備後國分寺だより 第61号
四無量心と十善に生きる
國分寺の仁王門横の掲示板には、時折ヒンディー語の格言とその日本語訳を小ポスターにして掲示しています。
これは、『saccī bāten(サッチー・バーテーン・意味は「真実の言葉」)』という名前で、フェイスブックやインスタグラムに参加して、ヒンディー語で古今のインドの格言などを投稿されているものがあり、その中から、私たちにも学びとなるようなものを選んで翻訳しているものです。
一昨年から、時々彼らの投稿に注目して日本語に訳したりして楽しんでいたのですが、そうして翻訳してみたものを何度かフェイスブックの投稿のコメント欄に書き込んでみたこともあります。その中から、是非皆さんにもご披露したい内容のものを印刷しては掲示しているのです。
今年の初めに掲示したものは、昨年の十月一日に投稿されたもので、仏陀の写真にヒンディー語で格言が入り、その横にそれを翻訳して、
「 身体のための一番よい治療は、
頭静まり平穏な心である。
そして、その平穏な心のために最もよい
治療は、誰の言葉であっても、
胸に重く受けとらないことです。」
と印刷して掲示しました。
この、身体のための最良の治療は、「頭静まり平穏な心」と訳してみましたが、これは原文では、シャーント・ディマーグとあり、直訳すると「平和な頭」となるものです。
あなたは頭がいい、ということを「アープカ・ディマーグ・アッチャー・ヘイ」などいう具合に使うので、「ディマーグ」という単語は会話でもよく登場する言葉なのですが、辞書には「脳、頭脳、思考力のほかに高慢、傲慢、慢心」とあります。そこで、シャーント・ディマーグで、頭静まり、高慢や慢心のない、穏やかで平安な、平穏なる心となるのであろうかと思います。
そして、その平穏なる心のための最良の治療は、「誰の言葉も胸に受け取らない」というのが直訳で、この「胸」の原語は、「フリーダヤ」とあります。これは般若心経という経題の中の「心」にも該当する言葉で、因みに心経はサンスクリット語では「プラジュナー・パーラミター・フリーダヤ」となるのですが、これは心というよりは心臓のことです。そこで胸と訳してみました。
誰かの言葉に、ドキドキしたり、恐れおののくとき、また怒り心頭になってブルブルと体が震えるようなとき心臓が高鳴ります。そういう状態の正反対に、誰の言葉であっても心静かに聞けて、さっと受け流し、自らの心に引っかからないよう、頭を静かに平安に生きる技が必要だということになるのでしょう。
もちろんこれは誰の言葉もいい加減に聞き流したらよいということではありません。きちんと要件を聞き取った上で、それが負担になったり重荷になることがないよう、その言葉にとらわれ後々まで心悩ませるものとならないようにするということです。
では、良いことであっても悪いことであっても、だれの言葉でも軽く受けとめるにはどうしたらよいのでしょうか。人の言葉に反発したり怒ったり、落ち込んだり、悲しんだり、後々まで暗い気持ちを引きずるのはどうしてなのでしょうか。
それは、自分という存在や自分の意志、考えがあり、それを尊重しなかったり、それに反するような言動に対して反応し、自分や自分の方針なり考えを蔑ろにされて憤慨する心により起こるのではないかと思います。
とすると、自分という思い、いわゆる自我さえなければ、そもそも腹を立てることもなくなるのかもしれませんが、それはとても難しいことのように思われます。
ところで、様々な場面で、そうした穏やかならぬ心の状態になるのは、過去の業(ごう)が作用していると仏教では考えます。
たとえば、同じ緊張を強いられるような場面でも、普通にいられる人もあれば、そういう状態に弱い人もあります。同じ災難にあっても、かすり傷一つで済む人、足腰を骨折する人、命を落としてしまう人もあります。
同じことを言われても、平然と受け流せる人もあれば、すぐに落ち着かなくなったり、怒りから手が出る人、言葉で口汚く言い返す人、表面的にはそ知らぬふりをしながら心は憤り、いつまでも怨念を持ち続けるような人もあります。
人さまざまであり、それらも過去に意志をもって行った身と口と心の行いが業となって私たちに貯め込まれていることが影響するというのです。遺伝や生まれ育ち、生活環境や経験も影響するのでしょうが、それらも含め過去世から今に至る業によるのだと考えるのです。
業には善業と悪業があります。厳密には善でも悪でもない業もあるのですが、善因楽果・悪因苦果と言いますように、善い行いをした果報である善業は楽ををもたらし、心の幸せなることが期待されるのです。ですが、悪業は逆に苦をもたらし不幸をもたらすとされるので、できれば消し去ってしまいたいというのが人情でしょう。
そうした悪業が様々な場面で自分にとって悪しき結果をもたらし、不本意な反応を引き起こし醜態をさらすということにもなりかねないとしたら、やはり何としても悪業は消滅させたいものです。
ところで、昨年読んだ『パーリ仏教を中心とした業論の研究』(浪花宣明著・春秋社刊P276~P291)という本に、そのあたりの話がとても興味深く書かれていますのですこし紹介してみたいと思います。
それによれば、自分とは何かと言えば業に外ならず、業には私がいるという自我の意識がなくてはならないもので、自我さえなくなれば、つまりそれは煩悩がなくなり、最高の悟りに到達することを意味するものではあるのですが、そうすれば業は消滅するのだとあります。
相応部経典(そうおうぶきようてん)S.iv.320『改悔』には、「悪業を捨断し、悪業を超越する、彼はこのように貪欲を離れ、悪心を離れ、迷妄なく、正念正智(しようねんしようち)をもって、慈(じ)・悲(ひ)・喜(き)・捨(しや)の四無量心(しむりようしん)によって心解脱(しんげだつ)し、欲界(よつかい)の業がそこに残存せず」と説いてあるのだといいます。
そこで長部経典(ちようぶきようてん)を調べてみると、確かに第十三『三明経(さんみようきよう)』に、「…聖なる戒をそなえ、感官を防護し、正念正知をそなえ、衣食に満足し、五つの障害が捨てられ、喜びと楽のある彼が、慈・悲・喜・捨の心をもって、すべてのところに、一切を自己のこととして、無量の恨みのない害意のない心をもって満たし住む。そうして、慈・悲・喜・捨が修され、心が解脱すれば有量(欲界)の業がそこに残ることなく、とどまることがない」と説かれていました。
これら経典には、業のすべてが消滅するとしているわけではありませんが、欲界の、つまり通常の衆生世界での悪業は、5ページに述べる慈・悲・喜・捨の四無量心の修習によって消滅すると考えてよいということなのです。つまりは自我という、自分がいるという錯覚からも解放されるということになります。
ですが、こうした欲界の業が消滅するという四無量心の修習(じゆじゆう)は、その実践が必然ではあるのですが、その完成とされる心解脱(心修習の力による解脱。心が定により貪欲から解脱すること『ポー・オー・パユットー仏教辞典』)を成就(じようじゆ)するというのはそんなに簡単なことではないようです。
そこで、次に本書に説かれる善悪業が異熟(いじゆく)(善悪の因により機が熟して結果すること)しない、つまり業の報果が変化して結果しない場合があるという教えは私たちにとっての救いとなるのかもしれません。
これはいくつかの経典にも説かれ、また、パーリ論蔵『分別論(ふんべつろん)』(Vibhanga ヴィバンガ)にある教えとのことなのですが、悪業者には苦果があるという道理があり、善因楽果・悪因苦果を不動の真実としながらも、ある条件の下で業がそれらに遮られ結果しない場合があるというのです。
それは業異熟智力の説明の中で、①幸福な趣(六道の中の天界人間界の生まれ)、②幸福な生存の素因(身体の端正なこと)、③幸福な時代(善王善人の時代)、④幸福な行為(正しい行為)により、善業が異熟し、悪業はそれらに遮られて異熟しないということです。逆に不幸な趣・生存・時代・行為の場合には、悪業が異熟し、善業はそれらに遮られ異熟しないというのです。
既に人間として生まれ、自由な時代に生きている私たちができうる可能なことは、④幸福な行為、つまり正しい行為ということになるのでしょうか。
それにより、悪業が結果するのを遮りつつ、善業が異熟するのを待つことができるということなのです。
私たちにとっては、『仏前勤行次第』にある「十善戒」として読み学んでいる十善、「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・
不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見」により生きることが、過去の様々な悪業の業果から逃れさせてくれるということになるのでしょう。これも、徹底するのはとても難しいことですが、改めて勤行次第において「十善戒」が唱えられることの真意を知った思いがいたします。
まずは、四無量心について、次ページに記した南方の仏教徒たちが唱えている「慈しみの修習」を参考に、静かに毎朝あるいは毎晩、ふさわしい時に、まずは私自身が、そして周りの人たち、生きとし生けるものに、慈(友情の心から幸せでありますようにと願う)・悲(苦しみがなくなりますようにと願う)・喜(願い事がかない喜びがありますようにと願う)・捨(誰をも分け隔てなく平等にみて静かな心に住する)の心を遍く念じてみてください。
そうして自我を収めつつ、十悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・慳貪・瞋恚・邪見)を離れ、十善に励むことによって、悪業による報果を逃れつつ生きることが私たちには大切だということなのです。
掲示板を解説するつもりで始めた話が、いつの間にか脱線して、日常の生き方にまで話が及んでしまいました。が、是非四無量心と十善の生き方を基本に精進を続け、誰の言葉も重く受け取ることなく、心身ともに健康にお過ごしをいただきたいと思います。
四無量心の修習
