信州スロウライフ12ヵ月

野菜や草花と暮らす生活

大激震

2016年03月25日 12時45分36秒 | Weblog
信州の寒い冬に耐え、ようやく2月が終わりいよいよ3月になる。
と思うと、気持ちが明るくなる。
しかし自分の明日起きる出来事は一ミリもわからないというのに3月初めに襲われた。
ようやく亡くなった愛犬ロゼのために流す涙も抑えることが出来た頃、春の彼岸に入った。

ロゼはまだ49日にもならないのにこちらの岸に強制的に戻されて帰って来たねと言いながら
両親や亡くなった沢山の動物とともにお帰りなさいとお参りする。

17日の彼岸の入りにもう一匹の12歳のダックスの弟分のみるきいが朝から食事もせず、
日中マゴの子育て支援センターから戻ったら昨夜の食事を吐いていた。
これまで何度かよくあることだが、胸騒ぎがしたのと先日のロゼの亡くなるとき早く運べばよかったとの後悔
から夕方動物病院に受診した。
センセイは診察と腹部エコー検査からお腹に5センチくらいのしこりがあると入院になり
3日目には針生検することになった。
もうその頃から気持ちが真っ暗になった。

土曜日に電話があり、血液検査の結果でカルシウム値が異常に高く血液凝固の数値が低く針を刺すことが出来ず
それ以上は大学病院で精査を受けるべく紹介になった。
折から3連休であり、休日明けに大学からの返事待ちとなった。

そして21日の休み明けに明日行けますか?と動物病院から連絡が入り、夢中で行きますっと返事をした。
東京よりは少し近いからと岐阜大学付属動物病院へ朝の9時から10時までに到着するような段取りが出来た。
東京は何とか行けるかと思うが、岐阜も遠い・・・・・。
おととしの9月、亡くなったロゼが椎間板ヘルニアになり、練馬までMRIを撮りに火事場の馬鹿力で運転していったが
今回は何といっても朝が早いので渋滞は避けたい。

中央道は西は飯田より向こうは運転したことがなく、岐阜・・・・と聞いても全くイメージがわかない
がやるっきゃない。
地図を見てもイメージがわかずナビに頼るのみ。
時間に間に合うか、地理感もなくひたすら走るが、途中一宮に出口で出口方向を間違え同乗した娘と代わった。
急いていると頭が混乱し戻らない。。

20分遅れだが大学病院へ着き、人間の病院以上に整然と清潔で美しい動物病院で担当の先生から丁寧な
問診を受け、検査が始まった。血液検査やCT検査を終え、3時過ぎには結果の説明を受ける。
いずれも検査については丁寧にわかりやすく説明があり、きれいなCT画像で腫瘍の場所やリンパの腫脹の存在を
知り、最後にでは原発のがんがどこにあるかまで針を刺して発見してくださりようやく納得した。
肛門嚢という場所に発生した小さな小さながんが腹部に転移し5センチに育ち、それからリンパに飛んでいったという。

珍しいケースで、肛門嚢に出来たのを発見して下さったこと自体が奇跡だ。
毎日一緒に暮らしていても体の中に出来たがんなど発見することなど飼い主であっても不可能で
多分末期になって異常な症状で動物病院へ駆け込んだことであろう。

診断の結果は最悪だったが、トライしてくださったセンセイの気配りや丁寧な話、納得できる今後の治療法など
に頭が何度でも下がる。
これは岐阜大学動物病院の姿勢なのであろう。

ニンゲンの病院の方が医師についてはもっと問題を抱えることが多いかもしれない。
米つきバッタのように頭を何度もムスメと下げて帰路着いた。
行きと帰りは気持ちは大違いだが、これだけキチンと診断を受けられた、ということに安堵し
今後みるきいの余生を少しでも伸ばさねばと、出来ることはやろうと家族でその後決心した。

今日、一昨日の結果が出て担当のセンセイから電話があり取った細胞はいずれもがんだった。
岐阜は車に弱い犬が
毎週の放射線治療の通院は不可能で服薬の抗がん剤の治療を依頼した。
センセイには電話していても頭を下げてしまうようなお話ぶりで、忙しいはずなのにまことに恐縮だ。


岐阜大学というと知りえない知識だったが、動物病院は外科4人、内科6人神経科4人、
そして何と腫瘍科には10人の医師が毎日診療をする。

人間と同じく動物もそれだけ腫瘍が多いということで、大学病院だがもっと町場の動物病院では抱えている
患蓄は多いはずでまたがんになっていることすら知らない飼い主もそれ以上に多いかもしれない。
隣で待っている若いご夫婦はコーギー犬が脳腫瘍で京都から通院し放射線治療を受けていると
涙目で話した。
動物を飼うということは只かわいいだけで飼ってしまうと、その後に味わう辛いことは普通考えないから
責任を負うということを深く全身で受け止めねばならないのである。

