一九九五年十月十八日、九時頃歩いて街に向かう。カトマンドゥー中心部のチェットラパティとアサンの間に位置するスィーガーストゥーパを目指す。そこでカティナ・ダーナという仏教行事が行われるという。歩いていると大きなスピーカーの声が聞こえてきた。何やら演説でもしているようだ。
この一年前のことではあるが、インドのサールナートにいたとき、通っていたベナレスの大学でお釈迦様のお祭りがあるから来いと教授に言われ、行ったことがあった。その頃には既に日常会話程度ではあるが、だいぶヒンディ語が分かるようになっていた頃だった。ところがそのお祭りで話す講演の内容が、まったくと言っていいほど聞き取れなかったことを思い出す。壇に立ち、マイクに向かってがなり立てるように、また抑揚をつけて勢いよく早口でしゃべる演説口調には、ほとほと困り果てたものだった。
このときも、ブッダ、プンニャ、ダーナー、シーラー、そんな聞き慣れたパーリ語の仏教用語が飛び交っていた。だが勿論そのときは、ネパール語でのお説教であったから内容が分からないのは当然のことだった。声の方向に白い大きな塔が見えた。
上の方は日本で言えば法輪、それは鮮やかな金色に塗られ、それから下の塔部分は白い。塔部分は上が四角でその下は半円状に太くなっているだけだ。その塔の前に大きなテントが何枚も張られ二、三百人の信者が敷物を敷いてじかに座っている。
みんな白い衣装を身につけている。男の人たちは白いシャツに白いズボン、それに毛のベスト。女性陣はみんな白いサリーだ。日本では仏事にはどういう訳か黒を身につける。僧侶も法会では紫など色衣を用いるが、平素は黒の改良衣を多用する。インドなどへ黒の法衣で来てしまう日本僧侶を目にして、現地の人がイスラム教の人たちかと間違えたという笑えない話も聞く。やはり在家信者は白。僧侶は黄色から茶系の袈裟というのが世界の仏教徒の常識だ。
そのテントの最前部には十人ばかりの老僧方が椅子に座り、その中の一人が先ほどから法話をしていたようだ。近くに来てみると、一昨日お会いしたアシュワゴーシュ長老だった。よどみなく話す言葉には迫力があった。
そこは塔を中心にして七、八十メートル四方の広場になっていて、周りの三方の三、四階建ての建物の壁下に設えられた窪みに比丘(南方仏教の僧侶)たちが座っていた。私もその中に加えてもらい座る。
カティナ・ダーナは、安居開けの比丘たちに一年一度新しい袈裟を施すとても大事な行事だ。南方の仏教では今でも、雨期の三ヶ月間、およそ七月の満月の次の日から十月の満月の日まで僧院の中で外泊せず勉学修行に励む雨安居を行う。カティナ・ダーナは、五月の満月に行われるブッダ・ジャヤンティというお釈迦様のお祭りと対をなす仏教徒にとっての一大イベントでもある。
因みにブッダ・ジャヤンティは、生誕祭と成道祭と入滅祭をあわせ行うお釈迦様の日。私たちはお釈迦様のお生まれになったのは四月八日、悟られたのは十二月の八日、そして亡くなられたのは二月十五日と思っているが、南方の仏教では、お釈迦様はこの同じ日に生まれ悟り亡くなったと信じられている。
いつ終わるとも知れない説法は結局その後一時間半ほど続いた。勿論他の長老方の説法の他、在家信者らの話もあった。その間にぞろぞろと比丘衆が勢揃いして広場の周りの壁には隙間が無くなっていた。途中で昨日お訪ねしたバスンダラ寺の住職スガタムニ師と九十五才になる比丘も来られて私の隣に座られた。
総勢百五、六十人はいただろうか。その中には女性の出家者であるアナガリカと言われる人たちもいて、ピンク色の布をまとって参加していた。
法話が終わるとおもむろにそれまで静かに座っていた信者たちが立ち上がり、周りの建物にそって座る比丘衆一人一人に施しをして歩いた。静かにぬかずいて両手でお金や食べ物を差し出す。信者の列は止めどもなく続いた。その光景を初めて見た私は、それはとても信じられないような荘厳なものであった。
