備後國分寺だより 第70号(令和7年4月6日発行)
令和六年十月十三日
ふくやま美術館特別展「ふくやまの仏さま」記念法話
『仏さまとの出会い方』
〈後編〉
ここまで、ご覧いただいた仏さまについて、少し整理してみますと、まず、形のある仏さまと教えなど形のない仏さまがあり、形のある仏さまでも、ご像としてあるものと心の中でイメージする仏さまもあるということです。
ご像としてご覧いただいたのは、大日如来像、弘法大師像、インドの様々なお釈迦様のご像、藥師如来像と見ていただきましたが、他にも、たとえば観音様、お地蔵様、阿弥陀様と、沢山の仏さまがおられるわけです。
ですが、そのすべての始まりはと考えますと、お釈迦様ということになります。お釈迦様の悟りがなければ仏教の教えもなかったのです。
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そこで、なぜ仏さまは人の心を引きつけるのかと考察するにあたり、まず、すべての仏さまの大本であるお釈迦様とは、そもそもどのようなお方であったのかと、歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。
主に、ご誕生とお悟りになる晩の思索、それに説法されるいきさつの三つについて見てまいります。
お釈迦様は、二千六百年ほど前の人です。日本の歴史では縄文時代の最晩期となります。西暦では紀元前六世紀半ばに、現在のネパール領ルンビニで釈迦族の王子として、お釈迦様はご誕生になります。
過去世で何回も生まれ変わる中で徳を積み、前世で十波羅蜜という修行を完璧に成し遂げられ、その功徳により、悟りを開くためにインドの地にお生まれになられたと考えられています。
生まれたとき、すぐに立ち上がり七歩歩いて「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)、我は世界の最年長者であり、これは最後の生まれである」と言われたとされています。(中部経典123『希有未曾有経』参照)
七歩というのは六道の輪廻の世界から一歩踏み出すということです。
生まれたばかりなのに最年長者であるというのは、未だ悟った人のいない時代に、最初に輪廻からの解脱(げだつ)を果たすので自分は生まれ変わることがないけれども、他の人は皆生まれ変わるのであるから、誰よりも年長なのであるという意味の言葉として伝えられています。
そして、お釈迦様は、王子として跡取りが生まれるのを確認して、二十九歳でお城を出て出家しています。ルンビニ近くのカピラ城からガンジス河中流域のマガダ国の都ラージャガハへ歩いて行かれ、二人の仙人について瞑想を習い、その後、呼吸を止めたり断食したりと六年間の苦行をなされます。
その後、尼連禅河(にれんぜんが)で沐浴し、スジャータ村の娘から乳粥を供養され体力を回復されます。そして、現在のビハール州ブッダガヤで禅定に入り、お釈迦様は最高の悟りを得られ、成道(じょうどう)を成し遂げられたとされています。三十五歳のときのことでした。
この、お悟りになる晩、お釈迦様はどのような思索をなされたのか。これはとても大事なことであると思えますが、なぜか日本ではあまり取り上げられることがありません。
まず、お釈迦様は、深い禅定に入り、最初に思念されたのは、自らの過去世でした。何万回ともいわれる過去世での名前、家族、食べ物、善かったこと、苦しかったことなどを回想していかれたのだそうです。
つぎに、他の人々がどのように死に変わり生まれ変わるのかと、その様子を見て、それは業によって、つまりその人の行いによって、しかるべき生まれとなることを見ていかれたとされています。
そして最後に、苦について、煩悩について思索し、煩悩がどのように生まれ、どうしたら消えていくのか、その全容を解明されると、智慧を生じ、煩悩がなくなり、解脱を果たされたということです。(中部経典36『大サッチャカ経』参照)