2月が終わって明るい3月かと思ったが、犬が亡くなり、余命が少なくなったことを知った犬が目の前にいて
そして同じく同じくお彼岸中に新しい冷蔵庫が故障し、修理に3週間以上かかると言われ今や自分は
サバイバル中である。



帰宅後ほっとしていびきをかいているみるきい





知らぬが仏の猛反省

2016年03月13日 14時27分19秒 | Weblog
雪が解け、庭の土が露出し始めたこの3月。
庭へ続くデッキの土が何やら紫色を帯びている。
近くへ行ってよくよく目を凝らしてみると、ぞっとするほどの恐ろしいものを見つけた。

びっしりと、小砂利の間に芽が出ており、それは昨年の秋まで誉め続けたほうき草の芽だった。
1昨年は3本買い求め、昨年は姿がかわいらしい、秋になったら紅葉が美しいと
近所、隣に褒められおよそ100本にまで春先丹念に新芽を淘汰した。
おまけに料理研究家の有元葉子さんの出版した本に掲載されていたため、呑気に憧れてしまった。

いやいや今年の3年目のほうき草の異常な増え方にのけぞった。
知識のないということはこのような結果に及ぶ。

おまけに秋のほうき草は幹が頑丈で引っこ抜けずそのままにし、いよいよとなりのこぎりで切った。
その切った根元から数億万本できかないであろう、芽が地表を埋め尽くしている。
気が付いた時から摘み取っているが、到底追い付かず、どんどん芽は寒さにも季節外れの雪にもめげず
伸びている。

この地域の農家が庭や畑にほうき草を栽培していない理由がこれでわかった。
秋にはほうき草で作ったほうきを欲しい人と言ったら20本ほどすぐにもらわれていった。

繁殖力旺盛なかもみーるやマーガレットなどぐんぐん増えているがまだ可愛いものだ。
これからは野菜や草花を植え付ける準備より、ほうき草の退治が優先課題だ。
手で抜いている流暢な時間はない。
やるかやられるか、亡くなったロゼのお墓の傍で、除草にうつむく時間が大半となった。

知らぬとはいえ、大変なことになった。
もう2度とほうき草は作らないぞ。


僅か1センチほど摘み取ったのがこの数。家の周りは除草剤しか退治できないであろう



犬への詫び状

2016年03月09日 10時36分58秒 | Weblog



平成3年、生後2か月目のいたずらっ子

やっと思考状態が普段の状態に戻ってきたが、まだまだ脳がスポンジになったような
腑抜け状態だ。

先週の4日、突然飼い犬の2匹のうち13歳の誕生日目前のロゼが亡くなった。

2013年10月末原村から伊那に移住し、2年4か月経ったが2014年の9月から椎間板ヘルニアの手術、再発
翌年7月悪性黒色腫の手術2回と歯周病で膿瘍切除と8本の抜歯、8月から半年の抗がん剤の投与と
相次ぎ人間だったら耐えられない
痛い治療の繰り返しで年が明け黒色腫の再発は免れ、今年の7月のレントゲンで解放されるはずだった。

家族も自分も長い治療をよくぞ耐え抜いたと心からほっとし、ロゼもこの2か月余はあの下半身麻痺になった
重症の椎間板ヘルニアから走りまわるほど取り戻したと散歩する度に喜んだ。

特に亡くなる前々日の2日は、夕方いつもの車の往来が皆無の散歩コースを綱を取ったら、あちこち臭いを嗅ぎまわり
しっぽをぐるぐる回し全速力で散歩道を走り切った。手術以来これまで一番長い走りっぷりであった。

夜はいつもどうりの日課でケージに入り翌日朝起きてから嘔吐した。
1日何回か嘔吐し、もう胆汁しか出ない状態だが庭をよろよろ歩き回った。
これまで食べたドックフードを吐き、こんなに食べていたのねとあきれるほど胃の中でふやけた
食事やおやつを吐くことがあった。
1日過ぎると回復していたので今回は前日せがまれ、まあたまにはいいかと砂肝ドライを夕食後上げ、満足したのか
おとなしく寝たので何も異変が起きることは予測しなかった。

