信州スロウライフ12ヵ月

野菜や草花と暮らす生活

生活のお手本

2016年02月21日 12時37分54秒 | Weblog





先日、何気なく新聞の番組欄を見ていたら、NHKのEテレの料理番組欄でつばたさんのキッチンガーデンという
文字が目に入った。
何だかドキドキした。
あのご夫婦に何か起きたのかしら、まさかでしょう~と予感がする。
ビデオに撮り、夜ゆっくり30分番組を見て愕然とした。

やはりご夫婦のほうのご主人が昨年6月に亡くなりひでこさんが春日井市の自宅で一人暮らしをしている
生活が描かれた。
ご主人は90歳、奥さんは88歳になっていた。

中央林間にくらしていた頃、数回クロワッサンの雑誌などに紹介されていたご夫婦で
自給自足で手作りの料理などが記憶に残った。
原村に引っ越し自分でも畑を作り、本屋さんでつばたさんの単行本を手に取ったが
結構忙しい毎日で文章の中身は通り過ぎていた。

伊那に引っ越し、自分の土地を手に入れたらとても身近になった。
憧れというか、お手本にしたいご夫婦の生活で、ご夫婦の共著の本を2冊取り寄せた。

60年間の結婚生活で、自宅でキッチンガーデンを作り、それぞれの役割分担で野菜を200坪に
100種類作り88歳と86歳までの生活が詳しく紹介され以来畑作りに参考にし始めたところだ。
特にご主人は4年前に亡くなった友人のご主人にそっくりで、生活ぶりも似たところがあり
親しく感じていた。

ひでこさんはキッチンガーデンで昨年6月なくなったご主人のしゅういちさんを想い悲嘆に暮れているかと
思ったが、淡々と一緒に暮らしているかの如くきちんとした生活を送っている。

2冊の本をもう一度読み直し始め、自分の今の境遇に考え方や生活の中身は
参考に取り入れたいものばかりだと気が付く。

ひでこさん、88歳だがまだまだ元気で長生きしてと毎日手を合わさずにはいられない。
と、同時に自分は20歳も年下で先を考えると弱気な日々になりがちだが、ひでこさんが毎日楽しく
と夫に教えられた通り生きているというのを真似しなければと思う。

寝る前に数分、ベットの中で佐藤愛子の本を読み、あははと思いきり笑い、生活の中身は津端英子さんの
生活ぶりを参考に、色々目標があっていいなあと。






あしたも、こはるびより より 主婦と生活社


ときをためる暮らし  自然食通信社より

予測もつかず、反省もできず。

2016年02月13日 23時01分47秒 | Weblog
マイナス10度以下の気温が続き、2月に入った最初の夕方オッと、これはおかしいと思いながら
そろそろ寝ようかと、それから体の異変が起きた。
思い起こせばマゴが朝突然吐いた話を聞き、ここ数か月続くウイルス性胃腸炎がまたぶり返したのだが
その両親も何だか食欲無く気持ち悪いのが続いているという。

自分も実は感化されやすい気分屋で、そうね、私も・・・・・と思ってしまった。
まさか気のせいか、と忘れようと思いたいがその晩、嘔吐を繰り返し、お腹も壊し、ろくに眠れず
朝までへとへとになった。

もう一生、水も食べ物もいらないと思ったほど、げっそりして、思い余って胃腸病院に受診した。
ノロロタか、食中毒かと案じたが、ウイルス性の胃腸障害でお孫さんのが移ったのでしょうと薬を処方された。

その2日前頃日中いきなり腰痛が現れ、それらしき重労働の覚えもなく、ストレスでもないし
通常腰痛など縁がなく、それが立ち上がるにはよっこらしょっとテーブルに掴まり、
いてててと、歩くにはまるで腰が曲がった婆さまだ。
翌日は姿を消したので、あれは何であったのか、一日で終わってラッキイと思っていた。

吐き気止めで、やっと持ち直し翌週の1週間後また急に腰痛が来た。
あの時と同じくまたばあ様だ。
まさか、ヘルニアでも起こすのかと心配になる。
だが翌日から38度の熱が2日続いた。
何が辛いといえば体中針の筵に寝かされたの如く痛くてたまらないし、頭痛と寒気だ。
やる気が全く出ないではないか。

お腹のウイルスが今度は風邪になってぶり返しかと、今度は耳鼻科受診した。
評判が良い耳鼻科は3時間待ちだったが、インフルエンザの検査を行い、セーフだった。
胃腸障害で免疫が無くなり続いて呼吸器がやられたのでしょうと、
優しく慰められて薬をごっそり処方され帰宅した。

