ドラードが諫早生まれで、小さいときに回らない舌で「カナヤ」、「カナヤ」といったことから、いまの諫早の金谷町生まれという説があります。
はたして、どんなものでしょうか。
日本名がないドラードの出生を詮索するのは、難しいことですが、私も最初、混血児説に傾いておりました。
父親は南蛮船のポルトガル人の水夫でした。南蛮船は帆船ですから、季節風に乗って航海していました。当然、風待ちで何ヶ月も滞在しなければなりません。その間に、ねんごろになった日本人の娘との間にできたのがドラードという説です。
ドラードは幼いときから日本語は不得意だったけれど、ポルトガル語をよく解したといいます。容貌や髪の色が日本人離れしていたといいます。
あるいは、そこには肥前のこころやさしい娘が、難破して怪我をした異国の水夫を看病するうちにというようなラブロマンスもありえないわけでもありません。
ポルトガル語でドラードには金銀細工師という意味があるから父親の家業からの命名ではないだろうかと考えた人もおられます。
しかし、であります。当時の諫早は荘園があり、半農半漁の保守的な村でした。そして、島原半島一帯は領主たちの小さな戦争続きでした。そうしたなかでの、諫早を舞台にしたロマンスは考えられません。
私は、ドラードの父親は兵士で出征中、戦死してしまった。留守を守っていた妻は、キリシタンで、 身ごもっていました。
父親はいない、産み月は迫ってくる。キリシタンには、当時、農漁村では普通であった水子にすることは許されようはずがありません。母親は人目を避けて、家を出ます。たまたま、諫早にさしかかったときに、産気づいてしまい、やむなく、選んだのが捨て子の道だったというわけです。
当時、貧しい暮らしの中で、赤子を拾って育てられるのは、宣教師くらいしかいません。幸い、拾われたドラードは、宣教師の住院で育ち、ポルトガル人やイタリア人の修道士たちに囲まれて大きくなって行ったのです。
はたして、どんなものでしょうか。
日本名がないドラードの出生を詮索するのは、難しいことですが、私も最初、混血児説に傾いておりました。
父親は南蛮船のポルトガル人の水夫でした。南蛮船は帆船ですから、季節風に乗って航海していました。当然、風待ちで何ヶ月も滞在しなければなりません。その間に、ねんごろになった日本人の娘との間にできたのがドラードという説です。
ドラードは幼いときから日本語は不得意だったけれど、ポルトガル語をよく解したといいます。容貌や髪の色が日本人離れしていたといいます。
あるいは、そこには肥前のこころやさしい娘が、難破して怪我をした異国の水夫を看病するうちにというようなラブロマンスもありえないわけでもありません。
ポルトガル語でドラードには金銀細工師という意味があるから父親の家業からの命名ではないだろうかと考えた人もおられます。
しかし、であります。当時の諫早は荘園があり、半農半漁の保守的な村でした。そして、島原半島一帯は領主たちの小さな戦争続きでした。そうしたなかでの、諫早を舞台にしたロマンスは考えられません。
私は、ドラードの父親は兵士で出征中、戦死してしまった。留守を守っていた妻は、キリシタンで、 身ごもっていました。
父親はいない、産み月は迫ってくる。キリシタンには、当時、農漁村では普通であった水子にすることは許されようはずがありません。母親は人目を避けて、家を出ます。たまたま、諫早にさしかかったときに、産気づいてしまい、やむなく、選んだのが捨て子の道だったというわけです。
当時、貧しい暮らしの中で、赤子を拾って育てられるのは、宣教師くらいしかいません。幸い、拾われたドラードは、宣教師の住院で育ち、ポルトガル人やイタリア人の修道士たちに囲まれて大きくなって行ったのです。