活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

ジュリアンも読んだ?活版印刷本

2007-01-28 12:38:40 | Weblog
 「中浦ジュリアン記念公園」が西海町中浦南郷にあります。
 ここはジュリアンが生まれたであろう「中浦ジュリアン居館跡」のすぐ隣です。
 2002年(平成14)2月の公園完成のときに、前出の小佐々さんがジュリアンゆかりの古書を寄贈されました。

 書名は、『アンジェロ・ポリツィアーノ書簡集』で、1546年刊行、ラテン語で縦16センチ、横11センチ、644ページの本です。著者ポリツィアーノはイタリア・ルネッサンス期の文化人の一人です。
 さて、この古書とジュリアンたちとのつながりの糸はといいますと、こうです。
 ジュリアンたち少年使節は1584年末に、スペインのムルシア市郊外のイエズス
会のセミナリヨに1ヶ月滞在しました。
 この本はその図書館に代々、所蔵されつづけて来ました。
 だから、滞在中に、あるいは、ジュリアンたちが手にして、ルネッサンス期の人生論や文学論の中身に触れたかも知れないのです。
 
 記念公園の展望台内の資料展示室ではジュリアンの生涯をモルタルレリーフ彩色壁画で見ることができます。もちろん、左手で海の向こうを指差す彼の像もありました。

 そのほか、紀行先としては、多比良川の川沿いにある小佐々氏の墓所、五島灘を一望できる城山、七釜港などがあります。なお、2007年11月、ヴァチカンから枢機卿が長崎にきて、ジュリアンやベトロ岐部ら、新たにローマ法王が「福者」に列することにした188人の列福式が行われる予定だと聞いております。
 


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジュリアンのふるさとは

2007-01-28 11:25:20 | Weblog
 長崎の西彼杵半島に西海市があります。ここの多比良や中浦あたりが中浦ジュリアンのふるさとです。大村湾を挟んで反対側の佐賀寄りが原マルチノの生地波佐見でした。
 ただ、訪ねてみると、両者の環境は大違い、海のない波佐見と違ってジュリアンのふるさとは五島灘に面した海沿いでした。ひょっとして、五島灘よりも角力灘の方が正しいのかな、地図によって表記がちがうのは困りものです。

 その地図で海岸線をたどって見て行くと、「七釜」という港があります。350年ほど前にオランダ人が編んだ地図にNagaetsgammaと出て来ますから、当時は大陸からの大きな船が入港するたいした存在でした。
 おもしろいことに、この七釜を拠点にして戦国時代から江戸時代まであたりの水域を舞台に大活躍した「小佐々水軍」のボス、中浦城主の小佐々甚五郎純吉の息子、小佐々甚吾こそが、後の中浦ジュリアンその人だったというのです。

 世が世なら、水軍のボスになって暴れまわったかも知れないのに、セミナリヨに入学し、天正少年使節の一人に選ばれ、たまたま、ヴァチカンでは、一人だけでローマ教皇に抱きしめられたという奇しき彼の運命。それだけではありません。1614年(慶長19)のバテレン国外追放のときは、莞爾として潜伏の道を選び、1633年(寛永10)長崎の西坂で穴吊りの刑で殉教した、さしづめ、いまならTVのドキュメント番組になるような彼の生涯は、なぜ、どこから、どうして来たのでありましょうか。 埼玉在住でジュリアンの末裔の獣医学博士小佐々学先生が、もう、30年もコツコツと調べておられますから、そのあたりはもっと究明されるにちがいありません。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする