住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

施論戒論生天論ということ

2010年01月05日 13時46分09秒 | 仏教に関する様々なお話
お釈迦様は生涯に様々な説法をなさり、沢山の人々を導かれた。出家の修行者にはもちろんのこと、一般の在家者にも問われるごとに様々な法をお説きになられた。在家者への説法の入口の話としてよく言われる説法に施論戒論生天論という基本的な仏教の特徴を表す骨格がある。

施論とは、布施をしなさい。戒論は戒律、在家であれば五戒を守りなさい。そうすれば死後天界に生まれるよということだと言われる。まあ、これだけのことかと言われると何だと、こんな程度のことを言われているのかとつまらなく思う人もあるかもしれない。

まずは、布施をしろと、つまりは自分たち托鉢で生活する者たちの生活の糧のために言ったものかとも思われるかもしれないし、戒律も当たり前のこと、殺すな、盗むな、邪なことをするな、嘘を言うな、酒を飲むなと簡単なことを言っているに過ぎないし、天界に生まれるなどと言って、単に死後どうなるかとも知れない非科学的な話を語っているに過ぎないと思われるかもしれない。

しかしそこはお釈迦様の法であることを私たちは心してその内容を深く味わう必要が本当はあるのではないかと考えなくてはならない、と私は思うのである。

まず、施論とは、何か良いことをすれば良い結果があるということだ。つまりは因果論であって、ごく当たり前のことを言っているとも思われるかも知れないが、その昔インドでは神に盛大な捧げものをして供養することが幸せのためには最も必要なことだと考えられていた。

しかしお釈迦様は功徳とは拝むことではなく実用性のある他者にとってまた自分にとって良きことをすることであると考えられた。だからこその因果論であって、自分自身にとっても周りの者たちにも良いことをすれば自分に良いことが結果すると。ただそれがどのくらい時間を要するものかは分からない。すぐ結果が現れることもあろうし、ずっと後になることもある。

逆に、悪いことをしていれば必ず報いが来る。それは今の時代でも同じこと。悪いことをしても法律に触れなければいい、世間に知られなければ何をしてもいいと考えて他の人の感情を踏みにじったり、多くの人々の利益を顧みることもなく、地位や権利を利用して一部の人々の利益のために思い通りにするということはちまたに溢れている。

それでいて、正月だけ神社仏閣に出かけて手を合わせ、困ったときの神頼みではダメだということであろう。善い行いは善業が、悪い行いには悪業がついて回り結果していく。何事も因果応報、自業自得。自分の為したことの結果は自分が受けなくてはいけないということを教えて下さっている。

そして、戒論。なぜ戒律が必要なのか。それは私たちは一人ではないということであろう。伴侶、家族、地域の人たちと生きていく、共同して暮らすためには、みんなが上手くあるようにしなくては気持ちよくいられないということであろう。

一人自分の生活を考えても、規則正しく規律ある生活をしなくてはその人の人生がよくあることはない。朝はきちんと起き、きちんと食事をして洗濯した物を着て、掃除の行き届いたところで生活する。それだけで健全な幸福感が得られるはずである。

しかし人はまた、一人では生きられない。一人で生きていると思っていても、食べ物も着るものも住まう家もみんな他の人たちが作り手にしたものに過ぎない。畑があったとしてもその水や種や肥料ということになると全部他の人の手によらねばならない。土を作ろうとしたら小さな昆虫や微生物のお陰で様々な養分を含む作物を生長させる土壌ができている。

すべての生き物たちとの共生の元に私たちの生があると考えれば、なにがしかの誓約が必ず私たちの生活に課せられて当然だということになる。社会生活にも当然なにがしかのルールが必要であろう。その根底には私たちはみんな一人ではない、みんな一つの関係性のもとに繋がっているのだという意識であり、そこから慈悲という思いが当然のこととして導かれる。

みんながよくあらねば自分も良くないという気持ちであり、そこから周りの人がよくあって欲しい、そのためにはみんながよくあらねば、そうあって欲しいという気持ちが芽生えてくる。つまり戒論は、私とはいかに生きているものなのかということを考える視点からの発想であり、そこから慈悲という、私たちが生きる上で必要な他との関係性のもとでの尊い思いを教えてくれている。

三つ目の生天論はいかがであろう。良いことを沢山して品行方正な生活をしていれば、つまり沢山の善業を持って死後天界に生まれ変われるということではあるが、つまりは輪廻転生するということである。悪いことを重ねていれば、地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界に生まれるよということでもある。たとえ人間界に生まれたとしても様々な世界がある。

私たちは何も分からずにこの世に生を受け、このような輪廻などということも意識せずに生きている。しかし、なぜこの家に、なぜこの父母の元に生を受けたのか、なぜ自分はこのような能力才能、物の好き嫌いを持って生まれてきたのかと考えてみると、やはりそこには原因があったのだと考えざるを得ない。他の人となぜ違うのか、同じ日に同じ時間に生まれたとしても全く違う人生を歩む。同じ名前だとしても違う人生。たとえ同じ家に生まれたとしても、一卵性双生児であっても違う好み、違う人生を歩む。

池川明さんという産婦人科医が前世の記憶のある子供たちを研究して『子供は親を選んで生まれてくる』という本をお書きになっている。生まれてきた原因、その家に生まれた原因。時間的にそれ以前にあるべき原因は当然生まれる前に生じていたと考えられるので、前世があったのだと考えざるを得ない。その原因を持った心がお母さんのお腹に宿ったいのちに入り、心と体が一つとなって生命が誕生する。

前世があって、今こうしてある。あるべくしてあったと。そこには何事かのこの人生での課題、学ぶべきこと、自分にとってのテーマがあったであろうと。この先生は魂の研磨のために私たちの人生はあるのだと結論するが、いずれにせよ、自分に相応しい家族、境遇、環境の中でそれをクリアすべく私たちの人生はスタートし、そして何十年かの善悪の業を重ねて私たちの身体は寿命を迎える。

死とは身体と心が分離することである。身近な人の死にあたり私たちは成仏してくださいと念じるが、死ねば誰でも仏だと、それはそう簡単に考えていいものではない。お釈迦様や日本の祖師方がどれだけ死をも覚悟して何年も修行されて末の成道であったかを考えれば分かることであろう。即身成仏とは、死ねば誰でも仏になれるなどという陳腐な教えではない。みんな六道の衆生は輪廻する。悟れぬ限り。

死ぬときの心のエネルギーによって来世が導かれる。だから、死とは新たな誕生であるとも言いうる。その先で、また出来れば仏教にまみえ修行を重ねてほしい。そうして心を清らかにするために何度も生を重ねていく。だからこそ早く成仏して下さいと、何回生まれ変わろうとも、何とか早く安らぎの心にいたって下さいと、私たちは手を合わせ願うのであろう。つまり生天論とは、死んで終わりではないよということだ。その先のことを考えて生きよということであろう。

施論戒論生天論。考えてみるとこれは仏教の根幹。因果、業、慈悲、輪廻、そこから導かれる生命観、人生論。だからこそ、いかに生きるべきかと教える根本だと言えよう。お釈迦様はその壮大なる教えをごくごく簡単に、施しの心が大切ですよ、基本的な戒律を意識して生きなさいよ、そうすれば来世で天界に逝けるよ、何も死後のことを心配しないで済みますよと教えてくれていたのであった。お釈迦様の教えには、どんな教えであっても、そこには何もかも私たちの計り知れない智慧が隠されていると知るべきなのであろうと改めて思う次第である。

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コメント (2)
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