住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

死ねば仏とは

2022年09月28日 20時18分51秒 | 仏教に関する様々なお話
死ねば仏とは




いつの頃からか日本では死すと仏、仏様と呼ばれる。私にはそれが不本意で、そんなことを言うから日本仏教は衰退したと。死んだら仏なら教えも修行も不要ではないかと考えたからでもあり、そんなものならそもそもお釈迦様も各宗の祖師方も死に物狂いで、死を覚悟して迄の修行の必要もないものになると。そんな簡単なものではないと考えたのであった。

しかし、数日前、朝の御勤めの際に、ひらめいた。煩悩に覆い隠された故人が死んで仏だけが残ったのだと。死ねば故人の生前の人格の心は遺体から去り、命のない身体だけが残ることになる。お釈迦様が発見された無常の真理そのもののみが残される。森羅万象すべてのものがありのままの世界のその摂理、真理の中にあるそのものと化す。

生前あった煩悩はその身体にはない、だから、仏と言いうる。そういうことではないか。五尺の糞袋と言われた煩悩だらけの人間は去り、残されたのは真理そのもの、それを仏と言ったのではないか。誰もがその時、煩悩が抜けきり、安らかな顔になり、やさしい顔になられて仏そのままの顔となる。苦しそうにしていた人も、寂しそうな人も、苦々しい顔をされていた人も、みんなその時安らぎの中にある。そう見える。

四大とか、五大とか言われる身体は、地水火風ないし地水火風空といわれ、それぞれの要素を一つにして生きていた。地水火風空と言えば、それは真言宗的には、五輪塔であり、大日如来そのものと考る。やはりそれは仏様に外ならないことになる。しかしそこに煩悩にまとわれているが故にその仏の自分に気づけず、凡人と思って、凡人そのものの一生を私たちは過ごしてしまっている。

身体と心が一つに存在している時に、心の煩悩を吹き消してしまうことを覚りとか解脱と言い、身体だけを残して来世に旅立つことなく、心も消滅する。しかし覚れなかった凡夫衆生は当然のことながら生への未練から過去世から現世に貯め込んだ業のままに来世に再生すると考えられている。

真言宗でいう、即身成仏とは、身と口と心のはたらきを仏のごとく調え、自身が仏と何ら換わりなきことを体感し、自覚し信念として感じられるようになることであろう。そこには、すでに真理の中に生き真理に生かされていることを深く認識されていることは言うまでもないであろう。

故人を悼みなされる仏事全般は、仏たるご遺体ではなく、来世に赴きたる煩悩具足の心に向けてなされるわけだから、中有にあってはこの三次元の空間におられる故人の心に、満中陰後は来世に転生せる先に向けて功徳は廻向されると考えるのが本来であると考える。

いずれにせよ、死ねば仏と言われるのは残されたそのご遺体に対して言われることであり、生前のその人が死んだからその瞬間に成仏したという意味ではないとわきまえる必要があるのだと思う。




(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする