3月11日が近づいてきた。全国各地でこの震災津波で亡くなられた方々を追悼する行事が行われることであろう。未だに26万人もの人たちが仮住まいをされ、瓦礫の整理さえまだ進まない地域もあり、一向に復興が着実に進んでいるという実感もないようにも感じられる。阪神大震災の時には何度も避難所に住み込みボランティアをしたものだが、この度は縁故者もなく被災地に行けずじまいであることに誠に申し訳ない忸怩たる思いがしている。
この間には、天災か人災か、また、天罰かといった議論も各所で行われたようだ。天罰発言は東京都知事の発言として世間に流布されたが、その後仏教学者の中にも天罰という方が現れ、それに対する反対者との烈しいやり取りが最近まで行われていたようだ。被災した人たちの中には、この世には神も仏もないのかという気持ちが述べられていたこともあった。自然の前にはまったくその通り、人の力などどんなに科学が発展し、想定した防災を施したように思っていても、無力であることをさとらされたのではないか。
何度もここでも書いてきたように、お釈迦様はこの世の無常、そして苦をお説きになられた。それこそが真理なのであって、仏の遺言のようなものとも言えようか。この世はその真理のままにある。その姿をそのままに現されたと考えれば、それは天罰と言うよりも、天の有り様そのままをただ示されたものとも言えよう。その真理をこそ仏というのならば、仏はその自然の摂理のままにその姿を現され、私たちに何事かを悟らせるためにそのありのままの真理を開顕されたとも言えるのかもしれない。
仏も神も、決して人間のあって欲しいことをかなえ、望むものを与えてくれる存在などではないということにもなろう。私たちは神、仏を、自らの欲や煩悩のままに都合の良い存在として見がちではないだろうか。何でも願いを聞いて下さる存在として神や仏を都合良く捉えてはいまいか。仏はそのありのままのこの世の真理を自らおさとりになり、そのさとりの境地のままに静かに禅定にあられる存在であろう。
如来、如去という言葉がある。如来は、真如の世界から来たる者との意であり、如去は真如の世界に去れる者との意である。私たちになじみのある如来とは仏そのもののことであり、いつもそこに居られるように思ってはいるが本来は如来と如去は一体のはずであり、仏とは、この衆生世界から抜け出し仏界に行かれるべき存在と捉えれば、この私たち衆生世界にはすでにおられないと考えるのが本来ではないか。久遠実成の釈迦とも言われるが、お釈迦様は自己亡き後自帰依法帰依と説かれた。法のみでは満足できなかった人々が後にこのような考えをするようになったにすぎない。本来は肉身をとどめないのであれば、この衆生世界に居られないからこそ仏なのだと言えよう。
この世に、つまり私たちの世界に仏はおられないと考えるのが本来正しいようにも思える。私たちは仏像という仏様の御像を拝し、その世界に到達すべく努力する一つの生命に過ぎない。仏は私たちに早くこの世界、安穏たる悟りの平安世界に至れと励ましておられるだけなのではないか。真理をそのままに私たちに提示して、その過酷な現実に目を閉ざすことなく、それをも乗り越えて、生きる何たるかを教え、早く悟りに至るためにその真実の姿を現されていると考えたらよいのではないかと思う。
「救われるということ」に書いたとおり、私たちが今この心のままに仏の世界に行ったからといって、快適に過ごせるものではない。その世界に行くことにはやることなく、やはりその世界で快適にあれるような心を育て磨くことをこそ優先すべきなのではないかと思う。
ところで、震災で亡くなられた方々、津波に呑まれて亡くなられた方々、その皆様方は救いがあったのだろうかと心配される方もあるかもしれない。これも前回「救われるということ2」に書いたとおり、仏教ではすべてのことに原因があるという。だから、そのような不慮の事故に遭われた方々にもそれなりの原因があったことであろう。
それは今世のというよりは前世のいやもっと過去の過去世からの因縁だったのかもしれない。それがこの度の不意に起こった災害によってそれが縁となり結果したと考えるのであろう。が、亡くなられて身罷られたところ、来世では、その悪業が消えて、より善いところに行かれていると考えられよう。突然の事故、災害によって、今生での生を突然失われたショックはあるだろう。しかし、もしも、みんな一度きりの人生だとしたならば、そのような不慮の事故、災害で亡くなってしまった人たちをどのように考えるのであろうか。残された遺族の救いはどこのあるのか。
みんな来世があるのだ、突然亡くなったとしても、みんな、この世でしっかり生きていたら、決してそれが無駄になることなどない、善いことをしていたら、それらの善きことが来世で報われる、きっと今生で過ごした沢山の楽しい思い、家族と共に過ごした幸せな時間もそれが善き業となって、来世には善いところに生まれ変わり、新しい家族の中できっと幸せに過ごしてくれるはずだと、そして前世の家族である自分たちも亡くなった人と共にこの世でしっかり生きていこうという気持ちになれるならば、何もない、ただ無為に命を無くした、何のために短い人生があったのかなどと思うよりも、亡くなった人も遺族もきっと救われるのではないかと思うのである。
もちろんそう思えるようになるには時間は必要であろう。だが、そのように考えることによって私たちは納得し希望を持つことが出来る。『久しく遠くにありし人、無事に帰来せば、親戚朋友、これを歓迎するがごとく、善業をなして現世より来世にいたる者は、その善業に迎えられる。親戚、その愛する者を迎うるがごとく』(法句経219・220)と、お釈迦様も教えられている。
この震災津波で亡くなられた方々は決して無駄な死に方をしたのではない。その方の命にとって、心をさらに成長させ、次なる来世できっとしっかりとさらによい人生を生きて下さるものと信じ、残された私たちもその命に負けないように励む、心を浄め、成長させていこうという気概をこそ持つべきであろうと思う。私たちが生きるその目的は何かと改めて考える機会としてこの震災を捉え、本来の生きる目的のためにこの試練があったと思えるようでありたいと思うのである。