慈悲喜捨の心を、まずは自分に向けて、私は幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、願い事がかなえられますように、さとりの光が現れますようにと念じます。
それから周りの身近な人たちが、幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、願い事がかなえられますように、さとりの光が現れますように、と身近な人たち一人ひとりの顔や姿を思い浮かべながら念じます。
そして、生きとし生けるものが、幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、願い事がかなえられますように、さとりの光が現れますように、とこの町の、この市の、この県の、この国の、世界中の人々、さらには動物も昆虫も、地中のものも空中のものも、餓鬼も天界の神々も幸せでありますようにと念じます。そして、自分を嫌っている人も私が嫌いな人も幸せでありますようにと念じます。
次の南方の仏教徒たちが唱えている慈しみの修習も参考にしてください。
慈しみの修習(メッタ・バァーワナー)
私は恨みのないものであります。
怒りなきものであります。
惑うことなきものであります。
幸あるものは、自分を守護す。
この私のごとく、私の師、和尚、母、父、味方も、見知らぬものも、
恨みあるものも、
恨みなきものであれ。
怒りなきものであれ。
惑うことなきものであれ。
幸あるものたちよ、自分たちを守護せよ。
苦しみがなくなりますように。
自らなした業の、身に得たる
ものを手放すなかれ。
この精舎における、この近くの村における、この町における、
この国における、この閻浮堤における、この鉄囲山の境界内に住する
自在天、神々、人々、すべての衆生は、
恨みなきものであれ。
怒りなきものであれ。
惑うことなきものであれ。
幸あるものたちよ、自分たちを守護せよ。
苦しみがなくなりますように。
自らなした業の、身に得たる
ものを手放すなかれ。
東、南、西、北、北東、南東、南西、北西、地下、上空のすべての方角の、すべての衆生、息をするもの、生き物、食により生きるもの、体を持つもの、女性、男性、聖なるもの、汚れたもの、神、ひと、人でないもの、地獄にあるものも、すべてのものたちが、
恨みなきものであれ。
怒りなきものであれ。
惑うことなきものであれ。
幸あるものたちよ、自分たちを守護せよ。
苦しみがなくなりますように。
自らなした業の、身に得たる
ものを手放すなかれ。
東の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
南の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
西の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
北の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
東方に持国天、南方に増長天、
西方に広目天、北方に多聞天。
彼ら名声ある世界の守護者四天王よ
我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
仏教懇話会の話題から
煩悩について②
②防護により断つ
次に、防護により煩悩を断つとはどういうことでしょうか。
防護というのは、私という存在を説明する教えである五蘊(ごうん)のプロセスをよく理解し、その過程の中に起こる煩悩について防護するという内容になります。
五蘊とは、般若心経の中にもあり、私たちもよくなじみのある言葉です。これは、色・受・想・行・識の五つの集まりという意味で、このプロセスによって私たちは生きている存在だということです。
色とは、この体の、六つの感覚器官(六根)、眼・耳・鼻・舌・身(皮膚)・意(こころ)のことです。舌とは味覚を感じる舌、身とは触覚を感じる皮膚のことで、意とは思いめぐらす心の認識機能のことです。
そこに、それぞれ形あるもの、音、香り匂い、舌に触れるもの、体に触れるもの、心に現れる思い考えなど(六境)が、眼、耳、鼻、舌、身、意に入ると、それぞれ眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識が作用して、受として感覚的に受容し、想としてそれらが何かと概念として捉え、行として何かしたいと意思が働くことになるのです。
そして、その過程で、それらが好ましいものなら欲の心、貪りの心が生じ、好ましからざるものなら、嫌悪や怒りの心が生じます。そうして煩悩が生まれていきます。
ですから、想から行にいたる段階で、煩悩が起こらないように、防護するということが必要だということになります。物を見たり、聞いたりの一瞬のうちにこれらの過程は進みます。なんの余計な心を入れることなく、ただ物体を見たり、音声を聞く、・・・心に思い考えが起こった瞬間に断ち切るということが必要となります。
そのように、その過程を細かく観察できるように心を鋭く余計なことにかかわることなく観察する訓練が必要となります。
ただ見る聞く嗅ぐ味わう触れるにとどめ、そこに何の煩悩も起こさないように心を観察し防護することです。そのためには対象となりがちなものをどう捉えるべきかをわきまえておくことも大切となるわけですが、それは次の受用にヒントがあります。
③受用により断つ
では、受用とは何でしょうか。昔の出家者たちの生活必需品である、煩悩を起こすもととなりがちな、着るもの、食べるもの、住まい、薬について、それらをどのように捉え受け取るのかと述べています。
衣は、寒さを防ぎ、虻や蚊、風邪や熱、蛇類に触れることを防ぐため、陰部を覆うためでしかないとあります。
出家者にとって、本来着るものとはそうあるべきであるということでしょう。形や色、豪華さ、もしくはブランドなどにとらわれがちですが、それによりますます煩悩を掻き立て、苦悩をもたらすと考えられます。
食は、戯れ、心酔、魅力、美容のためでなく、身体の存続、維持のためであり、空腹を克服し、食べ過ぎの苦痛を起こさず、仏行を支えるために食を受用するとあります。
現代は飽食の時代と言われ久しいわけですが、相変わらず美食番組が人気のようです。これを参考に、本来あるべき食を考えることも必要でしょう。
そして、住まいは、寒さ暑さを防ぎ、虻や蚊、風や熱、蛇類に触れることを防ぐためであり、薬は、病気の苦痛を防ぎ、苦痛がなくなるためであるとしています。
衣食住薬について、やや厳しい内容に思えますが、これら生活に欠かすことのできないものを本来どのように受用すべきものかと考えることで煩悩を防御することを教えていると受け取っていただけたらよろしいのかと存じます。
④忍耐により断つ
次に、忍耐によって断つとはどういうことでしょうか。
テキストには、まず、寒さ、暑さ、飢え、渇きに耐えること、虻や蚊、風邪や熱、蛇類に触れることに耐えることとあります。
そして、罵倒、誹謗の言葉に耐える。また苦しい、激しい、粗悪な、味気ない、不快な、身体の感受に耐え忍ぶこととあります。
こうした身体の感覚や外からの刺激に対して現代人の私たちは特に我慢ができず、すぐになんとかしようとしがちなものばかりです。が、時にはそうした快適な状態を求めるが故に諸々の煩悩が生じていることも知らねばならないということでしょう。
⑤回避により断つ
回避によって煩悩を断つとは何か。
狂暴な馬、牛、犬、蛇を避け、切り株、棘の地、穴、断崖、沼、溝など危険な場所を避ける。
座るべきでないところに座ったり、行くべきでない悪しきところに行ったり、悪友に親しんだり、そのような煩悩や危険をもたらす場に至ることを回避する。
そうすることで煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることはないと説いています。
⑥除去により断つ
除去によって断たれるべき煩悩とは何でしょうか。
欲の考え、怒りの考え、害意の考え、不軽蔑に関わる考え、利得・尊敬・名声に関わる考え、同情に関わる考え、不死の考え、地方の考え、親族の考えなど不善の考えを認めず、断ち除き、終わりにし、除去することで煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることはないとあります。
欲や災い、争いを生じるこのような考えをしないことも煩悩を防止することであるということです。
⑦修習により断つ
最後に、修習によって煩悩を断つとあります。
ここでは七覚支(しちかくし)という高いレベルの修行法が記されており、それは、念・択法(ちやくほう)・精進・喜・軽安(きようあん)・定・捨の七つの悟りを得るための条件とも言われるものです。
一、念覚支とは、四念処(いまある身・感覚・心・真理)について細かく観察すること。
二、択法覚支とは、その観察について真実なるものを選び、他を捨てること。
三、精進覚支とは、前の二つの修行に集中努力すること。
四、喜覚支とは、実践することで精神的喜びが生じること。
五、軽安覚支とは、心身を軽やかに安らかにすること。
六、定覚支とは、一つの対象に心を集中させること。
七、捨覚支とは、対象へのとらわれを捨て、苦楽を離れて中道を歩むこと。
これらについて、正しく観察し、世間を離れ、貪りを離れ、悟りに基づき、煩悩が遮断されつつ修習されるものであるとテキストにあります。
ここにある一、念覚支の内容とする四念処とは、すこし前に世界中でマインドフルネスと喧伝された瞑想法のことです。「今のこの瞬間に体験していることを意識的に、評価せず、とらわれず、ただ観ている」を基本として、体の動き、感覚として感じられること、心の様子、周りの現象について観察しそこから真理を見ていく瞑想法です。詳しくは、『國分寺だより』第四十九号に解説してありますので、ぜひご覧ください。
