今回の震災に関連して、想定外という言葉が乱用されている。もちろん、想定外なら何でも許されるということではないだろう。その道の専門家であるお歴々がそう簡単に使う言葉でもない。地震、津波、原発事故。どれをとっても想定内のことばかりではないか。何十年かに一度は起こってきた地震。津波も過去に何度も経験してきた土地でもある。原発はそもそも最悪のケースを想定して様々な危機に対処すべきものでもある。
それなのに何故こうも簡単に想定外を口にするのか。それも皆その専門分野の権威ばかりである。そして今頃になって想定外について様々な意見が発せられるようにもなってきたようだ。が、そもそも何故口々に想定外と語ってしまったのであろうか。
日本人は忌み言葉を嫌う。死や不浄など、あって欲しくないものには蓋をする。触れない。その言葉を口にするとそれが現実になるように思え、その言葉も嫌って口にしない。それこそ『千の風になって』が流行るまで、死そのものについて語ることはタブーであったように。受験生の前で、滑ったの落ちたのと言うことも嫌われてきた。
以前ある浄土系のお寺さんと話をしていて、地獄に行くような人は居ませんかと尋ねたとき、そういうことを考えることも避けるべきだということを言われたことがあった。考えなければそれが避けられるというものだろうかとその時思ったのだが、正に今回の震災の様々な場面でこのことが現実のこととなったように感じる。
想定外は、想定もしたくなかったのであり、想定するとあたかもそのことが現実となるような恐れの気持ちから、避けてしまったとは言えないだろうか。縁起でもない。悪いことを考えるとそれが起こる。起きて欲しくないから甘い想定をしてそれ以上については思考停止してしまう。だからこそ生ぬるい地震や津波の予測を設定して、防災対策が不備のまま今にいたり、緊急時にも後手後手の対応となってしまったのではないか。
もちろんそれなりに過去のデータから厳しく地震や津波を想定すれば、それだけの莫大な費用を要する設備設計のやり直しを迫られるであろう。余分な経費から利益が吹っ飛んでしまうということもあっただろう。様々な思惑の元に長年推進されてきたものの根本が揺らぐということも考えられよう・・・。
イヤなことはなるべく考えずによいことだけ考えて努力する。そして、喉もと過ぎて熱さを忘れ、何でもイヤなことは水に流す。そんな日本人の性質が決して悪いと言いたいのではない。それはとてもさわやかな印象を人々に与え、新しいことに向かってひたむきに努力するためには欠かせない長所とも言えよう。だからこそ、日本人はこれまでも度々過酷な災害や戦禍に見舞われながらも、そのつど復興し凄まじいばかりの発展を遂げてきたのだとも言える。
そのことを『NEWSWEEK』(4/20号)の『日本人を襲う震災トラウマ』と題する評論の中で、ジョージ・ボナンノ、コロンビア大学臨床心理学教授は、「人間は本質的に(危険や被害にあっても)再起力を持つが、なかでも日本人は飛び抜けて大きな再起力を持っているようだ」と語っている。
そこには、考えることは現実となる、だから悪いことは考えない、良いことだけを考えてひたすら努力する、という日本人の美点が作用してもいるだろう。素晴らしい特性ではないかと思う。しかし、何事も善くも表れ、悪くも展開するのが現実だ。想定外と語られた多くの事々は、既に述べてきたようにおそらくそれが悪い方向に展開したからであろう。
そしてこれからの復興においてはそれが善い方向に表れるべく、新たな未来に向けて発想を切り替え進むことが求められているのかもしれない。しかし努々甘い想定にとどまり、想定しなければ現実とならないなどと言わんばかりの発想は、この世の現実の前には役に立たないことを肝に銘じて、国民一人一人が今後は何事にも厳しい目で見定め意思表示することが何より大切であるということは忘れてはならないであろう。
悪いことを考えると現実になると考えるのなら、悪いことがたとえ起こっても善くあれるように考えることも現実となるのであろうから。
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それなのに何故こうも簡単に想定外を口にするのか。それも皆その専門分野の権威ばかりである。そして今頃になって想定外について様々な意見が発せられるようにもなってきたようだ。が、そもそも何故口々に想定外と語ってしまったのであろうか。
日本人は忌み言葉を嫌う。死や不浄など、あって欲しくないものには蓋をする。触れない。その言葉を口にするとそれが現実になるように思え、その言葉も嫌って口にしない。それこそ『千の風になって』が流行るまで、死そのものについて語ることはタブーであったように。受験生の前で、滑ったの落ちたのと言うことも嫌われてきた。
以前ある浄土系のお寺さんと話をしていて、地獄に行くような人は居ませんかと尋ねたとき、そういうことを考えることも避けるべきだということを言われたことがあった。考えなければそれが避けられるというものだろうかとその時思ったのだが、正に今回の震災の様々な場面でこのことが現実のこととなったように感じる。
想定外は、想定もしたくなかったのであり、想定するとあたかもそのことが現実となるような恐れの気持ちから、避けてしまったとは言えないだろうか。縁起でもない。悪いことを考えるとそれが起こる。起きて欲しくないから甘い想定をしてそれ以上については思考停止してしまう。だからこそ生ぬるい地震や津波の予測を設定して、防災対策が不備のまま今にいたり、緊急時にも後手後手の対応となってしまったのではないか。
もちろんそれなりに過去のデータから厳しく地震や津波を想定すれば、それだけの莫大な費用を要する設備設計のやり直しを迫られるであろう。余分な経費から利益が吹っ飛んでしまうということもあっただろう。様々な思惑の元に長年推進されてきたものの根本が揺らぐということも考えられよう・・・。
イヤなことはなるべく考えずによいことだけ考えて努力する。そして、喉もと過ぎて熱さを忘れ、何でもイヤなことは水に流す。そんな日本人の性質が決して悪いと言いたいのではない。それはとてもさわやかな印象を人々に与え、新しいことに向かってひたむきに努力するためには欠かせない長所とも言えよう。だからこそ、日本人はこれまでも度々過酷な災害や戦禍に見舞われながらも、そのつど復興し凄まじいばかりの発展を遂げてきたのだとも言える。
そのことを『NEWSWEEK』(4/20号)の『日本人を襲う震災トラウマ』と題する評論の中で、ジョージ・ボナンノ、コロンビア大学臨床心理学教授は、「人間は本質的に(危険や被害にあっても)再起力を持つが、なかでも日本人は飛び抜けて大きな再起力を持っているようだ」と語っている。
そこには、考えることは現実となる、だから悪いことは考えない、良いことだけを考えてひたすら努力する、という日本人の美点が作用してもいるだろう。素晴らしい特性ではないかと思う。しかし、何事も善くも表れ、悪くも展開するのが現実だ。想定外と語られた多くの事々は、既に述べてきたようにおそらくそれが悪い方向に展開したからであろう。
そしてこれからの復興においてはそれが善い方向に表れるべく、新たな未来に向けて発想を切り替え進むことが求められているのかもしれない。しかし努々甘い想定にとどまり、想定しなければ現実とならないなどと言わんばかりの発想は、この世の現実の前には役に立たないことを肝に銘じて、国民一人一人が今後は何事にも厳しい目で見定め意思表示することが何より大切であるということは忘れてはならないであろう。
悪いことを考えると現実になると考えるのなら、悪いことがたとえ起こっても善くあれるように考えることも現実となるのであろうから。
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