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【賢木】の巻 (8)
源氏は「見だに向き給へかし」
――せめて見向きぐらいはしてください――
と腹立たしく辛く、引き寄せようとしますと、藤壺は衣をすべり落として逃げようとされますが、御髪と共に又引き寄せられておしまいになりました。
「いと心憂く、宿世の程思し知られて、いみじと思したり」
――藤壺はわびしい思いに、宿縁を思い知られて、ひどく悲しくお思いになりました――
「男も、ここら世をもてしづめ給ふ御心みな乱れて、うつしざまにもあらず、よろづの事を泣く泣くうらみ聞え給へど」
――源氏は長年押さえてこられた思いに、すっかり乱れて正気のようでもなく、思いの限りを泣く泣く訴えられますが――
「まことに心づきなしと思して、答も聞え給はず、ただ、心地いとなやましきを、かからぬ折りもあらば聞えてむ、と、宣えど、つきせぬ御心の程を言ひ続け給ふ」
――藤壺は心から厭わしいと思われて、お答えになりません。源氏はなおも限りない思慕の心をくどくどと訴えられます――
藤壺は、心の奥では源氏に惹かれるものの、あの過ちを繰り返すことは大変に口惜しいので、なんとかうまく言い逃れなさるのでした。源氏も受け入れてもらえないのは残念ながら、藤壺の拒絶の立派さにもなるほどと、思われます。ただ、ときどきこのようにしてお目にかかれれば……とかなんとか、藤壺を油断おさせになるような物言いなどなさっておいでになるお二人の間柄は、他に類のない特別なご関係のようです。
そうこうしているうちにすっかり夜が明けてしまいました。女房二人が言いにくいことなど申し上げ、源氏は源氏で気味悪いくらいの思いを藤壺にお持ちですが、藤壺は失神されているような具合です。
「…人の思さむ所もわが御為も苦しければ、われにもあらで出で給ひぬ」
――長居をしては宮のご困惑も、自分自身の為にも良くないので、不本意ながらお発ちに
なりました――
その後の源氏のこころ
源氏は、藤壺がご自分ををあのように、つれなくなさったことを気の毒と悟られるまでは、と、文も差し上げず、あまりにもひどいお心だ、人前にも恥ずかしく、悲嘆にくれて、理性も意志もなくなってしまわれたのか、内裏にも参内せずに籠もっておいでです。この世は辛いことばかり、いっそ出家をと、またお考えになるものの、あの紫の上が私を頼りにしていることを思うと、それもできない。
藤壺は、あの後のご健康がすぐれずにおられます。源氏を無下に振り捨てては、東宮をお頼みしている身ではあるし、ご自分のなさったことで、この世を味気ないものに思われて出家でもなされはしないかと気遣われます。こんなことが長引くならば、
「いとどしき世に、浮き名さへ漏り出でなむ……」
――ただでさえうるさい世に、つらい評判まで出ることでしょう。(故帝の在世をあのように罪深く過ごしてきたことを思いますと、この上は、大后に誹謗されている中宮の位も返上して退いてしまおうと次第にお心を決められます。)――
◆忍んでの女との逢瀬は夜で、明け切らぬうちに誰とも分からぬように帰ります。
日中に帰るのは、きまり悪いことでした。
◆写真 御帳台の広さ 風俗博物館より
ではまた。
【賢木】の巻 (8)
源氏は「見だに向き給へかし」
――せめて見向きぐらいはしてください――
と腹立たしく辛く、引き寄せようとしますと、藤壺は衣をすべり落として逃げようとされますが、御髪と共に又引き寄せられておしまいになりました。
「いと心憂く、宿世の程思し知られて、いみじと思したり」
――藤壺はわびしい思いに、宿縁を思い知られて、ひどく悲しくお思いになりました――
「男も、ここら世をもてしづめ給ふ御心みな乱れて、うつしざまにもあらず、よろづの事を泣く泣くうらみ聞え給へど」
――源氏は長年押さえてこられた思いに、すっかり乱れて正気のようでもなく、思いの限りを泣く泣く訴えられますが――
「まことに心づきなしと思して、答も聞え給はず、ただ、心地いとなやましきを、かからぬ折りもあらば聞えてむ、と、宣えど、つきせぬ御心の程を言ひ続け給ふ」
――藤壺は心から厭わしいと思われて、お答えになりません。源氏はなおも限りない思慕の心をくどくどと訴えられます――
藤壺は、心の奥では源氏に惹かれるものの、あの過ちを繰り返すことは大変に口惜しいので、なんとかうまく言い逃れなさるのでした。源氏も受け入れてもらえないのは残念ながら、藤壺の拒絶の立派さにもなるほどと、思われます。ただ、ときどきこのようにしてお目にかかれれば……とかなんとか、藤壺を油断おさせになるような物言いなどなさっておいでになるお二人の間柄は、他に類のない特別なご関係のようです。
そうこうしているうちにすっかり夜が明けてしまいました。女房二人が言いにくいことなど申し上げ、源氏は源氏で気味悪いくらいの思いを藤壺にお持ちですが、藤壺は失神されているような具合です。
「…人の思さむ所もわが御為も苦しければ、われにもあらで出で給ひぬ」
――長居をしては宮のご困惑も、自分自身の為にも良くないので、不本意ながらお発ちに
なりました――
その後の源氏のこころ
源氏は、藤壺がご自分ををあのように、つれなくなさったことを気の毒と悟られるまでは、と、文も差し上げず、あまりにもひどいお心だ、人前にも恥ずかしく、悲嘆にくれて、理性も意志もなくなってしまわれたのか、内裏にも参内せずに籠もっておいでです。この世は辛いことばかり、いっそ出家をと、またお考えになるものの、あの紫の上が私を頼りにしていることを思うと、それもできない。
藤壺は、あの後のご健康がすぐれずにおられます。源氏を無下に振り捨てては、東宮をお頼みしている身ではあるし、ご自分のなさったことで、この世を味気ないものに思われて出家でもなされはしないかと気遣われます。こんなことが長引くならば、
「いとどしき世に、浮き名さへ漏り出でなむ……」
――ただでさえうるさい世に、つらい評判まで出ることでしょう。(故帝の在世をあのように罪深く過ごしてきたことを思いますと、この上は、大后に誹謗されている中宮の位も返上して退いてしまおうと次第にお心を決められます。)――
◆忍んでの女との逢瀬は夜で、明け切らぬうちに誰とも分からぬように帰ります。
日中に帰るのは、きまり悪いことでした。
◆写真 御帳台の広さ 風俗博物館より
ではまた。