活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

鋳字印刷あれこれ

2014-04-29 11:00:57 | 活版印刷のふるさと紀行

 

      シンポジュウムで 左から黄先生・藤本先生・樺山紘一先生

 高麗朝、朝鮮朝と韓国の金属活字、金属活字というよりも「鋳字印刷」というべきらしいのですが、ご講演でその歴史をホンの少しだけ齧らせていただいたわけですが、こと印刷にかけては韓国が日本のはるかに先進国であったことをあらためて知らされました。

 両先生の講演の後のシンポジュウムでもいろいろ論じられましたが、その一つが「先進国の韓国からなぜ日本に鋳字印刷の技術がもたらされなかったのか」というのが多くの人の疑問だったようです。それには当時の韓国の国情を理解しなくてはなりません。高麗前期は仏教と儒教の二大文化の華を競った時代でしたが、後期は戦乱がつづき、せっかくの多くの書籍が灰になりました。そこで鋳字印刷で書籍需要に応えなくてはならず、中央官庁が印刷を一手に担当するようになったらしいのです。しかし、元がなにかと高麗にチョッカイを出し、それに屈するような時期もあって、自国の印刷だけで手一杯とても日本どころではなかったのでしょう。

 官庁での印刷も思い通り進まない情勢のなかで出て来たのが寺院での印刷で清州興徳寺で『直指』が印刷されたのも不思議ではありません。それに、清州が鉄の産地であり、鋳造技術が進んでいたことも預かって力になったと思われます。ただし、鋳字技術は貨幣づくりと重なる部分がありますから「部外秘」の色彩が濃かったことも考えられ、これでは日本に伝わる機会があろうはずがありません。

 これは蛇足ですが、私は本年の『印刷雑誌』四月号(印刷学会出版部)に、「日本最初の国字活字の謎」という駄文を寄せております。1592年に日本文字の金属活字で印刷されたキリシタン版の『どちりな・きりしたん』の活字を誰が、いつ、どこで鋳造したかの謎解き提案です。

 記念講演をうかがっているうちに「もしや韓国の鋳字印刷の技術が伝えられたのでは?」と一瞬、頭をよぎったものですからシンポジュウムのあとのレセプションの席上おそるおそる藤本先生に質問してみました。「それはないでしょう。当時の向こうで鋳字印刷に従事していたのは日本にこられるような身分の人ではなかったからです」、やっぱり、空振りでした。

 

 

 

 

 

コメント
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