以上、『一切煩悩経』にあるこれら七種の煩悩を防止する法門について学んでまいりました。
仏教の教えに生きる私たちが、基本的なこの世のあり方をまずはわきまえ、煩悩とはどのように生じるものか、さらに日常出くわす様々なケースを検討し、それによって煩悩が生じ、苦悩にいたることがないように、どのような手立てによって気をつけるべきであるかを教えてくれています。
倶舎論に学ぶ
次に、五世紀中頃に世親(ヴァスバンドゥ)によって著された教理綱要書『倶舎論(くしやろん)』に説く煩悩の対治法を見ていきます。
分別随眠品(ふんべつずいみんぼん)第五に「煩悩の断滅」と題する章があり、そこには、対治に四種ありとして、断、持、遠、厭とあります。
断とは、六根に入る六境を好ましいものと捉えることにより渇愛が生じ苦しむ過程を遍知して煩悩を断じます。
持は、その断じている状態を持続すること。
遠とは、煩悩を生ぜしめる対象を遠ざけること。
厭とは、迷い煩悩に取り巻かれ禍を生じることを予見して厭い離れること。
断は、パーリ中部経典『一切煩悩経』に説く①見ること②防護に該当し、持は、③受用④忍耐、遠は、⑤回避⑥除去、厭は、⑦修習となるのでしょうか。
戒を持して修行を重ね、四双八輩(しそうはつぱい)というような聖者の階梯を進むことで段階的に煩悩は消えていくと教えられており、当然のことではありますが、最高の悟りである阿羅漢果に至ればすべての煩悩は消滅することになります。
専門的な修行をする環境にない私たちにおいても、これらを参考に、ことあるごとに七つの煩悩防止の教えを思い出し、煩悩を避ける生活を心掛けてまいりたいと思います。
そのためには、煩悩に限らず、仏教の教え全般について学び、善友と親しみ、心の修行を実践することを生活の基本に置くことが必要でしょう。心を防護して、坐禅瞑想するなどして世間を離れた心の静寂を知り、善行功徳を積みつつ精進することが肝要であろうと思います。ともに励んでまいりましょう。
なお、「仏教懇話会」では、今読んでいる『さとりの知恵を読む』を終えたら、下記の高等学校の倫理の教科書中の、インド思想、インド仏教、日本仏教について書かれたページを学んでいく予定にしています。是非、お気軽にご参加下さい。
六大新報令和四年二月五日号掲載】
松長有慶先生著
『訳注 弁顕密二教論(べんけんみつにきようろん)』を読んで
松長有慶先生の新刊、訳注シリーズの最終巻となる『弁顕密二教論(以下『二教論』と略す)』(春秋社刊)を拝読させていただいた。表紙の帯に、『なぜ密教はすぐれているのか。法身説法(ほつしんせつぽう)を高らかに宣言した代表作!』とある。あとがきには、唐より自ら請来(しようらい)したすばらしい教えを一刻も早く日本宗教界に着実に伝えたいという大師の使命感に燃えた切実な思い、異常な熱気が漂う著作であるという。
『密教辞典』(法蔵館)には「真言宗の判教のうち横の判教を説く(竪の判教は十住心論)。専ら顕教(けんぎよう)と密教との区別を明瞭にした立宗宣言の書である。六経三論を典拠に挙げて縦横に論陣を張る。」とある。確かに一読してみると、多くが引用文献の叙述で埋められており、これまで読ませていただいた三部書に比べるとかなり難解に思われた。
しかし、これまでのシリーズ同様に冒頭「『二教論』の全体像」が説かれ、『二教論』とは何かを簡潔に知ることが出来る。『二教論』の主眼は、一つに法身説法の可否、二つ目に果分(かぶん)の説不、つまり覚りの境地を説きうるか否か。そして三つ目にきわめて簡略ながら即身成仏についてとある。本編も、これまで通り【要旨】に解説を添えられ、わかりやすい【現代表現】により難なく読んでいける。そして、【読み下し文】と丁寧な【用語釈】が続く。
本編は上下巻に分かれ、上巻は弘仁のごく初期に、下巻はやや遅れて撰述されたであろうという。
早速本編上巻を読み始めると、序論にて仏身を法身、応身(おうじん)、化身(けしん)の三身に分け、顕教と密教の違いについて説かれる。つまり、応身と化身の教えが顕教であり、法身仏の中でも自らの身から流出した眷属(けんぞく)に対し自らお覚りになった境地を説く自受用法身(じじゆゆうほつしん)の教えが密教であるとする。
本論では、まず問答があり、経典を読む人の見識素養によって内容の理解が違い、経の内容も聞き手によって異なるとして、顕教は相手に応じて説く仮の教えに過ぎないのに対し、密教は真実に言及した究極の教えである、と論を進めていく。
そして、先生が大師の教学に重要な地位を占めるとされる、大乗起信論(だいじようきしんろん)の注釈書『釈摩訶衍論(しやくまかえんろん)』による五重の問答が示される。これは本覚を具えた者がそれぞれ到達する覚りを五段階に説き、その五段階目を密教に配当し、それらの深浅を語るものではあるが、大師はこの五重の問答には甚だ深い意味があり、よくよく吟味し尽くし最終的な真理に到達すべきであると諭されている。何度も精読すべき箇所と言えよう。
次に、四家大乗と言われる華厳・天台・三論・法相(ほつそう)の各宗の教えにおいて、覚りの世界を表現することはできないとする経典論書の箇所を取り上げて、各宗ごとの果分不可説(かぶんふかせつ)を説明していかれる。それにより大師が各宗の覚りの本質をどう捉えていたか知ることができる。
たとえば華厳宗については、法蔵の『華厳五教章』を引用し、華厳の法界縁起の世界は因と縁が互いに関わり合い、あらゆる事象が永遠に自在に休みなく活動しているとするが、その世界は真理の世界(果分)と現実世界に分かれ、真理の世界について究竟果分(くきようかぶん)の国土海とか十仏の自体融義(じたいゆうぎ)などというが通常の言語文字では表現できない、つまり果分不可説であるとする。
天台宗についても、天台智顗(ちぎ)の『摩訶止観』を引用し、天台の教えの肝要は空・仮・中の三種の真理であり、一念の中にその三諦を悉く観じ取ることを極めつきの妙境とみなしているが、仏と仏との間だけが分かり合える境地で、どのような言葉でもってしても表現を超えているとしており、果分不可説であり、真言の立場からは入門の初期段階に過ぎないという。
それに対し、密教の果分可説について、先生は有力な典拠として下巻にある『分別聖位経(ふんべつしよういきよう)』をあげておられる。その部分を要約すると、「法身大日如来の自受用法身仏は、その心髄から無量の菩薩衆を流出し、これらの諸仏諸菩薩は他者に説くのではなく、自受法楽のためだけに、自ら覚った境地を説く」とあることから、自受用法身として覚りの境地を説く果分可説であるとせられる。
そして、上巻の最後に、即身成仏について述べられる。『菩提心論』の中に、顕教と密教の深浅、成仏の遅速、勝劣がすべて説かれているとして、真言の教えの中だけに秘密真言独自の瑜伽の体験内容が明らかにされていると述べる。
下巻は、まず、密教の勝れていることを『六波羅蜜経』と『楞伽経(りようがきよう)』を引用し論述していく。『六波羅蜜経』からは、三蔵に般若蔵、陀羅尼蔵を加えた五蔵について説く第一巻を引用され、五蔵を乳・酪・生蘇・熟蘇・醍醐の五種の味に譬え、陀羅尼門(密教)こそが微妙第一とされる醍醐の味に該当し、諸病を除き人々を心身安楽ならしむものとして経典類の中で最高であるとする。
そして、『分別聖位経』、『瑜祗経(ゆぎきよう)』、『五秘密経』、『大日経』、『大智度論』などを典拠とされ法身説法とは何かを論じていく。その中には様々な示唆に富む文言が綴られ多くの傍線を引くことになった。
それらの引用文中に、不読段が三ヶ所ある。それは中世の事相家によって自己の流派の伝承を尊重し秘伝を重んじる影響と説明されるが、先生は本来日本に初めて請来した密教を朝野に広く認識されるために撰述された本書の中に、読まれては困る箇所がいくつもあるのは矛盾するとされて、すべてを他と同様に解説されている。
筆者には、その不読段部分に、日々の実践において参考になる内容が多く含まれるように思われた。そうした内容を、わかりやすい【現代表現】によって読めるのも誠に得がたいことである。例えば『五秘密儀軌(ごひみつぎき)』に「阿闍梨は普賢の覚りの境地に住して弟子の心中に金剛薩埵を引き入れると、弟子は阿闍梨の不思議な力によって密教の核心を身につけ、弟子の自我に執着する生まれつき持つ種子(しゆじ)を根本的に変えてしまう(要約)」と記されている。灌頂の儀礼にあたってとはあるが、日頃から心掛けていたい内容に思えた。
また、『瑜祗経』の説く法身説法において、その引用文中に「(法身とは)五智の光明は常に過現未の三世に及び、暫くの間も休むことなく衆生教化に努める平等の智身である。・・・智とは心の働きで、身とは心の本体。平等とはそれらが宇宙全体に遍満することである」、また『大智度論』には「仏に二種の身がある。一つは法性の身、二つには現実の父母より生まれた身である。初めの法性、すなわち真理そのものを身とする仏は、常に光明を放ち常に説法されている。衆生の心が清らかな時には仏が見え、心が清らかでない時には仏が見えない(抄録)」という記述がある。お釈迦様は覚りえた真理である縁起の法は自らの出世にかかわらず永遠に存するといわれたが、つまりは三世に及ぶ真理そのものである法身の説法からすべての教えは転じられているということであろうか。そして、今この瞬間にも時空に遍満する法身の、その光と声を感じとるためにも心清らかにありたいものである。
大師の教学が私たちの日常の信仰や教化、また自らの人生に意味あるものとしてどう捉えられているか。寺院を支え、檀信徒を導く上で、それはどういう働きとなっているか。そこに意味を見出せぬなら何の価値もないものとなる。どう大師教学をいかに今の時代に活かせるかが私たちの仕事であろう。
この『二教論』が、現実に私たちの力となるには何をどのように読み取るべきか。急激に変化する時代への対応、社会的問題への取り組み、地方の再生・活性化、災害や環境問題などについて考えるにあたり、どの宗派寺院も宗派色より協調、融和、共同を重視する傾向にあると言えようか。そうした時代だからこそ、密教としての真言宗はその独特なる発想が求められているのではないか。思想の原点にある違いを改めて学び直すことはそういう観点からも意味あることに思われた。
