前々回とその前で秀吉、家康と活版印刷について書きました。秀吉と家康で
は印刷への取り組み方が違う、秀吉はたまたま、朝鮮から李朝活字や活字版
がもたらされたときに太閤だった。みずから「印刷」に関心を持ち、印刷」
に取り組んだのは、家康だったのではないか、と。
秀吉にしろ、家康にしろ、時代のトップが印刷文化史に名前が出てくるのは
日本人としては誇るべきことですし、この二人を日本の活版印刷のことはじめ
に結びつけて研究していらっしゃる方の多いことも心強いかぎりです。
私が李朝活字を持ち帰ったのは小西行長と決めつけたのはどうか、「第二軍
として同時期に首都、漢城(ハンソン、いまのソウル)に入城した加藤清正、
その人である」という指摘もいただきました。
秀吉軍が入城したとき、李朝の王、宣祖は脱出していましたが、歴代の王は
金属活字の鋳造を推進し、活版印刷を国家的事業に位置付けていました。
神田川大曲塾でソウルの国立中央博物館を見学したときも「グーテンベルク
よりも三〇〇年も前に朝鮮半島では金属の活字印刷をしていた」と学芸員は
鼻たかだかでした。
しかし、日本のキリシタン版の活字の行方が杳(よう)として知られぬように、
李朝活字も現存していません。まさか、「秀吉が全部持ち出した」わけではあ
りません。たしか、博物館に一字だけあると聞ましたが、私たちは見ておりま
せん。
凸版印刷の駿河版活字の中に李朝活字が混じってはいないかと、韓国から
調査団が来たこともあったようです。
は印刷への取り組み方が違う、秀吉はたまたま、朝鮮から李朝活字や活字版
がもたらされたときに太閤だった。みずから「印刷」に関心を持ち、印刷」
に取り組んだのは、家康だったのではないか、と。
秀吉にしろ、家康にしろ、時代のトップが印刷文化史に名前が出てくるのは
日本人としては誇るべきことですし、この二人を日本の活版印刷のことはじめ
に結びつけて研究していらっしゃる方の多いことも心強いかぎりです。
私が李朝活字を持ち帰ったのは小西行長と決めつけたのはどうか、「第二軍
として同時期に首都、漢城(ハンソン、いまのソウル)に入城した加藤清正、
その人である」という指摘もいただきました。
秀吉軍が入城したとき、李朝の王、宣祖は脱出していましたが、歴代の王は
金属活字の鋳造を推進し、活版印刷を国家的事業に位置付けていました。
神田川大曲塾でソウルの国立中央博物館を見学したときも「グーテンベルク
よりも三〇〇年も前に朝鮮半島では金属の活字印刷をしていた」と学芸員は
鼻たかだかでした。
しかし、日本のキリシタン版の活字の行方が杳(よう)として知られぬように、
李朝活字も現存していません。まさか、「秀吉が全部持ち出した」わけではあ
りません。たしか、博物館に一字だけあると聞ましたが、私たちは見ておりま
せん。
凸版印刷の駿河版活字の中に李朝活字が混じってはいないかと、韓国から
調査団が来たこともあったようです。