1日吐いた後寝ていたので4日の朝は回復したかと思ったが、ぐったりして立ち上がれないので
これは異常だと、朝ごはんそこそこに動物病院に運んだ。
主治医は診察し、血尿が出ておりお腹が張り、高熱で41.4度もあり腹部エコー検査で前立腺の炎症が
置き腹膜炎を起こしているので入院し、即治療が始まった。
その場では状態の悪化が早いので万が一覚悟してくださいと言われ、点滴の針を刺し入院のケージに
収まった。
夕方、また検査の話し合いなどしますので来てくださいと言われ、帰宅する。
その際ケージの中から見上げたロゼの目が表現できないほどの哀れな目つきでそれが頭に焼き付き
帰宅しても仕事が手につかなくなった。
夕方、急変の電話があり、ムスメと駆けつけたがもう酸素マスクをつけられ危篤状態であった。
それから2時間もしないうちに心拍数がどんどん落ちてきて病院の診察時間の終了する2分前に息を引き取った。
息子にも知らせたら中央林間から深夜吹っ飛んできた。
家族で葬式を済ませ、家の中からよく見える庭の真ん中に埋葬した。

4日の日に入院してから次々と頭の中には黒雲の如く後悔の気持ちばかりが消えては現れ
もう自分が破裂しそうだ。
やっと落ち着いて平常心を取り戻し、膨大な写真集や成長記録、ブログの記事など読み直し
ロゼにごめんねと謝る言葉がやや減ってきたがお詫びはまだ続く。

これまで子供たちが小学生のころから飼い続けて来た様々な動物たちが亡くなる度に反省を繰り返し
多分最後になるであろう、現在13歳と12歳になる犬達は後悔の無いよう精いっぱい可愛がろうと子供と
約束し一緒に生活をしてきた。

特に私の人生最大の苦労が続いたこの12年間は犬たちが傍にいたおかげで乗り切ってきたようなものである。
ロゼは辛い病気を沢山引き受けたが全部クリアーし、全く違った劇症膵炎疑いで旅立った。

性格は幼いころからプライドが高いんだからとことある度に文句を言ったが、こんなに早く
自分でも一生の別れになるとは思っていなかったであろう。
最後までプライド高い死に方を見せてくれた。

意識がないのに最後に涙を、ひとすじ流して・・・・・・。

免許証の更新について

2016年03月01日 15時11分07秒 | Weblog



車の免許証の更新のお知らせの通知が届く。
そうか・・・・・もう5年が経つのだ。

平成23年3月11日の誕生日に塩尻まで出かけ免許証の更新手続きを行った。
その帰り道、大地震が起きた。
その日は誕生日祝いと称してやがて娘と結婚するであろうヒトに夜お祝いをしてもらった。
途中で地震のニュースが相次いで続き、これは大変なことになったと、お祝いそこそこに帰宅した。

ニュースは信じられない地獄のような画面が続く。
寝ることもできなくなり、寝不足のまま出勤した。
アフリカで働いているムスメから、海外では日本沈没というニュースが入ったと連絡が来る。
勤務先の日常業務をこなしながら、信州へ移住し定年を終え山梨から伊那に終の棲家を変える決心をして
移住計画を進めていく。
退職後1年半後には伊那市に引っ越し、その1か月後にはマゴの誕生でムスメとマゴの出産後を面倒見た。
マゴは今や2歳と2か月になりそのまま保育を続けるようになった。

大震災当時は自分の退職後の住み場所が漠然とし、ムスメがアフリカから帰国して伊那に嫁ぐことが
確約したのち自分も山梨ではなく伊那に住むことに決めるが不安の塊で地理感もなく親戚もなく
どんぶり勘定での家の建築計画は1年間続いた。

神奈川の中央林間から定年退職と同時に信州の原村へ引っ越して、諏訪の赤十字病院へ5年間勤め
東京暮らしからもう15年の時間が流れていった。
免許証も見るたびにこの5年間は我がことより東日本大震災の惨状とその後の復興に覆われており
自分の行き先を決めかねていた。

生まれ故郷の福島は地震と原発で最悪の状態になってしまった。
昨秋、小中学校時代の同級会に出席したが、原発の被害はなかったが地震の被害は離れていても
まだまだ土地自体の被害はもと通りには追い付かず若い人は減り町自体もさびれてしまったという。
生まれ育った風景はもうどこかへ行ってしまった。


今日で3月に入った。
あの11日の大震災の日は黙とうをささげ早く復興することを願い日本国中特別な日を送ることになるが
ささやかながら自分のこの5年間を頑張った生き方も誉めてあげようと思う。
そしてまた3月11日と刻印された誕生日の日の免許証を手に入れようと思う。
人生30年目の運転歴となるが、初めて今回はゴールド免許証を手に入れることになる。