今年九十四歳になられる松長先生が、高野山大学の密教文化研究所において大学の先生方と祖典研究会を開いて、七年間も講読を続けてこられたという。その五冊目の成果が本書である。是非御一読をお勧めしたい。
仏と共に生きる
毎朝、御本尊薬師如来を拝みます。かつて先代もそうされていたと聞いています。行法(ぎようぼう)、供養法とも、修法(しゆほう)とも言い、薬師如来を本尊とする仏様方へ心からの供養をささげる真言密教の一座作法を修しています。
本堂の本尊様を祀る須弥壇(しゆみだん)前に設えた大壇の中心に仏様方をお迎えし供養をささげ、一心に行者と仏様との融合一体なる瞑想に入るものです。そして、国家の安泰平和と過去精霊の菩提、伽藍の安穏と仏法の興隆、災害なく五穀が豊穣で人々が安穏幸福であることを願うのです。
この行法の中に、いくつもの瞑想法が挿入されています。大壇前の礼盤(らいはん)に座る前にすでに、行者は足の下に蓮華を観じ柄香炉(えごうろ)を持ち三礼します。そのあと、礼盤に半跏趺坐(はんかふざ)して身支度を整え、わが身と場を清め、神仏へ挨拶し諸祈願を述べます。そして、菩提心を改めて確認して、四無量心観(よんむりようしんかん)という慈悲喜捨(じひきしや)の瞑想に入り、心を浄めます。これは、すべての生きとし生けるものに、友情の心から慈しみ、よくあって欲しいと願い、悩み苦しみが無きように抜苦(ばつく)を願い、共感の心からよくあることを喜び、分け隔てなく平静なる安らかなる心を養うのです。
それから、「道場観」として、心中に本尊様をはじめとする仏様方の曼荼羅世界を観想します。八葉蓮華座(はちようれんげざ)に座す薬師如来に日光月光菩薩十二神将(じゆうにじんしよう)が前後左右に囲んでいる様子を観想していきます。
そして、外界との交渉を遮断し、心の中に雑念を起こさないようにして、閼伽水(あかすい)、塗香(ずこう)、華鬘(けまん)、焼香、飯食(おんじき)、燈明の六種の供養を捧げてから、この行法の中心をなす三種の瞑想法を行うのです。
はじめに「入我我入観(にゆうががにゆうかん)」。これは仏様が我に入り、我が仏様に入ると観じて、仏様と我との一体合一を観想します。次に「正念誦(しようねんじゆ)」ですが、これは本尊様の真言を百八回唱え、その唱える声、音が虚空に遍満すると観想します。そして、「字輪観(じりんがん)」、これは自身が宇宙そのものと観じ、宇宙全体との融合一体を観想するものです。
この後、本尊様他諸尊の真言を念誦して、それぞれの法悦に入り感謝をささげます。それから、再度六種の供物を供養して、この一座の行法の功徳をすべての仏菩薩をはじめとする諸尊と一切の生きとし生けるものの菩提に廻らします。そして、お迎えした仏様方を本所にお帰りいただき、行法を終えます。
おおよその行程を見てみましたが、もちろんここに書いた通りのことを完璧にできるものではありません。何か思い出して感慨にふけったり、考え事をしたり、集中できないうちに終わってしまったりということもあります。ですが、とにかく毎日続けることに意義があると思っています。五時の鐘を撞いて、本堂の諸尊に仏飯とお茶湯(ちやとう)を給仕して、一座の行法をすることが役割と思い続けています。
昔のことになりますが、高野山の塔頭(たつちゆう)寺院高室院(たかむろいん)に弟子入りし、高野山専修学院入学前に山内(さんない)の生活に慣れるため、三か月ほど滞在していたことがあります。毎朝、勤行に本堂に向かうと、すでに前官(ぜんがん)(高野山で法印職を終えた高僧をいう)さんは寺内に付属する発光院(ほつこういん)で行法を済ませられ、それから本堂にきてお経を上げておられたものでした。
その後専修学院を卒業し、東京西早稲田の放生寺(ほうしようじ)に役僧として勤めていた時には、朝勤行は先代御住職が観音法を修法され、私は読経しておりました。その頃、先々代の老僧さんは車椅子の生活をなされていましたが、時折呼び止められ、よく昔話をしてくださいました。
あるとき、ご自分の書かれたたくさんの行法次第を広げられコピーをとるように言われました。コピーして持っていくと、私にそのすべてを授けて下さったのですが、そこには項目のみの次第がいくつもありました。
それは毎日修するが故に次第内容をすべて暗記され、その項目だけを順に確認するだけで行法をなされていた証(あかし)でした。観音様をご本尊とするお寺ですが、毎朝理趣経法(りしゆきようぼう)をなされていたと伺いました。
そんなことから、毎日行法をするのが老僧の勤めと、その頃から心にとどめており、その時期に差し掛かってきたことを自覚して、還暦前頃から私も続けているというわけなのです。
つい余談が長くなりましたが、ここで少し、「入我我入観」について考えてみたいと思います。仏様が我に入り我が仏様に入ると観想すると述べましたが、次第の解説書などには、仏様を光と観じて、我が心中に仏光が流れ入ると教えています。
ですが実際に、我に入るのは自分の鼻に入る吸気であり、仏様に入るのは我が呼気です。出入りするという光を光り輝く空気として捉えた方が、感覚として手掛かりがつかみやすく、気道から肺に入り、そこから全身にいきわたる感覚として入我を体験し、鼻の先から出ていく呼気がそのまま仏様に至ると観じ、それを我入とするのです。
それを繰り返していると、自分の外側にある空気そのものを仏様と感じられるようになり、そこにすでにおられると間近に観想した仏様そのものの息として外気そのものを仏様ととらえ、仏様が我に入ると感じとります。その場に仏様が満ち満ちておられると観じられ、吸気そのものが仏様であり、我が呼気はそのまま仏様の中に入ると観じられるようになります。
そうして行じておりましたところ、最近になって、この観想は、とても身近な存在として仏様を感得することを教えているのではないかと思えるようになってきました。そして、あるとき、これは自分という存在そのもののあり方として他なるものとの関係性を教えているとも思われたのです。
この我と仏様の関係を、自と他の関係としてとらえ、吸気を他、呼気を自と捉え、瞑想中にある呼吸は、自と他の交感、融合合一であるという感覚がわいてまいります。
そう捉えてみますと、私たちは、他なるものを自己に取り入れることによって生き、自己を外に出すことによって他が存在していると感じられます。生きるとは、他を取り込み、変化することであり、それを外に出す、つまり他に与えることによって、他が変化し存在すると考えられます。
自と他は、そもそも相互に関係し、依存する関係としてあり、生命体が存在するとはそういうことであると言えるのではないかと思えました。意識するしないにかかわらず私たちは他との共生のもとに生きているということになります。
仏教でいう縁起の教えも、無常・苦・無我も、こうした生命の生きる営みを角度を変えて同じことを言っているように思われたのでした。
なんという脱線した考えをしていると思われるかもしれません。が、以前高野山大学名誉教授越智淳仁先生より、研修会で「お釈迦様の生涯四十五年の説法が真理として虚空に遍満している、その真理を法と言い換えると、その虚空に遍満せる法こそが法身(ほつしん)であり、そうして法身大日如来が誕生した」と学びました。
行法中に感じられた他を法身と捉えれば、そのまま自他の交感そのままに入我我入が成立しているということになるのでしょう。
私たちは、自と他の共生のもとに生きています。それは仏様と共に生きているということでもあるのだと思います。
【國分寺通信】 蔓延防止対策等により経済活動を制限されてお困りの皆様に心よりお見舞い申し上げます。
○本年正月八日より十四日まで、真言宗最高厳儀(ごんぎ)である御七日御修法(ごしちにちみしほ)が、大覚寺門跡尾池泰道猊下大阿闍梨のもと京都東寺灌頂院(かんじよういん)にて執り行われました。八日に天皇陛下の御衣(ぎよい)が奉安され、十四日まで二十一座、真言宗各本山主はじめ最高位者が出仕して鎮護国家、玉体安穏、万民豊楽、五穀豊穣が祈念されました。お知らせ申し上げます。
○少し先のことになりますが、令和八年に、大覚寺では、寺号勅許(ちよつきよ)千百五十年記念大法会が予定されています。嵯峨天皇の離宮嵯峨院が淳和太皇太后の御願により恒寂(ごうじやく)入道親王を開山(かいさん)として大覚寺とされたのが、清和天皇の御代貞観十八年(八七六)のことでした。前年にあたる令和七年には東京国立博物館にて大覚寺展(仮称)も予定されています。檀信徒の皆様には大覚寺へ奉納する写経勧進を願いすることになろうかと存じます。是非この勝縁にご家族皆様のお写経をご奉納くださいますようにお願い申し上げます。
○真言宗の高祖弘法大師は宝亀五年(七七四)六月十五日に讃岐の屏風ガ浦(香川県善通寺市)にてご誕生になられ、来年令和五年は、千二百五十年の記念すべき年を迎えます。四国や高野山では様々な記念事業が営まれることとは存じますが、ぜひご参詣くださいますようご案内いたします。特に四国霊場は、昨今のコロナの影響から七割も巡礼者が減少しているそうです。この機会に向けて是非お参りされることをお勧めします。
月例行事 どなたさまもどうぞお気軽にご参加ください。
◎ 薬師護摩供 毎月二十一日午前八時~九時
◎ 坐禅会 毎月第一土曜日午後三時~五時
◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
◎ 仏教懇話会 毎月第二金曜日午後三時~四時
◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時
●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
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四無量心と十善に生きる
