信州スロウライフ12ヵ月

野菜や草花と暮らす生活

1月が終わる

2009年01月31日 14時21分28秒 | Weblog

金曜日は、割と軽く考えていた。
翌日は週末だから、こころは明るく仕事が終わったらすぐにでもすっ飛んで帰り
夜はのんびりテレビでも・・・と胸算用して家を出た。

午前中はらくらく時間が過ぎていいはずだったが、総務部長の健診だからと、課長からお願い、面倒見てとおおせつかる。
最近、健診後の事後指導は何故か人事のスタッフは私に指導が廻ってくる。
まだ勤務年数が浅いため客観的な存在でものが言え、不利益をこうむる存在ではないらしい。
などと思っているがいつの間にか人事の顧客は私が大半指導する役目に廻っており
課長もその辺をわかっており、初めからご指名を受けるようになった。
楽々であるはずが、そうは行かなかった。
自分の頭のCT撮影までこの時間帯に設定され、僅かな時間で画像撮影室のCTのベッドに横になった。
最近数年、CT写真を撮る機会に縁が無かった。先週犬の散歩で凍った道路で転倒し頭をモロニ打ったため、子供達に打ち明けたら強く、検査を受けるよう言われ続け、今後頭部CTを撮る機会等痴呆になった後からでは遅いか・・・・・と思い直し
院内で受診した。

ああ昨今のCTは本当に高性能で受診者の負担は全く発生しない。
ものの5分もかからず、もっと寝ていたいと思っていても、さあ終わりましたと、あっという間に起こされた。
飛び上がって現像した写真を手に入れ職場に戻り、あたふた仕事を片付けた。
午後は健診の事後指導で、気が付いたらグループミーテイングがとうに始まっており、記録を山のように残しと思ったら、クレーム電話の対応で汗をかく。

7時近くやっと解放され帰宅するが雨が降り始め、犬の散歩が出来ずに、気持ちが暗くなる。
夕ご飯も遅くなり、今日のCT写真の結果もべったり気持ちの奥に黒く貼り付き、雨は激しくなり雷まで付録が付いている。
朝、思い描いた金曜日の夜の解き放たれた時間は失っていた。
おまけに何故かこの1週間、突然BS放送が見れなくなり、毎晩世界各国の景色を見て楽しんでいたのにがっくり・・・。
電気屋さんは立て込んでいて(いつものことだが)1週間先にならねば修理に来てくれない。
時計を見ればもう11時ではないか。

1月は年始はシカゴの日々で始まり、それからの週末は外出続きで、月末を迎えた。
ということは忙しかったのだ。
雪で閉ざされながら、マイナスになった気温に気持ちも寒く、それでも自分を励ましながら暮してきた。
山々の雪景色に感動を受け、先週の松本清張のドラマに放心し、沢山振り返れば心のひだに焼きつく思い出を貰ったではないか。
こうして1月は過ぎてゆく。
傍では暇な犬がふて寝をしている。





通勤経路その2

2009年01月29日 23時03分21秒 | Weblog



昨日の朝早く職場に到着したく、渋滞に巻き込まれたくないので高速道路で行った。
雪は解けて、道路は乾き、周囲の景色もきれいで、自宅から諏訪南インターから乗り隣の諏訪インターで下りるまで僅か11分。
予定よりずっと早く到着したので今日も気分良く又高速を使って出勤した。
家を出た途端、空がきれいに晴れ上がり、いつもの通勤道路ではないので何だか浮き浮きしてくる。
左に八ヶ岳が聳えているが、東の端から丁度日が昇り始めピンク色に染まっている。
ズームラインを諏訪南インターまで一気に下っていくが、右側に遠く雪をかぶった北アルプスの全景が見える。
奥穂高、北穂高、槍ヶ岳が本当にきれいだ。
窓の前面は南アルプスが大きく迫り、いずれも雪で真っ白になのでどきどきするくらいきれいだ。
朝早いので走っている車は僅かであり、しかも松本方面に行く下りの車線の車は少ないので、いい気になりすぐに120㌔を越してしまう。
危ない、危ない、覆面パトカーに捕まったら元も子もない。
回りぐるりと見渡しても山に囲まれ、北アルプス、南アルプス、八ヶ岳、車山、霧が峰、美ヶ原と次ぎ次に山々の景色は変わり、すぐにも諏訪インターに到着する。
雪が降ると景色はことさら美しいが、道路が滑るので恐さが先立ち、景色を見る余裕が無いが、雪が無ければ事情は変わる。
朝早くから出勤前に気持ちが和む景色に、時々は通常と異なった通勤経路で走ってみるのはこのような環境に恵まれた地域に住んでいるから言える事であり、60才を過ぎてから車で通勤するようになり、脳の老化防止に神様が与えてくれた環境のようだと感謝する朝であった。