この誕生と悟りに至る伝承は、私たちに何を教えてくれているのでしょうか。
私が思うには、誰もが過去の行いにより、今ある自分に生まれるべくして生まれ、あるべくして今があり、未来を導くものとして今をいかに生きるべきかということが大切なのであるということだと思います。
そして、この三世にわたる善悪の因果応報なる理を知り、善い行いを重ねて生きよと教えられていると受け取ることが出来るのではないかと思っています。
ところで、ここまでのお話で、輪廻とか過去世という言葉が何度となく登場してまいりましたが、違和感をお持ちの方もおられたかもしれません。
今日、日本仏教では、このことに触れないという申し合わせでもあるかのように避けられています。
ですが、ここに持ってまいりました英国のオックスフォード大学出版の『Buddhism a very short introduction』「第3章Karma and Rebirth」の冒頭には、今申し上げた、お悟りの晩にお釈迦様が何回もの過去世を回想されて悟られた事蹟を紹介されています。
また、ブライアン・H・ワイスさんというアメリカの医師は、退行催眠によって患者の過去世を回想させることで様々なストレス障害を治癒させている事例を『前世療法』(PHP文庫)という本で紹介されていますし、日本でも産婦人科医の池川明さんは、『前世を記憶する日本の子供たち』(ソレイユ出版)という本を出されています。是非参考にしていただければと思います。
そして、お釈迦様は悟られた後、この深遠な真理は普通の生活を送る人々には悟ることが難しいと考えられ、説法することを躊躇されています。
ですが、そこに、インドの最高神梵天が現れて、「貴方が法を説かなければ、この世は闇に覆われてしまいます、貴方の教えを聞けば教えを理解し悟れる人も居りますから」と説法を乞われます。
三度逡巡された後、天眼通(てんげんつう)で世の中を見回すと、欲深い人ばかりではなく、皆様のように仏さまの話を聞いてみようという人が沢山居られることを知り、世の中の人々の幸せのために法を説くことを決意されるわけです。(中部経典26『聖求経』参照)
ここでは、他者の申し出を拒絶するのではなく、受け入れ共存するという平和な関係を保ちつつ、その法は、この世界の人々に光をもたらし、誰もが明るく幸せになれる方法を教えて下さっているのだということが解ります。
そしてこのことに表れているように、仏教の教えは寛容で、差別なく、誰をも受け入れ、包容力ある教えであり、すべての生命の幸せを願う教えとなるわけです。
その後、先ほど申し上げたサールナートで、最初の説法をなされて仏教の教えが始まります。
そして、四十五年間お釈迦様は弟子や出家者、一般の在家信者にも法を説かれたと言われます。そして、沙羅双樹に囲まれたクシナガラの森の中で八十年の生涯を閉じられています。
最後の言葉は「すべてのことは過ぎ去っていく、疾くつとめよ」と、この世の無常なるがゆえに修行にしっかり励みなさいと言い残されています。
ところで、お釈迦様の生きている時代は勿論ですが、歿後三百年ほどは仏像はありませんでした。釈迦の一生を仏塔の欄干(らんかん)などに掘る様なときには、菩提樹や法輪を描き、お釈迦様を表現していました。有り難すぎてお姿はとても作ることが出来なかったのです。
その後、西暦紀元前二世紀頃より、西域からペルシャ人、ギリシャ人、クシャーン族、フン族など異民族がインド北西部に侵入し、ガンダーラ地方などに新しい国を作ります。
その影響で、多民族を統治するイデオロギーとして、「空(くう)」というスローガンのもと、自らを絶対視せず、互いに他者を尊重する、差別のない普遍的な思想として大乗仏教が展開し、大量の経典を作り、沢山の仏さまを誕生させていきます。
実際に実在する仏さまはお釈迦様だけですから、お釈迦様の悟りの智慧を分け与えられて、様々な物語が創作され、沢山の仏さまが作られていきます。そして、西域の文化の影響により仏像も制作されるということになります。