國分寺の仁王門横の掲示板には、時折ヒンディー語の格言とその日本語訳を小ポスターにして掲示しています。
これは、『saccī bāten(サッチー・バーテーン・意味は「真実の言葉」)』という名前で、フェイスブックやインスタグラムに参加して、ヒンディー語で古今のインドの格言などを投稿されているものがあり、その中から、私たちにも学びとなるようなものを選んで翻訳しているものです。
一昨年から、時々彼らの投稿に注目して日本語に訳したりして楽しんでいたのですが、そうして翻訳してみたものを何度かフェイスブックの投稿のコメント欄に書き込んでみたこともあります。その中から、是非皆さんにもご披露したい内容のものを印刷しては掲示しているのです。
今年の初めに掲示したものは、昨年の十月一日に投稿されたもので、仏陀の写真にヒンディー語で格言が入り、その横にそれを翻訳して、
「 身体のための一番よい治療は、
頭静まり平穏な心である。
そして、その平穏な心のために最もよい
治療は、誰の言葉であっても、
胸に重く受けとらないことです。」
と印刷して掲示しました。
この、身体のための最良の治療は、「頭静まり平穏な心」と訳してみましたが、これは原文では、シャーント・ディマーグとあり、直訳すると「平和な頭」となるものです。
あなたは頭がいい、ということを「アープカ・ディマーグ・アッチャー・ヘイ」などいう具合に使うので、「ディマーグ」という単語は会話でもよく登場する言葉なのですが、辞書には「脳、頭脳、思考力のほかに高慢、傲慢、慢心」とあります。そこで、シャーント・ディマーグで、頭静まり、高慢や慢心のない、穏やかで平安な、平穏なる心となるのであろうかと思います。
そして、その平穏なる心のための最良の治療は、「誰の言葉も胸に受け取らない」というのが直訳で、この「胸」の原語は、「フリーダヤ」とあります。これは般若心経という経題の中の「心」にも該当する言葉で、因みに心経はサンスクリット語では「プラジュナー・パーラミター・フリーダヤ」となるのですが、これは心というよりは心臓のことです。そこで胸と訳してみました。
誰かの言葉に、ドキドキしたり、恐れおののくとき、また怒り心頭になってブルブルと体が震えるようなとき心臓が高鳴ります。そういう状態の正反対に、誰の言葉であっても心静かに聞けて、さっと受け流し、自らの心に引っかからないよう、頭を静かに平安に生きる技が必要だということになるのでしょう。
もちろんこれは誰の言葉もいい加減に聞き流したらよいということではありません。きちんと要件を聞き取った上で、それが負担になったり重荷になることがないよう、その言葉にとらわれ後々まで心悩ませるものとならないようにするということです。
では、良いことであっても悪いことであっても、だれの言葉でも軽く受けとめるにはどうしたらよいのでしょうか。人の言葉に反発したり怒ったり、落ち込んだり、悲しんだり、後々まで暗い気持ちを引きずるのはどうしてなのでしょうか。
それは、自分という存在や自分の意志、考えがあり、それを尊重しなかったり、それに反するような言動に対して反応し、自分や自分の方針なり考えを蔑ろにされて憤慨する心により起こるのではないかと思います。
とすると、自分という思い、いわゆる自我さえなければ、そもそも腹を立てることもなくなるのかもしれませんが、それはとても難しいことのように思われます。
ところで、様々な場面で、そうした穏やかならぬ心の状態になるのは、過去の業(ごう)が作用していると仏教では考えます。
たとえば、同じ緊張を強いられるような場面でも、普通にいられる人もあれば、そういう状態に弱い人もあります。同じ災難にあっても、かすり傷一つで済む人、足腰を骨折する人、命を落としてしまう人もあります。
同じことを言われても、平然と受け流せる人もあれば、すぐに落ち着かなくなったり、怒りから手が出る人、言葉で口汚く言い返す人、表面的にはそ知らぬふりをしながら心は憤り、いつまでも怨念を持ち続けるような人もあります。
人さまざまであり、それらも過去に意志をもって行った身と口と心の行いが業となって私たちに貯め込まれていることが影響するというのです。遺伝や生まれ育ち、生活環境や経験も影響するのでしょうが、それらも含め過去世から今に至る業によるのだと考えるのです。
業には善業と悪業があります。厳密には善でも悪でもない業もあるのですが、善因楽果・悪因苦果と言いますように、善い行いをした果報である善業は楽ををもたらし、心の幸せなることが期待されるのです。ですが、悪業は逆に苦をもたらし不幸をもたらすとされるので、できれば消し去ってしまいたいというのが人情でしょう。
そうした悪業が様々な場面で自分にとって悪しき結果をもたらし、不本意な反応を引き起こし醜態をさらすということにもなりかねないとしたら、やはり何としても悪業は消滅させたいものです。
ところで、昨年読んだ『パーリ仏教を中心とした業論の研究』(浪花宣明著・春秋社刊P276~P291)という本に、そのあたりの話がとても興味深く書かれていますのですこし紹介してみたいと思います。
それによれば、自分とは何かと言えば業に外ならず、業には私がいるという自我の意識がなくてはならないもので、自我さえなくなれば、つまりそれは煩悩がなくなり、最高の悟りに到達することを意味するものではあるのですが、そうすれば業は消滅するのだとあります。
相応部経典(そうおうぶきようてん)S.iv.320『改悔』には、「悪業を捨断し、悪業を超越する、彼はこのように貪欲を離れ、悪心を離れ、迷妄なく、正念正智(しようねんしようち)をもって、慈(じ)・悲(ひ)・喜(き)・捨(しや)の四無量心(しむりようしん)によって心解脱(しんげだつ)し、欲界(よつかい)の業がそこに残存せず」と説いてあるのだといいます。
そこで長部経典(ちようぶきようてん)を調べてみると、確かに第十三『三明経(さんみようきよう)』に、「…聖なる戒をそなえ、感官を防護し、正念正知をそなえ、衣食に満足し、五つの障害が捨てられ、喜びと楽のある彼が、慈・悲・喜・捨の心をもって、すべてのところに、一切を自己のこととして、無量の恨みのない害意のない心をもって満たし住む。そうして、慈・悲・喜・捨が修され、心が解脱すれば有量(欲界)の業がそこに残ることなく、とどまることがない」と説かれていました。
これら経典には、業のすべてが消滅するとしているわけではありませんが、欲界の、つまり通常の衆生世界での悪業は、5ページに述べる慈・悲・喜・捨の四無量心の修習によって消滅すると考えてよいということなのです。つまりは自我という、自分がいるという錯覚からも解放されるということになります。
ですが、こうした欲界の業が消滅するという四無量心の修習(じゆじゆう)は、その実践が必然ではあるのですが、その完成とされる心解脱(心修習の力による解脱。心が定により貪欲から解脱すること『ポー・オー・パユットー仏教辞典』)を成就(じようじゆ)するというのはそんなに簡単なことではないようです。
そこで、次に本書に説かれる善悪業が異熟(いじゆく)(善悪の因により機が熟して結果すること)しない、つまり業の報果が変化して結果しない場合があるという教えは私たちにとっての救いとなるのかもしれません。
これはいくつかの経典にも説かれ、また、パーリ論蔵『分別論(ふんべつろん)』(Vibhanga ヴィバンガ)にある教えとのことなのですが、悪業者には苦果があるという道理があり、善因楽果・悪因苦果を不動の真実としながらも、ある条件の下で業がそれらに遮られ結果しない場合があるというのです。
それは業異熟智力の説明の中で、①幸福な趣(六道の中の天界人間界の生まれ)、②幸福な生存の素因(身体の端正なこと)、③幸福な時代(善王善人の時代)、④幸福な行為(正しい行為)により、善業が異熟し、悪業はそれらに遮られて異熟しないということです。逆に不幸な趣・生存・時代・行為の場合には、悪業が異熟し、善業はそれらに遮られ異熟しないというのです。
既に人間として生まれ、自由な時代に生きている私たちができうる可能なことは、④幸福な行為、つまり正しい行為ということになるのでしょうか。
それにより、悪業が結果するのを遮りつつ、善業が異熟するのを待つことができるということなのです。
私たちにとっては、『仏前勤行次第』にある「十善戒」として読み学んでいる十善、「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・
不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見」により生きることが、過去の様々な悪業の業果から逃れさせてくれるということになるのでしょう。これも、徹底するのはとても難しいことですが、改めて勤行次第において「十善戒」が唱えられることの真意を知った思いがいたします。
まずは、四無量心について、次ページに記した南方の仏教徒たちが唱えている「慈しみの修習」を参考に、静かに毎朝あるいは毎晩、ふさわしい時に、まずは私自身が、そして周りの人たち、生きとし生けるものに、慈(友情の心から幸せでありますようにと願う)・悲(苦しみがなくなりますようにと願う)・喜(願い事がかない喜びがありますようにと願う)・捨(誰をも分け隔てなく平等にみて静かな心に住する)の心を遍く念じてみてください。
そうして自我を収めつつ、十悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・慳貪・瞋恚・邪見)を離れ、十善に励むことによって、悪業による報果を逃れつつ生きることが私たちには大切だということなのです。
掲示板を解説するつもりで始めた話が、いつの間にか脱線して、日常の生き方にまで話が及んでしまいました。が、是非四無量心と十善の生き方を基本に精進を続け、誰の言葉も重く受け取ることなく、心身ともに健康にお過ごしをいただきたいと思います。
四無量心の修習
