永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(427)

2009年06月26日 | Weblog
09.6/26   427回

三十四帖【若菜上(わかな上)の巻】 その(36)

 二十三日はご供養の精進落しの日に当たります。六条院は隙間もなく多くの方が住まわっていらっしゃるので、

「わが御わたくしの殿と思す二条の院にて、その御設けはせさせ給ふ。」
――(紫の上は)ご自分の私邸としておられます二条院で、お祝いのご用意をおさせになります――

 他の女の方々も進んで奉仕され、女房たちの局を取り払っては殿上人をはじめ、下人までのお席を立派にご用意させます。臨時に設えた放出(はなちで)を飾り立てられて、螺鈿(らでん)の倚子(いし)を立てます。

「御前に置き物の机二つ、唐の羅の裾濃の覆ひしたり。」
――源氏の御席には台を二つ置いて、舶来の薄絹の紫ぼかしの覆い布――

「挿頭の台は、沈の花足、黄金の鳥、銀の枝に居たる心ばへなど、淑景舎の御預りにて、明石の御方のせさせ給へる」
――かんざしの造花をのせる台は、沈香木の彫刻をした脚で、黄金の鳥が銀の枝に止まった具合など、これは明石の御方の分担で、明石の御方が作らせたすぐれたものです――

「南の廂に上達部、左右の大臣、式部卿の宮をはじめ奉りて、つぎつぎはまして参り給はぬはなし」
――南の廂には上達部、左右の大臣、式部卿の宮をはじめつぎつぎの御席をご用意して、こちらに参らぬ人はおりません――

◆写真:上達部たち  風俗博物館

ではまた。

 

源氏物語を読んできて(倚子)

2009年06月26日 | Weblog

倚子(いし)

写真は正式の儀式の時に、帝が腰掛けられる玉座。イスが「椅子」と書かれるようになったのは鎌倉時代以後のことで、平安時代には「倚子」と書かれ「イシ」と呼ばれていました。

 中国においては、唐の時代に四脚形式のイスが採用されるようになって以来、イスの文化は急速に発展し、すでに宋の時代の初期には、中国人の生活様式は、腰掛け式のイス座に改まっていたということです。

それに対し、日本におけるイスの文化は、ごく限られた層にしかみられませんでした。つまり、平安時代のイスは、儀式用として、天皇,皇后,親王および中納言以上に使用が限られ、ほぼ朝廷と内裏でのみ 用いられてきたのです。

◆写真:風俗博物館
 

源氏物語を読んできて(426)

2009年06月25日 | Weblog
 09.6/25   426回

三十四帖【若菜上(わかな上)の巻】 その(35)

乳母の中納言は、

「たのもしき御陰どもに、さまざまにおくれ聞こえ給ひて、心細げにおはしますめるを、かかる御ゆるし侍るめれば、ます事なくなむ思う給へられける。(……)」
――(宮様は)頼りとする方々に次々お別れになりまして、心細くいらっしゃいます時に、このようなご親切を頂きますと、この上ない仕合せに存じます。(ご出家遊ばしました朱雀院の思し召しも、ただもうあなた様が隔てなくお交じわりくださいまして、まだ幼いご様子を、ご教育くださいますようにとの事でございました)――

 このように申し上げます。紫の上は、

「いとかたじけなかりし御消息の後は、いかでとのみ思ひ侍れど、何事につけても、数ならぬ身なむ口惜しかりける」
――まことにもったいない朱雀院のお手紙をいただきまして後は、何とかお力になりたいと思っておりますが、何事につけましても、ものの数でないわが身が口惜しゅうございます――

 と、穏やかに大人びたご様子で、宮にもお気に入るようにと、絵や雛遊びがいまだに忘れられないなどと言うことを、若々しくお話になりますと、姫宮は、

「げにいと若く心よげなる人かなと、をさなき御心地にはうちとけ給へり」
――本当に源氏が言われたように、紫の上は若々しく良いご気性の方だと、少女らしいお心にうち解けてしまわれました――