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この間には、天災か人災か、また、天罰かといった議論も各所で行われたようだ。天罰発言は東京都知事の発言として世間に流布されたが、その後仏教学者の中にも天罰という方が現れ、それに対する反対者との烈しいやり取りが最近まで行われていたようだ。被災した人たちの中には、この世には神も仏もないのかという気持ちが述べられていたこともあった。自然の前にはまったくその通り、人の力などどんなに科学が発展し、想定した防災を施したように思っていても、無力であることをさとらされたのではないか。
何度もここでも書いてきたように、お釈迦様はこの世の無常、そして苦をお説きになられた。それこそが真理なのであって、仏の遺言のようなものとも言えようか。この世はその真理のままにある。その姿をそのままに現されたと考えれば、それは天罰と言うよりも、天の有り様そのままをただ示されたものとも言えよう。その真理をこそ仏というのならば、仏はその自然の摂理のままにその姿を現され、私たちに何事かを悟らせるためにそのありのままの真理を開顕されたとも言えるのかもしれない。
仏も神も、決して人間のあって欲しいことをかなえ、望むものを与えてくれる存在などではないということにもなろう。私たちは神、仏を、自らの欲や煩悩のままに都合の良い存在として見がちではないだろうか。何でも願いを聞いて下さる存在として神や仏を都合良く捉えてはいまいか。仏はそのありのままのこの世の真理を自らおさとりになり、そのさとりの境地のままに静かに禅定にあられる存在であろう。
如来、如去という言葉がある。如来は、真如の世界から来たる者との意であり、如去は真如の世界に去れる者との意である。私たちになじみのある如来とは仏そのもののことであり、いつもそこに居られるように思ってはいるが本来は如来と如去は一体のはずであり、仏とは、この衆生世界から抜け出し仏界に行かれるべき存在と捉えれば、この私たち衆生世界にはすでにおられないと考えるのが本来ではないか。久遠実成の釈迦とも言われるが、お釈迦様は自己亡き後自帰依法帰依と説かれた。法のみでは満足できなかった人々が後にこのような考えをするようになったにすぎない。本来は肉身をとどめないのであれば、この衆生世界に居られないからこそ仏なのだと言えよう。
この世に、つまり私たちの世界に仏はおられないと考えるのが本来正しいようにも思える。私たちは仏像という仏様の御像を拝し、その世界に到達すべく努力する一つの生命に過ぎない。仏は私たちに早くこの世界、安穏たる悟りの平安世界に至れと励ましておられるだけなのではないか。真理をそのままに私たちに提示して、その過酷な現実に目を閉ざすことなく、それをも乗り越えて、生きる何たるかを教え、早く悟りに至るためにその真実の姿を現されていると考えたらよいのではないかと思う。
「救われるということ」に書いたとおり、私たちが今この心のままに仏の世界に行ったからといって、快適に過ごせるものではない。その世界に行くことにはやることなく、やはりその世界で快適にあれるような心を育て磨くことをこそ優先すべきなのではないかと思う。
ところで、震災で亡くなられた方々、津波に呑まれて亡くなられた方々、その皆様方は救いがあったのだろうかと心配される方もあるかもしれない。これも前回「救われるということ2」に書いたとおり、仏教ではすべてのことに原因があるという。だから、そのような不慮の事故に遭われた方々にもそれなりの原因があったことであろう。
それは今世のというよりは前世のいやもっと過去の過去世からの因縁だったのかもしれない。それがこの度の不意に起こった災害によってそれが縁となり結果したと考えるのであろう。が、亡くなられて身罷られたところ、来世では、その悪業が消えて、より善いところに行かれていると考えられよう。突然の事故、災害によって、今生での生を突然失われたショックはあるだろう。しかし、もしも、みんな一度きりの人生だとしたならば、そのような不慮の事故、災害で亡くなってしまった人たちをどのように考えるのであろうか。残された遺族の救いはどこのあるのか。
みんな来世があるのだ、突然亡くなったとしても、みんな、この世でしっかり生きていたら、決してそれが無駄になることなどない、善いことをしていたら、それらの善きことが来世で報われる、きっと今生で過ごした沢山の楽しい思い、家族と共に過ごした幸せな時間もそれが善き業となって、来世には善いところに生まれ変わり、新しい家族の中できっと幸せに過ごしてくれるはずだと、そして前世の家族である自分たちも亡くなった人と共にこの世でしっかり生きていこうという気持ちになれるならば、何もない、ただ無為に命を無くした、何のために短い人生があったのかなどと思うよりも、亡くなった人も遺族もきっと救われるのではないかと思うのである。
もちろんそう思えるようになるには時間は必要であろう。だが、そのように考えることによって私たちは納得し希望を持つことが出来る。『久しく遠くにありし人、無事に帰来せば、親戚朋友、これを歓迎するがごとく、善業をなして現世より来世にいたる者は、その善業に迎えられる。親戚、その愛する者を迎うるがごとく』(法句経219・220)と、お釈迦様も教えられている。
この震災津波で亡くなられた方々は決して無駄な死に方をしたのではない。その方の命にとって、心をさらに成長させ、次なる来世できっとしっかりとさらによい人生を生きて下さるものと信じ、残された私たちもその命に負けないように励む、心を浄め、成長させていこうという気概をこそ持つべきであろうと思う。私たちが生きるその目的は何かと改めて考える機会としてこの震災を捉え、本来の生きる目的のためにこの試練があったと思えるようでありたいと思うのである。
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