永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(56)

2008年05月20日 | Weblog
5/21分  

【賢木】の巻 (4)

 院のご病気に世の中の皆、心配なさらない方はおりません。朱雀院が行幸されますと、桐壺院はご衰弱の中で、東宮のこと、大将(源氏)のことを、繰り返し頼まれます。
「侍りつる世にかはらず、大小の事を隔てず、何事も御後見と思せ……」
――私の在世中と同様に、大小につけ隔たりなく、何事もあの方(源氏)を補佐役と思われるように……年齢の割に国政を執るにしてもさほど支障はない、必ず立派に世を治め得る相の人です。そう思って面倒ゆえ親王にせず、臣下として天子の補佐をさせようと思ってきたのです。決してこのことを違えないようにせよ――

 と、他にもご遺言が多くございましたが、

ここで急に作者の言葉らしいもの
「女のまねぶべき事にしあらねば、この片端だにかたはらいたし」
――女などの筆にすべき事ではないので、ほんのこれだけの事を書いても気がひけることです――(作者が女性であることを自ら言っています)

 東宮をはじめ、次々とお見舞いに上がるなかで、大后(弘徴殿大后)は、藤壺が添われていらっしゃるので躊躇なさっていらっしゃるうちに、桐壺院は格別ひどいご容態でもありませんでしたのに、「崩れさせ給ひぬ」――お崩れ(おかくれ)になっていまわれました――
「足を空に思ひ惑ふ人多かり」――足が地につかず、あわててあちこち飛び回り、思い惑う人が多うございました――

 故桐壺院は退位されてからも、実際の世のまつりごとについては、ご在世と同じようにされておいででした。今上の朱雀院はまだ若く、
「祖父大臣(おほじおとど)、いとど急にさがなくおはして、その御ままになりなむ世を、いかならむと、上達部、殿上人みな思ひ嘆く」
――外祖父の右大臣は、大層性急で意地が悪く、天下がそのご自由になることを、上達部、殿上人らはみな嘆いておられます――

 中宮藤壺と源氏はなおのこと、お悲しみでご気分がすぐれませんが、ご崩御後のご法事など丁重にご供養されます。源氏は、昨年(葵の上)今年(桐壺院)と悲しいことがうち続き、人生をはかなくお思いになって、出家をも思い立たれますが、それはそれでいろいろと断ちがたい絆の多いことがあって…と思われます。

◆写真は、京都御所の築地塀(ついじべい)宮内庁より。

◎数日お休みして、京都、宇治、奈良を旅してきます。ではまた。

源氏物語を読んできて(殿上人・上達部)

2008年05月20日 | Weblog
◆殿上人(てんじょうびと・でんじょうびと)

4、5位で昇殿を許された人。
ただし蔵人は6位でも許された。
清涼殿の南廂や院の御所に控えの間(殿上の間)がある。

◆上達部(かんだちめ)、
この殿上人よりもっと偉い人を,上達部(かんだちめ)と 呼びます。大臣・大納言・中納言・大将などです。

◆殿上の間
現在でいえば国会議事堂にあたります。ここで重要な会議が行われたり,天皇からお言葉をいただきます。半円の窓があります。ここから天皇が会議の様子をご覧になっていました。この部屋に入ることができる人たちを殿上人(てんじょうびと)と呼びます。殿上人とは四位・五位と六位の蔵人(くろうど)です。有名な官職としては,少納言・中将・少将などがあります。

◆仕事
平安時代の役所は原則として大内裏(だいだいり)の中にありました。この他にも大内裏の東側に役所がありました。官人の多くは朝早くに出勤し、日没までに帰宅していました。上達部(かんだちめ)といった上級貴族は牛車で通っていましたが、それ以下は馬か徒歩でした。

官人の出勤日を上日、宿直を十夜(とおや)といい、休日も決められていました。官人には月にだいたい二十日以上の上日と数日の十夜が課せられていました。実務官僚(官人)は毎日規則正しいスケジュールを送っていましたが、参議以上の上達部は政務の他に夜の政(まつりごと)と呼ばれた儀式に加え饗宴もあり、不規則な生活でした。