慈悲喜捨の心を、まずは自分に向けて、私は幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、願い事がかなえられますように、さとりの光が現れますようにと念じます。
それから周りの身近な人たちが、幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、願い事がかなえられますように、さとりの光が現れますように、と身近な人たち一人ひとりの顔や姿を思い浮かべながら念じます。
そして、生きとし生けるものが、幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように、願い事がかなえられますように、さとりの光が現れますように、とこの町の、この市の、この県の、この国の、世界中の人々、さらには動物も昆虫も、地中のものも空中のものも、餓鬼も天界の神々も幸せでありますようにと念じます。そして、自分を嫌っている人も私が嫌いな人も幸せでありますようにと念じます。
次の南方の仏教徒たちが唱えている慈しみの修習も参考にしてください。
慈しみの修習(メッタ・バァーワナー)
私は恨みのないものであります。
怒りなきものであります。
惑うことなきものであります。
幸あるものは、自分を守護す。
この私のごとく、私の師、和尚、母、父、味方も、見知らぬものも、
恨みあるものも、
恨みなきものであれ。
怒りなきものであれ。
惑うことなきものであれ。
幸あるものたちよ、自分たちを守護せよ。
苦しみがなくなりますように。
自らなした業の、身に得たる
ものを手放すなかれ。
この精舎における、この近くの村における、この町における、
この国における、この閻浮堤における、この鉄囲山の境界内に住する
自在天、神々、人々、すべての衆生は、
恨みなきものであれ。
怒りなきものであれ。
惑うことなきものであれ。
幸あるものたちよ、自分たちを守護せよ。
苦しみがなくなりますように。
自らなした業の、身に得たる
ものを手放すなかれ。
東、南、西、北、北東、南東、南西、北西、地下、上空のすべての方角の、すべての衆生、息をするもの、生き物、食により生きるもの、体を持つもの、女性、男性、聖なるもの、汚れたもの、神、ひと、人でないもの、地獄にあるものも、すべてのものたちが、
恨みなきものであれ。
怒りなきものであれ。
惑うことなきものであれ。
幸あるものたちよ、自分たちを守護せよ。
苦しみがなくなりますように。
自らなした業の、身に得たる
ものを手放すなかれ。
東の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
南の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
西の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
北の方角にあられて大神変を現す寂静の神々よ、我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
東方に持国天、南方に増長天、
西方に広目天、北方に多聞天。
彼ら名声ある世界の守護者四天王よ
我らを守護せよ。無病であれ、幸あれと。
仏教懇話会の話題から
煩悩について②
②防護により断つ
次に、防護により煩悩を断つとはどういうことでしょうか。
防護というのは、私という存在を説明する教えである五蘊(ごうん)のプロセスをよく理解し、その過程の中に起こる煩悩について防護するという内容になります。
五蘊とは、般若心経の中にもあり、私たちもよくなじみのある言葉です。これは、色・受・想・行・識の五つの集まりという意味で、このプロセスによって私たちは生きている存在だということです。
色とは、この体の、六つの感覚器官(六根)、眼・耳・鼻・舌・身(皮膚)・意(こころ)のことです。舌とは味覚を感じる舌、身とは触覚を感じる皮膚のことで、意とは思いめぐらす心の認識機能のことです。
そこに、それぞれ形あるもの、音、香り匂い、舌に触れるもの、体に触れるもの、心に現れる思い考えなど(六境)が、眼、耳、鼻、舌、身、意に入ると、それぞれ眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識が作用して、受として感覚的に受容し、想としてそれらが何かと概念として捉え、行として何かしたいと意思が働くことになるのです。
そして、その過程で、それらが好ましいものなら欲の心、貪りの心が生じ、好ましからざるものなら、嫌悪や怒りの心が生じます。そうして煩悩が生まれていきます。
ですから、想から行にいたる段階で、煩悩が起こらないように、防護するということが必要だということになります。物を見たり、聞いたりの一瞬のうちにこれらの過程は進みます。なんの余計な心を入れることなく、ただ物体を見たり、音声を聞く、・・・心に思い考えが起こった瞬間に断ち切るということが必要となります。
そのように、その過程を細かく観察できるように心を鋭く余計なことにかかわることなく観察する訓練が必要となります。
ただ見る聞く嗅ぐ味わう触れるにとどめ、そこに何の煩悩も起こさないように心を観察し防護することです。そのためには対象となりがちなものをどう捉えるべきかをわきまえておくことも大切となるわけですが、それは次の受用にヒントがあります。
③受用により断つ
では、受用とは何でしょうか。昔の出家者たちの生活必需品である、煩悩を起こすもととなりがちな、着るもの、食べるもの、住まい、薬について、それらをどのように捉え受け取るのかと述べています。
衣は、寒さを防ぎ、虻や蚊、風邪や熱、蛇類に触れることを防ぐため、陰部を覆うためでしかないとあります。
出家者にとって、本来着るものとはそうあるべきであるということでしょう。形や色、豪華さ、もしくはブランドなどにとらわれがちですが、それによりますます煩悩を掻き立て、苦悩をもたらすと考えられます。
食は、戯れ、心酔、魅力、美容のためでなく、身体の存続、維持のためであり、空腹を克服し、食べ過ぎの苦痛を起こさず、仏行を支えるために食を受用するとあります。
現代は飽食の時代と言われ久しいわけですが、相変わらず美食番組が人気のようです。これを参考に、本来あるべき食を考えることも必要でしょう。
そして、住まいは、寒さ暑さを防ぎ、虻や蚊、風や熱、蛇類に触れることを防ぐためであり、薬は、病気の苦痛を防ぎ、苦痛がなくなるためであるとしています。
衣食住薬について、やや厳しい内容に思えますが、これら生活に欠かすことのできないものを本来どのように受用すべきものかと考えることで煩悩を防御することを教えていると受け取っていただけたらよろしいのかと存じます。
④忍耐により断つ
次に、忍耐によって断つとはどういうことでしょうか。
テキストには、まず、寒さ、暑さ、飢え、渇きに耐えること、虻や蚊、風邪や熱、蛇類に触れることに耐えることとあります。
そして、罵倒、誹謗の言葉に耐える。また苦しい、激しい、粗悪な、味気ない、不快な、身体の感受に耐え忍ぶこととあります。
こうした身体の感覚や外からの刺激に対して現代人の私たちは特に我慢ができず、すぐになんとかしようとしがちなものばかりです。が、時にはそうした快適な状態を求めるが故に諸々の煩悩が生じていることも知らねばならないということでしょう。
⑤回避により断つ
回避によって煩悩を断つとは何か。
狂暴な馬、牛、犬、蛇を避け、切り株、棘の地、穴、断崖、沼、溝など危険な場所を避ける。
座るべきでないところに座ったり、行くべきでない悪しきところに行ったり、悪友に親しんだり、そのような煩悩や危険をもたらす場に至ることを回避する。
そうすることで煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることはないと説いています。
⑥除去により断つ
除去によって断たれるべき煩悩とは何でしょうか。
欲の考え、怒りの考え、害意の考え、不軽蔑に関わる考え、利得・尊敬・名声に関わる考え、同情に関わる考え、不死の考え、地方の考え、親族の考えなど不善の考えを認めず、断ち除き、終わりにし、除去することで煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることはないとあります。
欲や災い、争いを生じるこのような考えをしないことも煩悩を防止することであるということです。
⑦修習により断つ
最後に、修習によって煩悩を断つとあります。
ここでは七覚支(しちかくし)という高いレベルの修行法が記されており、それは、念・択法(ちやくほう)・精進・喜・軽安(きようあん)・定・捨の七つの悟りを得るための条件とも言われるものです。
一、念覚支とは、四念処(いまある身・感覚・心・真理)について細かく観察すること。
二、択法覚支とは、その観察について真実なるものを選び、他を捨てること。
三、精進覚支とは、前の二つの修行に集中努力すること。
四、喜覚支とは、実践することで精神的喜びが生じること。
五、軽安覚支とは、心身を軽やかに安らかにすること。
六、定覚支とは、一つの対象に心を集中させること。
七、捨覚支とは、対象へのとらわれを捨て、苦楽を離れて中道を歩むこと。
これらについて、正しく観察し、世間を離れ、貪りを離れ、悟りに基づき、煩悩が遮断されつつ修習されるものであるとテキストにあります。
ここにある一、念覚支の内容とする四念処とは、すこし前に世界中でマインドフルネスと喧伝された瞑想法のことです。「今のこの瞬間に体験していることを意識的に、評価せず、とらわれず、ただ観ている」を基本として、体の動き、感覚として感じられること、心の様子、周りの現象について観察しそこから真理を見ていく瞑想法です。詳しくは、『國分寺だより』第四十九号に解説してありますので、ぜひご覧ください。
以上、『一切煩悩経』にあるこれら七種の煩悩を防止する法門について学んでまいりました。
