活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

音羽に和紙の神様が

2012-12-01 13:37:29 | 活版印刷のふるさと紀行

 2、3日前、私の属している印刷文化史の研究会、神田川大曲塾の定例イベント「神田川界隈を歩く」に参加して、私としては「オヤッ」と驚くような場所に出会ったのでご報告します。今回は講談社近くの音羽から椿山荘付近が中心でした。

 音羽のあたりには明治のはじめごろ紙漉きを生業とする家が何軒もあったようです。神田川沿いに今は埋められて存在しない川も二筋あったようですし、紙漉きに必要な水に恵まれていた土地柄だったのでしょう。その音羽の目白坂下交差点近くのマンションが林立する谷底のような窪地にガイド役の塾生、豫家さんに連れ込まれて「ここが和紙の神様 天日鷲神社」と案内されたのが天日鷲神社とのはじめての出会いでした。

 愚かにも、一瞬、アメノヒワシ神社の鷲は和紙か、天日で紙を乾かすところからのネーミングかと思ったのは、あまりにも神様に失礼な話。実は同じ場所に徳川綱吉の生母、桂昌院が京都紫野の今宮神社からご分霊を得て建立した今宮神社があり、天日鷲神社はその末社になっているのだから由緒があるのだろうと、帰宅してからメールで豫家さんに教えを乞うた次第です。

 なんでも天日鷲命(アメノヒワシ)は神武天皇の側近で、その子孫が天富命(アメノトヨノミコト)に引率されて四国にわたり、阿波の国を開拓、その後、阿波の忌部(いんべ)とともに黒潮にのっていまの千葉、安房に上陸、上総、下総を開拓したらしいのです。

 たまたま、総は麻、麻は紙の原料、その辺も天日鷲神社と関連があるとのことですが、とにかく、明治9年に音羽の紙漉き業者が相談して阿波の国忌部神社からご分霊をいただいて、この紙祖をまつる社を建立して音羽地区の紙漉きの発展を祈ったというのです。

 日ごろ、前を通っても見過ごすような場所に歴史があり、人の営みや文化につながる故事がある。こんど、もっとくわしいことを教えてもらうのが楽しみです。


 


 


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