その膨大なお経と仏像が、中央アジアを経由してシルクロードを通って中国、朝鮮、そして日本にやってきます。西暦五三八年、欽明天皇の時代に、百済の聖明王が仏教を伝えたとされ、仏教公伝と言われます。
初めは朝鮮、中国の仏師の指導により造られた仏像も、次第に日本独自の技が究められて、今日に至っています。
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では次に、その形ある仏さま、つまり仏像とは何かということについて考えてみたいと思います。
実はインド僧の時に、私のインドの師で、教団の総長をされていたダルマパル大長老に、どうして仏像があるのかと尋ねたことがあります。一言、「仏像があったからこそ仏教が世界に広まったのだよ」と言われました。仏像のお蔭で信仰の対象があるという事は多くの人が信仰に入りやすいということだと思います。
ですが、仏像は、単なる信仰の対象ではないと私は思っています。
たとえば、多くの人々の信仰をあつめる観音様は、衆生の悩み苦しみの心の声を聞き、その人の居る場所に現れてお救い下さるという慈悲の仏さまですから、そのご像は、とてもやさしげで清らかな存在として多くの人があこがれを持つわけです。
ですが、正式なお名前を観世音菩薩というように、大乗の菩薩として、自ら悟りに至る前に、人々に慈悲をもって仏の道に導き、彼岸に渡ってもらうという役割があります。これを「自(おの)れ未だ度(わた)ることを得ざるに先(ま)づ他を度す」と言います。
彼岸とは悟りの世界の比喩的な表現であり、私たちの居る此岸から彼岸にある悟りの世界に誘い、最終的にはお釈迦様同様のお悟りを開いてもらいたいというのが、菩薩の願いです。
ですが、それは、菩薩だけの話ではなく、如来も同様で、そのために法を説かれているのです。
このように、大乗仏教の教えにより、沢山おられる仏菩薩明王などの仏さま方は、それぞれに役割や持ち味に違いはありますが、根本の部分では、お釈迦様がお悟りになられた事蹟を踏襲(とうしゅう)され、信仰する人々に、どんなに時間がかかったとしても、お釈迦様のように最高に安らいだ心、悟りの心にいたってもらうのだという願いをもって派遣されている存在であると言えます。
そのため、仏教は信仰だけではなく実践を大切にするわけです。
ですから、皆様の中には、仏さまを信仰されて、誰に言われるまでもなく、お寺などに行かれて、礼拝し、お経を習い、唱え、意味まで知ろうとする方が居られます。写経や坐禅といったものを熱心にされている方もあります。
が、それはどういうことかと言えば、ただ手を合わせ懺悔(さんげ)し願うというのではなく、実践ということを誰に言われずともなされているということです。
それは、少しでも功徳を積み、自らもよくありますように、願いが叶いますようにというお気持ちもあるかもしれませんが、それは確実に仏さまの所に近づいていく功徳ある実践であり、仏さま方の願いに叶うものであると言えます。そうあってこそ、また、願いもお聞き届け下さるのではないかと思います。
そして、その時、仏さまは、皆様にとっての導き手としてあり、生きる手本として存在しているのではないかと思うのです。
ですから、仏さまの座り方や身体の安定、表情や安らいだ顔を見たとき、心が改まり、手を合わせると同事に、ご自分もそのようにありたい、そういう心境になりたいという思いも生じているのではないでしょうか。
そしてさらには、そのお姿や表情のように、自分も身を整えてみる、心静かに何も考えない時間を楽しんでみる、そうした修養のために手本となるのが形ある仏さま、仏像ではないかと思います。
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それでは、最後に、もう少し本質的な話になりますが、そもそも仏さまとは本来何かということについて考えてみたいと思います。