仏教の教えに生きる私たちが、基本的なこの世のあり方をまずはわきまえ、煩悩とはどのように生じるものか、さらに日常出くわす様々なケースを検討し、それによって煩悩が生じ、苦悩にいたることがないように、どのような手立てによって気をつけるべきであるかを教えてくれています。
倶舎論に学ぶ
次に、五世紀中頃に世親(ヴァスバンドゥ)によって著された教理綱要書『倶舎論(くしやろん)』に説く煩悩の対治法を見ていきます。
分別随眠品(ふんべつずいみんぼん)第五に「煩悩の断滅」と題する章があり、そこには、対治に四種ありとして、断、持、遠、厭とあります。
断とは、六根に入る六境を好ましいものと捉えることにより渇愛が生じ苦しむ過程を遍知して煩悩を断じます。
持は、その断じている状態を持続すること。
遠とは、煩悩を生ぜしめる対象を遠ざけること。
厭とは、迷い煩悩に取り巻かれ禍を生じることを予見して厭い離れること。
断は、パーリ中部経典『一切煩悩経』に説く①見ること②防護に該当し、持は、③受用④忍耐、遠は、⑤回避⑥除去、厭は、⑦修習となるのでしょうか。
戒を持して修行を重ね、四双八輩(しそうはつぱい)というような聖者の階梯を進むことで段階的に煩悩は消えていくと教えられており、当然のことではありますが、最高の悟りである阿羅漢果に至ればすべての煩悩は消滅することになります。
専門的な修行をする環境にない私たちにおいても、これらを参考に、ことあるごとに七つの煩悩防止の教えを思い出し、煩悩を避ける生活を心掛けてまいりたいと思います。
そのためには、煩悩に限らず、仏教の教え全般について学び、善友と親しみ、心の修行を実践することを生活の基本に置くことが必要でしょう。心を防護して、坐禅瞑想するなどして世間を離れた心の静寂を知り、善行功徳を積みつつ精進することが肝要であろうと思います。ともに励んでまいりましょう。
なお、「仏教懇話会」では、今読んでいる『さとりの知恵を読む』を終えたら、下記の高等学校の倫理の教科書中の、インド思想、インド仏教、日本仏教について書かれたページを学んでいく予定にしています。是非、お気軽にご参加下さい。
六大新報令和四年二月五日号掲載】
松長有慶先生著
『訳注 弁顕密二教論(べんけんみつにきようろん)』を読んで
松長有慶先生の新刊、訳注シリーズの最終巻となる『弁顕密二教論(以下『二教論』と略す)』(春秋社刊)を拝読させていただいた。表紙の帯に、『なぜ密教はすぐれているのか。法身説法(ほつしんせつぽう)を高らかに宣言した代表作!』とある。あとがきには、唐より自ら請来(しようらい)したすばらしい教えを一刻も早く日本宗教界に着実に伝えたいという大師の使命感に燃えた切実な思い、異常な熱気が漂う著作であるという。
『密教辞典』(法蔵館)には「真言宗の判教のうち横の判教を説く(竪の判教は十住心論)。専ら顕教(けんぎよう)と密教との区別を明瞭にした立宗宣言の書である。六経三論を典拠に挙げて縦横に論陣を張る。」とある。確かに一読してみると、多くが引用文献の叙述で埋められており、これまで読ませていただいた三部書に比べるとかなり難解に思われた。
しかし、これまでのシリーズ同様に冒頭「『二教論』の全体像」が説かれ、『二教論』とは何かを簡潔に知ることが出来る。『二教論』の主眼は、一つに法身説法の可否、二つ目に果分(かぶん)の説不、つまり覚りの境地を説きうるか否か。そして三つ目にきわめて簡略ながら即身成仏についてとある。本編も、これまで通り【要旨】に解説を添えられ、わかりやすい【現代表現】により難なく読んでいける。そして、【読み下し文】と丁寧な【用語釈】が続く。
本編は上下巻に分かれ、上巻は弘仁のごく初期に、下巻はやや遅れて撰述されたであろうという。
早速本編上巻を読み始めると、序論にて仏身を法身、応身(おうじん)、化身(けしん)の三身に分け、顕教と密教の違いについて説かれる。つまり、応身と化身の教えが顕教であり、法身仏の中でも自らの身から流出した眷属(けんぞく)に対し自らお覚りになった境地を説く自受用法身(じじゆゆうほつしん)の教えが密教であるとする。
本論では、まず問答があり、経典を読む人の見識素養によって内容の理解が違い、経の内容も聞き手によって異なるとして、顕教は相手に応じて説く仮の教えに過ぎないのに対し、密教は真実に言及した究極の教えである、と論を進めていく。
そして、先生が大師の教学に重要な地位を占めるとされる、大乗起信論(だいじようきしんろん)の注釈書『釈摩訶衍論(しやくまかえんろん)』による五重の問答が示される。これは本覚を具えた者がそれぞれ到達する覚りを五段階に説き、その五段階目を密教に配当し、それらの深浅を語るものではあるが、大師はこの五重の問答には甚だ深い意味があり、よくよく吟味し尽くし最終的な真理に到達すべきであると諭されている。何度も精読すべき箇所と言えよう。
次に、四家大乗と言われる華厳・天台・三論・法相(ほつそう)の各宗の教えにおいて、覚りの世界を表現することはできないとする経典論書の箇所を取り上げて、各宗ごとの果分不可説(かぶんふかせつ)を説明していかれる。それにより大師が各宗の覚りの本質をどう捉えていたか知ることができる。
たとえば華厳宗については、法蔵の『華厳五教章』を引用し、華厳の法界縁起の世界は因と縁が互いに関わり合い、あらゆる事象が永遠に自在に休みなく活動しているとするが、その世界は真理の世界(果分)と現実世界に分かれ、真理の世界について究竟果分(くきようかぶん)の国土海とか十仏の自体融義(じたいゆうぎ)などというが通常の言語文字では表現できない、つまり果分不可説であるとする。
天台宗についても、天台智顗(ちぎ)の『摩訶止観』を引用し、天台の教えの肝要は空・仮・中の三種の真理であり、一念の中にその三諦を悉く観じ取ることを極めつきの妙境とみなしているが、仏と仏との間だけが分かり合える境地で、どのような言葉でもってしても表現を超えているとしており、果分不可説であり、真言の立場からは入門の初期段階に過ぎないという。
それに対し、密教の果分可説について、先生は有力な典拠として下巻にある『分別聖位経(ふんべつしよういきよう)』をあげておられる。その部分を要約すると、「法身大日如来の自受用法身仏は、その心髄から無量の菩薩衆を流出し、これらの諸仏諸菩薩は他者に説くのではなく、自受法楽のためだけに、自ら覚った境地を説く」とあることから、自受用法身として覚りの境地を説く果分可説であるとせられる。
そして、上巻の最後に、即身成仏について述べられる。『菩提心論』の中に、顕教と密教の深浅、成仏の遅速、勝劣がすべて説かれているとして、真言の教えの中だけに秘密真言独自の瑜伽の体験内容が明らかにされていると述べる。
下巻は、まず、密教の勝れていることを『六波羅蜜経』と『楞伽経(りようがきよう)』を引用し論述していく。『六波羅蜜経』からは、三蔵に般若蔵、陀羅尼蔵を加えた五蔵について説く第一巻を引用され、五蔵を乳・酪・生蘇・熟蘇・醍醐の五種の味に譬え、陀羅尼門(密教)こそが微妙第一とされる醍醐の味に該当し、諸病を除き人々を心身安楽ならしむものとして経典類の中で最高であるとする。
そして、『分別聖位経』、『瑜祗経(ゆぎきよう)』、『五秘密経』、『大日経』、『大智度論』などを典拠とされ法身説法とは何かを論じていく。その中には様々な示唆に富む文言が綴られ多くの傍線を引くことになった。
それらの引用文中に、不読段が三ヶ所ある。それは中世の事相家によって自己の流派の伝承を尊重し秘伝を重んじる影響と説明されるが、先生は本来日本に初めて請来した密教を朝野に広く認識されるために撰述された本書の中に、読まれては困る箇所がいくつもあるのは矛盾するとされて、すべてを他と同様に解説されている。
筆者には、その不読段部分に、日々の実践において参考になる内容が多く含まれるように思われた。そうした内容を、わかりやすい【現代表現】によって読めるのも誠に得がたいことである。例えば『五秘密儀軌(ごひみつぎき)』に「阿闍梨は普賢の覚りの境地に住して弟子の心中に金剛薩埵を引き入れると、弟子は阿闍梨の不思議な力によって密教の核心を身につけ、弟子の自我に執着する生まれつき持つ種子(しゆじ)を根本的に変えてしまう(要約)」と記されている。灌頂の儀礼にあたってとはあるが、日頃から心掛けていたい内容に思えた。
また、『瑜祗経』の説く法身説法において、その引用文中に「(法身とは)五智の光明は常に過現未の三世に及び、暫くの間も休むことなく衆生教化に努める平等の智身である。・・・智とは心の働きで、身とは心の本体。平等とはそれらが宇宙全体に遍満することである」、また『大智度論』には「仏に二種の身がある。一つは法性の身、二つには現実の父母より生まれた身である。初めの法性、すなわち真理そのものを身とする仏は、常に光明を放ち常に説法されている。衆生の心が清らかな時には仏が見え、心が清らかでない時には仏が見えない(抄録)」という記述がある。お釈迦様は覚りえた真理である縁起の法は自らの出世にかかわらず永遠に存するといわれたが、つまりは三世に及ぶ真理そのものである法身の説法からすべての教えは転じられているということであろうか。そして、今この瞬間にも時空に遍満する法身の、その光と声を感じとるためにも心清らかにありたいものである。
大師の教学が私たちの日常の信仰や教化、また自らの人生に意味あるものとしてどう捉えられているか。寺院を支え、檀信徒を導く上で、それはどういう働きとなっているか。そこに意味を見出せぬなら何の価値もないものとなる。どう大師教学をいかに今の時代に活かせるかが私たちの仕事であろう。
この『二教論』が、現実に私たちの力となるには何をどのように読み取るべきか。急激に変化する時代への対応、社会的問題への取り組み、地方の再生・活性化、災害や環境問題などについて考えるにあたり、どの宗派寺院も宗派色より協調、融和、共同を重視する傾向にあると言えようか。そうした時代だからこそ、密教としての真言宗はその独特なる発想が求められているのではないか。思想の原点にある違いを改めて学び直すことはそういう観点からも意味あることに思われた。