ようやく休みとなりにけり

2009年01月25日 19時49分46秒 | Weblog
 

昨年の11月あたりから、週末は外出の用事が続き、12月は東京へ、実家の法事へというまに年末になりシカゴへ出かけた。
年が明け家族と暮した日々もすぐに帰国となり、ムスメと共に原村へ帰ってきた。
そしてその週末続いて2週、上田へ出かけてきた。
その翌週は飛騨の下呂温泉で友人と共に過ごし、今週やっと一息つく週末になった。
外出が続くと出かけることが面倒と感じなくなり、すぐに週明けには仕事でお弁当を作り、車の通勤をし、終日人を相手をするため1週間が早く過ぎて行く。結果的には随分と忙しかったのだ。

昨年の今頃のブログを読み返してみた。
親を亡くし49日の法事へ出かけ、その後熱を出したり、凍った道路で転倒し頭を打ったり1月から2月は災難続きでもあった。
特に凍った道路で転倒し頭を強く打った時は一瞬気絶したから、その後が心配だった。




そして1年後凍った道路は充分気をつけながら歩き、靴も滑り止めが付いているのを履き、完全武装で犬の散歩をしている。
天気も良く道路も雪がきれいに解け、安心しながら犬の散歩をして久し振りに休日らしく家にいるなぁと思いながら、いきなりすってんころりんと転んでいた。
お尻をうち、頭も強く打ち、がつんと鈍い音がして、昨年と同じ頭の場所を打ち、
いよいよ今度は大丈夫かいなとやや心配しながら家に帰った。

2日続けて夕方近くの温泉に行き、ゆっくりお湯に入った。
今日、ふとお尻を見たら赤くあざになっていた。首は鞭打ち現象・・・首が廻らない。
この季節は体に災難がやって来る季節なのであろうか。
昨夜は一段と冷え込み、日本海側は雪で空の便が欠航が相次いだというが、今日の八ヶ岳は雪で真っ白。
犬の散歩は道路がきれいだからと甘く見ていたら、途中で足の短い犬達は泥団子になっていた。
家に戻ってシャワーで2匹を洗い、抵抗する奴らを叱り飛ばしながらドライヤーで乾かし、へとへとになり自分も温泉に直行した。
半日スカイプで上田のムスメやシカゴの息子達と話をしながら家の中で平和な時間が過ぎて行った。

疑惑

2009年01月24日 23時55分02秒 | Weblog
今夜、テレビ朝日で、松本清張生誕100年特別企画のサスペンスドラマを見た。
丁度同じ時間帯で、別番組でも刑事ものがあるが、番組紹介で田村正和が国選弁護人として登場するので、古畑任三郎とどう違うかと何気なく選んだ。
初めの15分は犬と一緒に炬燵で転寝をして、はっと気が付いてボーとした頭で見始めた。
タイトルは、疑惑である。
沢口靖子が悪役の殺人罪で死刑判決を受ける役で、これが又いつもの清清しい役柄ではなく憎憎しい罵詈雑言を周りに浴びせ鬼球磨子という名前でマスコミから記事を書かれ世間から一身に憎まれている。
2時間半のドラマは圧巻だった。
球磨子は富豪の夫を殺して8億円の保険金を手に入れる鬼妻として起訴され1審で死刑の判決を受けた。
それを国選弁護人として田村正和が引き受け、球磨子の背景を調べ上げ隠された事実から逆転勝訴となり、実はマスコミがでっち上げた記事とそれに踊らされた警察のコメント、証人達の曖昧な証言から球磨子が夫を殺したと仕立て上げた冤罪事件だ。
沢口靖子の汚れ役、田村正和の古畑任三郎と全く違った役柄と推理振りに引き込まれて2時間半があっと終わってしまった。
あまり好きではなかった田村正和の陰のある、気迫のある弁護士ぶりに、惹かれた。、
松本清張の作品は生誕100年というがいつまでたっても色あせず、結末は逆転し、主人公を犯罪を通して人間としてその性を暴いていく、どっしりとしたストーリーはずしんと心に響いた。見終わったあとも放心状態に近かった。