皆さん、「山川草木悉皆成仏(さんせんそうぼくしっかいじょうぶつ)」、または「草木国土悉皆成仏」とも言うようですが、このような言葉を聞いたことがありますか。山も川も草木も、つまり森羅万象みな悉く成仏している、みんな仏なんだという意味の言葉です。
これは中国の仏教で言われるようになり、日本でもこの言葉を受け入れるようになったとされ、環境問題の会議で突然登場することもあるのだとか。
どうしてこんな事が言えるのか、私には長いこと理解できなかったのですが、あるとき閃(ひらめ)きまして、仏とは法を説く者だとしたらどうかと思ったのです。
自然界のものたち、たとえば、川のせせらぎや風の音、木の葉が落ちたり、海の波も、それらはすべて自然の摂理のそのままにあり、そうありながら、何事かを私たちに語りかけてくれています。自然界の法則、真理というものを見せてくれています。
それを見たり聞いたりした人はそこに自然の摂理や真理を見て何事かを悟ることができるのではないか。それは無常であったり、無我など、そのものの移り変わっていく姿を悟らせてくれるものだと言えます。
そう考えますと、自然界のすべてのもの、森羅万象は真理を見せ語りかけ悟らしめてくれる存在であり、つまり仏であると言いうるのではないかと思ったのでした。
そして、真理のままにある自然が仏なのですから、本来、仏さまとは、真理である法を説くと同事に真理そのものを顕しているということになろうかと思います。
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以上、ここまで、なぜ仏さまは人々の心を引きつけるのかと考察を進めてまいりました。
すべての仏さまの大本であるお釈迦様の足跡をたどり、仏像とは何か、また仏さまとは本来何かとたずねてまいりました。
仏さまとは、私たちがいかに生きるべきかを示して下さり、他者と共存する平和な教えを説く者であり、信仰し実践する人の手本でもあり、真理を顕していると見てまいりました。
ですが、本当は、そういう有り難い存在であると、漠然とかもしれませんが、皆様、わかっているからこそ、そのお姿、表情に強く引きつけられるのではないでしょうか。
冒頭に申し上げたとおり、仏さまとこう出会わなければいけないなどということはありません。皆様がそれぞれに望まれるように出会われたらよいのだと思います。
ですが、その出会い方によって、仏さまに何を求めておられるのか、皆様にとってどんな意味があるのか、価値があるのか、皆様の人生にとって仏さまはどういう意味あるものなのか、がわかるのだと思います。
繰り返しになりますが、仏さまは、この世の真理とともにあり、私たちを幸せな、平和な、安らかな世界に導いて下さる有り難い存在であるからこそ、そのお姿に底知れぬ魅力を感じさせてくれるのではないでしょうか。
仏さまを見上げるとき、またその横顔に、心安らぎ、幸せな気持ちになれる。その安らぎをどんなときにも感じていられるようにするにはどうしたらよいのか。いつも仏さまのような安らいだ顔で、落ち着いた心でいられたらどんなに良いことかと。
もしもそんな風に思い感じられるなら、既にすばらしい仏さまとの出会いを果たされているのではないかと思います。
仏さまはとても楽なお姿で安らいだお顔をされています。怖い顔をされている仏さまも居られますが心の中は慈しみに満ちておいでです。
私たちもそうなれますように皆様を導いて下さる有り難い仏さまと、是非出会っていただきますことをお願い申し上げまして、本日の記念法話とさせていただきます。
ご静聴、誠にありがとう御座いました。
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〈質疑応答〉
まず、①「大乗仏教と小乗仏教の違いはなにか」との質問がありました。
