永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(37)

2008年05月02日 | Weblog
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【花宴】の巻 (3)

 一方、葵の上を尋ねれば、また例のようには直ぐに対面しようとはなさらない。源氏は所在なさに困惑なさいます。左大臣、弁(葵の上の腹違いの兄弟で、左中弁)、頭の中将が
相手をされて、この夜は楽器をかき鳴らし遊ばれます。

 かの朧月夜の君は、夢のようだった源氏との逢瀬を思い出されて、もの悲しくおります。
4月には東宮に輿入れの運びです。
3月の20日過ぎ頃に、政敵ともいえる右大臣宅で弓の結が行われることになり、源氏も招かれます。

◆弓の結(ゆみのけち)=射手を左右につがえてする、弓の競技

源氏は「桜の唐の綺の御直衣、葡萄染(えびぞめ)の下襲(下重ね)、裾いと長く引きて、皆人は袍衣(うえのきぬ)なるに、あざれたるおほぎみ姿のなまめきたるにて、いつかれ入り給へる御様、げにいと異なり」
――桜襲の舶来の綾織物の直衣、葡萄染(えびぞめ)の下襲(下重ね)の裾を長く引いたままです。皆は袍衣(正装)ですが、ちょっとしゃれて、略式で、丁重に敬われてお入りになるご様子は、なるほど際だってご立派です――
(敵方に出向くとき意識してわざと略式にして相手を見くびっての態度とも)

 そこで源氏は探ります。
「あづさ弓いるさの山に惑うかなほのみし月の影や見ゆると」
――ちらと見た月(あなた)の影が見えはせぬかと訪ね迷っているのです――
ああと、応える声にまぎれもなくその人と知ります。はっきりと、弘徴殿女御の御妹の六の君と知ります。が。

「いとうれしきものから」
――実にうれしいものの…(どうにもならない)――
「花宴」の巻 おわり


◆弓
中世~近世(平安時代~江戸時代)

 平安時代の10世紀頃、武士が登場して以来、騎射・弓術は武士の表芸として弓馬の道とされた。騎射・弓術は実戦武術としての稽古も盛んに行われるなど、戦国中期までは戦での主戦力であった。また、弓矢は邪を祓う力があるとされ、霊器・神器として、精神性の高いものとして扱われていた(現在でも破魔弓として信仰の名残や各地で弓道、流鏑馬神事が行われている)。

源氏物語を読んできて(宴)

2008年05月02日 | Weblog
◆花見の宴

 万葉集の時代、公家や貴族は桜ではなく梅の花見を楽しんでいました。広仁三年(812)、嵯峨天皇が神泉苑で「左近の梅」を桜に植え替えて、「観桜の宴」を開きました。
これが桜の花見の始まりで、これ以降花見というと桜を指すようになったといわれています。

 ◆一日晴(いちにちば)れ
 (写真 左手前と、右奥の人物の装束)

 束帯(そくたい)の袍(ほう)の下に着る、すその部分(裾(きょ))の長い下襲(したがさね)を、特殊な行事や儀式、行幸(ぎょうこう)・行啓(ぎょうけい)の折に、その日一日だけ、特別な色や染め物、唐織物にすることが許されることがあった。これを「一日晴れ」という。通常は身分や年齢で織文や色いろ目めに決まりがあったため、この日は、それぞれが競って華麗なものを用いたようである。上達部(かんだちめ)や殿上人(てんじょうびと)が、寝殿(しんでん)の簀子(すのこ)の高欄(こうらん)に、その下襲の華やかな裾を掛けて居並んでいる様子が『駒競行幸絵巻』に描かれており、当時の様子がうかがえる。
ちなみに、裾は、平安時代初期までは等身大であったが、次第に長くなり、官位の高さに応じて長く引きずるようになった。また、後には「別裾(べっきょ)」といって、裾の部分のみが下襲から独立し、二部式となって腰に紐で縛るようにもなった。