永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(216)

2008年11月09日 | Weblog
11/9  216回

【乙女(おとめ)】の巻】  その(26)

 朔日(ついたち)には、大殿(太政大臣=源氏)は、参賀されませんので、くつろいでお過ごしになっておられます。源氏は、昔の良房という大臣の例に倣って、白馬の節会の日は、二条院に白馬(あおうま)を引いて来て、内裏の儀式そのままにおさせになります。それも多分、帝のご内意によることでしょうが、なんともご威勢の厳めしいことです。

 二月の二十日ほどに、帝は朱雀院へ行幸なさいました。桜の盛りにはまだ早いのですが、三月は故藤壺宮の忌月でもあり、早められたのでした。

 朱雀院の御方でも、格別なご準備をなさってお待ちになります。
「帝は赤色の御衣たてまつれり。召しありて太政大臣参り給ふ。おなじ赤色着給へれば、いよいよひとつものと輝きて見えまがはせ給ふ。」
――冷泉帝は赤色の袍をお召しになっています。特にお召しがあって、太政大臣の源氏も参上なさいます。帝とご一緒の赤色の袍をお召しなので、いよいよそっくり、そのままで、輝くばかりにお美しく、見紛うばかりです。――

 冷泉帝もお歳と増すにつれて、ご様子も、ご態度もいっそう優雅にお見えになります。

 この日は、専門の詩人はお召しにならず、詩才の抜きんでた大学の学生十人をお召しになって、式部省の試験の題になぞらえて、勅題を賜ります。

「大殿の太郎君の試み賜り給ふべきゆゑなめり。臆だかき者どもは、物も覚えず。つながぬ船に乗りて池に離れ出でて、いと術なげなり。」
――太政大臣のご長男の夕霧が、試験していただくためでしょう。臆しがちな学生たちは、気おくれがして、心も空の有様です。一人ずつ舟に乗って池に浮かべられ、ひどく途方にくれているようにみえます。――

 日も次第に傾きはじめるころ、楽人を乗せた船が漕ぎまわり、音楽を奏すうちに、折から山風が吹き下ろして、面白く楽の音と交ざり合うのを聞かれても、夕霧は、

「かう苦しき道ならで交らひ遊びぬべきものを」
――こんな苦しい思いをして学問をしなくても、皆と睦み合って、楽しく遊ぶ道もあるものを――

と、世の中を恨めしくお思いになるのでした。

◆朔日(ついたち):元旦には太政大臣は必ずしも節会などに出仕しません。

◆行幸(ぎょうこう・みゆき)=帝が内裏から他所へ移動すること。天子の行くところ、万民が幸を受ける意という。

◆同じ赤色の袍=こういう晴れの日は、第一位の公卿は帝と同色の袍を着用できるという例。

ではまた。

源氏物語を読んできて(睦月・子の日遊び)

2008年11月09日 | Weblog
子の日遊び(ねのひあそび)

最初の子(ね)の日。

正月の子の日、人々は野に出て、小松を根から引き抜いて健康と長寿を祈った。「ねのび」(「根延び」を掛ける)とも言う。またこの日、若菜をともに摘んで食した。

◆写真:子の日遊び  風俗博物館

源氏物語を読んできて(睦月・白馬の節会)

2008年11月09日 | Weblog
白馬(あおうま)の節会

正月7日

 帝が庭に引き出される白馬をご覧になり、群臣と宴を催す行事。中国の陰陽五行説に基づき、春に陽のものを見るとその年の邪気を避けることができるとされた。(ちなみに、夏は赤、秋は白、冬は黒)。馬は陽のもので、春に青馬を見るようになったと考えられる。

 天暦のころ、「青馬」は文献の上で「白馬」と書かれはじめ、「あおうま」と読む。

 ここでは、先例に倣って、源氏の私邸で白馬節会を行ったとされるが、当時貴族の私邸で行われていたかどうかは、分からない。現在は、京都の上賀茂神社や大阪の住吉大社などの神社で、神事として行われている。

源氏物語を読んできて(平安時代の「あお」)

2008年11月09日 | Weblog
平安時代の「あお」

 平安時代の人々が概念としてもっている色の種類は、現代のわたしたちに比べてかなり少ない。そのなかでも特徴的なのがアオである。アオはアカ(赤)とクロ(黒)の中間にある幅広い色を指したらしい。黄・緑・茶・灰などの色がすべてアオと表現される可能性をもっていた。

 さらに、白に灰色が混ざった色の状態もアオとよばれている。「白馬の節会」の「白馬」を「あおうま」とか「あおま」と訓むのは、一般に白馬といわれる馬が、実際は灰と白の混ざり合った色をもっていたからである。

 現代でも川沼などでよく見かける大形の鳥、アオサギ(青鷺)をアオと表現するのも、同じ色の感覚が伝わっているからであろう。
 
◆参考と写真:アオサギ(青鷺) 風俗博物館