ネパールの仏教会に属している訳でもない。インド比丘とは言え、ただの旅行者の私がこのような場にいて良いのだろうかとも思えた。スガタムニ師に「私がここにいてもいいものだろうか」と問いかけると、「いいんだ、座れ座れ」と言って笑っている。「おまえはそうやって彼らに功徳をあげるんだから、いいんだよ」と言う。
そんなものだろうかとも思えたが、何か悪い気がして居心地の悪さを感じていた。それほどまでに、布施する信者たちの気持ちが誠に純真なものに思えた。
みんな小銭ではあるけれども二十五パイサから二十ルピーもの布施をされる。その上お米や飴玉などを入れていく。ネパールルピーだから、通貨換算すれば五十銭から三十円といったところなのだが、一人一人には少額かも知れないが、それを全員に施す側にとったら結構な出費になるのではないか。
日本のタクシーとこちらのオートバイの後ろに座席を付けたようなリキシャとを簡単に比較は出来ないが、タクシーが千円以上もかかりそうな距離をこちらでは三十円で行けてしまう。単純に計算すれば三十分の一の物価水準ということだろうか。つまりは、生活感覚で言えば、差し出した額の三十倍程の価値がある。
私たちの感覚だと、一人当たり十五円から千円程度の布施を百五十人もの坊さんにささげたということになるのだろうか。一人一人に千円もの布施をした人は、それだけで十五万円もの布施を一度にしたことになる。一年一度の大切な法会だとはいえ大変なことに思えた。そんなことを考えながら無言で布施を受けた。
比丘たちは誰一人として布施を受けるときに頭を下げる者はいない。自然に私もそのままの姿勢で頂戴していた。僧侶が托鉢して頭を下げるのは日本くらいのものだろう。どの国でも托鉢する僧侶が頭を下げたりしない。布施を頂戴する代わりに功徳を授けている。そう考えるからとも言われるが、それよりもやはり立場の違いを厳然とわきまえているからとも思われる。
日本では、僧が在家者に対して合掌することは日常でも見かけられるが、南方の仏教国ではそのような光景を目にすることはない。インドのサールナートにある日本寺の本尊様は合掌した仏陀像なのだが、そうと分かると、せっかく来たのに礼拝もせずに帰ってしまう外国の仏教徒がいると聞いたことがある。
それなども、インド人の「ナマステ」と言いつつ合掌してなされる挨拶の意味するところが、その人の足もとにひざまずき御足を頂いてご機嫌をたずね、教えを乞うとの意味があるからであろう。お釈迦様は最高の悟りを得られた聖者であり、お釈迦様が合掌して教えを乞う人など無かったのであるから当然のことだと言える。
そして、南方仏教の比丘は、私たち在家の側からではなく、お釈迦様の側から私たちに対していることをこうしたことからも窺い知ることができる。だからお経を唱えるときも、仏像を前に在家者と同じ向きでお経を上げることはない。必ず仏像を背にして在家者に向かってお経を唱える。
お釈迦様の側にあるということはそれだけ大変な心構えが常に求められている。日常を戒律で規定され、お釈迦様の教えに生きている気概が問われる。
そして、とにかく大勢の信者たちの布施をいただき持ちきれなくなったお金や菓子類を頭陀袋に入れた。最後の信者から布施を頂戴した比丘から順に立ち上がりちょうど向かい側にある食堂の方向に向かい歩き出す。
私たちもその列に加わるが、まだ食事には時間があるようで、「マンディル(お堂)に行こう」とスガタムニ師に誘われ、食堂斜め前に建つ建物の二階に案内された。二十畳ほどの部屋の正面にお釈迦様が祀られていた。
三人で揃って床に額を着け礼拝する。それから三人で記念撮影。壁には沢山の額に入れられた長老比丘の写真が飾られていた。
するとその横の部屋でアシュワゴーシュ長老が法話を終えて休まれていた。迷わず入らせてもらい、一昨日からのお礼と用件が済んだことを申し述べた。すると「(ルンビニーに建てるインドのお寺の件だが)やはり四カロールは難しいんじゃないだろうか。一カロールで建てねば。まずゲストハウスを作って、それから少しずつ本堂を造るようにしたらいい」そんなアドバイスをいただいた。
