活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

東京湾と東京港7年後

2013-12-19 10:16:55 | 活版印刷のふるさと紀行
 北斎のこの浮世絵がいつ描かれたものかは知りませんが、「富嶽三十六景」の中で武陽佃嶌
というタイトルがついています。いまの佃島地区がまだ東京湾の中の小島で、うしろには富士山、手前にはのんびりと漁をしている小舟、荒波の北斎イメージとはまったくかけ離れた穏やかな風景です。家康の江戸開府から150年前後、今の東京湾はこんなだったのでしょうか。

 実はこのところ週1回、「東京湾と東京港」の講義を受けております。
自分の守備範囲とはまったく関係がありませんが、東北大震災以来、高潮とか津浪とかについてあまりにも無知ですし、東京に住んでいながら東京湾を知らないのはわれながら情けないと思ったからです。

 まず、勉強したのは東京湾の水深が2~4mと遠浅で小型の船しか使えないので、古くから浚渫をくりかえし、埋め立てを続けたという江戸時代からの東京湾の歴史です。とすれば、北斎が目にした東京湾がこんな感じだったのも無理がありません。そのためでしょうか今の東京湾という呼称は東京が誕生してからと新しく、江戸時代にも江戸湾と呼ばれないで、その前のは内海(うつみ)がつうようしていたらしいのです。

 東京湾では現在も水路を確保するために掘削が続けられ、そのおかげで臨界副都心の埋め立て地の造成が着々と進んで水深2~4mの海上都市の新地区がつくられているのです。その埋め立て地でも造成のときに地盤高さを確保しているので地震のときに沈下することはないので安心とのことでした。
 東京の場合、地下40mで岩盤にぶつかるので、羽田空港の新設滑走路などは40mの杭を何百本と打ち込んで、その上に鉄板を敷いている、つまり、鉄板の下は林立する杭の間を縫って海水が行き来しているのだそうです。

 もう一つ、意外だったのは東京港の整備や関連の工事は東京都港湾局が進めているのであって横浜港のように国が主管しているのではないということでした。どうやら港の成り立ちの経緯によるらしいのです。例の安政の開港のときの横浜・函館・神戸・長崎・博多の5港は国の管理だそうです。そんなことはどうでもいいかもしれませんが、7年後のオリンピックを控え、東京湾や東京港の整備の進展は大事なことです。

コメント
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