活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

行き着いたのは「古活字版」と「きりしたん版」

2014-04-30 13:54:17 | 活版印刷のふるさと紀行

  

                      慶長勅版『勧学文』 1597年刊  

 印刷博物館「朝鮮金属活字文化の誕生展」の講演会を話題にご紹介しているうちに、シンポジュームでとりあげられた「なぜ、高麗ではじまった鋳字印刷がもっと早くに日本にもたらされなかったのだろう」という疑問が脳裏からぬけさりませんでした。高麗朝の『直指』の印刷は1377年ですが、それ以前、1239年に早くも『南明泉和尚頌証道歌』のように鋳字印刷された事例があるというからなおさらです。彼我の距離をかんがえると日本の印刷の始まりは、あまりにも遅すぎです。

  日本の印刷史上、金属活字をつかった最初の印刷は1591年のきりしたん版『サントスの御作業のうち抜き書き』1591年ですから、『直指』からでも214年もあとです。また、京都で後陽成天皇が銅活字を使って開版させたという文禄勅版『古文孝経』がその2年後1593年です。、これは現物が残っていませんが、朝鮮から秀吉が持ち帰った技術によるといわれていますから、朝鮮金属活字文化と日本の印刷文化との結びつきが出来たと見ることもできます。

 しかし、家康の駿河版活字は別にして、それからの50年間、京都を中心に、のちに私たちが「古活字版」と呼ぶようになったもののほとんどには木活字が使われています。きりしたん版を印刷した日本の金属活字印刷は徳川幕府の禁教令のせいでわずか二十数年で姿を消すことになったものですから、日本の印刷史が「活字印刷は朝鮮由来の木活字による」という意見が主流だった時代がありました。実はかくいう私も、きりしたん版を印刷した技術は禁教で根絶えしにされ、明治になって本木昌造たちが苦労してまた金属活字の製造からはじめねばならなかったと考えたり、書いたりしておりました。

 ところがそうじゃないんだ、きりしたん版の組版技術が日本の古活字版に大きな影響をあたえている。その証拠に朝鮮では活字を植字盤に蜜蠟を接着剤のように使って差し込んで組版をしている。日本の古活字版は家康の木活字の伏見版や嵯峨本の『伊勢物語』などにしても、行間にインテル(込めもの)を入れて固定させるきりしたん版方式で必ずしも朝鮮の方式ではない。

 これを主張されたのが近畿大学の森上 修先生でたしか1995年頃ではなかったでしょうか。以来、先生にはいろいろご教示いただいて、つい先日も日本最初の国字活字について教えを乞うている最中です。

朝鮮金属活字の話から古活字版やきりしたん版へ行きついてしまったのは私の無茶ふりで申し訳けありません。






 

                    

     

 

 

 

 

 

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