活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

ここに、「有馬のセミナリヨ」

2006-09-28 11:16:42 | Weblog
 
 セミナリヨは畳敷きだったのです。1人机が整然と並ぶ教室に、季節に合わせておそろいの紺色の着物で、坊主頭の生徒たちが座っていて、あるときはラテン語、あるときは、初歩の哲学といった具合にいろいろな科目の授業が進められていました。

 生徒の年齢は12歳ぐらいから16,7歳まで、いまの中・高一貫の学校を想像してください。もちろん、神父養成が目的ですから、ミサを立てる立派な祭壇がありました。

 400年以上前、1580年に日野江城下に、曜日ごとの「時間割」のもと、教育が行われていたとは驚きです。
 「ここに、有馬のセミナリヨ」とは、いうものの、実は、4人の使節たちが学んだ開校当時のセミナリヨ跡は確定できません。敷地は1580年から7年間と1601年からの12年間に3回変わったといい、最近、どうやら3回目の跡地が発掘されました。(「有馬のセミナリヨ」関係資料集 平成17年北有馬町役場刊)

 ここで、大事なことは、有馬のセミナリヨをつくったのは、イエズス会のヴァリニャーノで、そのセミナリヨの1回生から4人の使節が選ばれ、その従者として同行した1回生のドラードが、「活版印刷術」を持ち帰ったことで、有馬のセミナリヨは日本の印刷文化史の上で見落とせません。

 私は、《もし、有馬のセミナリヨなかりせば》、そう考えながら、日野江城跡をゆっくり散策しました。「日本の文化史のうえで貴重な価値を持ちながら、いまもほとんどの日本人が省みない一つの学校がある」遠藤周作は『銃と十字架』をこう、書き出しました。


 
 
コメント
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