長老が言われた一カロールとはインドルピー建てで一千万ルピーということだから、約三千万円。そうなのだ、この程度なら何とかなるかも知れないと思える。しかし計画では、四カロールとなっていた。四カロールとは一億二千万円。やはり途方もない金額だ。そう思えた。
そんな話をしていたら食事時間になり、呼ばれて食事会場に向かう。比丘全員がホールで食事をする。みんな言葉を発することなく黙々と料理を口に運ぶ。「たくさん食べて上げることが施す側への功徳となる」そう前に聞いたことがある。
また、「比丘は美味しそうに食事を腹一杯食べることが仕事だ。施してくれる在家信者たちにとってそれが功徳になる。だから腹を大きくしろ」そんなことを言われたことがある。
カルカッタでウパサンパダーという得度の儀式を経て晴れて南方仏教の比丘になったとき、その儀礼後の食事会場で、私と一緒にその日比丘になったボーディパーラという比丘が言った言葉だ。彼は今ではインドのブッダガヤの象徴である大塔を所有する寺院マハーボーディ寺の管長になっている。英語に堪能な秀才で、確かベンガル仏教会の創始者の家系であった。
そんなことを考えつつ、たくさんの在家信者たちがここでも忙しそうに給仕をしている姿を眺めた。そして、そのころに比べ、少しは大きくなった腹に右手ですくった料理を流し込んだ。
食後スガタムニ師らと重いお腹を抱えるように、ゆさゆさと街を歩きながらバススタンドに向かう。そして、バスンダラ行きのバスに乗った。
カトマンドゥーの環状道路を循環するバスに乗り合わせたため、途中白い雪をいただくヒマラヤを遠望することが出来た。カトマンドゥーからヒマラヤを見られるというのは旅行者にとったらそうそうあることではなく、何度来ても見られない人もあるらしい。
お寺に着いてから、私の頭陀袋の中にあったお布施をすべてスガタムニ師のお寺の建築費用に充ててもらうために寄附させていただいた。つづく
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この一年前のことではあるが、インドのサールナートにいたとき、通っていたベナレスの大学でお釈迦様のお祭りがあるから来いと教授に言われ、行ったことがあった。その頃には既に日常会話程度ではあるが、だいぶヒンディ語が分かるようになっていた頃だった。ところがそのお祭りで話す講演の内容が、まったくと言っていいほど聞き取れなかったことを思い出す。壇に立ち、マイクに向かってがなり立てるように、また抑揚をつけて勢いよく早口でしゃべる演説口調には、ほとほと困り果てたものだった。
このときも、ブッダ、プンニャ、ダーナー、シーラー、そんな聞き慣れたパーリ語の仏教用語が飛び交っていた。だが勿論そのときは、ネパール語でのお説教であったから内容が分からないのは当然のことだった。声の方向に白い大きな塔が見えた。
上の方は日本で言えば法輪、それは鮮やかな金色に塗られ、それから下の塔部分は白い。塔部分は上が四角でその下は半円状に太くなっているだけだ。その塔の前に大きなテントが何枚も張られ二、三百人の信者が敷物を敷いてじかに座っている。
みんな白い衣装を身につけている。男の人たちは白いシャツに白いズボン、それに毛のベスト。女性陣はみんな白いサリーだ。日本では仏事にはどういう訳か黒を身につける。僧侶も法会では紫など色衣を用いるが、平素は黒の改良衣を多用する。インドなどへ黒の法衣で来てしまう日本僧侶を目にして、現地の人がイスラム教の人たちかと間違えたという笑えない話も聞く。やはり在家信者は白。僧侶は黄色から茶系の袈裟というのが世界の仏教徒の常識だ。
そのテントの最前部には十人ばかりの老僧方が椅子に座り、その中の一人が先ほどから法話をしていたようだ。近くに来てみると、一昨日お会いしたアシュワゴーシュ長老だった。よどみなく話す言葉には迫力があった。