あの腰痛は体の異常反応の前触れだったのだ。
だめだ。
ああ我ながら病気の予測もできず、ウイルスにやられっぱなしで今期は3敗目だ。
昨年の夏から秋は風邪を引かぬような生活を送ったはずなのに、秋から我らしくなく
高熱を出すようになった。
じわじわと免疫力が落ち、若いつもりだったがもうダメだ。
反省も弱った脳みそではもう及びもつかない。。







家中の植物類だけは元気で、今年も 断崖の女王 が咲き始めた。
昨年よりいくらか遅いがそれぞれ2つの芋の塊から2本の茎を伸ばし蕾を増やしている。
どちらが親で子供かわからなくなったが、買った当時はアボガドの種くらいの大きさの
芋が3倍に大きくなりしかも分家した。
愛い奴とかわいがって女王様らしく丁重にお世話をして日当たりの良い一番良い場所に置いたところ
1月中旬頃から新しい芽を伸ばし花を咲かせ始めた。

我が家の暖かい場所に慣れ、断崖で野性的に育つ雰囲気は消え失せたが、季節になると忘れず
かわいい花を次々と咲かせて、今年は病気で気力が失せた我が身には慰めだ。

多肉植物もへんてこりんな姿で妙にかわいらしい。





最後まで残るもの

2016年02月07日 13時44分25秒 | Weblog
BSプレミアムで100年インタビューという番組で脚本家の倉本聰をCMなしでぶっ続け1時間半見続けた。





代表作の北の国からは、自分が子育て時代に夜楽しみに観たもので、唯一ビデオに撮り手放さないでいる宝物だ。
1981年、バブルに向かう時代、子供達は4歳と3歳だった。
東京の世田谷での生活は目的は夫も姑も裕福になること最優先で、時代もそうであった。
孤独な田舎育ちの自分は馴染めない部分を多分テレビドラマに見出したのだと思う。

21年間続いた北の国からのドラマに、子供達も純と蛍と同じような年代に重なり成長した。
福島の田舎から上京し、専門職になるための訓練を受け、ある意味良いお嫁さんと姑に受け入れられるには
出来ないことが多すぎた。

求められることが多すぎて、何が正しいのか判断もできず子育てして行く中、
北の国からのドラマは長いこと自分を成長させてくれた人生勉強だと学んできた。

なぜ富良野なのか?
倉本聰が中学生の時演劇に取り込まれ、映画や文学、舞台装置などから基本を学び
やがてNHKの大河ドラマの脚本を書く。
勝海舟だが渡哲也が病で降板し、その後NHKとトラブルが起き脚本を降板し北海道へ逃げた。

北海道で薄の住民に助けられ、北島三郎の付き人をし人生の裏側を始めて知りこれまでの上から目線で書いてきた
脚本に気が付き富良野に移住する。
多分その経験が脚本を替えたのだろう。
経済の繁栄だけを目指して進む日本に抵抗して書かれた北の国だが、そのドラマに育てられた
自分がいる。
富良野のドラマの撮影現場が残してあるが、2度訪ねていった。

脚本家人生60年、人の人生を操る操り師のようなもので、秘かな一寸邪悪な喜びもあるという。
富良野に住み富良野塾、そして富良野演劇工房を開設し演劇を通じ役者と脚本家を育てたが
話す言葉一つ一つ怖さを感じインタビューアーは真剣勝負だ。

今、おいしい食べ物には興味がなく、疎開先で食べたご飯とフキノトウが入ったみそ汁が今でも
人生の中で一番おいしいと思っているという。

確かに60歳を過ぎやがて70歳も近くなりおいしい食事は恵まれて来たが、
自分の頭の中に潜んでいる食べ物は貧しい小学生時代に母が作った柏餅や
ビーフンだ。(両親は台湾からの引き上げ者)

福島から横浜、東京、神奈川、そして信州へ移住し、自分の気持ちの居場所が見つからないまま年老いて来た。
伊那かな?と思うことにしたが、いやいや、やはり自分の死ぬまで大事にしているのは貧乏だが
家族がまとまっていたあの小中学生時代だろうと思える。

100年後へのメッセージに対しての問に
倉本聰は今のこの時代にした自分たちの年代を御免なさいとしか言えないという。
自分たちの責任だと。

100年後を変えるには今の方向性から生きる哲学を変えないといけない。
繁栄におぼれ、イルミネーションに吸い寄せられること、
政変があるとすっ飛んでいくこと、おいしい食い物
を求めることなどで団塊の世代で世の中超スピードで生きてきた自分たちも同じだろう。

まっすぐな言葉で今の世のに辛口で示唆をし続けた1時間半の倉本聰の人生のインタビューは
ずっしりと久しぶりに心の奥に沈み、蓋をした。