アレクサンドロ・ヴァリニャーノ、この430年近く前に来日したイタリア人の宣教師こそ、日本にグーテンベルクの発明した金属活字を使う「活版印刷術」の持ち込みを発想した人です。写真は天草の河内浦のコレジョあとにある彼のタイルの肖像です。
当時の日本にあっては、これはかなり破天荒なことといっても良かったでしょう。来日してわずか3年目で彼はそれを実行に移します。
しかも、天正遣欧少年使節にロヨラ・ドラード・アゴスティニョというキリシタン名を持つ3人の少年を随行させ、活版印刷術の習得という大きな課題を託したのです。まさに、大きな決断といえましょう。
それも、成算があったのか、織田信長や大友宗麟、大村純忠、有馬晴信ら使節派遣のサポーターたちに恐らくその計画を打ち明けていると、私は思います。
いくら、日本人の能力や才知をかつていたとしても、かなりの冒険だったはず。
実は、彼は、日本に来る前、インドのコチンでポルトガルの宣教師の著した「教理問答書」を現地のマルバル語に翻訳し、さらに活字をつくって印刷されている例を見ていますから、民度の高い日本ならゼッタイに出来ると判断したのでしょう。
ヴァリニャーノは日本語はしゃべれませんでした。しかし、漢字と仮名を使う日本語の活字を新鋳することの難しさは理解していたようです。その証拠に、「ヨーロッパで、日本のかつじをつくるもとになる字母を作ってきたらどうかと、助言しています。
いずれにしても、ヴァリニャーノによって1591年、日本で最初の活版印刷本
キリシタン版の『サントスの御作業の内抜書き』が印刷されることになったのです。もっとも、日本文ではありますが、活字は欧文活字が使われています。
当時の日本にあっては、これはかなり破天荒なことといっても良かったでしょう。来日してわずか3年目で彼はそれを実行に移します。
しかも、天正遣欧少年使節にロヨラ・ドラード・アゴスティニョというキリシタン名を持つ3人の少年を随行させ、活版印刷術の習得という大きな課題を託したのです。まさに、大きな決断といえましょう。
それも、成算があったのか、織田信長や大友宗麟、大村純忠、有馬晴信ら使節派遣のサポーターたちに恐らくその計画を打ち明けていると、私は思います。
いくら、日本人の能力や才知をかつていたとしても、かなりの冒険だったはず。
実は、彼は、日本に来る前、インドのコチンでポルトガルの宣教師の著した「教理問答書」を現地のマルバル語に翻訳し、さらに活字をつくって印刷されている例を見ていますから、民度の高い日本ならゼッタイに出来ると判断したのでしょう。
ヴァリニャーノは日本語はしゃべれませんでした。しかし、漢字と仮名を使う日本語の活字を新鋳することの難しさは理解していたようです。その証拠に、「ヨーロッパで、日本のかつじをつくるもとになる字母を作ってきたらどうかと、助言しています。
いずれにしても、ヴァリニャーノによって1591年、日本で最初の活版印刷本
キリシタン版の『サントスの御作業の内抜書き』が印刷されることになったのです。もっとも、日本文ではありますが、活字は欧文活字が使われています。