自分にも全く縁が無い人生を送って来たわけではない。
これまで生きてきた過去を振り返り、最も辛かった何十年があるが、そのひどかった毎日を、通勤の電車の中で松本清張の単行本を毎日読み、ほとんど読み尽くしていった。
小説に没頭し自分が毎日の現実から逃避できたからであり、多分その時はそのような自己分析は出来ていなかったが、結果的には、だから自分はつぶれず頭がおかしくならなかったんだと思えたのだ。松本清張の作品は偉大だった。

そういえば、松本清張を全部読み終えた頃にマジソン郡の橋の小説が大ベストセラーになったものだ。
今、国民が裁判官を勤めなければならない時代になり、自分にその役割が廻ってきたらどうしようと不安になるが、ドラマを見て死刑判決になり控訴して冤罪とわかり、マスコミ、警察の作りあげた判決の恐ろしさに再び不安になった。
田村正和扮する弁護士の頭の鋭さに、救われる。
弁護士さんは身近にずっと接してきたが、クライアントの人生を変える職業である。
沢山の案件を抱え、激務極まる職業で、丁度最近アメリカの小説で心神喪失という女性検察官の法廷小説を読んでいるが全く逆の立場で犯人を追い詰めていく立場からが描かれているのである。
15年位前の自分の過去の毎日を、今日のドラマによってスーッとその時に引き戻された。
別段その時を思い出しても、悲しくはならないがあの苦い日々があって、それを救ってくれた人があり今の自分がいれるのだと、感謝する気持ちはずっと墓場まで持ち続けなければなるまい。


重い雪

2009年01月22日 21時05分41秒 | Weblog
                 
                  

夜中に相当雪が積もっているらしく、ブルトーザーで雪をかく音がする。
朝起きると20センチ以上は積もっている。
これで何回目の雪だろう。既にこれまでに降った雪は、根雪になり解けずにそのままになっている。

大寒になった途端、気温は下がり続け雪が降る日も増えている。
今年は暖かいと思っていたのが甘かった。
今朝は道路が悪路で、渋滞は免れないので、諏訪南インターから高速を使って出勤する。
道路はきれいで早いし、景色も道路が滑って神経を使うことが無いので眺める余裕もある。
雪は恐いが、この季節の景色はとても美しいので四季それぞれ優越はつけられないのである。

これまでさらさらのパウダースノウであったのが、水気の多い重たい雪に変わってきた。
お陰で雪掻きは力が必要でよっこらしょっと掛け声をかけ、結果、腰が痛くなる。

木曽路への思い

2009年01月21日 22時18分00秒 | Weblog

18日、19日と岐阜県の下呂温泉に行ってきた。
その時の記事は書いたが、書きたかったが書けない思いがあった。

行きは茅野から塩尻まで行き、中央線に乗り換え木曽を通って多治見まで行く。
この路線に乗ったのは20代の独身時代であった。

38年ぶりに乗った列車だが、その車窓から見る景色に、自分の変化を見た。
塩尻を過ぎて雪が残る木曽路に差し掛かった。谷あいを列車は走る。
狭い線路の脇は山が接し、その山々にへばりつくように民家が散らばっている。
木曽杉は有名だが山が迫っていると鬱蒼として、暗い印象がある。
その狭い山の段々に立っている家々がトタン屋根であり壁もはがれたトタン板、壁土といかにも寒そうな造りでそのような似たような家々が続いている。
昔は基礎杉を材料とした民芸品や塗り物が盛んであったが今は生活様式も変化し
毎日の食事にはお椀くらいしか登場しない。
多分盛んであった街道も今は寂れて、収入も現金収入は厳しい状態であろうと推測する。
この不況下で益々産業も碌に無いこの地方では、きつい冬越しをせねばならないのであろう。
麻生さんよ、この寒村を見て廻らないか?
現実はひどいのだ。

木曽路から岐阜県に入り、多治見あたりに差し掛かると山々は遠くに去り、雪は消え暖かい陽ざしと緑の畑が見える。僅か数時間だがこれほどの変化があり、家々は裕福な造りになり瓦屋根となる。
あの貧しい寒村はまぶたの奥に残った。
岐阜県は暖かく、生活もゆるく胸が痛くなるような人々はいない。

木曽路の往復では自分が温泉に旅行すること自体、罪悪感を持たせられた。
若い時はこのような目を持って、木曽路を通ったことは無かった。
時代もあるが、自分自身の生きてきた辛い経験がこのような感じ方をさせてくれたのか。

日本の政治は地方によって貧富の差は大きく、これを是正していこうとする政治家はいるのか、いやいないな・・・・。
今夜は雪が静かに降り、もう既に20センチは積もっている。
明日の朝はどうなっているのであろう。出勤は大丈夫かなと心配になってきた。