「今現在、小乗仏教との言い方はしないことになっていまして、インドからスリランカ、タイ、ミャンマーなど南方に伝搬した仏教のことですが、これらは上座仏教という言い方をします。これに対し私たち日本仏教などインドから一度中央アジアを通りシルクロードによって中国、朝鮮に伝えられた仏教が北伝仏教、大乗仏教です。お釈迦様の古い時代の仏教を伝える教えが上座仏教で、それより五百年ほどして興った新しい教えが大乗仏教です」
次に、②「インドでは英語も話されているとは思うが、現地での言葉はどうされていたか」
「インドでは初め片言の英語を用いていましたが、長期滞在する際に拓殖大学語学研究所でヒンディー語を学び渡印し、現地で揉まれて困らない程度にヒンディー語を話して生活していました。ただインドの言葉はとても発音が複雑なので日本人には聞き取れない音もありました」
最後に③「インド人はヒンドゥー教徒が大部分と聞いているが仏教に対する認識はいかがなものか」
「インドの人口の八割はヒンドゥー教徒で、私の関係していたベンガル仏教徒はわずか三十万人程、仏教徒全体でも人口の1%に満たないのです。ただ、ヒンドゥー教徒の中に仏教信奉者が沢山おり、サールナートのお寺に付属する学校の役員たちは皆ヒンドゥー教徒ではありますが、仏教の教えに基づいた教育をしています。・・・」 以上
雲照律師ゆかりの
島根の寺院参拝の記
昨年七月二日三日と、明治の傑僧・雲照律師ゆかりの寺院を参拝した。
その日は大雨の予報があり、決行が危ぶまれたが、一時間毎の天気予報では二日午後からは島根県は小降りになるとのことだったので、強く雨の降る中、神辺町御領から車で出雲方面に向かう。
尾道自動車道から松江道に入る頃にはまだ強く雨が降っていたが、島根県に入る頃から雨脚が弱まり、出雲自動車道に入り出雲インターで下道に下りる。
まず向かったのは、律師が出家得度に臨んだお寺といわれ、師の慈雲上人がその頃住職されていた多聞院(たもんいん)に向かった。
出雲市知井宮町の細い路地をいくつも曲がり開けた所に出たと思ったら、前方に茅葺き屋根が突き出た建物の前に出た。山門の前は入口にお地蔵さんが両脇に立つ二十メートルほどの参道があり両脇はまだ田植えのされていない田圃が広がっていた。山門には「養龍山多聞院」と書かれた細長い板が右の柱に掛けられている。
中に入ると綺麗に整備され草一本ない境内で、正面に茅葺の本堂、茅葺屋根が高勾配でせり上がり突端は銅板が覆っておりその下には板で覆いがある。草繋全冝師の『雲照大和上伝』(大本山大覚寺)には、本尊が胎蔵界大日如来、脇仏に千手観音とある。右手に客殿庫裏、手前左側には大きな仏像が納められたお堂がある。
山門左側に掲示されている案内板によれば、多聞院は、もとは南隣に鎮座していた智伊神社の神宮寺で、何度か天火のためというから雷のことであろうか、そのため焼失を繰り返し、現在の本堂は、宝暦二年(一七五二)再建という。 庫裏は弘化年間(一八四四~四八)改築とあるので、律師生存中の出来事である。
享保九年智伊神社が移転したため多聞院と改められた。大阿弥陀堂は貞享二年に郡代官鵜飼七右衛門によって再建されたとある。左側の小さな御堂に御堂一杯の大きな仏さまは阿弥陀如来であった。
ひっそりとして誰も居られない様子であったが、玄関口で御挨拶すると奥様がおいでになり、雲照律師の得度のお寺と知られていると教えて下さった。建物の中は大きな幅広の梁の立派な建物であることが解る。その再建の際には律師もお越しになっていたとも伺った。お昼時のお忙しい時間帯でもあり、早々にお暇(いとま)した。
それから、東園町に向かった。律師の生家のあった場所である。曹洞宗にはなっているが高野寺という名のお寺が東園町にあってお訪ねした。
こちらは広い車道に面して立派な鐘楼が山門横にあって塀も新しい。本堂前に進むと、奥様が落ち葉を掃いておられたので、律師をご存知が尋ねてみたが一向にご存じない。宗派も違い、二百年も前にこの地に生まれた一人の真言僧についてご存知がなくても当然であろう。
お参りを済ませ早々に失礼した。駐車場から見る出雲大社方面の緑鮮やかな山並みは、昔のままだろう。車道もなく大きな建物もなかった当時は、水路が張り巡らされた田圃が広がるだけで山並みもさぞ大きく見えていたに違いない。
