09.4/4 346回
三十一帖【真木柱(まきばしら)の巻】 その(17)
そろそろ日も暮れかかって、雪でも降りそうな空模様に、お迎えの方々は北の方にお急かせなさいますが、北の方は涙を払いながら、思い沈んでいらっしゃいます。姫君は、
「殿いとかなしうし奉り給ふ習ひに、見奉らではいかでかあらむ、『今なむ』とも聞こえで、また逢ひ見ぬやうもこそあれ、とおもほすに、うつぶし伏して、え渡るまじと思ほしたるを」
――(姫君を)殿はたいそう可愛がっておられましたので、父君にお逢いせずにどうして別れられましょう。「では、お暇いたします」とも申し上げずに、再びお目にかかることが無いかも知れぬと思われて、うつ伏してしまわれて、とてもあちらへ移ることができまいと思っておられましたが――
北の方が、
「かく思したるなむ、いと心憂き」
――そんなにあちらへ行くのを嫌がっておいでになるなんて情けないこと――
と、なだめたり、すかしたりなさる。姫君は今にも父君が帰って来てくだされば良いのにとお待ちになっていますが、こう暮れてしまってからでは、どうしてお帰りになる筈があろうかと、姫君は、
「常に寄り居給ふ東面の柱を、人にゆづる心地し給ふもあはらえにて、姫君、檜皮色の紙のかさね、ただいささかに書きて、柱の乾われたるはざまに、笄(こうがい)の先きして、押入れ給ふ」
――いつも寄りかかっておいでになる東面(ひがしおもて)の柱を、他人に取られてしまうような心地がなさるのも悲しく、姫君は檜皮色(ひわだいろ)の色を重ねたのに、ほんの一筆書いて、それを柱のひび割れた隙間に笄(こうがい)の先で押し込まれたのでした。――
そのお書きになった歌は、
「今はとてやどかれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれをわするな」
――今日限りこの家を離れますが、馴れ親しんだ真木の柱よ、私を忘れないでください――
これも十分にはお書きになることも出来ず、泣いておいでになります。
◆笄(こうがい)=(髪掻きの転)男女ともに髪をかき上げるのに使った細長い箸状の道具
◆檜皮色(ひわだいろ)の色を重ねた=紫色のやや黄ばんだ黒色の紙の重ねに。
◆絵: 真木柱(髭黒の大将と北の方の姫君)
真木の柱に「歌」が挟まれています。 wakogennjiより
ではまた。
三十一帖【真木柱(まきばしら)の巻】 その(17)
そろそろ日も暮れかかって、雪でも降りそうな空模様に、お迎えの方々は北の方にお急かせなさいますが、北の方は涙を払いながら、思い沈んでいらっしゃいます。姫君は、
「殿いとかなしうし奉り給ふ習ひに、見奉らではいかでかあらむ、『今なむ』とも聞こえで、また逢ひ見ぬやうもこそあれ、とおもほすに、うつぶし伏して、え渡るまじと思ほしたるを」
――(姫君を)殿はたいそう可愛がっておられましたので、父君にお逢いせずにどうして別れられましょう。「では、お暇いたします」とも申し上げずに、再びお目にかかることが無いかも知れぬと思われて、うつ伏してしまわれて、とてもあちらへ移ることができまいと思っておられましたが――
北の方が、
「かく思したるなむ、いと心憂き」
――そんなにあちらへ行くのを嫌がっておいでになるなんて情けないこと――
と、なだめたり、すかしたりなさる。姫君は今にも父君が帰って来てくだされば良いのにとお待ちになっていますが、こう暮れてしまってからでは、どうしてお帰りになる筈があろうかと、姫君は、
「常に寄り居給ふ東面の柱を、人にゆづる心地し給ふもあはらえにて、姫君、檜皮色の紙のかさね、ただいささかに書きて、柱の乾われたるはざまに、笄(こうがい)の先きして、押入れ給ふ」
――いつも寄りかかっておいでになる東面(ひがしおもて)の柱を、他人に取られてしまうような心地がなさるのも悲しく、姫君は檜皮色(ひわだいろ)の色を重ねたのに、ほんの一筆書いて、それを柱のひび割れた隙間に笄(こうがい)の先で押し込まれたのでした。――
そのお書きになった歌は、
「今はとてやどかれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれをわするな」
――今日限りこの家を離れますが、馴れ親しんだ真木の柱よ、私を忘れないでください――
これも十分にはお書きになることも出来ず、泣いておいでになります。
◆笄(こうがい)=(髪掻きの転)男女ともに髪をかき上げるのに使った細長い箸状の道具
◆檜皮色(ひわだいろ)の色を重ねた=紫色のやや黄ばんだ黒色の紙の重ねに。
◆絵: 真木柱(髭黒の大将と北の方の姫君)
真木の柱に「歌」が挟まれています。 wakogennjiより
ではまた。