永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(36)

2008年05月01日 | Weblog
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【花宴】の巻 (2)
と、「いと若うをかしげなる声の」「朧月夜に似るものぞなき」とうち誦して女が来ます。
――若く朗々とした声で――朧月夜の…と口ずさみながら女が来ます。

源氏は袖を捕らえ、わななく女に
「まろは、皆人にゆるされたれば、召し寄せたりとも、なでふことかあらむ。ただ忍びてこそ」
――私はだれにでも大目に見られているから、いくら人を呼んだとて、びくともしない
、ただじっといる方がね――
女は、この声に源氏の君だと知ります。
 
 源氏の方は、誰とも分からないながら、弘徴殿辺りにいた女なので、右大臣の姫君で、弘徴殿女御の御妹ではあるだろうと察します。夜も明け初めたのであわただしく扇を取り交わし別れます。
 
 桐壺では、(亡き母の更衣の部屋をそのまま源氏が内裏で使っている部屋)目を覚ましていた女房たちが、こうした源氏の様子をみて
「さもたゆみなき御忍びありきかな」
――さてさてご熱心なお出歩きですこと――
と互いに肘を突きあいながら寝たふりをしています。

 源氏は寝入られず、こんなことを思っています。
「綺麗な女のようだったな。弘徴殿女御の妹だろう。まだ世慣れていない様子では、5番目か6番目か。四の君は頭の中将の北の方で、美貌だと聞いていたが、それだったらかえって面白かったろうに。六の君は近々東宮に差し上げられる方とか。ああ、詮索するのも煩わしい。しかし、文を交す方法も教えずに別れてきて残念……それにしても藤壺の辺りは近づきにくい重々しさがあったなあ」

 藤壺も気になり、昨夜の有明の君(朧月夜)には、まして気になるものの、一方では左大臣宅の葵の上へも久しく尋ねていない。それよりも紫の上が可愛そうなので、二条院へお帰りになります。
「見るままに、いとうつくしげに生ひなりて、愛敬づき、らうらうしき心ばへいと殊なり」――見る度毎に大層愛らしげに成長して、利発な気立てが格別である――

源氏のこころ
 「飽かぬ所なう、わが御心のままに教へなさむ、と思すにかなひぬべし……」
――不足なく、私の心に叶うようにお教えしようと思ってきたが、なるほどそのようになってきている。男の仕込みゆえ、多少は人ずれした点もあるが、日頃の物語、琴など教え暮らして、私の夜の外出ということになると、口惜しそうではあるものの、女は素直で我慢するようにと慣らしてきたので、私を無理に止めようとはしない――

ではまた。

源氏物語を読んできて(清涼殿)

2008年05月01日 | Weblog
内裏の中の清涼殿

一般に「内」と呼ばれる、帝の居所で、内裏の左部分を占める。
この図では、右部分が清涼殿。左が後涼殿。

「清冷」「西涼」と書くこともある。
南北九間、東西二間の身舎で、天皇の日常生活の御所となった。(中殿と呼ばれるようになる)(しかし内裏火災(1039年)以降ほとんど使われなくなった。)

 
 檜皮葺の屋根で建物は間仕切りが多く複雑で、大きくわけると昼御座(ひるのおまし)や殿上などの南半分と 東孫庇のある東面が公的性質が強いのに対し、夜の御殿(よんのおとど)や弘徽殿上御局(こきでんのうえのみつぼね)などのある北半分と台盤所(だいばんどころ)のある 西庇は天皇のプライベートな空間となる。二間は天皇の護侍の 夜居の僧の詰める所になる。

 殿前の庭には 呉竹、漢竹(かわたけ)紅梅その他の樹木が植えられていた。 正月の 小朝拝をはじめ、 叙位、 除目、官奏、詩歌管弦の遊びなどの公事や行事が行われたのは主に南半分だった。

 後涼殿との境に朝餉壷と台盤壷という内庭がある。