そこは塔を中心にして七、八十メートル四方の広場になっていて、周りの三方の三、四階建ての建物の壁下に設えられた窪みに比丘(南方仏教の僧侶)たちが座っていた。私もその中に加えてもらい座る。
カティナ・ダーナは、安居開けの比丘たちに一年一度新しい袈裟を施すとても大事な行事だ。南方の仏教では今でも、雨期の三ヶ月間、およそ七月の満月の次の日から十月の満月の日まで僧院の中で外泊せず勉学修行に励む雨安居を行う。カティナ・ダーナは、五月の満月に行われるブッダ・ジャヤンティというお釈迦様のお祭りと対をなす仏教徒にとっての一大イベントでもある。
因みにブッダ・ジャヤンティは、生誕祭と成道祭と入滅祭をあわせ行うお釈迦様の日。私たちはお釈迦様のお生まれになったのは四月八日、悟られたのは十二月の八日、そして亡くなられたのは二月十五日と思っているが、南方の仏教では、お釈迦様はこの同じ日に生まれ悟り亡くなったと信じられている。
いつ終わるとも知れない説法は結局その後一時間半ほど続いた。勿論他の長老方の説法の他、在家信者らの話もあった。その間にぞろぞろと比丘衆が勢揃いして広場の周りの壁には隙間が無くなっていた。途中で昨日お訪ねしたバスンダラ寺の住職スガタムニ師と九十五才になる比丘も来られて私の隣に座られた。
総勢百五、六十人はいただろうか。その中には女性の出家者であるアナガリカと言われる人たちもいて、ピンク色の布をまとって参加していた。
法話が終わるとおもむろにそれまで静かに座っていた信者たちが立ち上がり、周りの建物にそって座る比丘衆一人一人に施しをして歩いた。静かにぬかずいて両手でお金や食べ物を差し出す。信者の列は止めどもなく続いた。その光景を初めて見た私は、それはとても信じられないような荘厳なものであった。
ネパールの仏教会に属している訳でもない。インド比丘とは言え、ただの旅行者の私がこのような場にいて良いのだろうかとも思えた。スガタムニ師に「私がここにいてもいいものだろうか」と問いかけると、「いいんだ、座れ座れ」と言って笑っている。「おまえはそうやって彼らに功徳をあげるんだから、いいんだよ」と言う。
そんなものだろうかとも思えたが、何か悪い気がして居心地の悪さを感じていた。それほどまでに、布施する信者たちの気持ちが誠に純真なものに思えた。
みんな小銭ではあるけれども二十五パイサから二十ルピーもの布施をされる。その上お米や飴玉などを入れていく。ネパールルピーだから、通貨換算すれば五十銭から三十円といったところなのだが、一人一人には少額かも知れないが、それを全員に施す側にとったら結構な出費になるのではないか。
日本のタクシーとこちらのオートバイの後ろに座席を付けたようなリキシャとを簡単に比較は出来ないが、タクシーが千円以上もかかりそうな距離をこちらでは三十円で行けてしまう。単純に計算すれば三十分の一の物価水準ということだろうか。つまりは、生活感覚で言えば、差し出した額の三十倍程の価値がある。
私たちの感覚だと、一人当たり十五円から千円程度の布施を百五十人もの坊さんにささげたということになるのだろうか。一人一人に千円もの布施をした人は、それだけで十五万円もの布施を一度にしたことになる。一年一度の大切な法会だとはいえ大変なことに思えた。そんなことを考えながら無言で布施を受けた。
比丘たちは誰一人として布施を受けるときに頭を下げる者はいない。自然に私もそのままの姿勢で頂戴していた。僧侶が托鉢して頭を下げるのは日本くらいのものだろう。どの国でも托鉢する僧侶が頭を下げたりしない。布施を頂戴する代わりに功徳を授けている。そう考えるからとも言われるが、それよりもやはり立場の違いを厳然とわきまえているからとも思われる。
日本では、僧が在家者に対して合掌することは日常でも見かけられるが、南方の仏教国ではそのような光景を目にすることはない。インドのサールナートにある日本寺の本尊様は合掌した仏陀像なのだが、そうと分かると、せっかく来たのに礼拝もせずに帰ってしまう外国の仏教徒がいると聞いたことがある。