それから、律師自ら長く住職なされた、雲南市大東町須賀の普賢院(ふげんいん)に向かった。宍道湖(しんじこ)沿いの道に出て水波を見ながら車を走らせた。国道五十四号線を右に曲がり山に入る。須我神社の標識に沿って左に道をとり、神社手前の広場に駐車場があった。須我神社は県社で立派な風格ある神社である。鳥居に太い注連縄が目に入る。
神社の左側に五六メートル上の境内に上る階段があり手前に「高野山真言宗鏡智山普賢院」と彫られた石柱が建っている。
階段を上がり山門をくぐると、平らな整備された境内がひらけ、正面の建物が本堂と庫裏であろうか、左に玄関、中程にガラス戸の中に障子が開けられ正面に本尊大日如来が祀られている様だ。ガラス戸の中から廊下手前に書額が見える。「大覚寺管長 大僧正密雄書」とあり、「八正道・・十悪人不行」とある。ひっそりと誰もいない様子だったので、隣の須我神社に伺う。
授与所に居られた方から、普賢院はしばらく無住になっていることと直に後住さんが来られる予定らしいと伺った。
もう一度普賢院境内に戻り、境内の石仏を参る。一番建物寄りのところに、大きな縦長の石に、梵字で五点阿字の下に「雲照大和上位」と彫られていた。
後ろに回ると、「東京目白僧園開基 明治四十二年四月十三日示寂 現住北脇智寬代」とあった。右側に板に書かれた案内板があった。
「雲照和上墓碑 雲照和上は弘化四年(一八四七年)から二十四年間、、当山住職としても務められ、江戸幕末明治維新の動乱時には政府へ、仏教革新の意見を上申し、八十歳の時には国内はもとより朝鮮満州にまで供養行脚なされるなど、更には皇族の方々からの帰依信望も得られ、八十三歳の生涯を通して戒律主義堅持に盡せられた、島根が生んだ名僧である。鏡智山普賢院」と書かれていた。
翌三日は、松江市内のゆかりの寺院を訪ねた。まず向かった先は松江市米子町の自性院(じしょういん)。ここは律師が講伝のため何度か訪ねているお寺である。本堂はじめ諸堂をお詣りする。周りに墓地が間近に造られた町中の菩提寺という装いであったがとてもきれいに整備されている。
本尊不動明王に手を合わせ、玄関に住職様をお訪ねする。講伝は今ではもう行われていないとのことであったが、雲照和上と書いた袈裟が一領あるとのことだった。探して下さったが見当たらず、また出てきた際に写真を送って下さるようお願いをし失礼する。
次に伺ったのは、律師が四度加行(しどけぎょう)を行った尊照山千手院(せんじゅいん)という松江藩の祈願寺である。松江市石橋町にあり、自性院からは車なら七分ほどの距離である。松江市街が展望できるお寺としても有名で、さすがに高台にあるため、駐車場からしばし坂道を上る。山側には地蔵や不動の石像が迎えてくれている。大きな枝垂れ桜が葉桜になった枝をのばし、それをくぐるように境内に出た。この桜は、樹齢二百五十年といわれ松江市の天然記念物に指定されている。
手前に納経所があり、その右隣に本堂があって、本尊千手観音像を祀る。その右隣に県内最大の平安仏・不動明王を祀る不動堂がある。
玄関にお訪ねすると、名誉住職様がお出ましくださり、応接に通されお話を伺う。かつてはその不動堂の後ろに三人が加行できる加行道場があり、本堂と不動堂の間の廊下から後ろに回って道場に行けるようになっていて、本尊と供物壇のみの簡単な設えであったという。
不動堂の右側に小倉寺という松江市西持田町小倉にあったお寺が廃寺となりこちらに建物が移築されていた。その前に「雲照大和上」と彫られた大きな石碑が祀られていたことについてお尋ねすると、以前は市内が見渡せる展望の良いところに置かれていたが崖崩れの後こちらに移設されたと教えてくださった。律師が逝去された後まもなくに祀られたということだった。
また昭和天皇御幼少の頃川村伯爵邸にて律師が間近に息災のご祈祷をなされておられたとも伺った。立派なお寺のたたずまいはさすがに松江城築城にあたり、その鬼門に造られたお寺としての風格があった。お忙しい中律師の生涯についてご教示下さいました名誉住職様に感謝申し上げます。