下呂温泉

2009年01月19日 21時46分38秒 | Weblog

17日、9時過ぎいつもの如く犬達を動物病院へ預け、茅野の駅から中央線で塩尻経由で多治見へ出る。
全行程4回乗換えで高山線の下呂駅に到着する。

車中想像していた下呂温泉はひなびた温泉街と思っていたが、ところが巨大な高層ホテルが山々の斜面に立ち並び、相当な数の旅館街になっている。
到着後、夕食の時間まで町並みを散歩する。
この下呂温泉は江戸時代に儒学者の林羅山が草津、有馬温泉と並び、日本の3代名湯と紀行文に書いたそうで、知らなかった・・・・・。
温泉博物館や、温泉寺とか湧湯を引いた足湯が町のあちらこちらにある。
温泉寺は階段を170段上りきったところにあるが誰も行ってみようと言わないため階段の下から拝んで終わりにする。
足湯は若者が大半、足を突っ込んでおしゃべりしながら楽しんでいる。
雨が降っていなかったら、飛騨川沿いに遊歩道を散歩できるのだが、桜の咲く季節はもっときれいであろう。

夕食前に1度お風呂に入る。
露天風呂は、貸切状態で申し訳ないほど高級旅館で贅沢な入浴をさせてもらった。
源泉賭け流しの24時間いつでも入れる、単純アルカリ泉。
トロッとしたお湯で肌がつるつるになる。
温まりいつまでも湯冷めしない。やはり名湯といわれるのはそれなりに実感できる。



夕食は地元のお酒を飲みながら、次々と出てくる食事と一番美味しかったのは飛騨牛のしゃぶしゃぶ。
口の中で表現しがたい美味しさで、とろける柔らかい脂の乗ったお肉は地酒とマッチして酔っているところではない。
写真を撮りながらその取った写真がおかしくて笑い転げ、一緒の友人は笑いすぎてお腹を抱え泣き出してしまった。
私も涙と鼻水で顔はくしゃくしゃになり、あとでとった写真を見るのが恐ろしい。

笑ってしゃべって食べまくって夕食は大分時間を延長して終了した。
ぐしゃぐしゃの顔で再び大浴場へ直行し、長風呂を重ね、幸せにお布団に寝て足を伸ばした途端眠ってしまった。
今回は皆、お風呂に3度か4度入ったと言い、町の中を買い物に歩き回ることも無く、すぐに翌日の帰りの電車に乗る時間がやって来た。
短い時間であったが、食事と、温泉にたっぷり堪能し、下呂温泉はまさしく名湯だとの感想の元、奥飛騨をあとに木曽路を戻って、諏訪に帰ってきた。
友人達との久し振り、多分3年ぶりの旅行だったが、楽しく、明日から又元気が出て働けるのではないかなぁ。







明日は下呂温泉です

2009年01月17日 22時09分47秒 | Weblog
1月も半ばとなった。
今週の初めは月が満月で、大きな月が明け方まで煌々と明るく照らし、夜中に起きるとあれっもう朝かと間違うほどの明るさであった。
今週からは下弦の月となり、欠けはじめる。
来週は新月だから夜は闇夜となる。
田舎は街灯が無く、家も密集していないので、夜は真っ暗闇になる。
その代わり空を仰げば星空は星座が良く見えて、北斗七星を探し、その延長でオリオン座・・・などと寒くてもつい足をを止めて見とれてしまう。
昨年の11月から仕事に就いて、帰宅してから犬の散歩をするが、冬は暗いので
懐中電灯をつけてのことになる。
この原村ではこの時間はどこの家でも夕食の真っ最中であり、懐中電灯を つけて散歩する人間はあやしい変人になる。
仕方が無い・・・・犬孝行するにはこの程度はやってのけなければならない。

今年はカレンダーを月の暦を買った。1ヶ月での月の満ち欠けを見るがこれが又面白い。
見始めると色々想像し、この週はどのくらいかな?とあらかじめ読んでおける。
出始める一位置や高さも判るから月の大きさも明るさも判る。
都会に住んでいたときは夜はいつまでも空が明るいから、気にもかけないし、たまにああ今日は満月だわ。の程度で終わっていた。
ところが田舎住まいをすると、空が澄んで星座がきれいに見えて、お陰で知識も増えることになった。

明日は友人達と一緒に高山の奥にある下呂温泉に行く。
一泊2日だが、退職して久し振りの会合である。
多分雪が深く、新しい場所を知りうることになるが、最近温泉には慣れ親しみ過ぎているので、あとは行ってからどのようなドラマがおきるか・・・・お楽しみというところ。

凍りつく

2009年01月14日 22時17分51秒 | Weblog
昨夜から部屋の冷え方がただならぬ感じで、朝出かける前に車のエンジンを掛けようとドアのノブに触れたら手がぴたっとドアに張り付いた。
外気温がマイナス16度に一気に下がってしまった。
冷凍庫より寒い?

