住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

万燈会とはなにか

2008年08月24日 20時06分08秒 | 仏教に関する様々なお話
夏の行事に万燈会がある。燈火会と言っているところもあるし燈花会としているところもある。また精霊流しや燈籠流し、様々ではあるけれども、夏のお盆の晩にたくさんの明かりを灯し先祖代々や各精霊の菩提を弔う行事として近年にわかに華やかになりつつある。

高野山でも30年ほど前からロウソク祭りが8月13日に行われる。毎年一度はお参りしたいと思っていたが、一番忙しい時期でもありなかなか実現しなかったのではあるが、今年は、朝日新聞愛読者企画で、備後國分寺住職とゆく古寺めぐりとして、高野山万燈供養会参拝(ツアー企画実施・倉敷ツアーズ)が企画されて、同行することになった。

13日8時半福山駅からバスに乗車して、高野山に向かい、高野山各地をお参りしたあと奥の院のロウソク祭りに参入し、一の橋から御廟まで参加して下さった皆様と歩いた。前の人の背中を押しつつ前に進むというほどに沢山の人出にまずは驚いた。それに沢山の外国人。写真を撮る人。

参道の両側に発泡スチロールが帯のように置かれ、その上にアルミホイールが布いてある。そこに串に刺したロウソクを灯し挿していく。隙間がないほどに沢山のロウソク。風で消えては次から次に灯され、新たにロウソクが灯される。一筋に明かりが灯る参道は幻想的でもあり、一つ一つ別々の心が一つのいのちに連続しているようにも感じられた。

ただ参詣者の中には、やはりロウソクがたくさん灯された風景を楽しみに来たのだろうかという人たちも居たようだ。御廟前のみみょうの橋では合掌して渡ることが信徒としてのマナーとなっているが、そんなことは勿論お構いなし。話しながら単なるお祭りに来た雰囲気の人々も大勢いたであろう。

何万人もの参詣人の中にはそうした人もいようが、そんな光景を見つつ、万燈会とはそもそもいかなるものかあらためて考えさせられた。万燈会とは、罪障を懺悔して四恩に報じ万燈を諸仏に供養する法会と、法蔵館の密教辞典にはある。つまりただ万燈を供養することが目的なのではない。そこに至る思いはいかなるものかと問われる必要があるということだ。

何事にも目的や動機がある。そもそも一つの灯りを灯そうとする心はいかなるものかと尋ねなければならない。それが罪障に懺悔して四恩に報ずるということだろう。日頃の行いを反省し、知らず知らずのうちに犯している様々な罪過を懺悔する。身と口と心で犯している過ちにまずは気づく必要がある。

その上に私たちが生きている上で欠かすことのできない恩義を特別に感じるべき四恩について知らねばならないだろう。四恩とは、父母、衆生、国王、三宝の四つ。

私たちが生きているということは、この身体を授けてくれた父母がいたからこそこの世に誕生したのであって、何も出来ない赤ん坊の時には何から何まで世話を焼き育て、この世に自分を導いてくれた。この恩はどんなにこの世俗の中で尽くしても尽くしきれるものではない誠に大きなものだと古い経典に記されている。

そして、私たちの食べるもの着る物も、すべて何から何まで他の生きとし生けるものたちが居なければ成り立たない。私たちは、決して一人で生きているのではない、他のすべての者たちとの相関のもとに生きている。そうした生きとし生けるもの、衆生の恩に気づく必要もある。

さらには、国という存在は、平和に暮らしているときには忘れがちではあるけれども、それでも、海外に出たり、他の国々の様子を知るならばこうして平穏に暮らせるのは国というものがしっかり存在しているからであると気づく。

そして私たちは身体を維持し安全に暮らせるだけでは人として存在しているとはいえないであろう。そこで、やはり人として生きる上にいかに生きるべきかということに思い至るならば、三宝という生きる目的と道筋さらには仲間を提供してくれるものであり、仏教徒にとってはそれが仏法僧の三宝にあたり、その恩に気づく必要があるであろう。

これら四恩の一つでもなかったならば私たちは人として存在してはいまい。これらのお陰で私たちはつつがなく生活していられるのではないか。しかし昨今は、大きくなると父母を大切にせず、他を顧みず自分だけが大事で自分だけよければという考えの人々も多い。国がどうあろうが関心がなく選挙にも行かない。三宝の心の教えの大切さが分からないから、欲得だけが行動の物差しと化している。

それが時代だという向きもあるかも知れない。しかしだからこそ、かつてないほどの精神を病んだ若者が沢山いる社会となり、どうすることも出来ないのではないか。引きこもり、ニート、自閉症。占いが流行し、カリスマ性のある霊能力者に老いも若きも群集する。

また、自分のことを自ら決められない、人に言われなければ決断できない、おおかたの人が言うことにすぐに賛同してしまう。無気力な、ものを自ら考えられない人ばかりを作り出してきたのではないか。

報恩と名付けられた古い経典がある。冒頭に善き人々の立場とはいかなるものかと質問されたお釈迦様は、善き人々とは、恩を知り恵みに気づいている人々を言うのであって、それはまことある人々の習いとすることであると言われる。

善き人々とは、しっかりと自立して生きている人のことであり、それらの人たちは身に受けたる恩恵にきちんと気づき、報恩感謝の念を持って生きている。だからこそ自分が生きているということは多くの他の者たちのお陰であることを真摯に知り、自分もしっかり生きよう、自立して右往左往することなく頑張って生きようということになる。

四恩に報じて万燈を供養する万燈会の精神は、まさにこの身に受けたる恩恵に思いをいたし、諸仏はじめすべてのものたちに感謝を捧げることにあると言えよう。全国各地で行われ、華やかになるのは結構だが、こうした本来の趣旨をきちんと語る万燈会はどこにもない。

単なるイベントに成り下がっているとは言えまいか。人を呼ぶだけではつまらないだろう。せっかくの大がかりなセッティングを要する万燈会は、本来の趣旨である報恩ということに多くの参詣者があらためて思いをいたす機会として、その目的を語りつぐべきであろう。

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コメント (2)
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