 この後は、始終お文のやり取りをなさったり、睦まじくお話しなさったりしておりますが、世間ではとやかくお二人と源氏の間のことを詮索するようです。当のお二人が憎み合うこともなく親しみ合われますので、世間の噂もそれまでになっていくようです。

さて、

「十月に、対の上、院の御賀に、嵯峨野の御堂にて、薬師仏供養じ奉り給ふ」
――十月に紫の上は、源氏の四十の賀として、嵯峨野の御堂にて薬師仏の供養を催されました。―-

 儀式ばったことのお嫌いな源氏が、切に制止なさいましたので、あまり目立たぬようにとのことでしたが、それでも、

「仏、経箱、帙簀の整へ、真の極楽思ひやるる。最勝王経、金剛般若、壽命経など、いとゆたけき御祈りなり」
――御仏やお経を納める箱、経を巻き納める帙簀(じす)の整っていらっしゃるのは至って見事で、極楽もかくやと思われるばかりです。最勝王経、金剛般若、壽命経など盛大なご祈願でいらっしゃる――

 このご供養にも上達部がたいそう多く参集されました。

「御堂のさま面白く言はむ方なく、紅葉の陰分け行く野辺の程より始めて、見ものなるに、かたへはきほひ集まり給ふなるべし。(……)
――御堂の近くの風情は例えようもなく、紅葉の陰をわけて行く野辺のあたりからもう見ごろなので、半ばはこの景色に惹かれて競い集まられたものでしょうか。(一面に霜枯れた野原のあちこちに、馬や車の行きかう音がしきりに秋草をさやさやと響かせていります。六条院の女君方は、われもわれもと立派に御誦経(みずきょう)を営まれました。

◆最勝王経(さいしょうおうきょう)=金光明最勝王経
◆金剛般若(こんごうはんにゃ)=金剛般若波羅密多経
◆壽命経(ずみょうきょう)=一切如来金剛壽命陀羅尼経

◆写真:女三宮のお部屋と調度類  風俗博物館

ではまた。



源氏物語を読んできて(秋の嵯峨野)

2009年06月25日 | Weblog

 嵯峨野(さがの)は、京都府京都市右京区の地名。太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称で、単に「嵯峨(さが)」と呼称される事もある。

 古来、太秦を根拠としていた豪族の秦氏によって開発が進められたとされている。平安遷都後には、風光明媚なため、天皇や大宮人たちの絶好の遊猟、行楽地だった。嵯峨天皇が離宮嵯峨院を造営して居住し、その崩御後に外孫の恒寂入道親王(仁明天皇廃太子の恒貞親王)がこれを大覚寺として改めた。882年(元慶6年)に嵯峨野は「禁野」とされ、以後貴族・文人などによる山荘・寺院建立が相次ぐ事になる。

 藤原定家がこの地に小倉山荘を造営してここで小倉百人一首を撰んだと伝えられ、厭離庵はその跡とされている。また、奥嵯峨の化野(あだしの)は、東山の鳥辺野と並ぶ風葬の地であった。

◆写真:秋の嵯峨野  ぐるなびトラベル広場より。

源氏物語を読んできて(425)

2009年06月24日 | Weblog
 09.6/24   425回
 
三十四帖【若菜上(わかな上)の巻】 その(34)

源氏には紫の上のお計らいがうれしく、とにかくこの六条院の女方が穏やかに過ごしてくれればと思っていらっしゃる。紫の上は、女三宮とのご対面のご用意をあれこれなさりながら、お心の内では、

「われより上の人やはあるべき、身の程なるものはかなきさまを、見え置き奉りたるばかりこそあらめ」
――女の中で自分より上の人がいるのだろうか。そんなことがある筈がないと思うのに。自分はしっかりしない仕方で(略奪婚のような形・正式な婚儀も披露もしていない)引き取られたばかりに、このような情けない立場なのであろう――

 などと思い続けられて古歌なども心さびしいものばかり選んで書いていらっしゃる。手習いの歌

「身にちかく秋や来ぬらむ見るままに青葉の山もうつろひにけり」
――見ている内に秋(飽き)が来て、青葉の山も色が変わってきました。私の運命にも飽きられる時が来たのでしょう――