夕方仕事が終わり、帰宅途中の夜空で花火が上がるのが見えた。
寒い夜空では空気が澄んでいて、花火もとってもきれいだ。
近くの運動公園で、お正月の松飾や」だるま、などを大きな松明の元で焼くらしいそういえば途中の茅野の道路わきでは繭玉を持った人たちが沢山なるいていた。
地方に来ると季節ごとの風物史が見られるのは楽しいことである。
    

北国街道

2009年01月13日 20時15分44秒 | Weblog
タイトルはきたぐにとは呼ばない。
ほっこく街道と読む。
親戚や友人、知人がいるわけではない、全く縁のなかった上田市にこの地名がある。
今から10年以上も前に、更埴市の杏を見に行ったがその時上田に寄って上田城の桜を見た覚えがある。
先週に引き続き、ムスメの仕事のきっかけで上田に出向いた。
上田は諏訪とは中央部の山々をはさんで反対側にあり、山越えが必須である。
原村からはエコーラインを通り蓼科方面を白樺湖を過ぎて大門街道をひた走り。
約1時間半から2時間で上田に到着する。

真田家の城下町で格子造りの家々や神社仏閣が目立つ。古い建物と新しい建物が入り混じり、似たような小諸の町を思い出すが、全く違うといわれるかもしれない。

目指すは柳町商店街。
ここは北国街道沿いに昔は呉服屋さんが占めていたそうで、今街作りがされている。




格子造りの蕎麦屋、味噌屋、喫茶店、蔵を改造したレストラン、醸造元の物置を改造したフランス風の天然酵母のパン屋さん、300年の代々続いた酒造などが独特の建物の趣を偲ばせている。明治期の郵便局を改造したお食事どころもあり、建物だけを見ても価値がある。
近くには名取製餡所という和菓子屋さんもある。
こちらは10割蕎麦ようかんが有名で蕎麦の香りと程よい甘さで、珍しい竹で作った器に入っている。







ルブァンは東京のお店が上田にも出店した。天然酵母の歯ごたえのある田舎風の手作りパンで、食事として野菜スープと共に噛み締めて味わう。
パンはグラムで計ってもらうがしっかりとしかもずしりとした重さで明日の朝食に早速食べようと抱えて帰る。
味噌屋も酒屋もそれぞれ長い歴史と共に守られ続いてきたが、その伝統を維持していくのは大変な重さであろう。

もっともっと歩いてみて廻りたかったが、暗くなり町並みには灯が灯り山を越えた反対側の家に帰らなくてはならないので、又次回に廻すことにした。
もう少し離れた場所には海野宿もあり、やはり宿場町らしく格子造りの家々が立ち並ぶ。
2週間前にはシカゴも摩天楼を見渡し、110階の建物のなかにいた。
何ともその差の大きいこと。


帰国です

2009年01月10日 23時41分03秒 | Weblog
今回のシカゴへの旅行は、滞在期間も短いため息子夫婦が計画を立てていて、毎日良く出かけた。
明日は日本へ帰るという最後の日は予備日として市内のスーパーめぐりをした。
といっても到着したその日は時差ぼけにもかかわらず、近くだからと言って、息子夫婦は私と娘をイケアに案内してくれた。
昨日降った大雪も雨が降って解けて、駐車場は車で一杯、年末の店内は様々な人種で溢れていた。
カナダの時は夏であったから短パン、タンクトップの観光客で大半白人であった。
ところがイケアのお店では初めて見る超メタボがいたるところ、子供も大人も黒人も、白人もまずその太さに驚いた。
今まで仕事柄、特定健診と称してメタボ対策で体脂肪25%以上の人を減量させねばと指導していたが、このアメリカ人の体格と来たら・・・・長野のデブは可愛いもの。
その差は牛とねずみのような感覚だから、自分自身もすれ違う時は小さくて小学生のようなものだ。

話がそれたが、スーパーにも違いがあり、日本で言えば紀伊国屋のような高級スーパーや、日本人向けのミツワという店もあった。
日本食を買いにミツワに行ったが、一歩入ったら、そこは日本のスーパー以上に、品が溢れ、風に吹かれてジョニーの男前豆腐まであるではないか。

