活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

大友宗麟の謎

2011-11-07 15:43:15 | 活版印刷のふるさと紀行
 写真はポルトガルのアズレージョ風の白壁です。タイルではなくて
漆喰壁ですが、南蛮風でいかにも大友宗麟の臼杵らしくていい感じです。
私はこの写真をパソコンの壁紙につかっていたせいもあって、臼杵とい
うと石仏よりもこの壁をイメージしてしまうほどのお気に入りです。

 宗麟は禅宗に凝り、臼杵に寿林寺を建てたり、京都の大徳寺にも瑞
峯院を建てて寄進したりして熱をあげていたのですが、急変するのです。
 あわただしく、自分よりも息子や部下を先に受洗させ、キリシタン嫌
いの妻を離婚し、再婚した新妻を受洗させ、1578年(天正6)にいよ
いよカブラルによって自らも受洗してドン・フランシスコを名乗ります。
若い時に出会って尊敬したフランシスコ・ザビエルのフランシスコから
頂戴したフランシスコであることは当然です。

 こうして宗麟がキリシタンになったことで豊後領が大騒動になります。
それに受洗直前に、大軍を率いて日向に攻め込んでいます。加えて親子して
寺社仏閣の弾圧にも乗り出していますし、国主の改宗を許せない部下も
山ほどいます。まさに国を挙げて大波乱の様相を呈していました。
 
 折も折、ちょうどその時期にヴァリニャーノが臼杵に宗麟を訪ね、7か月も
滞在する時期に重なります。布教や修練院で講義をしたりしています。
 カブラルとちがって仏教や僧侶に対して敵意を持たない主義だった彼には
宗麟がどのようにうつったでしょうか。

 ヴァリニャーノが臼杵に7か月も滞在していたのに、少年使節派遣の
計画を宗麟に伝えていなかったというのが定説になっています。
 はたして豊後代表ともいうべき伊東マンショの使節入りを彼が知らなかった
というのはほんとうでしょうか。
 もうちょっと、宗麟について考えてみたいものです。


 
コメント
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