 こんな風にお書きになって耐えていらっしゃる紫の上をご覧になる源氏は、

「ことなく消ち給へるもあり難くあはれに思さる」
――(嫉妬をおもてに出さず)世に稀な殊勝な事とお感じになっていらっしゃる(二人の心の食い違い)――

「東宮の御方は、実の母君よりも、この御方をば睦まじきものに頼み聞こえ給へり。いとうつくしげにおとなびまさり給へるを、思ひ隔てず、かなしと見奉り給ふ。御物語など、いとなつかしく聞こえ交し給ひて、中の戸あけて、宮にも対面し給へり。」
――明石女御は、実の母君(明石の御方)よりも、紫の上を親しく信頼なさっていらっしゃいます。明石女御がたいそう愛らしく成人しておられるのを、紫の上はまことに可愛いとご覧になって、なつかしくお話しなさった後に、中の仕切り戸を開けて、女三宮にご対面になりました――

 女三宮はまだほんの童女のようにお見えになりますので、紫の上も気安くおもわれて、親のようなお気持ちで、昔の御血筋のことなどを辿ってお話になります。姫宮付きの中納言の乳母をお召しになって、

「同じかざしを尋ね聞ゆれば、かたじかなけれど、わかぬさまに聞こえさすれど、ついでなくて侍りつるを、(……)」
――同じ血筋を辿りますと、恐れながらひとつのようでございますが、お近づきの折もなく過しましたのに(今後はお親しく、私の所へもお出でくださいまして、私が御無沙汰しますような時、ご注意などくださいましたら嬉しゅうございます)――

 と、こちらにも、挨拶されます。

◆写真:女三宮と対面する紫の上  風俗博物館

ではまた。


源氏物語を読んできて(424)

2009年06月23日 | Weblog
 09.6/23   424回

三十四帖【若菜上(わかな上)の巻】 その(33)

 桐壷の御方(明石の姫君)の御懐妊に、

「まだいとあえかなる御程に、いとゆゆしくぞ、誰も誰もおぼすらむかし」
――まだごく痛々しいお年頃(十三歳)ですので、誰も皆ご心配なさるでしょう――

 内裏からやっとのことで、母君とご一緒に六条院へご退出されました。女三宮のいらっしゃる御殿の東面に、お部屋を準備なされてのことでした。
紫の上が女御(明石の姫君)のお部屋に伺うついでにと、源氏にお話になりますには、

「姫宮にも中の戸あけて聞こえむ。かねてよりもさやうに思ひしかど、ついでなきにはつつましきを、かかる折に聞こえ馴れなば、心安くなむあるべき」
――女三宮にも、隔ての戸を開けてご挨拶申し上げましょう。ついでがなくては、気が引けますので、このような機会にご対面申し上げることができれば、具合がよろしいと存じます――

 源氏はこのことをお聞きになって笑みを浮かべられ、「あなたは童女のようなお気持ちもあって、お遊び相手にも丁度お似合いですしね」と、早速、女三宮のお部屋にお渡りになって、

「夕つ方、かの対に侍る人の、淑景舎に対面せむとて出で立つそのついでに、近づき聞こえさせまほしげにものすめるを、ゆるしてかたら給へ。心などはいとよき人なり」
――この夕べ、対にいる人(紫の上)が、淑景舎(しげいさ=桐壷の別名で明石女御)にご挨拶に上がりますそのついでに、あなたにお近づき申したい様子ですので、心置きなくお話なさい。心ばえの良い人ですから。―-

 女三宮は「とても恥ずかしくて、なんとお話いたしましょう」と大らかにおっしゃいます。源氏は、

「人のいらへは、ことにしたがひてこそはおぼし出でめ。へだて置きてなもてなし給ひそ」
――お返事というものは、その場その場でお考え出されるものです。ご遠慮なさいますな――

 と、細やかにお教えになります。

ではまた。