こうして上達部から下級の官人に至るまで勤務状況が重視され、給与や勤務評定の基準とされたのです。当時は物忌み(ものいみ)、方違え(かたたがえ)に代表される禁忌の日もあったので、二十日以上の出勤な辛い面もあったと思われますが、逆にずる休みをする不届き者もいたようです。


◆写真 束帯(文官)風俗博物館より

源氏物語を読んできて(55)

2008年05月20日 | Weblog
5/20  

【賢木】の巻 (3)
 
 御息所も斎宮もゆかしく風雅な方との評判に、この日の参内には、ご見物の車が多うございます。
御息所の感慨
「父大臣のかぎりなき筋に思し志して、いつき奉り給ひし有様かはりて……十六にて故宮に参り給ひて、二十にて後れ奉り給ふ。三十にてぞ、今日また九重を見給ひける」
――父大臣が、将来はわたしを皇后へものぼらせたいとのご希望で、大切に育ててくださったことに引き替え、晩年のこの有様は……、十六歳で故宮に嫁ぎまして、二十歳で未亡人になりました。今三十歳でこの内裏に伺うのは、何と申し上げてよいか――

 斎宮は十四歳でございます。大層可愛らしくいらっしゃるのを、御息所がきちんと装い立てて上げられましたご様子は並大抵のご立派さではございません。

発遣の儀式
「帝、御こころ動きて、別れの櫛奉り給ふ程、いとあはれにて、しほたれさせ給ひぬ」
――帝の朱雀院は、(大極殿の東の御座=儀式をするところ)で、別れの櫛を斎宮の額にお挿しになって、京へお帰りにならぬようにとおっしゃいます(お役目が長くあることは、在位が長いこと)――

 いよいよ、斎宮が内裏より退出されますのを、八省院に立て続けてお待ちになっていましたお供の出車(いだしぐるま)が、袖口の色合いも上品に並んでいます。殿上人たちは
だれかれと言わず、別れを惜しまれたのでした。

 二条通りを折れて、源氏の二条院前を過ぎますとき、源氏は榊の枝に添えて、うた一首を差し出されます。

 うた「私を振り捨てて行かれますが、後悔の涙をながされませんか」夜なので、翌朝の御息所の返しのうたは
「鈴鹿川八十瀬の浪にぬれぬれず伊勢まで誰か思ひおこせむ」
――鈴鹿川の八十瀬の浪に私の袖がぬれてもぬれなくても、はるばる伊勢まで誰が私をおもいやってくださるでしょう――

 ご筆跡も大層趣があって優美であるものの、もう少し情緒があってもよさそうなものだ、と、源氏は、霧の深く立ちこめている、明け切らぬ空を眺めて独りつぶやいておられます。

十月に入って、桐壺院のご病気は一層重くなられました。

ではまた。

源氏物語を読んできて(斎王の群行)

2008年05月20日 | Weblog
斎王の群行(ぐんこう)
 
 発遣の儀の後、斎宮は葱華輦(通常は天皇・皇后だけしか乗れない特別な輿)に乗り、いよいよ伊勢へ出発する。一行は斎宮以下長奉送使(斎宮を伊勢まで送り届ける勅使)を始め、官人・官女以下およそ五百人に及ぶ大行列であった。

 平安時代には都から伊勢までの行程を「群行(ぐんこう)」と呼び、平安京から勢多(ここで発遣の儀の時に挿した櫛を外す)、甲賀、垂水、鈴鹿、一志の五つの頓宮(とんぐう)で禊を重ねながら、五泊六日の旅程で伊勢に到着する。

 特に垂水頓宮と鈴鹿頓宮の間の鈴鹿峠は厳しい山越えで、道中最大の難所であった。

◆写真  群行  風俗博物館より


源氏物語を読んできて(発遣の儀)

2008年05月20日 | Weblog
発遣の儀

 いよいよ伊勢へ出発となると、宮中で『発遣の儀』が行われました。ここで天皇は「都の方に赴きたもうな」とお声をかけられ、斎王の髪に「別れのお櫛」をさされたとか。斎王も決して振り向いてはいけないというしきたりだったそうです。
 これにより、天皇の祭祀権を斎王に分け与えました。
 
 小さなお櫛に多くの涙と責任の重さが込められた、悲しい儀式だったことでしょう。

◆写真 京都御苑 平安時代の内裏を忍ばせる