それなども、インド人の「ナマステ」と言いつつ合掌してなされる挨拶の意味するところが、その人の足もとにひざまずき御足を頂いてご機嫌をたずね、教えを乞うとの意味があるからであろう。お釈迦様は最高の悟りを得られた聖者であり、お釈迦様が合掌して教えを乞う人など無かったのであるから当然のことだと言える。
そして、南方仏教の比丘は、私たち在家の側からではなく、お釈迦様の側から私たちに対していることをこうしたことからも窺い知ることができる。だからお経を唱えるときも、仏像を前に在家者と同じ向きでお経を上げることはない。必ず仏像を背にして在家者に向かってお経を唱える。
お釈迦様の側にあるということはそれだけ大変な心構えが常に求められている。日常を戒律で規定され、お釈迦様の教えに生きている気概が問われる。
そして、とにかく大勢の信者たちの布施をいただき持ちきれなくなったお金や菓子類を頭陀袋に入れた。最後の信者から布施を頂戴した比丘から順に立ち上がりちょうど向かい側にある食堂の方向に向かい歩き出す。
私たちもその列に加わるが、まだ食事には時間があるようで、「マンディル(お堂)に行こう」とスガタムニ師に誘われ、食堂斜め前に建つ建物の二階に案内された。二十畳ほどの部屋の正面にお釈迦様が祀られていた。
三人で揃って床に額を着け礼拝する。それから三人で記念撮影。壁には沢山の額に入れられた長老比丘の写真が飾られていた。
するとその横の部屋でアシュワゴーシュ長老が法話を終えて休まれていた。迷わず入らせてもらい、一昨日からのお礼と用件が済んだことを申し述べた。すると「(ルンビニーに建てるインドのお寺の件だが)やはり四カロールは難しいんじゃないだろうか。一カロールで建てねば。まずゲストハウスを作って、それから少しずつ本堂を造るようにしたらいい」そんなアドバイスをいただいた。
長老が言われた一カロールとはインドルピー建てで一千万ルピーということだから、約三千万円。そうなのだ、この程度なら何とかなるかも知れないと思える。しかし計画では、四カロールとなっていた。四カロールとは一億二千万円。やはり途方もない金額だ。そう思えた。
そんな話をしていたら食事時間になり、呼ばれて食事会場に向かう。比丘全員がホールで食事をする。みんな言葉を発することなく黙々と料理を口に運ぶ。「たくさん食べて上げることが施す側への功徳となる」そう前に聞いたことがある。
また、「比丘は美味しそうに食事を腹一杯食べることが仕事だ。施してくれる在家信者たちにとってそれが功徳になる。だから腹を大きくしろ」そんなことを言われたことがある。
カルカッタでウパサンパダーという得度の儀式を経て晴れて南方仏教の比丘になったとき、その儀礼後の食事会場で、私と一緒にその日比丘になったボーディパーラという比丘が言った言葉だ。彼は今ではインドのブッダガヤの象徴である大塔を所有する寺院マハーボーディ寺の管長になっている。英語に堪能な秀才で、確かベンガル仏教会の創始者の家系であった。
そんなことを考えつつ、たくさんの在家信者たちがここでも忙しそうに給仕をしている姿を眺めた。そして、そのころに比べ、少しは大きくなった腹に右手ですくった料理を流し込んだ。
食後スガタムニ師らと重いお腹を抱えるように、ゆさゆさと街を歩きながらバススタンドに向かう。そして、バスンダラ行きのバスに乗った。
カトマンドゥーの環状道路を循環するバスに乗り合わせたため、途中白い雪をいただくヒマラヤを遠望することが出来た。カトマンドゥーからヒマラヤを見られるというのは旅行者にとったらそうそうあることではなく、何度来ても見られない人もあるらしい。
お寺に着いてから、私の頭陀袋の中にあったお布施をすべてスガタムニ師のお寺の建築費用に充ててもらうために寄附させていただいた。つづく
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