今年九十四歳になられる松長先生が、高野山大学の密教文化研究所において大学の先生方と祖典研究会を開いて、七年間も講読を続けてこられたという。その五冊目の成果が本書である。是非御一読をお勧めしたい。
仏と共に生きる
毎朝、御本尊薬師如来を拝みます。かつて先代もそうされていたと聞いています。行法(ぎようぼう)、供養法とも、修法(しゆほう)とも言い、薬師如来を本尊とする仏様方へ心からの供養をささげる真言密教の一座作法を修しています。
本堂の本尊様を祀る須弥壇(しゆみだん)前に設えた大壇の中心に仏様方をお迎えし供養をささげ、一心に行者と仏様との融合一体なる瞑想に入るものです。そして、国家の安泰平和と過去精霊の菩提、伽藍の安穏と仏法の興隆、災害なく五穀が豊穣で人々が安穏幸福であることを願うのです。
この行法の中に、いくつもの瞑想法が挿入されています。大壇前の礼盤(らいはん)に座る前にすでに、行者は足の下に蓮華を観じ柄香炉(えごうろ)を持ち三礼します。そのあと、礼盤に半跏趺坐(はんかふざ)して身支度を整え、わが身と場を清め、神仏へ挨拶し諸祈願を述べます。そして、菩提心を改めて確認して、四無量心観(よんむりようしんかん)という慈悲喜捨(じひきしや)の瞑想に入り、心を浄めます。これは、すべての生きとし生けるものに、友情の心から慈しみ、よくあって欲しいと願い、悩み苦しみが無きように抜苦(ばつく)を願い、共感の心からよくあることを喜び、分け隔てなく平静なる安らかなる心を養うのです。
それから、「道場観」として、心中に本尊様をはじめとする仏様方の曼荼羅世界を観想します。八葉蓮華座(はちようれんげざ)に座す薬師如来に日光月光菩薩十二神将(じゆうにじんしよう)が前後左右に囲んでいる様子を観想していきます。
そして、外界との交渉を遮断し、心の中に雑念を起こさないようにして、閼伽水(あかすい)、塗香(ずこう)、華鬘(けまん)、焼香、飯食(おんじき)、燈明の六種の供養を捧げてから、この行法の中心をなす三種の瞑想法を行うのです。
はじめに「入我我入観(にゆうががにゆうかん)」。これは仏様が我に入り、我が仏様に入ると観じて、仏様と我との一体合一を観想します。次に「正念誦(しようねんじゆ)」ですが、これは本尊様の真言を百八回唱え、その唱える声、音が虚空に遍満すると観想します。そして、「字輪観(じりんがん)」、これは自身が宇宙そのものと観じ、宇宙全体との融合一体を観想するものです。
この後、本尊様他諸尊の真言を念誦して、それぞれの法悦に入り感謝をささげます。それから、再度六種の供物を供養して、この一座の行法の功徳をすべての仏菩薩をはじめとする諸尊と一切の生きとし生けるものの菩提に廻らします。そして、お迎えした仏様方を本所にお帰りいただき、行法を終えます。
おおよその行程を見てみましたが、もちろんここに書いた通りのことを完璧にできるものではありません。何か思い出して感慨にふけったり、考え事をしたり、集中できないうちに終わってしまったりということもあります。ですが、とにかく毎日続けることに意義があると思っています。五時の鐘を撞いて、本堂の諸尊に仏飯とお茶湯(ちやとう)を給仕して、一座の行法をすることが役割と思い続けています。
昔のことになりますが、高野山の塔頭(たつちゆう)寺院高室院(たかむろいん)に弟子入りし、高野山専修学院入学前に山内(さんない)の生活に慣れるため、三か月ほど滞在していたことがあります。毎朝、勤行に本堂に向かうと、すでに前官(ぜんがん)(高野山で法印職を終えた高僧をいう)さんは寺内に付属する発光院(ほつこういん)で行法を済ませられ、それから本堂にきてお経を上げておられたものでした。
その後専修学院を卒業し、東京西早稲田の放生寺(ほうしようじ)に役僧として勤めていた時には、朝勤行は先代御住職が観音法を修法され、私は読経しておりました。その頃、先々代の老僧さんは車椅子の生活をなされていましたが、時折呼び止められ、よく昔話をしてくださいました。
あるとき、ご自分の書かれたたくさんの行法次第を広げられコピーをとるように言われました。コピーして持っていくと、私にそのすべてを授けて下さったのですが、そこには項目のみの次第がいくつもありました。
それは毎日修するが故に次第内容をすべて暗記され、その項目だけを順に確認するだけで行法をなされていた証(あかし)でした。観音様をご本尊とするお寺ですが、毎朝理趣経法(りしゆきようぼう)をなされていたと伺いました。
そんなことから、毎日行法をするのが老僧の勤めと、その頃から心にとどめており、その時期に差し掛かってきたことを自覚して、還暦前頃から私も続けているというわけなのです。
つい余談が長くなりましたが、ここで少し、「入我我入観」について考えてみたいと思います。仏様が我に入り我が仏様に入ると観想すると述べましたが、次第の解説書などには、仏様を光と観じて、我が心中に仏光が流れ入ると教えています。
ですが実際に、我に入るのは自分の鼻に入る吸気であり、仏様に入るのは我が呼気です。出入りするという光を光り輝く空気として捉えた方が、感覚として手掛かりがつかみやすく、気道から肺に入り、そこから全身にいきわたる感覚として入我を体験し、鼻の先から出ていく呼気がそのまま仏様に至ると観じ、それを我入とするのです。
それを繰り返していると、自分の外側にある空気そのものを仏様と感じられるようになり、そこにすでにおられると間近に観想した仏様そのものの息として外気そのものを仏様ととらえ、仏様が我に入ると感じとります。その場に仏様が満ち満ちておられると観じられ、吸気そのものが仏様であり、我が呼気はそのまま仏様の中に入ると観じられるようになります。
そうして行じておりましたところ、最近になって、この観想は、とても身近な存在として仏様を感得することを教えているのではないかと思えるようになってきました。そして、あるとき、これは自分という存在そのもののあり方として他なるものとの関係性を教えているとも思われたのです。
この我と仏様の関係を、自と他の関係としてとらえ、吸気を他、呼気を自と捉え、瞑想中にある呼吸は、自と他の交感、融合合一であるという感覚がわいてまいります。
そう捉えてみますと、私たちは、他なるものを自己に取り入れることによって生き、自己を外に出すことによって他が存在していると感じられます。生きるとは、他を取り込み、変化することであり、それを外に出す、つまり他に与えることによって、他が変化し存在すると考えられます。
自と他は、そもそも相互に関係し、依存する関係としてあり、生命体が存在するとはそういうことであると言えるのではないかと思えました。意識するしないにかかわらず私たちは他との共生のもとに生きているということになります。
仏教でいう縁起の教えも、無常・苦・無我も、こうした生命の生きる営みを角度を変えて同じことを言っているように思われたのでした。
なんという脱線した考えをしていると思われるかもしれません。が、以前高野山大学名誉教授越智淳仁先生より、研修会で「お釈迦様の生涯四十五年の説法が真理として虚空に遍満している、その真理を法と言い換えると、その虚空に遍満せる法こそが法身(ほつしん)であり、そうして法身大日如来が誕生した」と学びました。
行法中に感じられた他を法身と捉えれば、そのまま自他の交感そのままに入我我入が成立しているということになるのでしょう。
私たちは、自と他の共生のもとに生きています。それは仏様と共に生きているということでもあるのだと思います。
【國分寺通信】 蔓延防止対策等により経済活動を制限されてお困りの皆様に心よりお見舞い申し上げます。
○本年正月八日より十四日まで、真言宗最高厳儀(ごんぎ)である御七日御修法(ごしちにちみしほ)が、大覚寺門跡尾池泰道猊下大阿闍梨のもと京都東寺灌頂院(かんじよういん)にて執り行われました。八日に天皇陛下の御衣(ぎよい)が奉安され、十四日まで二十一座、真言宗各本山主はじめ最高位者が出仕して鎮護国家、玉体安穏、万民豊楽、五穀豊穣が祈念されました。お知らせ申し上げます。
○少し先のことになりますが、令和八年に、大覚寺では、寺号勅許(ちよつきよ)千百五十年記念大法会が予定されています。嵯峨天皇の離宮嵯峨院が淳和太皇太后の御願により恒寂(ごうじやく)入道親王を開山(かいさん)として大覚寺とされたのが、清和天皇の御代貞観十八年(八七六)のことでした。前年にあたる令和七年には東京国立博物館にて大覚寺展(仮称)も予定されています。檀信徒の皆様には大覚寺へ奉納する写経勧進を願いすることになろうかと存じます。是非この勝縁にご家族皆様のお写経をご奉納くださいますようにお願い申し上げます。
○真言宗の高祖弘法大師は宝亀五年(七七四)六月十五日に讃岐の屏風ガ浦(香川県善通寺市)にてご誕生になられ、来年令和五年は、千二百五十年の記念すべき年を迎えます。四国や高野山では様々な記念事業が営まれることとは存じますが、ぜひご参詣くださいますようご案内いたします。特に四国霊場は、昨今のコロナの影響から七割も巡礼者が減少しているそうです。この機会に向けて是非お参りされることをお勧めします。
月例行事 どなたさまもどうぞお気軽にご参加ください。
◎ 薬師護摩供 毎月二十一日午前八時~九時
◎ 坐禅会 毎月第一土曜日午後三時~五時
◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
◎ 仏教懇話会 毎月第二金曜日午後三時~四時
◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時
●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)
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