年末だからお供え餅や、おせち料理も山のように陳列されて、広い店内は日本国内から集められた品々が揃っているので、多分品数はこちらのほうが多いと思う。
納豆など、女性専用まであり、何で女性専用?と考えてしまった。
一見便利で買いたくなるが、ところがどっこい、落とし穴がある。
ドルを円に換算し、消費税を加えると、日本の価格の約、2倍くらいになる。
調子に乗って買っていると家計費は破綻するであろう。


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店内には、本屋の有隣堂もあり、日本と同じ書籍や雑誌が並んでいるがこれも日本価格の2倍くらいの値段になる。どうしてもこれが無ければやっていけないとか、
急いで手に入れたいとか、特別な理由があればの事でなければ高い本は買う気にはなれない。

3日目に郊外のアウトレットに連れて行ってもらったが、こちらは日本の御殿場のような規模の店が並んでいる。
一流ブランドの店は大混雑で、コーチのバッグ店は幾つもバッグを抱えたたくましい女性が並び、その列に入る勇気も無くそそくさと出てきた。
アメリカのブランドのバッグの店で、最初にきれいな色の赤いバッグが気に入り、帰りにまだその気が残っていたら買って帰ろうと一周して廻った。
そして帰りに疲れ果て、あまりにも大量の洋服や雑貨、バッグや靴などを見て廻ったら、何が欲しいのか判らなくなり、低血糖になり気分が悪いヨメとシュウトメは
アイスクリームを食べて気分を持ち直した。
そしてやっぱり、赤いバッグは買って帰ろうと決めたところ、さっとそのバッグを奪って息子が会計を済ませた。
母親へのプレゼントだと言い、嬉しいやら申し訳ないやら、あの幼かった息子が母親にプレゼントを買ってくれるくらい成長したと胸が詰まった。

毎日食卓は日本食で、お肉を食べにレストランに行こうというものは誰もおらず、一度だけ、折角来たのだからシカゴピザを食べようと、ピザ屋さんへ入った。
厚いピザの生地とトッピングがこんもりと乗り、4人で食べきれずに残して持ち帰る羽目になった。
毎日何件かのスーパーに案内してもらい、ツアーで来たら多分経験できないであろうスーパー巡りや、ショッピングモールでの買い物に大晦日には閉店まで歩き回り大満足した。

かくして12月27日にやって来てシカゴでの日々は時差ぼけもありながらどんどん過ぎて行き、年を越し1月1日の10時半過ぎ再びシカゴのオヘア空港の、今度は第5ターミナルから息子夫婦とムスメに見送られて日本へ帰ってきた。



半年前のバンクーバーでのムスメとの別れの時はその後ずっと機内で泣いていたが、今回は1ヵ月後に息子夫婦が1時帰国で帰ってくるのでやや気分は軽かった。

帰りは13時間の飛行時間であったが、斜め傍の席では幼児が泣きっぱなしであり、となりの座席ではゆうに150キロくらいある黒人夫婦が離陸と同時にキルトをかけて寝てしまい、そのいびきの音のすごさに眠るわけには行かず、ついに機内での映画を5本も見てしまった。
行きは竹中直人で気分が悪くなったが帰りは、話題の送り人、ハッピーフライト、最後の初恋、コットンクラブ、イーグルアイと立て続けに見た。

納棺師の映画では、送ったばかりの母親を思い出し、ハッピーフライトでは飛行機を飛ばせるための空港で働く沢山の職業人が内容で、ディスパッチャーという息子の仕事がどのようなものか、この映画でよくわかった。

24年も前に見たコットンクラブはリチャード ギアが何と若くてハンサムだったか、それが最後の初恋では、競演のダイアンレインと共に素敵な中年になり24年という歳月のなかで美しい年の取り方を見せてくれた。

いずれも胸の中に落ちる映画を見て今回の旅行は最初から最後まで意味深いものになり、短期間であったにもかかわらず、その日その日を充分満足し楽しみ、学習し大切な思い出に変わって行ったなと成田に到着した時に感じていた。
あまり好きでないと、偏見を持っていたアメリカ、は広かった。
息子夫婦よ、本当にお世話になりました。

