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【葵】の巻 (7)
秋になって、いよいよ六條御息所の姫君が斎宮として野宮にお移りになるにつけ、様々な行事がありますものの、御息所はどことなく思わしくなく、臥せっていらっしゃることが多いようです。
左大臣方では、葵の上もひどくお加減が悪くていらっしゃるので、心の安らかな日はございません。
葵の上は、まだお産の時期ではないのに、急にお苦しみなって悶えていらっしゃるので、
例より多くの祈祷をおさせになります。
高名な僧たちが「例の執念深き御物の怪ひとつさらに動かず」
――例の執念ぶかい生霊のひとつが、どうしても離れない――珍しいことだともてあましていられます。
物の怪は、度重なるきつい調伏に音をあげて、
(物の怪が葵の上の言葉を借りて言う)「すこしゆるべ給へや。大将に聞ゆべき事あり」といいます。
――祈祷の手を少しゆるめてくださいよ。源氏の君(夫)に申し上げたい事があります――
源氏は葵の上の手を取って、「あないみじ。心憂きめを見せ給ふかな」
――ああ、恐ろしい、こんな苦しい思いをおさせになるのですね――
源氏は、あんなに疎んじていた葵の上でしたが、白い御衣に、調和のとれた色合い、長くきれいな髪、こんなにも美しかったのだと今になってお思いになります。葵の上が涙を流して見上げる様子をご覧になる源氏はどんなにか心細いお気持ちだったでしょう。
源氏は必死に葵の上(葵の上に乗り移っている霊)におっしゃいます。
そうひどく思い詰めてはいけません。これ以上悪くはおなりになりますまい。もしものことがあっても、夫婦は逢う折りがあると言うではありませんか。親子という深い縁はなおさら絶えないそうですから、きっと逢うときもあろうとお思いなさい。
すると、また
(物の怪が葵の上の言葉を借りて言う)「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばし休め給へと聞えむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、物思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」となつかしげにいひて
――いえ、そんなことではないのですよ。体がひどく苦しいので、しばらく調伏を休んで下さいと申し上げようと思って。こうしてここに上がろうとも全く考えないのですが、物思いをする人の魂は、なるほど身をぬけだすものでした。と親しげな様子で言って――
なんと、その声も、様子も、葵の上ご自身のものではなく、思いめぐらしてみると真に、六條御息所そっくりです。源氏はあさましくもあきれ果てて、今までは人の噂を打ち消してきたけれど、この有様に、なるほど、こんなことが実際にあるものなのだと、嫌な気持ちになります。
源氏は気づかぬ振りをして「かく宣へど、誰とこそ知らね。たしかに宣へ」
――こう仰るが、どなたか分かりませんね。名乗ってください――
作者のことばでしょうか。
まったく六條御息所そっくりでいらっしゃるのに、(源氏が)あさましいなどと(言うのは)は、これが世の常の言いぐさである。
ではまた。
◆ 葵の上 風俗博物館より
【葵】の巻 (7)
秋になって、いよいよ六條御息所の姫君が斎宮として野宮にお移りになるにつけ、様々な行事がありますものの、御息所はどことなく思わしくなく、臥せっていらっしゃることが多いようです。
左大臣方では、葵の上もひどくお加減が悪くていらっしゃるので、心の安らかな日はございません。
葵の上は、まだお産の時期ではないのに、急にお苦しみなって悶えていらっしゃるので、
例より多くの祈祷をおさせになります。
高名な僧たちが「例の執念深き御物の怪ひとつさらに動かず」
――例の執念ぶかい生霊のひとつが、どうしても離れない――珍しいことだともてあましていられます。
物の怪は、度重なるきつい調伏に音をあげて、
(物の怪が葵の上の言葉を借りて言う)「すこしゆるべ給へや。大将に聞ゆべき事あり」といいます。
――祈祷の手を少しゆるめてくださいよ。源氏の君(夫)に申し上げたい事があります――
源氏は葵の上の手を取って、「あないみじ。心憂きめを見せ給ふかな」
――ああ、恐ろしい、こんな苦しい思いをおさせになるのですね――
源氏は、あんなに疎んじていた葵の上でしたが、白い御衣に、調和のとれた色合い、長くきれいな髪、こんなにも美しかったのだと今になってお思いになります。葵の上が涙を流して見上げる様子をご覧になる源氏はどんなにか心細いお気持ちだったでしょう。
源氏は必死に葵の上(葵の上に乗り移っている霊)におっしゃいます。
そうひどく思い詰めてはいけません。これ以上悪くはおなりになりますまい。もしものことがあっても、夫婦は逢う折りがあると言うではありませんか。親子という深い縁はなおさら絶えないそうですから、きっと逢うときもあろうとお思いなさい。
すると、また
(物の怪が葵の上の言葉を借りて言う)「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばし休め給へと聞えむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、物思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」となつかしげにいひて
――いえ、そんなことではないのですよ。体がひどく苦しいので、しばらく調伏を休んで下さいと申し上げようと思って。こうしてここに上がろうとも全く考えないのですが、物思いをする人の魂は、なるほど身をぬけだすものでした。と親しげな様子で言って――
なんと、その声も、様子も、葵の上ご自身のものではなく、思いめぐらしてみると真に、六條御息所そっくりです。源氏はあさましくもあきれ果てて、今までは人の噂を打ち消してきたけれど、この有様に、なるほど、こんなことが実際にあるものなのだと、嫌な気持ちになります。
源氏は気づかぬ振りをして「かく宣へど、誰とこそ知らね。たしかに宣へ」
――こう仰るが、どなたか分かりませんね。名乗ってください――
作者のことばでしょうか。
まったく六條御息所そっくりでいらっしゃるのに、(源氏が)あさましいなどと(言うのは)は、これが世の常の言いぐさである。
ではまた。
◆ 葵の上 風俗博物館より
嵯峨野 野宮
斎王(斎宮)として伊勢神宮に仕える皇女が、伊勢に向かう前に潔斎のために籠ったのが「野宮」。
斎宮に選ばれた皇女は足掛け三年間潔斎の日々を送り、三年目の秋に伊勢神宮へと旅立った。その際の行列“斎宮群行”は、斎宮に仕える官人・官女など約500人に及ぶ大がかりな行列だったという。
◆今の野宮神社
小柴垣が昔を忍ばせます。
斎王(斎宮)として伊勢神宮に仕える皇女が、伊勢に向かう前に潔斎のために籠ったのが「野宮」。
斎宮に選ばれた皇女は足掛け三年間潔斎の日々を送り、三年目の秋に伊勢神宮へと旅立った。その際の行列“斎宮群行”は、斎宮に仕える官人・官女など約500人に及ぶ大がかりな行列だったという。
◆今の野宮神社
小柴垣が昔を忍ばせます。