そのあと自性院住職様にご紹介いただいた西浜佐陀町の満願寺に向かう。こちらは宍道湖を足下に見下ろす風光明媚なお寺で、椿の鉢植えが所狭しと置かれていて、誠に綺麗に寺内整備が行き届いている。住職様のご案内で、ロウケツ染めによりお寺の縁起を描いた見事な襖絵や本堂の向拝の椿の花を木彫りにした格天井、また本堂では、不動の頭も彫られた両頭愛染明王など珍しいものを沢山拝見させてくださった。境内の四国霊場のお砂踏み道場も参考になった。お忙しい中熱心に解説くださった住職様に御礼申し上げます。
そして、そのあと律師の袈裟が見つかったとご連絡をいただいたので、再度松江城下の自性院に伺う。住職様が応接間に通してくださり袈裟の写真を撮らせてくださった。袈裟を拝見すると、「雲照大和上 発願袈裟千衣之内」とあり、この一条隣に「裁縫人 横浦田鶴子 八百五十八号」とも記されていた。この袈裟は、『大和上伝』に「千枚袈裟の発願」という章に書かれているものであろう。
律師は明治二十八年九月に千枚袈裟の供養を発願されている。この袈裟はその一領に違いない。一枚の袈裟は、生地を供養する人、袈裟を縫って供養する人、袈裟を着て供養する人の三人の尊い仏縁が結ばれ、これが種子になり後世に芽が出て仏法の興隆になると、律師はお考えになられた。律師生前には六百枚ほどが成就したという。その後遺弟たちが継続して律師の志を完成したとあり、この袈裟は律師入滅後も継続されていた証として、とても貴重な袈裟であると言えよう。お忙しい合間に快く撮影を許可して下さった住職様に御礼申し上げます。
このほか律師ゆかりの寺としては、十八歳で住職された安来市大塚村下吉田の観音寺があり、また実兄宣明師の住職した寺で、律師が何度も求聞持法を修法された仁多郡奥出雲町中村の岩屋寺もあるが、すでに廃寺となってかなりの年月が経っているためお訪ねしなかった。
なお、岩屋寺については、登山アウトドア向け Web サービス・スマートフォンアプリを手がける会社の「YAMAP」というサイトに詳しく現在の様子を伝えてくれている。
https://yamap.com/activities/10612793/article
帰りは出雲道から松江道に入り、そのまま尾道道を通って世羅で下道におり、御調、府中、神辺へと無事帰還した。この度は、突然に押しかけたにもかかわらず、いろいろと便宜をはかってくださいましたお寺様方に改めて感謝申し上げます。 合掌
昨年十一月の護摩供後の法話
「過去の記憶を塗り替える」
今年は三月に御開帳があり、以来いろいろとお役が当たる巡り合わせで、やっと、それらが終わりホッとしているところなのですが、そんな最後のお役の準備をしている最中に、一本の電話が入りました。切羽詰まったように、お助けを願いたいとのことで、兎にも角にも来山したいとのことでした。
その日の午後急遽お越しになられることとなったのですが、何かお話をお伺いすれば良いのだろうと気軽に考えていたところ、スロープがある本堂へお越しになり、足も不自由なので、こちらでお願いしたいとのこと。本堂にあがられて、お話を伺うと、五十年も前に誤りの末に水子ができ、それも色々と事情があって、十分な供養もできていなかったので、以来気にはなっていたけれども、そのまま今日迄来てしまったのだということでした。
ですが、この四、五年、事故続きで、足は骨折するは、肩を怪我するは、この度は手首を捻挫して不自由で物も持てなくなって困っているのだとか。人に言われたわけでもないが、その五十年前の水子がたたっているのかもしれないので供養にお経を上げて欲しいと、先代の時に一度来たことがあるという縁でお越しになられたのでした。
突然のことで、水子の供養は特別していなのですが、五十年も前の水子が今障りをするとは考えにくいとも申し上げましたが、どうしてもお救い願いたい、お経を上げて欲しいと言われるので、先代がよく水子の供養でお参りしていた境内の地蔵尊の前で、簡単な荘厳をして、着の身着のまま、お経を唱えさせていただきました。
