2010.4/22 712回
四十三帖 【紅梅(こうばい)の巻】 その(6)
大納言はさらに熱心に、「あなたの琵琶の音色をときどき伺いますが、どうか今お弾きになりませんか。西の対の人(中の君)にもどうぞ気を入れて琵琶を教えてあげてください」とおっしゃいながら、昔を思い出されて、
「故六条の院の御伝へにて、右の大臣なむ、この頃世に残り給へる。源中納言、兵部卿の宮、何事にも昔の人におとるまじう、(……)いで遊ばさむや。御琴まゐれ」
――亡き六条の院(源氏)の御伝授で、今の世に残っておいでの琵琶の名手は右大臣(夕霧)です。薫の君、匂宮も何事につけても人に劣るまいと思われ、(才能に恵まれて熱心に励んでいらっしゃいますが、撥(ばち)さばきの少しお弱いところが、夕霧には劣っておいでです。(あなたの琵琶の音は夕霧にそっくりですよ)さあ、お弾きになりませんか。だれか琵琶をお持ちしなさい――
若い上臈の女房は、大納言に顔を見られまいとして、奥の方に座ったまま動こうとしませんので、
「侍ふ人さへかくもてなすが、安からぬ」
――全く侍女さへこの通り言うことを聞かぬ振る舞いとは、怪しからぬ――
と、腹を立てていらっしゃる。そこに若君がおいでになったので、笛と合奏するように、宮の御方に責め立てますので、宮は迷惑なご様子ながら、指先で実によく調子を合わせて掻き鳴らしますと、大納言は武骨にも口笛で合せていらっしゃる。
丁度、この東の対のお庭先に紅梅が美しく匂っていますのを、匂宮へ差し上げようと一枝折らせて、大納言が
「あはれ、光源氏といはゆる、御盛りの大将などにおはせし頃、童にてかやうにてまじらひ馴れ聞こえしこそ、世と共に恋しう侍れ。この宮達を、世の人もいとことに思ひ聞こえ、げに人にめでられむと、なり給へる御有様なれど、端がはしにも覚え給はぬは、なほ類あらじと、思ひ聞こえし心のなしにやありけむ」
――ああ、昔、光源氏とおっしゃって栄誉ある大将であられた頃、私は殿上童(てんじょうわらわ)で、丁度、この大夫が匂宮に伺っているように、親しく源氏にお仕えしていたことが、歳をとるにしたがって懐かしい。匂宮達を、世間も特別に考えて、いかにも人に褒められたご様子なのは、やはり源氏ほどの人はあるまいと思い知ってる心のせいであろうか――
私でさえ、こんなに寂しいものを、親しくなさって今でも生きておられる方は、よくよく長命に生まれついた方であろうと、昔の源氏を思い出されて、しみじみと感慨に沈み込んでいらっしゃる。
◆琴(こと)=弦楽器の総称。筝の琴、琵琶の琴、などという。
◆上臈の女房(じょうろうの女房)=貴族や身分の高い家から上がった女房たちで、
自然、下端の仕事はしない。女房には、上臈、中臈、下という身分差があった。
最も低い者は「尿・便」を始末する。
ではまた。
四十三帖 【紅梅(こうばい)の巻】 その(6)
大納言はさらに熱心に、「あなたの琵琶の音色をときどき伺いますが、どうか今お弾きになりませんか。西の対の人(中の君)にもどうぞ気を入れて琵琶を教えてあげてください」とおっしゃいながら、昔を思い出されて、
「故六条の院の御伝へにて、右の大臣なむ、この頃世に残り給へる。源中納言、兵部卿の宮、何事にも昔の人におとるまじう、(……)いで遊ばさむや。御琴まゐれ」
――亡き六条の院(源氏)の御伝授で、今の世に残っておいでの琵琶の名手は右大臣(夕霧)です。薫の君、匂宮も何事につけても人に劣るまいと思われ、(才能に恵まれて熱心に励んでいらっしゃいますが、撥(ばち)さばきの少しお弱いところが、夕霧には劣っておいでです。(あなたの琵琶の音は夕霧にそっくりですよ)さあ、お弾きになりませんか。だれか琵琶をお持ちしなさい――
若い上臈の女房は、大納言に顔を見られまいとして、奥の方に座ったまま動こうとしませんので、
「侍ふ人さへかくもてなすが、安からぬ」
――全く侍女さへこの通り言うことを聞かぬ振る舞いとは、怪しからぬ――
と、腹を立てていらっしゃる。そこに若君がおいでになったので、笛と合奏するように、宮の御方に責め立てますので、宮は迷惑なご様子ながら、指先で実によく調子を合わせて掻き鳴らしますと、大納言は武骨にも口笛で合せていらっしゃる。
丁度、この東の対のお庭先に紅梅が美しく匂っていますのを、匂宮へ差し上げようと一枝折らせて、大納言が
「あはれ、光源氏といはゆる、御盛りの大将などにおはせし頃、童にてかやうにてまじらひ馴れ聞こえしこそ、世と共に恋しう侍れ。この宮達を、世の人もいとことに思ひ聞こえ、げに人にめでられむと、なり給へる御有様なれど、端がはしにも覚え給はぬは、なほ類あらじと、思ひ聞こえし心のなしにやありけむ」
――ああ、昔、光源氏とおっしゃって栄誉ある大将であられた頃、私は殿上童(てんじょうわらわ)で、丁度、この大夫が匂宮に伺っているように、親しく源氏にお仕えしていたことが、歳をとるにしたがって懐かしい。匂宮達を、世間も特別に考えて、いかにも人に褒められたご様子なのは、やはり源氏ほどの人はあるまいと思い知ってる心のせいであろうか――
私でさえ、こんなに寂しいものを、親しくなさって今でも生きておられる方は、よくよく長命に生まれついた方であろうと、昔の源氏を思い出されて、しみじみと感慨に沈み込んでいらっしゃる。
◆琴(こと)=弦楽器の総称。筝の琴、琵琶の琴、などという。
◆上臈の女房(じょうろうの女房)=貴族や身分の高い家から上がった女房たちで、
自然、下端の仕事はしない。女房には、上臈、中臈、下という身分差があった。
最も低い者は「尿・便」を始末する。
ではまた。