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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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薬師如来の真言はなぜ「オンコロコロ・・・」なのか

2020年01月26日 17時17分46秒 | 仏教に関する様々なお話
薬師如来の真言はなぜ「オンコロコロ・・・」なのか



これは長年の難問であった。薬師如来の真言は意味不明であり、なぜ仏様の前でこの真言を唱え拝むのか、理解できなかったからである。お薬師様の真言とされる「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」は、いろいろな訳し方をされる。「仏様よ、早く人々の願いを成就したまえ」「帰依し奉る、病魔を除きたまえ払いたまえ、センダリやマトーギの福の神を動かしたまえ、薬師仏よ」「速疾に速疾に暴悪の相を有せるものよ、降伏の相に住せる象王よ、わが心病を除きたまえ、成就あらしめよ」などさまざまである。

Wikipediaには、藥師真言として、以下の三種が掲載されている。
小咒「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」
(oṃ huru huru caṇḍāli mātaṅgi svāhā)
中咒(台密)「オン ビセイゼイ ビセイゼイ ビセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」
(Oṃ bhaiṣajye bhaiṣajye bhaiṣajyasamudgate svāhā)
大咒「ノウモ バギャバテイ バイセイジャ クロ ベイルリヤ ハラバ アラジャヤ タタギャタヤ アラカテイ サンミャクサンボダヤ タニヤタ オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャサンボリギャテイ ソワカ」
(Namo bhagavate bhaiṣajyaguru vaiḍūryaprabharājāya tathāgatāya arhate samyaksambuddhāya tadyathā oṃ bhaiṣajye bhaiṣajye mahābhaiṣajya-samudgate svāhā)

小咒はかなり一般的なので、違いは無いが、中咒大咒は、真言宗では読み方が違う。
中咒「オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャ サンボリギャテイ ソワカ」
大咒「ノウボウ バギャバテイ バイセイジャ クロバイチョリヤ ハラバ アランジャヤ タタギャタヤ アラカテイ サンミャクサンボダヤ タニャタ オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャサンボリギャテイ ソワカ」

Wikipediaには残念ながらこれらの意味まで記載していないので、手元の『真言事典』(平河出版刊八田幸雄著)をひもといてみよう。小咒については、訳として「帰命、普き諸仏に。オーム、フルフル(欣快なるかな)、チャンダリ・マータンギ鬼女よ、スヴァーハー。」とあり、これは解説に、不空訳『仏頂尊勝陀羅尼念珠儀軌法』の無能勝真言では、nama samanta-buddhānāmuを冠す、とあることから、冒頭に「帰命普き諸仏に」と挿入されているようだ。

では、チャンダリとは何であろうか。candāliを『梵和大辞典』(山喜房仏書林)には、旃陀羅家女とあり、candālaには、社会の最下層の人(シュードラの男とブラフマナの女との間に生まれた混血種姓にして一般に蔑視し嫌悪せられる)とあり、漢訳では、屠種、下賤種、執暴悪人などとある。現代ヒンディー語でチャンダーラと言えば、不可触の一種姓を指す。また、マータンギは、mātangaを大辞典で引けば、象、または象たる主な最上の者とはあるが、最下級の種姓の人[candāla]ともあって、漢訳にはやはり下賤種、旃陀羅摩登伽種とあり、チャンダリとマータンギはインド社会の中で最も虐げられた下層の人々を指すと考えられよう。なお、スヴァーハーとは、svāhāを大辞典で引けば、幸あれ、祝福あれと訳すようだが、現代ヒンディー語では、供儀の際に発する言葉であり、(神に)捧げ奉ると訳す。

もとより調べをしてみればこのような意味合いとなることを存じていたので、冒頭にあげたように訳されている意味合いにどうしたらなるのか、いかなる解釈を付けるべきか解らなかったのである。しかし今朝本尊薬師如来の供養法を修法していて、ふとこれらの疑念が一瞬にして溶解した。その時、頭にひらめいたのは、これは薬師如来の心の底から起こってくる願い、誓願であって、社会の最下層の人々、虐げられて痛ましいチャンダリマータンギの人々こそ救われて欲しい、その人たちが救われるならば、すべての者たちもより良くあるはずである、そしてすべてものたちの悩み苦しみがなくなり、生きとし生けるものたちが幸せであって欲しいというお薬師さまの願いを最も短い言葉で表現したものに違いないと思ったのである。

やや専門的な話になって恐縮だが、供養法の中で、入我我入観にひたった後、正念誦を修すが、その際唱える真言はどちらが相応しいのか。つまり、小咒か中咒かという問題がある。中院流では小咒であり、三宝院流では中咒となる。國分寺は代々三宝院流のため、これまで中咒を唱えていたのだが、次第にしっくりこないものを感じていた。本尊と一体不二となりながら中咒では不具合を起こすと言えばお解りがいただけるであろうか。そして今朝、入我我入観から正念誦にうつる時、お薬師様の願いはと心を向けた瞬間に小咒の意味するものが了解されたのである。

中咒は大咒をつづめたものに他ならないので、大咒の意味を確認してみれば、『真言事典』の大咒の訳には、「帰命し奉る、世尊薬師瑠璃光如来、阿羅漢、等正覚に。オーム、医薬尊よ、医薬尊よ、医薬来生尊よ。スヴァーハー」とある。つまり、これでは、自分と別の対象として、薬師如来に向けて唱えることになる。であるから、入我我入観の後に唱える正念誦は小咒でなければいけないのであろうと考えるのである。本尊薬師如来と一つにその願いをともに口に唱え念じることが肝要ではないだろうか。

では、一般に、小咒「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」を唱えることをどう考えたらよいのか。これはお薬師様の心からの誓願をともに随喜して唱え願うことで、すべてのものたちに思いを拡げ、その思いやる中の一人として、この私も当然含まれているのだから、ともにこのすべての生きとし生けるものがよくあれとの真言を唱えることで、自分自身の願いも叶うと思いお唱えさせていただくのだと考えてはいかがであろうか。

そう考えれば、このお薬師様の真言はいかに訳すのがふさわしいのかが自ずと解るであろう。「すみやかに最下層にある者たちを救い、すべての生きとし生けるものたちがもろともに痛みなく、悩みなく、苦しみなく、しあわせであらんことを」と訳してはいかがであろうか。こう思ってお唱えすることで、私たちも、お薬師様の広大な慈悲の心に包まれ一体となって、その願いをともに念じさせていただくのだと思ってオンコロコロ…とお唱えしてほしいと思う。


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