お経を唱えている間、不自由な手を合わせ一心に何か念じておられるようにも感じ、こちらも声に力が入り、ご供養が叶うようにとお唱えしました。唱え終わると、気持ちが晴れたのか、そのままお帰りになられました。
悪いように考えずに、供養が済んだと思って、考えれば考えるほどつらくなりますから、考えないことですよと申し上げお見送りしました。
その方がお帰りになられてから、思うに、五十年も前の記憶がまるで昨日のことのように思い出され、そのことにとても不本意な思いや、つらかったこと、嫌な思いが甦られたのだということと、お経を聞くと安心され気持ちが済んだのは良いけれども、やはりもう少しその後、過去の記憶に対するケアが必要だったのではと二つのことが頭に去来しました。
日本人は、仏教というと、唱えること、お経や真言や念仏、題目などを唱えることと思っているのかもしれないけれども、その上にやはり、心の癒やしを十全にするには、そのつらい記憶についての自分の思いや感情、判断、受け取り方を改めることで、その記憶を甦らせることで味わう二次的三次的な心の負荷、負担を解消することが必要ではないかと思えました。
昔の、子供の頃の嫌な記憶、つらい思い出をいつまでも引きずっている人も多いのではないでしょうか。何度も何度も、ことある毎に思い出され、いつも嫌な思いを甦らせてしまうという方も多いのではないかと思います。
ですが、その記憶を、大人になって様々な経験したきた今の自分なら、その過去の記憶にある出来事の当事者やこの時の情況、自分のことを、背後からや様々な方向から見て別の解釈を付けることも可能なのではないだろうかと思うのです。
一人苦しんできた、その記憶の受け取り方は違っていたのかもしれない。他の人たちの立場や人間関係からの位置、それぞれの情況や思いを想像したとき、ただつらく苦しかった記憶が違って見えてくるということもあるのではないでしょうか。何事も自分一人が悪かったということはありえないのであって、その時の様々な因縁のもとに引き起こされたことにすぎないのですから。
過去の記憶の情況を立体的に双方の関係や思い、それぞれの思いや感情を想像して捉えたとき、過去の時点でその記憶に付着させてきた思いや感情とは違うものになって捉えることが可能になります。そうしてはじめて、私たちは過去何度も思い出す度に苦しんできた思いから解放されるのではないでしょうか。
かつて高野山での百日間の修行中に、何度も、すっかり忘れていた過去の記憶が甦ってきたことがあります。修行中ということもあったのかもしれませんが、それらの記憶はそれまでだったらとても嫌な思いをもって思い出されていたことであっても、何か平然とやり過ごすことができました。過去の記憶をそうやって塗り替えていくことで、何を思いだしても、何も心に影響されずに、心晴れやかに過ごせる自分になれるのではないかと思います。
【國分寺通信】
◯月例行事・仏教懇話会では、昨年のお涅槃記念誌である『檀信徒のための仏教読本』を読みながら、皆さん楽しく仏教について学んでいます。現在第二章「仏教の教え」を読んでいます。お気軽にご参加ください。
◯御詠歌に参加される方を募集しています。未経験の方も大歓迎です。毎月第四土曜日午後三時から、ご一緒に楽しくお唱えいたしましょう。
◎ 薬師護摩供 毎月二十一日午前八時~九時
◎ 坐禅会 毎月第一土曜日午後三時~五時
◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
◎ 仏教懇話会 毎月第二金曜日午後三時~四時
◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時
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