シカゴ美術館

2009年01月07日 20時49分41秒 | Weblog


シカゴ滞在3日目は息子が勤務なので、ヨメとムスメと一緒にかの有名なシカゴ美術館へ出かける。
高架鉄道、地下鉄、バスでダウンタウンの交通はまかなわれるが、トランジットの1日券を買い、エルと呼ばれる高架鉄道とループと呼んでいるダウンタウンの中心部の地下鉄で便利なものだ。エルと地下鉄の二つをまとめてトランジットというが路線は8つありレッドブルーグリーンなど色別に判りやすく分けられており、乗り換えも判りやすい。
といっても英語が話せない私は、保護者同伴でなくては1人では行動出来ないから
もっぱらくっついて回り楽しむことにした。
シカゴの町は摩天楼で有名で全米でも最も高いビルの4つのビルのうち3つがシカゴにある。
しかも全米一高いのがシアーズタワービルと言い110階の高さで昨夜、バレエを見た帰りに立ち寄ったが展望台に到着するまで1時間以上かかった。
夜景の美しさは下手な言葉には表わせず、110階の高さから見下ろす下界の景色はすごい量の光の洪水であった。
どこを見ても摩天楼のビル群で、その下から見上げると、ああこれがアメリカだと実感が出てくる。

シカゴ美術館はメトロポリタン美術館とボストン美術館と並ぶアメリカ3代美術館の一つで1日歩いてもへたばらないよう靴も考えて準備万端で備えた。何といっても30万点以上の美術品があると言い、1日がかりで見て歩く覚悟で、建物別にジャンル別に絵画は展示されている。
人気者のカイユポットのパリ、雨の日、スーラーのグランド、ジャッド島の日曜の午後は美術館の一番の人気で絶えず人が群がっている。
門外不出というからこれを見れたのは幸運としかいえない。
ヨメはモネの睡蓮が好きで暫くその前にたたずんでいた。
モネは連作がかなりあり、睡蓮の絵だけでも場所と時間を替えて描き、何点も作品が見られるのだから贅沢なものである。
ゴッホの自画像もあり、印象派の時代の絵画がどこまでも続いている。



今回はシカゴへは短い日にちでの滞在になるが、この美術館の絵を見るだけでも充分その価値はあると思う。
いったん、レストランで昼食を頂き、又再開する。建物を探して歩き回るが、広いのでグルグル同じ場所を行ったり来たり、極めつけの笑い話は東洋美術の場を6
回も通過してしまったことである。
私達一体何しているんだろうと言いながら苦笑いだ。
夕方になりくたびれた3人は又同じルートで、ループとメトラに乗り最寄り駅のローズモントの駅に戻って来た。
予定の時間を悠にオーバーして帰宅したが、朝、早番で勤務した息子は疲れ果てて
返事も出来ないくらいよく眠っていた。
多分、オンナの外出は長すぎるとでも思っているのかもしれない。
まあ、母は命の洗濯をさせてもらったのだから、親孝行と考えて勘弁してもらおう。


シカゴ市内見物

2009年01月06日 22時20分03秒 | Weblog
シカゴ到着第一日目は、荷物を開いてお茶にして・・・・などしているうちに時間はあれよあれよと過ぎ去り、翌日の計画などを話して日本食満載の夕食になった。
先に到着して、弟夫婦とニューヨークに行き遊びまわって帰ってきた娘はその足で今度はカナダの元勤務場所のモントリオールまで出かけ、パワフルな行動をしている。
つい先日までマイナス20度まで下がり雪も降りといったシカゴであるが私が到着した翌日は15度のぽかぽか気温になった。
晴れ女の私は海外まで行ってもご利益があり、雪も解けたので市内見学へ繰り出した。
住んでいるシャンバーグはシカゴの郊外にあり、車でダウンタウンまで出かけるにも遠いので、途中のメトラの駅まで行きそこから地下鉄に乗った。
巨大都市は中心部まで行くにもハイウエイに乗り、グルグルインターから日本の
けちな首都高など問題ではなく広い車線を猛スピードで飛ばしていく。
こ、こわい~。
最寄り駅のローズモントからメトラに乗り中心街のジャクソン駅で降りミシガン湖へ向かう。
ミシガン湖は5大湖の一つだが近づいていくにつれ、まるで海のような大きさで湖には見えない。
季節が季節で、観光客はこのような寒い場所は歩いてはおらず風に吹かれながらぶるぶる震え退散した。傍の広い芝生にはリスや雁が餌をついばんでいる。
傍の摩天楼の高層ビルの一角にオバマさんが勝利宣言したビルがあるが、あまりにも広すぎて林立したビルを眺めていたら首が痛くなった。




