してしまった。おそれいる。

つい、「どうもありがとうございます」などと丁寧に礼を述べてしまったが、奥さんは平然として、「ええ、すいません。お持ちしませんで、・・・」などと慌ただしく挨拶を交わしてお別れした。

ついつい自分がいただいたものでもないのに礼を述べてしまった。きっと本尊様へということなのだから、「それはそれは仏さんがお喜びになります」または「それはよい功徳になりましょう」などと言うべきものなのかもしれないが、私にはそんなことは言えない。

本尊さんに代わって礼を述べるというのもおかしなものだ。つい先日ネットで文章を読んでいたら、ミャンマーでは、何かして「ありがとう」と言われるのを嫌うと書いてあった。せっかく何かひとさまにして功徳を積んだのに、そのことでわざわざ「ありがとう」などと言われるとその功徳が減ってしまうと思えるからだと書いてあった。

タイでも、托鉢のお坊さんに食べ物を施してもお坊さんたちは頭も下げなければ礼も言わない。それは食べ物を施してもらうことで、布施者に功徳を施しているからとずっと思っていたが、やはり、礼を言ったりしたら功徳が薄まるということだったのかもしれない。

それに、やはり上座仏教国として、何かよいことをして、礼を言われたい、見返りを求めるような心を認めていない。そんなことのためにするのではないという厳然たる精神がそこにあるからなのではないかと思われる。インドでも、ありがとうという言葉はあまり使われないと習った。「ダンニャワード」というそれを意味するヒンディ語は、まず聞いたことがない。

そう考えると、日本では、何かもらったりするとすぐお返しやら、礼を述べる電話をしたり、葉書を出したり、まったくうるさいくらいに、と言っていいほどにその辺の礼儀に神経質である。日本語の「ありがとう」、という言葉自体がとても言いやすいということもあろうが。

実は、蘭の鉢をもらったということをお寺に戻って話をすると、すぐに「お返しが大変だ」などと言う人がいた。せっかくその方は功徳を積んだのに、すぐお返ししたら、何のためにお供えされたのか分からなくなってしまう。功徳を積むことができた、本当によいことが出来たと思えれば、何もその相手や周りからお礼を言われたり、賞賛されずとも自分自身がうれしくなり、満足できるものだろう。

最初に何か見返りを期待していると、自分自身がよいことをしたというそのことだけのことに満足できなくなってしまうのであろう。何か自分自身もよいことをしたときに、つい礼やお返し、または誉められたいなどという気持ちがないかどうかということによくよく気をつけていたいものである。

だからこの蘭のお返しは、勿論のこと、しないことにしよう。

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コメント (4)
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