軽食を取り、バレエを観に会場へ向かうがのんびりし過ぎ、間に合わなくなりついに走り出した。
ひーひーはあはぁいいながら、席に着いたが、後ろの席はメタボの子供達がずらりと席を占めている。
後で気が付いたがこの子供達はずうーと袋菓子を抱えバレエが始まっても食べている。
太るはずだわぃ。
幕間に席を立つ時に後ろの子供達を観察したが、親も子供も良く太っている。
通常、多分ヨーロッパではこのような鑑賞の公共の席では食べ物など食べるなど
もっての他なのに、、メタボのアメリカは人は人、自分のことだけ考えれば良いらしく、巨大な体格の人々が所狭しといたるところにおられる。
クリスマスシーズンは、季節がらバレエを見るのが恒例らしく、息子夫婦が探し回り我々にくるみ割り人形の公演を用意してくれた。
古い立派な会場で、美しい衣装のくるみ割り人形のバレエは海外に来た翌日の時間を過ごすにはぴったりで、次々変わる場面にうっとりした。
返す返す残念なのは、後部座席のメタボ4きょうだいのお菓子袋のがさがさ音で、そんなに食べてばかりいるから太るのよと、頭をはたいてやりたいねと隣の娘と話したものだ。
何件かスーパーマーケットにも行き、巨大都市のごく一部を垣間見ることが出来た。
地下鉄も、ウインドウショッピングも傍にがっちり子供達が付いているので安心して歩き、軽い心で楽しむことが出来た。
時差のため時々、眠気に襲われるが、元気一杯に2日目を過ごし、再び地下鉄でローズモントの駅に戻りハイウエイに乗りシャンバーグの家に帰ってきた。



年末年始の旅

2009年01月05日 22時16分09秒 | Weblog
紅白歌合戦、行く年来る年、除夜の鐘、おせち料理、しめ飾り、お餅といったものと一切縁がなかった年末年始を過ぎ、今日から仕事始めに突入した。

旅行をしたため、その記事をこれから少し書き残しておこうと思う。

12月26日、午前中、犬達を動物病院へ9日間のお泊りをお願いし
そのまま茅野からあずさに乗り、青山に住む姪夫婦の家に向かった。
スケジュールは緩やかで都会をゆっくり歩けると思いきや、人の多さにぶつかりながら、長野県には無い銀行での事務作業にたっぷり時間を取られ終了した時にはもう夕闇になっていた。

姪の子供は志賀高原のスキー場へ向かい、私とはすれ違い。
残った大人たちで夕食の食卓となった。
全日本のフイギュアスケートを見ながら3人ともにわか評論家になり勝手なことを言いつつ大笑いをした。
明日の朝は早い。
11時のフライトに向けて混み合う成田に到着は3時間前はみたいので、青山を6時50分に出発し、渋谷からエキスプレスで一人旅が始まった。
丁度6ヶ月前のカナダ行きのときも同じような感じだったが、あの時はバンクーバーへ向かい、一人旅は初めてで、不安の塊になりそれは大変だった。
1度経験すると何とか度胸もつき、今回は3時間の余裕を持っても、以外や丁度良く時間は流れ、予定通り搭乗し間もなく離陸した。

12時間の飛行時間、到着は27日の朝8時。
シカゴのオヘア空港はターミナルが5つもあり、第5ターミナルに到着する。
成田空港は滑走路が2本だがオヘアは5本もある、というのでいかに巨大空港かが判るが恐ろしく不安だ。
無事入国審査をパスして、家族が待つ待合場所まで到達できるか?

前回のバンクーバーの入国審査では何故か引き止められまるで通じない早口英語で攻め立てられ泣きたくなり1時間以上かかって娘と再会できた思い出があるので、今回はそれだけは勘弁してくださいという思いで一杯だった。

12時間のフライトは長いようで、やっぱり長い・・・。
胃がもたれむっつりしながら出てくる機内食にうんざりしながら、ビデオの映画を見るのに専念した。
幻の邪馬台国を観た。吉永小百合は美しいの一言に尽きる。
しかし主人公の竹中直人のキャラの濃さに胸焼けが強くなり、へとへとになり空港に着いた。
観なければ良かった・・・・。

山場の入国審査では気持ちの悪さプラスどきどきしていたところ、あらら、傍に息子が立っていたではないか。
最近あまり見たことも無いスーツ姿で立っていた。
息子も照れていた。
ああこれで百人力。
機内は息子の勤めている会社と違った航空会社にお世話になり、文句たらたら言いながらも
すんなり審査が終わり家族の待つ場所へ早足で向かった。
ああムスメよ、ヨメよ待たせたわね~。
1週間、まるごとお世話になります。よろしくねぇ。


以下明日へ続く……。